7.柘榴色(le Rouge)【出題後編2】
展望室の中は、談話用のテーブルとソファーがいたるところにセットされており、扉の反対側の壁は、全面に巨大な窓ガラスがはめ込まれていて、箱根の山々のほぼ180度の展望が楽しめる構造になっていた。コーナーにはラウンジが設置されており、飲み物が自由に注文できるようになっていた。おそらく、今日このフロアは麒麟丸家の貸し切りとなっているのだろう。
「お嬢さま、お手持ちのそのお帽子は、こちらへおかけください」
「ええ、ありがとうございます」
勝呂氏から指示をされて、西野さんは笑顔でバケットハットを手渡した。
その広大な展望室に、わずか二人の影があった。窓際にいた二人のうちの一人が、僕たちに気付いて、近づいて来た。
「やあ、雀四郎じゃないか。良くここまでやって来られたな。おめでとう」
背丈は170センチをちょっと超えた程度だが、筋肉質でがっちりとした体格の男が、麒麟丸雀四郎と握手を交わした。
「虎次郎兄さん。お久しぶりです。兄さんこそ、よく親父の謎が解けましたねえ」
雀四郎がいくぶん皮肉めいた口調で返した。
「俺に難しいことはよく分からんよ。ほら、そこの専門家に依頼したってわけさ」
虎次郎はそう言って、窓際にたたずんでいるもう一人の男を指差した。
そいつは真夏なのに、ルパン三世に登場する銭形警部のようなベージュ色のトレンチコートを羽織っていて、髪の毛はもじゃもじゃ、背丈は虎次郎と同じくらいで、少したれ目ぎみであるが、鼻は高く、彫りがしっかりしていて、なかなかダンディな人物だった。そいつを見た瞬間、西野さんの肩がビクッと動いた。
「どうかしましたか?」
西野さんの反応に気付いた僕が、西野さんに声をかけた。
「いえ、大丈夫です。ちょっと知っている人間がそこにいたものだから、驚いただけです」
「知っている人?」
「ええ、思い出したくもない過去の腐れ縁ってやつですかね」
西野さんにしてはかなり乱暴な言葉がとびだしてきた。
窓際の男が、西野さんに気付いて、こちらへ近づいて来た。
「やあ、ご無沙汰していたな。例の事件以来か……。
なるほどな、西野摩耶――。あんたが付いていたから、能無しの四男坊でもここへ来ることができたというわけか」
トレンチコートの男が、西野さんになれなれしく話しかけた。
「堂林凛三郎――。
あなたこそ、よくあの暗号の三進数の謎が解けましたね。さすがは私立探偵という肩書きの面目躍如と言ったところですかね」
西野さんがきつめの言葉で返した。
「はっはっは、あの暗号か。三進数だか何だか知らんが、あんなの、俺は実際には何も解明してはいないぜ」
堂林と呼ばれた男が、突然笑い出した。
「じゃあ、どうやってここまでたどり着いたのですか」
「あの暗号は全部で19個の数字が書いてあっただろう。それぞれの数字がひらがなに対応しているのは、ほぼ自明だ。だったら、数字に片っ端からひらがなを当てはめて、何か意味がある文章に出くわすまでしらみつぶしで調べ尽くせばいいのさ。さすがに19文字の全部が意味を成す置き換えとなると、用意された答え以外には存在しないだろうからな」
「でも、それって膨大な作業を要するから、ちょっとしたコンピューターなんかじゃ、結果を導けませんよね」
「まさにその通りだったよ。リーサに頼んだら、あいつ丸二日の間、黙りこくっちゃってさ。おかげで、日常の仕事に支障をきたした始末さ」
そう言って、堂林はくすくすと含み笑いをした。
聞いていた話から総合的に判断するに、この堂林という私立探偵は、暗号の謎を、リーサと呼ばれるスーパーコンピューターを駆使して、力技で解いてしまったようである。西野さんの華麗なる推理が、いともたやすく冒とくされたみたいで、僕はちょっと残念な気持ちがした。さらには、この堂林凛三郎なる人物。今後の遺産相続にまつわる試練に関して、僕たちの前に立ちふさがる巨大な壁となることは、どうやら間違いなさそうだ。
すると、入り口の扉がさっと開いて、一人の男が入ってきた。麒麟丸雀四郎とそっくりな顔をした、細身の青年である。
「やはり、亀三郎が来たか。さすがに、そうだろうな……」
雀四郎が僕の横でポツリとこぼした。四兄弟の三男で、兄弟の中ではもっとも知力が高い人物とのことだが、僕にはかなりの自信家に見えた。着ている服も、最近の流行りのセンスの良さが感じられる。
「やあ、虎次郎兄さん。それに、雀四郎。相変わらず、元気そうだね。
まさかの龍兄がいないのか。こいつは意外だったな。はやくも本命から脱落と言ったところかな。はははっ」
口数が少ない印象の麒麟丸一族にあって、この亀三郎という人物は物怖じしない人物に思えた。
「亀三郎兄さんは、たった一人でここまでやって来たのですね。暗号の謎解きはどうでした」
「あれか……。親父の趣味の一つにアマチュア無線があったからね。モールス信号だと気付けば、しょせんは初歩的な謎解きに過ぎん」
「さすがですね」
雀四郎がほめた。
「そういう君たちは、有能なる助っ人を雇ったということか。いや、まあ、それを責めるつもりはないよ。遺産相続の謎解きに、他人の助けを受けてはならぬ、などと言う決め事はないのだからね。この際だから、その助っ人の方々を紹介してはくれないかな。せっかくのお近づきの機会だしね」
亀三郎の提案に、まず虎次郎が応じた。
「あちらの窓際にいらっしゃるのが、今回、俺が依頼した、埼玉の所沢でご活躍されている、私立探偵の堂林凛三郎さんだ」
亀三郎は窓際にたたずんでいる男には、あまり関心を示さずに、雀四郎に問いかけてきた。
「で、そちらの美男・美女のお二人は?」
「ああ、平野尋人君。僕の大学での親友だ。それから、女性の方が、西野摩耶さん。同じく、学生さんだよ」
雀四郎が、僕たちを簡単に紹介した。
「ふーん、それで、お二人のご関係は?」
突然、意外な質問を吹っ掛けられて、僕は少々戸惑った。
「いえ、別にそんな深い関係ではなく、単なる知り合いということで……」
思わず僕は、しどろもどろに弁解していた。西野さんはというと、そ知らぬ素振りで、亀三郎に軽く頭を下げると、その場から立ち去ろうとした。
「そうかい、それなら……」
そう言うと、亀三郎はひらりと身体をひるがえして、西野さんの前へ立ち塞がり、それと同時に西野さんの左手を右手で取って、そのまま西野さんの腰に左手を添えると、あろうことか、西野さんの身体がくるりとひっくり返されて、気が付くと亀三郎の膝の上で、あおむけに反り返っていた。あまりに一瞬の出来事で、まるで、アルゼンチンタンゴのステップのような華麗な動きだった。
「美しいお嬢さん、お近づきのしるしに、口づけを交わしてもかまいませんか?」
西野さんに覆いかぶさっている亀三郎が、優しく声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください。だ、ダメに決まっているでしょう!」
西野さんがようやく抵抗の意思表示をした。とっさに身体を裏返された行為に混乱を来していたみたいだ。
「そうですか。そいつは残念……」
亀三郎はあっさりと西野さんを解放した。
「今後、私の半径2メートル以内に接近しないでください。
べーー、だ!」
いつも冷静沈着が売りの西野さんだが、舌まで出して、いつになく取り乱している。そのまま怒って、部屋の奥の方へ引っ込んでしまった。
「おやおや、すっかり嫌われてしまったかな」
当の亀三郎の方は、あまり悪気がなさそうだった。
このあと、とくに何ごともなく時刻が午後三時を告げようとした瞬間、入り口の扉がさっと開いて、顧問弁護士の勝呂勝利氏が入ってきた。
「みなさま、たった今、龍太郎さまご一行がご到着されました……」
勝呂氏に続いて、白スーツに身を包んだ麒麟丸龍太郎と思しき人物と、黒サングラスに黒スーツという怪しげないでたちの三人連れの男たちが、ずかずかと入ってきた。
「ふふん、これで役者が出そろったというわけだ……」
麒麟丸亀三郎がうれしそうにつぶやいた。
麒麟丸龍太郎の一行は、部屋の中央に集結した。龍太郎が、会している一同に目を配った。
「ふん、どうやらギリ間に合ったみたいだな……」
亀三郎がするすると龍太郎に近づいていった。
「几帳面が第一主義の兄さんにしては、ぎりぎりのご到着ですね。謎解きにさぞかしご苦労でもされましたか?」
「執念だよ、執念。貴様らごときにまだ親父の遺産は渡せないというね」
亀三郎には目も向けず、龍太郎が答えた。
すると、顧問弁護士の勝呂氏がアシスタントの女性をたずさえて、部屋の上座へ歩いていった。白い手袋をはめた手には、うるし塗りの箱を持っている。おそらくその中に、故麒麟丸鳳仁氏の遺言状が入っているのであろう。
「ここにお見えになられている紳士淑女のみなさま。ただいまより、麒麟丸鳳仁さまのご意思に従い、遺言状を公開いたします」
勝呂氏の通る声が、室内に高らかに響き渡った。




