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2.常盤色(le Vert) 【解決編】

「マスター、今日も美味しかったわよ。また来るからね」

 路地側の席でたむろしていたご婦人たちが、会計を済ませにカウンターへやって来たので、僕たちの議論は一時中断を余儀なくされた。せっかく白熱していたところだったのに、思わぬ横やりを食らって会話のテンションを下げられてしまった西野さんは、口を真一文字に閉じながら、ムスッと、しばらくのあいだ黙りこくっていた。

 これで店にいるのは全部で四人となった。店のマスター、羽出純男はですみおと、デートの最中に彼氏に浮気をされた、麦倉乙女むぎくらおとめさん。この店のアルバイト店員である僕、平野尋人ひらのひろと。それから、謎めいた黒髪美人の、西野摩耶にしのまやさんである。

「何か新しいことが分かったのですか?」

 僕は西野さんに説明を再開するようにうながした。

「はい――。そもそも彼氏が、乙女さんと別れた後、別な女性と歩いていたという事実ですけど……」

 僕に後押しされて安堵したのか、西野さんが目を輝かせて語り始めた。

「――それは本当に浮気だったのでしょうか。もしかしたら、たまたま通りすがりの女の子と一緒になって、歩いていただけかもしれません」

「それは……、絶対に恋人だったとしか考えられないわ。若くて彼好みの女の子だったし!」

 感情的になった麦倉乙女さんが、強く反発した。

「彼好みとは、果たしてどのような女性なのでしょうか」

 西野さんは少しも動じることなく問い返した。

「それは……、若くて明るくて……」

 返事に口ごもる麦倉さんを尻目に、西野さんはさらに追い打ちをかけた。

「彼は誠実で親切な人柄です。通りすがりに困っている人から道を訊ねられたら、いっしょになって道探しをしてあげるのではないでしょうか」

「それは、そうだけど。だったら、あたしと別れたと直後に、わざわざ当て付けるみたいに、そんなことする必要ないじゃないの」

「偶然に道を訊ねられるタイミングなんて、そもそも予測不可能です!」

 西野さんがピシャリと断言した。

「でも、あたしとの初めての本格的なデートだったのに、急に、一方的に、用事を思い出して帰るなんて、どちらにせよ、ひどすぎるわ……」

 麦倉さんは次第に感傷的になっていった。

「問題はその用事です。いったいそれは、どのような用件だったのでしょうか」

「そんなの分かるわけがないじゃない」

 西野さんがコホンと軽く咳払いした。

「彼は、今回を機会に、あなたにある秘密を告白するつもりで、デートに臨んだのではないかと、私は思っています。でも結局、その秘密を彼は最後まで告白することができなかった……」

「秘密ですって?」

「そうです。そして、彼が告白できなかった理由ですが、そのきっかけを作った張本人は、彼と別れる直前の、乙女さん自身だったのではないかと、私は推測しています」

「いったい、どう言うことよ?」

 西野さんは椅子からすっと立ち上がると、後ろ手を組んで二歩ばかり歩いてから、くるりとこちらへ振り返った。

「おそらく、表参道へのデートを承知した時、彼は、明治神宮へ参拝することも何気に期待していたのではないかと思います。ところが、あなたの目的は、神宮への参拝ではなく、表参道ヒルズでのお買い物だった」

「それの何が問題なのかしら?」

「もしかして、その日の彼は、どこかのタイミングで、明治神宮へは行かないのか、と持ち掛けていなかったでしょうか?」

「ええ、言ってきたわ」

「それで、その時にあなたはなんて答えましたか?」

「ええと、あたしは神仏とか宗教とかが嫌いだから行くつもりはないわ、と答えたわね」

「少しいらついた口調で話しませんでしたか。あなたの方が」

「ええ、まあ、そうかもしれない。だって、宗教を信仰することは個人の自由よ。でも、それを他人に強制するのまでは、賛成しかねるわ」

「そのように、あなたは彼に言ったわけですね」

「そうね。その通りよ」

「ところが、その言葉が彼を大きく傷つけてしまったわけです」

「どういうこと?」

「彼は、あなたに秘密を告白した後で、あることをしたいと思っていたのですが。残念ながら勇気が持てずに、あなたに秘密を告げられなかった。そのため、その後でしようと思っていたことが、火急かきゅうの用事となってしまったのです」

「分かりにくい言い回しね。いったい、彼は何をしたかったのよ」

「それは、お祈りです」

「お祈り?」

「はい」

 西野さんがにっこりうなずいた。

「何の神さまに祈りたかったのか知らないけど、そんなの、あたしに気を使わずに、勝手にすればいいじゃないの。あたしが買い物の会計を済ませている時にでもさ」

「それが、ちょっとした時間ではできないお祈りだったのです」

「明治神宮まで行かなきゃできないってこと?」

「いえ、彼の宗教は、仏教や神道しんとうではありません。彼が明治神宮に行かないのかと訊ねたのは、彼自身に他宗教の文化に対する好奇心があったことと、あなたが宗教にどのくらい関心を持っているかを知りたかったのかもしれません。

 彼は、ムスリムです――」

「ムスリム?」

「はい、イスラム教を信仰する人々のことです」

「イスラム教ですって? そんな、野蛮な……」

 麦倉さんは驚愕の表情を見せた。

「イスラム教は決して野蛮な宗教ではありません。むしろ、ほかの宗教よりもずっと寛容です」

「だって、外国でテロ事件を頻繁に起こしたりしているじゃない」

「あれは宗教を悪事に利用するほんの一部の過激なグループに過ぎません。多くのムスリムは迷惑をしています」

「イスラム教って、決まりや戒律だって厳しいんでしょ。断食だってするみたいだし」

「彼は、あなたがイスラム教に対して抱いているそのような偏見に気付いていたからこそ、ムスリムであることを言い出せずに、悶々としていたのでしょうね。告白をした途端にあなたから嫌われてしまわないかと、ただそれだけを恐れていたのです」

「それでお祈りがしたいけど、それがいい出せなくて、あたしとのデートを中断させたってわけ? だったら、そんなお祈りなんて一日くらいすっぽかせばいいじゃない。毎日行っている毎度お決まりのお祈りと、大好きな彼女との久しぶりのデートと、いったいどっちが大切なのよ」

 涙目で訴える麦倉さんを見ながら、西野さんはため息を吐いた。

「と、なってしまうから、彼はあなたに最後まで言い出せなかったわけです。

 ムスリムにとって、毎日のお祈りは絶対です。たとえ、最愛の彼女とのデートとの両天秤にかけても、止めることができない重要な日課なのです。でもあなたにそれを納得させる自信を、彼は持てなかった。だから仕方なく、ムスリムであることを隠して、デートを中断したのです」

「さあて、恋多き二人の美女たちに乾杯。僕から心ばかりのサービスですよ……」

 マスターが、カウンターで語っている二人の前に小皿をそっと置いた。小皿の中には冷やされて皮が半分だけ剥かれた巨峰とマスカットが一粒ずつ、それに大きな苺がのっていて、練乳がちょっぴりかけられていた。

「甘い食べ物には怒りを鎮める効果があるというからね。

 ところで、イスラム教の信者が行う毎日の礼拝はサラートと呼ばれていてね。サラートは一日に五回あるけど、そのうちの一つが、たしか、夜明け前から昼までに済ませなければならないものだったな」

 マスターがうんちくを語り出した。西野さんが指摘するまでは、イスラム教のことなど念頭になかったくせに、今となっては、二人の会話に割り込みたくて、うずうずしているのだろう。

「ところが、デートの日の彼は、寝坊をして、約束の刻限にどうにか間に合ったということですから、必然的に、午前中の礼拝はまだ済ませていなかったことになります」

 西野さんがポツリと言った。

「そうか。彼はなんとしても正午までに礼拝サラートを終わらせたかったけど、乙女ちゃんがいたから、それができなかった」

 マスターが同意した。西野さんが続けた。

「当初の彼の計画では、あなたにムスリムであることを告白して、公園かどこかで礼拝を済ませるつもりだったのが、あなたに告白ができないまま、時刻は正午を過ぎてしまった。いてもたってもいられなくなって、やむを得ず、彼はあなたにデートの中断を申し出たというわけです」

「それじゃあ……、そのあとでいっしょにいた女のことはどうなるのよ」

「彼は、明治神宮のどこかで礼拝を済ませた後、原宿駅まで戻ってきました。彼としては、あなたとのデートを再度やり直すことは望むところだったのですが、あのような別れ方をした以上、自分の方からデートのやり直しを申し出ることができなかった。彼はあきらめて、その日は一人で家へ帰ることにしたのですが、その時にその女性から道を訊ねられたのでしょうね」

「見ず知らずの人に?」

「はい、見ず知らずの女性にです」

「それで。高田馬場まで一緒に行ってあげたとでも言うのかしら。わざわざ?」

「そうです。彼は誠実で親切な人物だったのです」

 西野さんは静かに付け足した。

「どうして彼がムスリムだって気付いたのよ」

「彼の出身がマレーシアだったからです。マレーシアではイスラム教が国教と認定されていますから、彼がマレー人とうかがった時にムスリムである可能性が極めて高いと感じました。

 それに、喫茶店ではいつも彼はタマゴサンドを注文していたそうですね。タマゴサンドやコーヒーは、ムスリムに禁じられてはいませんが、これがハムサンドとなると、豚肉性のハムが出されるかもしれませんから、豚肉を禁じられたムスリムは、ハムサンドはまず注文しないと思います。もちろん、ハンバーガーショップへも同じ理由から行きたがらないだろうと思い、念を入れて、あのような質問をさせていただきました。

 彼は、あなたに迷惑をかけたことを、必ず後悔しているはずです。彼のことが好きならば、あなたは一刻も早く彼に連絡を取ってあげるべきです。デートの後、彼とのお話はまだされていないことでしょうからね」

「それなら、どうして、男らしく向こうから謝りの電話を入れてこないのよ。女のあたしから掛けるなんて、どう考えたって筋が通らないわ。イスラム教の信者なら、一夫多妻制も認められているのだし、あれだけ女性に規律を設けているくらいだから、男性が上位で主導権を持っている社会なんでしょう」

「それもまたあなたの偏見です。

 ムスリムの男性は、女性を崇拝していて、自分たちの性欲が抑えられなくなることを危惧するから、女性の肌の露出を制限しているそうです。それに、一夫多妻婚だって現代社会の風潮でしだい少なくなっているそうですし、総じて、ムスリムの男性って、基本的には女性に対して奥手な方が多いと思います。

 先ほどのお話では、彼からのプレゼントは肌が露出しない緑色のお洋服ということでしたけど、肌を露出させるのが好きなあなたのことを、彼は常々心配をしたのかもしれません。それに、緑色はイスラム教で特に好まれている色です。イスラム諸国の多くの国旗に緑色が使われていますし、コーランに、天上界の人々が緑色の着物をまとっている、との記載もあるそうです」

 マスターが横から割り込んできた。

「それに、三日月と星の組み合わせもイスラムの文化圏ではよく見られるシンボルだな。もっとも、偶像崇拝が禁止されたイスラム教では、いかなる幾何学的シンボルも公的には容認されていないけどね」

「そうそう、たしか、トルコ共和国の国旗にも、三日月と星が描かれていますよね」

 僕もようやく会話に参加することができた。

「ああ、その通り。マレーシアやパキスタンの国旗にも同じように三日月と星のシンボルが使用されているね」

 僕たちが語り合っている間に、ふと見ると、麦倉さんはスマホを取り出して誰かと話していた。それから、スマホを切ってカバンに入れると、麦倉さんが嬉しそうに言った。

「彼との連絡が取れたわ。彼はデートを取りやめて申し訳なかったと謝ってくれた」

「おおっ、そいつは良かったぜ。ブラボー!」

 マスターお得意の意味不明な祝福の表現である。

「やっぱり、彼の方からは連絡することができなかったようですね。彼は、西野さんの指摘の通り、シャイな人物なのかもしれませんよ」

 僕はさりげなく場をまとめる発言をしておいた。

 西野さんが、麦倉さんの方を向いて、笑顔で優しく語りかけた。

「さっそく、彼との再デートにのぞまれてはいかがですか。

 彼からプレゼントされたあの常盤色エメラルドグリーンの素敵なワンピースを羽織ってね……」


摩耶ちゃんの探偵デビュー戦はいかがでしたでしょうか。ご意見ご感想をお待ちしております。


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― 新着の感想 ―
[一言] おひさしぶりです。 時系列的に、人狼とどちらが先なのでしょうか?
[良い点] 更新お疲れさまです! 礼拝までは予想もしましたが、なるほど言い出せなかったことまでは物語を読んでいても見落としていました。神宮に行きたかった、と読めていればあるいは……! それにしても…
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