3.山吹色(le Jaune)【出題編1】
「たしかに、メロディメーカーとしてのポールは完璧ですよ。コード進行が理詰めで、音と音のあいだのつながりだって一分の隙もない。でも、完璧すぎる旋律ばかりを聴き続けていると、人間という知的生命体は、その至高の名曲に心震わせながらも、それ以上の高みにはのぞめないという絶望感に、やがてはおちいる羽目となることでしょう。それに対して、すべてを完璧にするのではなく、感性に従った一定の非調和率をさりげなく曲に混在させているところが、ジョンの天才たるゆえんなのですよ」
「本末転倒もはなはだしい。天才といえば、崇高なメロディを創り上げた人物にこそふさわしい敬称だとは思わないかね。常に斬新さで既存の常識を覆しつつ、完璧なる曲を開拓し続けた作曲家は、古今東西、たったの二人しかいない。それが、ポール・マッカートニーとウォルフガング・アマデウス・モーツァルトだよ」
マスターと向かい合って議論を交わしているのは、英国貴族風の長い白髪に、見事にピンとはね上がった白い口髭を蓄えた、品の良さそうなご年配の紳士である。いつも上から目線で博学をひけらかすマスターが、今日は打って変わって、論争で防戦一方となっている。それほど、この老紳士がやり手ということだろうか。
お客といえばもう一人、玉座の間で本を読んでいる西野摩耶さんもいた。でも彼女は、老紳士とマスターの白熱したやり取りがさっきから気になっていて、本の活字などまるで目に入っていないご様子であった。僕はチラ見で彼女の様子をこっそりと観察している。うっかり、じっと見つめてしまうと、他人からの目線に敏感な西野さんは、すぐにそれを察して、逆に僕に軽蔑のまなざしを送り返してくるから始末が悪い。
「そうですか。こうなったら、公明正大なる第三者に審議判定をしてもらおうじゃないですか。さいわい、ここには若い二人がいますからね」
ついにマスターがブチ切れた。
若い二人? 今、店にいるのは、マスターと老紳士を除くと、僕と西野さんしかいないのだが。
「おーい、摩耶ちゃん。よかったら、こっちへおいで。高級アッサム葉でこしらえた豪華チャイティーをサービスしちゃうからさあ」
マスターが西野さんに誘いの声をかけた。常々マスターは、隙あらば、西野さんへの声掛けをうかがっているのだけど、今はまさにうってつけの機会だったというわけだ。
「それでは、お邪魔いたします」
西野さんも西野さんで、マスターの声掛けを天からの思し召しとばかりに、うれしそうに笑みを浮かべながらカウンターへやって来た。
「いろいろ試したけど、チャイの茶葉にはアッサムが一番だね。濃厚なミルクの味に紅茶が負けないのさ」
西野さんがこの店で一番注文をしているのが、ロイヤルミルクティー、いわゆる、チャイティーである。チャイティーとは、元は中国発祥で、だからチャイナのティーというわけだが、その後チベットを経由してインドへ伝わったミルクティーのことである。一般的にはショウガやシナモンなどの香辛料を入れて煮出したマサラ・チャイを意味することが多い。それに対して、ロイヤルミルクティーとは、ミルクを入れた紅茶、という単純な意味合いで定義が済まされているらしく、言い換えれば、それぞれの店で好き勝手に出されたミルク入り紅茶がぜんぶロイヤルミルクティーとなってしまうわけだが、当店ラ・グルナードが提供するロイヤルミルクティーは、本格的なマサラ・ティーで、シナモン、クローブ、カルダモンの香辛料に、ギーという謎の油を隠し味に加えてあると、かつてマスターから教えてもらったことがある。実際、ロイヤルミルクティーは和製英語で、本場の英国では通じない用語であるらしいが……。
「おやまた、これは、お美しいお嬢さんですな」
冷静沈着そうなこの老紳士も。さすがに西野さんの美貌には、すっかり度肝を抜かれたようだ。
「彼女は教授のところの学生さんですよ」
マスターが紹介した。
「えっ、うちの大学の先生なんですか?」
僕の方が驚いて、思わず声がこぼれた。
「この方は陣内教授。そして、こちらの二人がJ大学に通う学生です。平野君と西野さん」
「私は陣内智三郎と申します。昨年についに定年を迎えましてね。今では週に二日しか大学へ顔を出しませんから、みなさんはご存じないかもしれませんね」
陣内教授は謙遜しながら軽く会釈をして、西野さんに名刺を手渡した。ちなみに僕にくれなかったのは、僕の存在を忘れたのではなくて、店員と客との違いを考慮した、ということにしておこう。
「とにかく、この議論で僕と教授のどちらが正しいかを、君たち二人に判断してもらいたいんだ」
「いったい何の議論をしていたのですか」
「それはね、『レノン・アンド・マッカートニー』の名義で最終的に得をしたのは、ジョンかポールか、どちらなのかという議論だよ」
「なんですか。そのレノンなんとかって」
思わず僕は、マスターに意味不明な用語を訊ねた。
「はははっ、マスター。今時の若者は、ビートルズから知らないみたいだな」
白髪の教授が大声で笑った。
「あれっ、摩耶ちゃんはもちろん知っているよね」
慌ててマスターが西野さんに救いを求めたが、西野さんはニコっと微笑んで、首を横に振った。どうやら彼女も、ジョンとポールのことは知らないみたいだ。
「仕方ないなあ。いいかい。今から五十年もの昔、ビートルズという伝説のロックグループが全世界を熱狂させたんだ。ビートルズにはメンバーが四人いて、中でもジョン・レノンとポール・マッカートニーの二人がすごくて、次から次へと新しいサウンドを生み出し続け、当時の音楽界に革命を起こしたのさ。そして、この二人は、ビートルズで活動している間、ある取り決めをずっと守っていた。それは、二人のうちのどちらが作った曲でもぜんぶ、レノン・アンド・マッカートニーという名義で、二人の共作として発表しよう、という取り決めだ」
「実際にすべての曲が二人で協力し合いながら作られたから、共著名義で発表されただけではないのですか」
僕は素朴に思ったことを訊ねてみた。
「いや、少なくともビートルズの晩年期には、ジョンとポールは仲が悪くなって、決裂していたから、協力しながら曲を創ることはあり得なかった。それでも、ビートルズとして活躍している間は、レノン・アンド・マッカートニー名義で、新曲が次々と発表され続けた。そして、僕と教授が言い争っているのは、最終的にこの共著名義を使うことで、いったいどちらが得をしたのか、という議論だよ」
「言い換えれば、ジョンとポールで、どちらがより素晴らしい曲を創作したのかを決めましょう、という議論ですね」
と、西野さんが横から口をはさんだ。
「その通りだよ。摩耶ちゃん。さすがにお利口さんだねえ」
すかさずマスターがほめると、西野さんは、えへへ、と子供みたいな笑顔を返した。西野さんのしごく当たり前の回答に、果たしてほめる価値などあったのか。僕にはどうにも納得できなかったが、マスターは、隙あらば、西野さんをほめようと、いつも手薬煉を引いて待っているのだ。
「ふふふっ。当然、ポールが勝つに決まっているさ」
と、陣内教授はいかにも自信ありげのご様子だ。
「それでは、教授、そこの収納庫から、僕はジョン、あなたはポール。彼らが創った曲をどれでもいいから三つだけ選択してください。それを順番にかけて、この若者二人に聴いてもらって、どちらが素晴らしいかを判断してもらいましょう」
「いいとも、望むところさ」
そう言うと、マスターと陣内教授は、店の奥に置いてあるCDラックへ近づいていった。マスターご自慢のCDラックは、人の背丈よりも高い、まるで本棚のような装飾家具で、マスターがこれまでに収集してきたCDが千枚ほどストックされている。あとから聞いたところ、これまでビートルズが出したアルバムは、全部ここに置かれているとのことだった。
「それじゃあ、僕が先攻で行くよ。まずはジョンが創ったこの曲を聴いてくれたまえ」
そう言って、マスターはCDを一枚プレーヤーに納めて、選曲ボタンを数回押して、好みの曲を流した。
ところで読者の皆さん、ラ・グルナードが誇るオーディオ・コンポを軽視することなかれ。それはマスターがこだわりと情熱と執念を持ってセットした装置で、巨大な木箱に入ったスピーカーが店内に四カ所設置されているのだが、マスターによれば、スピーカーは木製容器に限るということで、プラスチック製ではこのような絶妙な重低音が出せないそうである。残念ながら、僕にはそこら辺の違いがよく分からないのだけど。
少し陰鬱な曲が三分ほど流されて、まだ途中なのに、マスターがCDを止めた。
「どうだい、これがジョンの名曲さ」
鼻息を荒げながら、マスターが訊いてきたけど、どう反応して良いのか分からなかった。
「感想を求められても……。なんというか、だんだん落ち込んでしまいそうな曲ですね」
「何を言っているんだ。ええと、摩耶ちゃんは?」
「初めて聴きましたけど、変わった曲です」
西野さんもキョトンとしていた。
「おいおい、名曲、ストロベリー・フィールズ・フォーエバーだよ。まさか、二人そろって知らないとでもいうのかい」
マスターが頭を抱え込んだ。
「はははっ。それじゃあ、次は私の番だね」
そう言って、教授がCDを取り換えて曲を流した。今度は聴いたことがある曲だった。
「どうだい、ポールの最高傑作の調べは」
「ああ、これなら聴いたことがあります。題名は知らないけど、とてもいい曲ですね」
僕は率直に意見を述べた。西野さんも目を閉じたまま、まったりと口元を緩めている。どうやら、彼女も共感をしているようだった。
「ちっ、レット・イット・ビーかよ。まさに王道中の王道。初手から切り札を出すとはね。教授も余裕というものがないみたいですね。まあ、ポールの曲だけど、もはやこいつはビートルズの代表曲だからな。
じゃあ。次は僕の番だ。今度こそ、感動させてやるからな」
次にマスターがかけた曲は、ジャーンと騒々しい出だしから始まった。ノリがいい軽快な曲で、かつて聴いたことがある気もしないでもないけど、やはり曲名までは出てこない。
「どうだ。いかにもジョンらしい、初期に創られた名曲、ア・ハード・デイズ・ナイト。摩耶ちゃん、今度は良かっただろう」
マスターが自信満々に語りかけた。
「うーん、さっき教授がかけたしっとり系の曲の方が、私は好みですね。ノリで引っ張る単調な曲は、好きではありません」
「えっ、だってさあ、ロックといえば、ノリがいい曲と相場が決まっているじゃないの」
「ノリだけで生きている軽率な人間って、そもそも個人的には大嫌いです!」
いきなり、マスターの人格を根底からまっこう否定した爆撃発言であったのだが、当の発信者である西野さんは、そのことに全く気付いてはいなかった。一方のマスターはというと、こちらは見るも無残に叩きのめされていて、肩を落としながらしょげ込んでいる。
「とどのつまり、そちらのお嬢さんは、ゆったり系のバラードがお好きなようだね。じゃあ、お次はこの曲だ」
教授が次にかけたのは、美しい旋律が静かに流れていく曲だった。とても心地よくなる安定した調べだ。
「どうだい、お嬢さん。気に入ってもらえたかな?」
「はい、とても素敵なメロディです」
西野さんはこくりとうなずいた。
「あーあ、ヘイ・ジュードかよ。レット・イット・ビーと並んでビートルズの二大組曲じゃないか。教授、ずるいっすよ」
「どちらもポールの創った曲さ。文句はあるまい」
そういって、教授は曲の途中でCDを切った。
「静かな曲って、本当に落ち着きますよね。私、好きです」
「摩耶ちゃん、騙されちゃいけないよ。ヘイ・ジュードが静かなのは前半部だけ。後半になれば、ノリだけの騒々しい曲に化けるんだ。教授はそれを知っているから、途中で切ったのさ」
マスターが口を尖らせて抗議した。
「さあ、これで私の二連勝。勝負ありってところだね」
教授がほくそ笑んだ。
「待ってください。要するに、摩耶ちゃんが好むしっとり系の曲をかければいいんでしょう。だったらジョンにだってありますよ。とっておきのしっとり系、超有名曲がね」
そういって、マスターがかけた次なる曲は、静かなピアノの伴奏で始まる曲だった。あっ、これなら聴いたことがある。僕はそう思った。西野さんに横目を配ると、西野さんは目を閉じて、気持ちよさそうに身体を横に揺らしていた。
「どうだい、ジョンが創った究極の名曲、イマジン、だよ。歌詞だって全人類の平和を願った崇高な内容なんだぜ」
マスターが得意げに断言した。
「この曲は好きです」
西野さんがついにOKを言い渡した。
「待ちたまえ、マスター」
教授が横やりを入れた。
「何かご不満でも、教授?」
マスターが余裕をかましながら返した。
「こいつは反則だ」
「それは聞き捨てなりませんね。イマジンは、正真正銘、ジョンの創作曲ですよ」
「それはそうだが、イマジンはビートルズが解散した後で発表された曲だ。つまり、レノン・アンド・マッカートニー名義の曲ではない。今回の議論は、ポールとジョンでどちらの曲が素晴らしいかではなくて、レノン・アンド・マッカートニーの名義でどちらが得をしたのか、が論点であり、イマジンは対象外だよ」
「そんなあ……」
こんな感じで、どうやら今回の論争は、教授の圧勝で幕を閉じたようである。
「陣内教授の専門分野はなんですか?」
唐突に、西野さんが訊ねた。
「近代文学史だよ」
教授がすんなりと答えた。
「つまりは、明治時代の小説ということですね」
と、僕も会話に加わった。
「まあ、だいたいそういうことになるかな。ところで青年、君は明治文学でなにか共感を受けた作品はおありかな」
教授の突然の切り返しであった。
「申し訳ありません。僕は明治文学に疎くて、夏目漱石くらいしか知りません」
謙遜しながらもうまくやり過ごしたつもりだったのが、とんでもないしっぺ返しをこれから食らうことになる。
「漱石と一言で言っても、なかなか奥が深いものさ。じゃあ、君は漱石の作品の中だったら、何がお気に入りなんだい」
しまった、と思った。僕が普段愛読しているのは漫画かSFで、純文学なんて、大御所最有力の夏目漱石でさえも読んだことがなかったのである。
「ええと、実は『坊ちゃん』を読んだことがあるくらいで……」
とっさに取り繕ったけど、そう言えば、坊ちゃんのストーリーってどんな内容だったっけ? たしか、マドンナとかいう美人をめぐって引き起こされるドタバタ劇を、主人公の坊ちゃんが、仲間の教師と協力して、悪い教頭を懲らしめるというストーリーだったような気がするが。そういえば、マドンナといえば、西野さんのイメージがピッタリだな……。
「はははっ、『坊ちゃん』なんて、まるで小学生レベルじゃないか」
他人の傷口に塩をすり込もうとするかのごとく、マスターがしゃしゃり出てきた。
「そういうマスターは、何か読んでいるんですか。漱石を」
僕もささやかに反撃を撃った。
「ふふん、僕は漱石の晩年の『こころ』が好きだな。人間のエゴイズムを追求したミステリー的な要素もある傑作長編だ。精神的に向上心のないものは馬鹿だよねえ」
知ったかぶりでマスターが知識をひけらかしたけど、『こころ』だって国語の教科書に掲載されているから、レベル的には『坊ちゃん』と同じだと、僕は思う。
「ほかには?」
僕は意地悪く追及した。
「ほかといわれても困るなあ。なにしろ僕は『こころ』ひとすじだからね。
ところで、摩耶ちゃんは漱石のどの作品が好きなのかな」
マスターは僕の渾身の一撃をさりげなくかわした。さすがは不惑を過ぎたおやじである。老獪さではかなわない。
「そうですね、『行人』と『明暗』ですかね」
西野さんはちょっと考え込んでから答えた。なんだ、『こうじん』と『めいあん』って?
「なかなか渋いところで来たね。ええと、たしか、どちらも長い作品だったような気がするけど、いったい、なにが良かったの?」
もちろんマスターも『こうじん』と『めいあん』なる作品を知らないようだ。
「どちらもストーリー展開が派手というか、他の漱石の作品とは一味違って、なんかこう、ぐいぐいとお話に引き込まれちゃうんですよね」
西野さんは小さく笑いながら、淡々と答えた。
「ストーリー展開が派手ねえ。なんだかよく分からんけど、まあ、摩耶ちゃんだったら可愛いから、いいか……」
マスターは例のごとく、西野さんをほめる展開へたくみに会話を誘導した。ところが……。
「私は可愛くなんかありません。それに、可愛いから、まあいいだなんて、神聖なる議論への冒とくであり、明らかな逃亡行為です!」
思いもよらず、西野さんから手きびしく一喝されたマスターは、なにも言い返せず、すごすごとカウンターへ引き下がった。いつものことながら、西野さんの無意識攻撃って一撃必殺のパンチ力を秘めている。
「はははっ、なるほどねえ。たしかに、『行人』と『明暗』は不思議な魅力を持つ妖しげな美女が登場する作品だ。主人公がその美女に思いを寄せ、そして振り回される人間関係が、どちらも絶妙に描かれていて面白い。そんなところに、お嬢さんは魅かれたのではないのかな。
この二作品は、『こころ』や『坊ちゃん』ほど世間で有名ではないけれど、則天去私を理想として、人間のエゴイズムを追求した漱石の集大成とも言うべき力作だ。
はははっ、こちらのお嬢さんは、君たち男性陣とは違って、実に見る目が高いよ」
教授があっさりと西野さんに軍配を上げた。今度は、西野さんはほめられてうれしそうにほほ笑んでいる。教授とマスターのほめ方のいったい何に差があったのだろうと、僕は関係のないところが妙に気にかかった。
「特に『行人』は、はじめこそストーリーが漠然としていて、読みにくい作品だけど、そこを我慢しながら読み進めていくと、しだいにストーリーが盛り上がってきて、最後は漱石のどの作品よりも重厚で面白いストーリーが展開されるんだ。私も漱石の作品の中では断トツでこいつが好きだな。まさに絶対的な境地に君臨する傑作と言えよう。
それにしても最近のご時世は、このような突出した絶対的強者がどんどんいなくなっているからね。あーあ、『きょじん・たいほう・たまごやき』が懐かしいよ」
陣内教授は最後に謎めいた言葉をつぶやいた。
「きょじん、たいほう、たまごやき?」
西野さんがキョトンとした。
「人間を食べてしまう恐ろしい巨人がいて、そいつに向けて人類が大砲を打ち込んだのですが、巨人は一向にひるまず、困り果てていたら、実は巨人の苦手なものが卵焼きだったとあとになって判明したとか……」
僕が西野さんの耳元にささやいた。
「卵焼きが苦手?」
西野さんが愛らしい視線を僕に返した。
「はい、ドラキュラが大蒜を苦手とするのと同じですね」
僕の返答は、明らかに合理的な説明にはなっていなかった。
「あのねえ、君たち、それは違うよ」
マスターが割り込んできた。
「巨人、大鵬、卵焼き――。
昭和時代に子供たちのみんなが好きだった三つの偉大なる人気者を意味するんだよ。
まあ、僕自身も昭和生まれとはいえ、さすがに、巨人、大鵬、卵焼き、という言葉がはやった時代を生きていたわけではないけどね」
「巨人が好きですか? 変わった趣味ですね」
西野さんが真面目顔で訊ねた。
「巨人とはね、巨人軍。読売ジャイアンツのことだよ」
マスターが慌てて説明した。
「ああ、野球のジャイアンツのことですか。だったら、最初からそういえば分かるのに」
僕は口を尖らせて抗議した。
「うーん、君たちは『巨人の星』という有名な漫画を知らないのかねえ」
マスターがもどかしそうに答えた。
「それから、大鵬とは、当時一番強かった大相撲の横綱のことだよ」
「なるほど」
西野さんがうなずいた。
「卵焼きって、そんなに美味しいですかね。卵料理だったら、僕はベーコンエッグの方がよっぽど好きですけど」
僕は思い付いたままをそのまま口に出した。
「僕だって、卵料理だったらケチャップをたっぷりとかけたふわふわの黄色いオムレツの方がいいね」
マスターも卵焼きより好きな卵料理が別にあるようだ。まあ、そうだろう。
「摩耶ちゃんはどんな卵料理が好きかい?」
即座の質問攻撃。さすがはマスターだ。
「わ、私は……」
急な問いかけに、西野さんが固まった。
「うんうん」
僕とマスターと教授の三人の視線が一斉に西野さんへと集中する。西野さんが好きな卵を使った料理とはいったい……。息詰まる沈黙の中、しばしの時が過ぎる。
「卵かけご飯……です」
そう告げると、西野さんは恥ずかしそうに下をうつむいた。
答えてもらいたかった直球ど真ん中の回答が返ってきて、僕たち三人の男連中は、心の中で深い感涙にむせび泣いていた。
「ところで、教授。最近、何か面白いことはありませんでしたか」
それは、何かを期待しているわけでもなく、会話を閉ざさない計らいで投げかけられたマスターの質問であったのだが。
「それがねえ、あることで困っているんだ。娘が夜な夜な悪戯をするのでね」
「娘さんがですか? 真夜中に悪戯をねえ。失礼ですが、おいくつですか」
マスターがあきれ顔で訊ねた。
「七歳だよ」
「七歳?」
老教授の風貌から見て、七歳の娘がいるなんてとても想像がつかなかった。
「はははっ、驚くのも無理はない。実は、娘はもうとっくに死んでいるんだ。七歳の時に病にかかってね」
「ああ、そうですか……。びっくりしました」
安堵したマスターが答えたが、すぐにまた首を傾げた。
「にしてもですね、亡くなったお嬢さんが悪戯をするって、いったいどういうことですか?」
「娘が大好きでよくいっしょに遊んでいた市松人形が、当時のまま床の間に飾ってあってね。でも、その市松人形が、夜になると、違う場所へ歩いて移動してしまうんだよ」
「人形が歩く? ポルターガイストですね」
マスターが身を乗り出した。
「ああ、不気味だろう?」
「奥さんは、その現象に関して、どうお考えてみえるのですか?」
マスターが訊ねると、教授が首を横に振った。
「家内は死んだよ。昨年にね。脳梗塞だった……」
「ああ、そうですか……」
さすがのマスターも返す言葉が見つからないようだった。
「私も母を脳梗塞で亡くしました。恐ろしい病気ですね」
横から西野さんがポツリとつぶやいた。西野さんのお母さんって、すでに亡くなっていたのか……。
「家内とは学生結婚でね。三十五年もの長い間ずっと一緒に連れ添ってくれたんだ。本当に感謝しているよ」
雰囲気が次第に重苦しくなっていく中で、マスターがたくみに話題をすり替えた。
「そう言えば、教授のお家ってたしかこの辺りでしたよね」
「ああ、この店だったら歩いて来られるよ」
教授の顔にふっと笑顔が戻った。
「今、教授のお家に見える人は?」
「今は気ままな一人暮らしだ」
「そうですか。お一人しかいないということは、教授がそ知らぬところで、たしかに人形が勝手に動くはずはあり得ませんよね」
「そういうこと。だから私も不思議に思うところなのさ。ぜひ、誰かにこの謎解きをしてもらいたいものだね」
そう言って、陣内教授はティーポットを手に取り、最後の一杯となる紅茶をカップへ注ぎ足した。