3.山吹色(le Jaune)【出題編2】
会計を済ませた陣内教授が店から出ていくと、間髪を入れず、西野さんが椅子から立ち上がった。
「マスター。アドニス君をちょっとお借りしてもよろしいでしょうか?」
「えっ、それは全然かまわないけど。いったい、何に使うと言うんだい」
不意を突いた質問に、マスターはポカンとしていた。
「先ほどの教授のおうちへ今晩お邪魔をして、本当に子供の霊が人形を動かしているのかどうかを、この目でしかと確かめてみたいのです」
「ああ、なるほど。その際の用心棒、いや、お連れさんということだね。しかしながら、お供ということでしたら、はばかりながらも、貴女の親衛隊長たる拙者が、今宵の貴女をエスコート申し上げても、一向にかまわないのでありますが……」
肝心の僕の了解も取らずに、マスターと西野さんとの間で交渉がどんどん進んでいく。まあ、僕に口出す権利はないみたいだけど。
「それは困ります。今回の任務は、女の私につき合って一夜をともに過ごしてもらわなければならないのです。マスターだと、男女という観点に立った際、危険が少なからず伴うことが否めません。それに対してアドニス君は、この手の問題に関して人畜無害で、しごく安全、まさにうってつけなのです」
西野さんは軽く断言した。いったい何がどう危険だというのか?
「うーむ、そんなものかねえ……」
マスターはあきらめが付かない様子で、最後までいじいじしていた。
その日の暮れの刻、市ヶ谷駅前にある大きな橋の上で、僕は西野さんと待ち合わせをした。眼下の橋の下を、黄色いボディラインの入った総武線の電車が、ゆっくりと夕日の方角へ向かって移動をしていった。西野さんは約束の刻限からちょっと遅れてやってきた。
「すみません。お風呂に入っていたので、すっかり遅れてしまいました」
言っている言葉のわりには少しも悪びれる様子なく、西野さんはのん気に手を振りながらやってきた。黒を基調としたお決まりのワンピース姿だけど、いつもよりスカート丈が短くて、黒のタイツ越しに、膝下がはっきりと見えていた。普段は超ロングスカートで、足首さえも隠して見せてくれない西野さんにしては、破格の出血大サービスファッションと言えよう。そして、やはり僕たちが想像していた通り、西野さんの細身のふくらはぎはすらりと長くて、まさにモデル顔負けの脚線美が白昼堂々とお披露目されていた。風呂上りと言ったけど、ルージュの口紅は縁取りをしっかり利かせており、ご自慢の長い黒髪を掻き上げてポニーテールに結っていたから、可愛らしいうなじもすごく印象的である。
「西野さんも……」
この時、僕はうっかり、西野さんも裸になってからお風呂に入るんですよね、などとセクハラまがいの爆弾質問をしそうになったのを、危うく踏みとどまった。それにしても、西野さんのお風呂って、想像しただけでも実に刺激的だ。
僕たちは横になっていっしょに歩き出した。いつもなら年上マダムたちから送られる熱い視線に十二分に慣れている僕でさえも、西野さんといっしょに歩いている時に見知らぬ通行人たちから送られてくるあまたのいかがわしい視線には、いささか閉口させられた。なかには、はあはあと鼻息を荒げながら、ポケットに手を突っ込んで股間をまさぐっている品のない輩もいた。西野さんって、毎日こんな拷問を味わっているのだろうか。
西野さんが教授からもらった名刺には、住所と電話番号がしっかり記載されていた。個人情報保護厳守のこの時代に、いささか不釣り合いな印象を受けつつも、おかげで教授の家を造作なく見つけ出すことができた。教授の家は、長い坂道を登った先にある袋小路の奥に、三軒並んでたたずむ一戸建て家屋のうちの一つであった。決して大きな家とは言えないが、この辺りの土地相場を考えれば、破格の代物だ。
玄関のベルを鳴らすと、着流しの浴衣姿で教授が玄関口に現れた。家に帰れば和服に着替えるとは、陣内教授はなかなか風流な人物のようである。
「どなた様ですかな」
丁寧な口調で、教授が訊ねた。
「ああ、今日の昼に紅茶喫茶ラ・グルナードにいた店員ですけども、市松人形が夜な夜な歩き出すという奇妙なお話を教授からお聞きして、もしよろしければ、その人形を拝見させていただけないかと思い、お伺いいたしました」
自分でも何と表現したらよいのか、かなり難しい説明であった。
「さあて、今日の昼とねえ……」
どうやら教授の頭には僕の印象が全く残っていなかったみたいで、それなりにショックだった。すると、うしろから西野さんがすっと顔を出した。
「私もお店にいたのですけど、覚えていらっしゃいませんか?」
そう言って、西野さんはにこりと笑った。彼女の笑顔は、ある意味、こういう場における最終兵器である。
「ああ。たしか、『明暗』と『行人』がお好きな美人のお嬢さんでしたね。思い出しましたよ……」
今度は教授もにこりと笑った。僕とは百パーセント正反対の応対である。
「君たちの訪問の意図は理解した。じゃあ、中へ入ってくれたまえ。今宵はここに泊まってもらってかまわないよ」
陣内教授は僕たちを気さくに受け入れてくれた。
「それにしても、きれいな彼女じゃないか。青年よ……」
廊下を歩いている時に、教授が僕の肩をこづいた。僕は、西野さんに聞こえてないかと、内心ひやりとしたけど、西野さんは後ろで、ふんふんと、一人楽しそうに意味不明な小唄を口ずさんでいた。
「トイレはここだよ。自由に使ってくれたまえ。風呂は入って来たのかい」
二階へ通じる階段のすぐ横の小さな扉を、教授が指差した。
「はい、食事もすべて済ませてきましたから、どうぞお構いなく」
と、僕は答えた。念のため、リュックにノンアルコール飲料とお菓子を用意しておいた。西野さんの分も、もちろんある。
一階の突き当りは、ダイニングキッチンと一体化したリビングになっていたが、サイドボードキャビネットと、観葉植物の鉢、丸いローテーブル、俗に言うちゃぶ台ってやつだが、それと人の背丈ほどの大きな古箪笥が置いてあるくらいで、わりとすっきりした空間だった。
教授が座布団を二枚持ってきて、ちゃぶ台の両サイドへ置いた。それから、教授は箪笥の上に置いてあった市松人形を、両手を伸ばして取り上げると、ちゃぶ台の真ん中へそっと置いた。西野さんと僕は、人形を取り囲むように互いに向き合って座った。
「娘が悪さをした時には、人形を箪笥の上なんかに隠してから、叱ってやったものさ。悪いことをしたから、お人形さんはいなくなっちゃったんだぞ、ってね」
そう言って、教授はくすくすと笑った。
その市松人形は、背丈が五十センチほどあって、人形にしてはかなり大きなものだった。市松人形といえば、着物が緋色と相場が決まっているけど、この人形の着物は濃い黄色だった。代わりに帯が紅色だから、見栄えはあでやかであるものの、軽い違和感を感じる。薄めの眉に、猫のような細い眼。さらにその眼の中は大きな瞳が描かれていて、白眼がほとんどないから、かなり不気味である。まあ、日本人形なんて、おおかたこんなものかもしれない。おかっぱ頭の黒髪は見事なまでの漆黒で、ツヤ光りをしており、まるで本物の人毛のようだった。もしかしたら、毎年数センチずつ伸びているのではなかろうか。
「山吹色の振袖ですか。素敵ですね。
お嬢さんが遊んでいたというから、かなり古い人形だと思いましたけど、手入れがいいのか、思ったより綺麗でびっくりしました」
人形をじっと見つめていた西野さんが、ほっこりと感想を述べた。女性目線だと、この人形がそのように見えるのか……。
たしかに日焼けで布の一部が軽く色あせているものの、おおむね綺麗な状態で、その人形は保存されている。しかしよく見れば、腰帯のところにわずかだけど、握ってつかまれたため付けられたと思われる指のくぼみ跡が残っていた。
「ああ、この人形はもともと朱色の着物を羽織っていたけど、時とともに色があせてしまってね。見かねた家内が、新しい服を縫って着せ替えたのさ。
家内は裁縫が自慢でね。娘が死んでからも、人形の手入れを熱心にしていたなあ」
教授がなつかしむようにうなずいた。
九時を過ぎると、年寄りは早寝に限ると一言告げて、教授は二階へ上がっていった。教授がいなくなっても、西野さんはふかふか座布団の上にきちんと正座をして、ただじっと人形だけを見つめていた。まるで、僕の存在を忘れているかのようだ。十五分ほど経過したけど、その間に僕たちの会話は一言もなかった。とは言っても、西野さんは小さく鼻歌を歌いながら、うれしくなった時に時折見せる、目がキラ星の状態になっていて、なんだかとっても楽しそうだ。本当に人形が歩き出すとでも思っているのだろうか。まあたしかに、そんな不気味さが垣間見られる人形ではあるけども。
「眠気防止に、なにかゲームをしませんか」
眠気を振りはらおうと、僕の方から提案した。
「何のゲームですか?」
西野さんが可愛らしい声で応じる。
「そうですね。道具も持っていないから、そうだなあ、しりとりなんかどうです」
「しりとりですか、いいですね。でもただするだけですか」
「そうですね。何か賭けましょう。ええと、何がいいかなあ」
僕は軽く申し出を受け入れた。
「じゃあ、負けた人は、勝った人の命令を一つ聞かなければならない、なんてのはどうでしょう」
「えっ……。命令って、何を命令してもいいのですか?」
思わぬ展開に、溜まり積もっていた眠気は一気に吹っ飛んだ。
「もちろん、死んでください、なんて不条理な命令はダメですけど、そうでなければ、なんでもいいですよね」
「本当に……、何を命令してもいいのですか?」
「はい、いけませんか?」
「いえいえ、やりましょう。ぜひ、やりましょう。じゃあ、しりとりですね」
「しりとりといっても、制限なしでは永遠に終わりませんから、そうですね、地名に限定したしりとりなんて、どうでしょう」
「いいでしょう。じゃあ、僕が先攻で行きますよ。しりとりだから『り』ですね。
ええと、リオ」
「リオ?」
「ありますよね。地名で、ほら、リオのカーニバルって言うじゃないですか」
「それは省略された地名です。正式名称で答えてください」
「えっ、そんなこと言われても、リオはリオでいいじゃないですか」
「分かりました。省略された地名もあり、というルールですね」
西野さんが受け入れてくれたので、僕はほっとした。こうなったらこの勝負、何が何でも勝たねばならない。
「リオですか。じゃあ、小樽」
ほとんど間を置かずに、西野さんは返した。
「日本の地名ですか。渋く来ましたねえ。ええと、『る』ですか。『る』ねえ……。うーん。
そうだ。ルーマニア」
「アムール」
「アムール?」
「はい、川の名前です。ロシアと中国の国境を流れる、政治的に重要な意味を持った川です」
「川の名前も地名ですか?」
「いけませんか?」
「いいですよ。では、アムールですね。あれ、また『る』じゃないですか。困ったなあ。
ええと、じゃあ、ルクセンブルク、でどうですか」
「クアラルンプール。マレーシアの首都です」
「また『る』ですか。うーん、そういうことか……」
西野さんは開始早々、語尾を『る』にして攻めてくるみたいだ。
「ルアンダ。たしかアフリカの国でありましたよね」
「国ではなくて、町ですけどね。まあ、いいでしょう。
では、ダカール」
「相変わらず厳しいですね。ルイジアナ」
「ナイル」
「また川ですか。仕方ないなあ。ええと、ルサカ。ザンビアの首都です」
『る』で始まる地名なんて、そうは簡単に思い付かない。しだいに、西野さんの攻撃に僕は飲み込まれていく。
「カシミール」
西野さんは淡々と答えてくる。今度はインド国境の紛争地域か。よくも都合のいい言葉が出て来るなと感心しつつも、そろそろ『る』で始まる地名は出尽くした頃合いだ。
「ふふふっ、いよいよこちらもささやかな反撃をさせてもらいますよ。
ルール!
ドイツの工業地帯の地名です」
満を持しての言葉である。さすがの西野さんでも、まさか『る』から『る』で返されるなんて、思いもしなかっただろう。
「切り札ですね。でも、出すのがまだ早かったのではないでしょうか。
留萌」
西野さんが口元に不敵な笑みを浮かべた。
「甘いですねえ。イスラエル」
「留辺蘂」
「そんな地名があるんですか。うーん、ベイルートじゃ勝てないし……。
そうだ、ベンガル。どうです。降参しますか」
ここまで来たら逃がしはしない。さあ、一気にフィニッシュだ。
「ルクソール」
西野さんがすまし顔で答えた。
「ルクソール? なんですか、それは」
「なにって、ナイル川沿いにあるエジプトの有名な観光都市です」
「それじゃあ、さっきの『ルール』のあとで切り返せばよかったのに、あえてしなかったのですか……」
「そうですね。まだ『る』で始まる地名がいくらか残っていましたから」
うーん、困った。『る』で始まる地名なんて、いよいよ思いつかなくなってきた。いや、まだあるぞ……。
「ルソン。
川がありなら、島の名前でももちろんOKですよね。はっ、しまった……」
そうなのだ。『ルソン』は語尾が『ん』だから、すなわち、しりとりでの僕の負けが確定してしまったのだ。ああ、西野さんに命令ができる千載一遇のチャンスを、僕はみすみす逃してしまった……。
しかしこの直後、僕が想定外だった驚愕の回答を、西野さんが答えるのであった。
「ンジャメナ」
「えっ、終わりじゃなくていいのですか?」
僕はわけが分からず確認を求めたが、
「ンジャメナはチャド共和国の首都です。立派な地名ですから、文句を言われる筋合いはありません」
と、西野さんがピシャリと言い切った。
しめた。西野さんはしりとりの勝敗を、語尾で『ん』を言ったら負けではなくて、言葉が思い浮かばなかったら負け、と解釈しているみたいだ。こいつは命拾いしたぞ……。
「ナウル。太平洋の島国にありましたよね」
乾坤一擲の大逆転とはこの事だ。ああこれで、西野さんに僕は好き勝手な命令を下すことができるのか。
「ルーアン。フランスの都市名です」
「えっ、『ん』ですか……。
ありません。降参です」
西野さんの言葉は語尾が『ん』で終わっているけれども、先ほどからの流れで、それは僕の勝利にはならない。さらには、『ん』で始まる言葉など、僕は何一つ知らない。
「私の勝ちでいいですか?」
西野さんがのぞき込むように僕に訊ねた。
「はい。西野さんはしりとりが強いですね」
どっと疲れが押し寄せた。西野さんの頭脳はまるでコンピューターだ。
「そうですか。最初は『る』で攻めましたけど、アドニス君が『ルソン』と答えたので、『ん』で攻撃しても良いことが分かり、作戦を急きょ『ん』攻撃に変更しました」
西野さんは嬉しそうに勝因を語った。
禍を転じて福となす――。花びらのように可憐な西野さんの唇からふっとこぼれ落ちた、『ん』攻撃、という意味重きお言葉。こいつが聴けたおかげで、勝負に負けた悔しさなど一気に吹っ飛んで、僕はすこぶる晴れやかな気分になれたのだった。
「アドニス君へのなんでも命令権の行使は、とりあえず取っておきますね」
そう告げて、西野さんはふんふんと、また謎の小唄を口ずさみ始めた。
「もしもし、アドニス君。起きてください。寝ちゃっていますよ」
気が付くと、西野さんがすぐ傍まで近づいてきて、僕の身体を揺さぶっていた。どうやら僕は居眠りをしていたようだ。
「ああ、西野さん」
「夜は長いのです。こんなところで寝たりしないでください」
西野さんが頬を膨らませながら抗議した。近くにいるので、西野さんの身体から女性特有のにおいがほのかに漂ってきた。こう見えて、僕は匂いに関してかなり敏感なほうである。西野さんと言えば、髪の毛からリンスの香りが香るくらいで、普段は香水も付けず、ほとんどにおいのしない人だから、もしかしたら、今日が生理日だったのかもしれない。
そういえば、学校の保険の授業で習ったはずだが、生理日の前後にセックスをしても、たしか妊娠はしなかったような気がしたけど、それともそうでなかったか。ああ、こんな大事なこと。もっと真面目に勉強をしておけば良かったと、今さらながら悔やまれる。
西野さんは僕のことを人畜無害だと言っていたけど、僕だってその気になれば、西野さんを押し倒すことぐらいはできるはずだ。でも、今ここで抑え込めても、大声を出されてしまえば、二階から教授が飛び込んでくるだろう。さすがにそれはまずいか……。
「もう寝ませんから。今度こそまかせておいてください」
そう告げた僕だけど、このあとさらに二回、西野さんから背中をゆすられて、同じ言い訳を繰り返す羽目となった。ただひたすら人形を見つめながら一晩じゅう監視を続けることって、思っていたよりもずっと大変だった。それにひきかえ、西野さんは本当に忍耐強い人である……。
気が付くと朝になっていた。窓の外から小鳥の鳴き声とともに日差しがさんさんと差し込んでくる。どうやら僕はすっかり眠っていたようだ。西野さんはというと、真向かいのテーブルにうつぶせていて、こちらもすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。起こしてよいものか迷ったが、人形の調査ということだから、ここは起こさざるを得ない。
「もしもし、西野さん、起きてください」
細い肩を軽くゆすると、驚いて飛びのく猫のように、西野さんの背中がピクッと動いた。
「不覚にも、しっかり眠ってしまいました。無念です……」
そう言いながらも、西野さんはまだうつろな表情をしていた。どうやら、朝にはとことん弱いタイプの人らしい。
「西野さん、人形が!」
「消えちゃいましたね……」
あろうことか、ちゃぶ台の上に置いてあった山吹色の振袖人形は、忽然と、その姿をくらませていた。
「教授にも聞いてみましょう」
慌てて立ち上がった僕の目の前を、桜の花びらのような物体がひらひらと舞い落ちてきた。なんだろうと思って拾い上げると、それは三センチ四方の大きさをしたティッシュペーパーの切れ端であった。こいつがどこから落ちてきたのかさっぱり分からなかったが、そうこうしているうちに、貧血気味で動きが鈍かった西野さんも、のそのそと立ち上がり、どうにかあとをついて来た。
階段を上がっていくと、教授は二階の部屋で起きていて、テレビで朝のニュースを観ていた。
「やあ、昨晩はよく眠れましたかな」
振り向いた教授は、屈託のない様子で訊ねてきた。
「はい、おかげさまで……。ところで、教授。僕たちの気付かぬところで、人形が動き出して、消えてしまいました」
「ああ、やはり、そうですか……」
教授は特に驚いた様子も見せなかった。
「教授。今朝はずっと二階に?」
念のため、僕は教授に訊ねてみた。まさか、教授がわざわざ下へ降りてきて、人形を動かすなんて、まず考えられないことだが……。
「ああ、今朝は起きてからずっとここにいたけどね」
教授はあっさりと答えた。
「じゃあ、人形はいったいどこに?」
「アドニス君。もう一度下を探してみましょう」
僕と西野さんは階段を引き返して、一階を隈なく探してみた。すると、玄関の下駄箱の上に、あの市松人形がちょこんと座っていた。
「玄関には鍵が掛かっていますね。外部からの人物の侵入はまず考えられません」
西野さんがドアの鍵を確認したが、シリンダー錠を回転させる楕円形のサムターンが横向きになっていて、中から完璧に施錠されていた。おまけに、水平スライド式のドアチェーンまで、金具がしっかりと留められてある。
玄関に置いてある靴は、僕のスニーカーと西野さんのヒールの低いバンプスだけで、陣内教授の履物は下駄箱の中にしまってあるようだ。いちおう念のため、一階のすべての窓などの侵入口を一通り調べてはみたけど、どれもクレセント錠が内側からしっかりと掛けられていた。トイレ、ふろ場には誰もおらず、人が隠れられそうなスペースもどこにもないから、僕たち以外の第三者が人形を勝手に動かしたとすれば、その人物は煙のごとく、家の内部の鍵を掛けた状態で、外部へ脱出したことになる。まるで幽霊だ。もしかしたら、本当に七歳で亡くなった娘さんの幽霊が出没したのかもしれない。
結局のところ、僕たちの調査は失敗に終わった。教授が朝食にトーストとコーヒーを用意してくれた。いくらか世間話も交わしたから、僕たちが教授の家を出たのは十時過ぎになっていた。今日は日曜日だから、大学が休みなのがせめてもの救いだった。
となりの家の庭では、五十路くらいの女性がいそいそと洗濯物を干していたが、陣内教授の家から出てきた僕と西野さんに気付いて、怪訝そうな目でじっとこちらを見つめていた。
毒を食らわば皿まで、もしかしたらこの隣人からあらたなる情報が得られるかもしれないと思い、僕は思い切ってその女性に声をかけてみた。
「陣内さんねえ。もともと人づきあいが良いほうではなかったし、奥さんがいなくなって、ますますしゃべりかけてこなくなったから」
女性は快く僕の質問に答えてくれた。おばさんキラーの僕の面目躍如と言ったところか。
「奥さんはどんな方でしたか?」
「明るくて、とても気立てのいい人よ」
「奥さんが姿を見せなくなったのはいつ頃からですか」
「さあ、かれこれもう五年になるかしら」
「五年ですか?」
「ええ、てっきりお亡くなりになったと思っていたけど……」
「陣内教授のお話では、奥さんが亡くなられたのは、たしか去年だったそうですけど?」
「そう……。じゃあ、四年ものあいだずっと、闘病生活をされていたのね。お可哀そうに」
女性は独り言をつぶやくように答えた。
「教授の娘さんのことはご存知ですか?」
「あら、娘さんがいらしたの?」
女性はかなり驚いたような顔をした。
「ええ、ただ相当むかしに、すでに亡くなっていますけど」
「私たちがここへ住むようになったのが十七年前だけど、その娘さんがお亡くなりになったのがそれより前だとすれば、残念だけど、私たちには知る由もないわね」
「たしかにそうですね……。どうもありがとうございました」
中年女性は、どうも致しましてと一言告げてから、家の中へ入っていった。
僕たちは、いよいよ当て所もなく、歩き始めた。そういえば、西野さんはさっきからずっと黙り込んでいる。
「今度ばかりはすっかりお手上げですね。こうまで手がかりがないとは。まあ、仕方ありませんよ」
僕は自らを慰めるようにつぶやいた。
「案外、そうでもありませんよ……」
ようやく、西野さんが口を開いた。
「えっ、なにか手掛かりがありましたか?」
僕は慌てて、西野さんに問いかけた。
「ほとんどの人が、警察官も例外ではありません、人から言われたことを無条件で信じてしまうものです。バイ、ミス・マープル――」
ついに出た。ここ一番の場面で唱える西野さんの決め台詞だ。
「何ごともきちんと手掛かりを集め、論理をたどっていけば、やがては唯一無二の真相に到達できるものです」
そう言って、西野さんはふふんと得意げに鼻を鳴らした。
どうやら西野さんは今回の奇怪なる人形失踪事件に関して、何らかの結論を導き出したみたいである。
下町にひっそりと佇むさびしい一軒家で、夜な夜な起こる不気味な超常現象。果たして、摩耶ちゃんの推理は……。