2.常盤色(le Vert) 【出題編】
「だからさあ、聞いてよ、マスター。ほんと、ひどい話なのよ!」
五つあるカウンター席の全部を占拠して、マスターと向かい合わせに、一方的に会話に没頭しているのは、最近時々姿を見かけるOL風の女性である。年の頃は二十五歳くらいか。しだいに興奮して声が大きくなってくるから、狭い店内に彼女の声だけがキンキンと響き渡っていた。
ほかの客が迷惑がっていないかと心配して、僕は周りを見渡した。その時、店にいた客は全部で四人であった。一人は大声でしゃべりまくっているカウンターの彼女で、それ以外はというと、路地側のテーブル席に二人で座る年配のご婦人たちは、孫の話ですっかり盛り上がっているご様子だ。そして残った一人が、来店してからすでに四十分が経過しているので、そろそろ席を立つ頃合いかと思われる、玉座の間に居座る女神さま、いや、西野摩耶さんである。例のごとく、文庫本をひたすら読みふける西野さんだが、さすがにカウンターの彼女の大声が気に掛かるのか、時々眉を吊り上げながら、不快であるという意思表示を、形式的になおかつ継続的に、発信し続けていた。
「ほうほう。いったい、何がそんなにひどい話なのですか?」
マスターの応対は臨床心理士のようにいたって冷静である。こういうことは、彼が得意とする範疇の一つなのだ。
「頭に来るったらないわ。最愛の彼氏が、私を欺いてこっそりと浮気をしていたのよ」
そう言うと、彼女はカウンターをドンと叩いた。
「なるほど、それはゆゆしきことですねえ。もう少し詳しくお話し願えませんか」
マスターがさりげなくうながした。
「事の始まりは、先週の日曜日だったわ。その日、私は彼をデートに誘ったのよ。ところが、表参道通りを歩いている時にね、彼が急に用事を思い出したと言って一人で帰ってしまったの。せっかく二人切りのデートだったのに、急用なら仕方がないわと、あたしはその時はあきらめて、喫茶店で一人スイーツを注文してから、原宿駅までとぼとぼと歩いて、電車に乗ろうとした時に、なんと彼が駅に現れたの。彼は私の存在に全く気付いていなかったけど、その時にね、こともあろうに、彼にはお連れさんがいたのよ。それが。私と同じくらいの若い女だったの。急な用事なんて、真っ赤な嘘――。彼は別な女とデートの約束をこっそりと取り繕っていたのよ!」
「ふむふむ、そいつはたしかにひどい話ですね。その彼氏って、どのような人物なのですか?」
「まあ一言でいえば、生真面目で誠実なタイプの人間よね……」
「ええと、先ほどおっしゃった彼氏が取った行動からかんがみますと、全く正反対の性格をしているということでしょうか?」
予想外の返答にマスターは戸惑っていた。
「そうね。あれほど表と裏がない人って、日本人には絶対にいないわね」
カウンターの彼女はしみじみと語った。
「日本の方じゃないのですか?」
「ええ、マレーシア人よ。彼はマレーシアからやってきた学生さんなの」
「なるほど、海外の方でしたか。年齢は?」
「ええと、今度の誕生日が来ると二十七才になるって言っていたような気がするわ」
「学生さんにしては、少々お年を召して見えますね」
「留学生なんて、そんなものよ。一度、学位を取ってから日本に留学するみたいね」
マスターの疑問に彼女があっさりと答えた。
「なるほど。でも誠実だと簡単に言ってもらってもねえ。いったいどんなところで彼が誠実だと、あなたはご判断されたのですか」
「だって、今時こんな人っていなくない?
見知らぬお婆さんから道を尋ねられれば、隣町まで一緒について行って、道案内をしたり、小さな子供が道端で泣いていると、立ち止まって、その理由を訊ねたり、些細なことで相手が怒り出すと、たとえ非が自分になくたって、すぐに頭を下げて謝っちゃうんだから」
「ふむふむ。現代社会において、かなり稀有な部類に属する人物のようですな、あなたの彼氏は。そんなことしていると、じきに疲弊したりしませんかねえ」
「私だったら一日だって我慢できないけど、彼はそんなことあまり気にしていないように見えるわ」
「そして、その聖人を絵に描いたような気高き人物が、とって返したかのごとく、このような卑劣な行為に出たわけですね」
「そうなのよ。本当にがっかりだわ……」
「ところで、彼氏がこっそりと待ち合わせていた女性は、どんな人物でしたか」
「ふん、たしかにきれいだったけど、どちらかと言えば、田舎から出てきた小娘って感じだったわ。一方的に、女の方がしゃべりまくっていたけど」
「その時、あなたは二人のあとをつけたりはしなかったのですか」
「もちろん追いかけたわよ。二人は新宿方面行きの電車に乗って高田馬場で降りたけど、その後、人混みに紛れて見失っちゃったのよ。ほんと、あたしったら、馬鹿みたい」
そう言って、彼女は砂糖を入れていない紅茶をぐっと飲みほした。
「彼とのお付き合いは、どれほどに?」
「知り合って三か月よ」
「えっ、たったの三か月ですか? あっ。いえ、失礼しました」
たった三か月のなれそめと聞いて、マスターはちょっと肩透かしを食らったようだ。
「でも、お互いに相思相愛だったのは間違いないわ。だって彼はいつも言っていたのよ。あなたと出会えて本当に幸せだってね」
「なるほどね。シャイな日本人にはなかなか言えないストレートな表現ですね。ところで、これまでデートは何回か?」
「食事には行ったことがないけど、日中に喫茶店へ行ったことは数回あるわ」
「そうですか……」
これ以上議論を重ねたところで実が成りそうな雰囲気はないと、どうやらマスターは観念した様子であった。
僕は、カウンターにいる彼女よりも、むしろ、玉座の間にいる西野さんの方が気になっていた。彼女のうるさい愚痴に嫌気がさして、西野さんが怒って席を立たないかと危惧したのである。ところが、愚痴がデートの浮気話へ進展すると、西野さんの反応は徐々に変化してきた。文庫本を開いていて、口元が隠されているから、細かな表情はよく見えないけど、漫画の世界でヒロインの目玉が星形になってキラキラと輝いているように、瞳をまん丸くしながら、さっきからずっと、こちらの方をじっーと見つめている。明らかに、浮気話に興味津々な様子であった。
最近になってようやく分かってきたことだが、西野さんって、普段は感情を直接言葉に表さない性格のくせに、立ち居振る舞いをじっくりと観察していくと、意外と考えていることがはっきりと読み取りやすい人物なのである。
しばらくすると、僕が観察していることに気付いた西野さんが細い肩をピクッと震わせた。すると、キラキラ輝いていた夢見る少女の星の目が、一瞬で、なんであんたが私を見ているのよ、とでも言いたげな、僕に対する侮蔑と抗議を表すジト目へと変貌した。この辺りも、実に分かりやすい西野さんの一面である。
「あの、おかわりはいりませんか。本日はサービスで、ディンブラのストレートですよ」
僕はさりげなく気を利かせて、西野さんに話し掛けた。
「サービスですか? それなら、いただきます」
西野さんは表情を変えずに、僕の申し出を受け入れた。
「業者が新しく茶葉を提供してきましてね。少しご意見をうかがえればと思いまして」
僕は適当に声掛けの理由をあしらっておいた。
「ところで、カウンターの女の人のお話ですけど……」
西野さんがポツリとつぶやいた。
「すみません、ちょっとエスカレートされているみたいで。どうかお気になさらないでください」
「いえ、そうではなく。直にお話をうかがってみたいですけど、できませんか?」
「えっ」
「はい、もちろん、差し支えなければ、ということですけども」
肩をすぼめながら、たどたどしい口調で、西野さんが答えた。
僕は即座にマスターのところへ行って、そのことをこっそり耳打ちしてみた。マスターも、カウンターの彼女を持て余していて、いくぶん投げやりにもなっていたから、天からの思し召しとばかりに、あっさりと西野さんの申し出は了承された。
「すみません、私もお話に混ぜていただいてよろしいでしょうか」
カウンターへやってきた西野さんは、さりげなく彼女の横に座って、自然なふるまいで彼女へ声をかけた。
「あんた、誰?」
カウンターの彼女は、少しぶしつけな西野さんの行動に、ちょっと戸惑った様子だった。
「このお店へ時々まいります客の一人です。先ほどの彼氏とのお話をもう少し詳しくお聞かせ願えませんか」
西野さんがニコリと笑みを浮かべた。どうやら、西野さんの作り笑いは、同性に対してもかなりの破壊力を持っているようである。
「別にかまわないけど。それにしても、きれいな人ね。どこかの女優さん?」
カウンターの彼女は、マスターにひそひそと耳打ちした。
「ああ、最近このお店に顔を出してくれるようになったお嬢さんで、平野君と同じ大学の学生さんらしいよ」
マスターはさりげなく、なおかつ、僕たちの耳にも聞こえるほどの声量で、応答した。
「ふーん、アドニス君と一緒の大学なんだ……」
「アドニス君?」
マスターがキョトンとした。
「あら、知らないの? 平野君のことよ。あたしら常連客の間では、彼はアドニス君と呼ばれているの。ギリシャ神話に登場する中で最も美しい青年なのよ」
僕がいない時に何度も訪れていたのか、どうやら彼女は店の常連客だったようである。だから、マスターにあれだけ馴れ馴れしいのも、これで納得がいく。
「ああ、そうなんですか」
「もっとも、容姿が美しいだけで、才能とかに関しては何にもない男だったみたいだけどね。
ああ、今のは神話のアドニスのことだからね……」
彼女とマスターのひそひそ話は、実際には、僕に全部筒抜けだったけど、僕はいつものそ知らぬ素振りで、その場をやり過ごした。
「彼に関することなのですが。ええと……」
「乙女よ。麦倉乙女」
西野さんが呼びかけに困っているのを察して、カウンターの彼女は自らの名を告げた。
「西野摩耶です」
西野さんも即座に名乗り返した。
「ふーん、摩耶ちゃんね。かわいらしい名前じゃないの?」
麦倉さんのお褒め言葉をあっさりスルーして、西野さんは質問を続けた。
「それはさておき、彼とは、食事をされたことはないけども、喫茶店には行かれたそうですね。その時に、彼は何を注文しましたか」
「それは……。普通の、コーヒーとタマゴサンドをいつも注文していたわね」
不意を突かれた質問に、麦倉さんはたどたどしく返した。
「ハンバーガーショップとかは?」
「まだ行っていないわ」
「そうですか……」
西野さんは一瞬考え込むように天井を見上げた。
「表参道へ行ったのに、明治神宮には行かなかったのですか?」
思い出したように、西野さんが訊ねた。
「そういえば、彼は明治神宮に一度行ってみたいとか、なんとか言っていたけど、あたしはヒルズで買物をする方が良かったから、そっちにしたのよ」
「そうですか」
「そもそもあたしは、神さまとかイエスさまとか、ちょっと苦手なのよね。結局のところさあ、人間って、他力本願にまかせた神頼みで祈ることよりも、自分がしっかりと信念を貫いて生きていくことの方が、よっぽど大事じゃないのかしら」
「そうですね。私もそれに関しては同感です」
西野さんがあっさりと認めた。
「一月ほど前だけど、彼と一緒に歩いている時に、道端で呼び止められてね。そう、宗教関係の人。彼は興味深げにその人の話を聞こうとしていたけど、あたしはそういうのにうんざりしているから、彼を強引に引っ張って、その場から立ち去ったのよ。彼は少し驚いていたみたいだけど、あたしが宗教は嫌いだと説明したら、それで納得してくれたようだったわ」
「そうですね。私も勧誘されているみたいで、ああいうのって好きではありません」
西野さんもうなずきながら同調した。
「デートを打ち切って立ち去る時に、彼はなにか言っていましたか」
「急用ができたから、帰らなければならなくなった、とだけ言ったわ」
「その時刻は……、何時頃でしたか」
西野さんの声が、急に、甘えるような口調へ切り替わった。それに気付いた僕は、ちょっとだけときめいたけど、どうやら西野さんは無意識のままそれをしていたようである。
「ええと、昼は過ぎていたけど、まだ一時にはなっていなかったわね」
「食事は済ませていなかったのですね」
「ええ、だからこれから食べようと思っていたのに、考えてみれば、デートしていた時間なんてほんのわずかだったわ。だいたいあの日の彼は、寝坊をしたから集合時間に遅れそうになったと、言い訳をしていたくらいなのよ」
「彼は遅刻をしたのですか」
「いいえ、そういうことは絶対にしない人よ。もっとも、あの日は珍しく、約束の刻限ぎりぎりに姿を現わしたけど」
「朝寝坊をして、集合時間にどうにか間に合わせたということですね。
それと、急用を申し出た時の彼の様子は、何か変ではなかったですか」
「別に……。腕時計を見て、それから何か思い出したように」
「そうですか。なるほど。
そういえば、彼はマレーシアの出身だそうですけど、中国系の方でしたっけ」
「いいえ、生粋のマレー系。現地の血筋を持った人よ」
そう言って、麦倉さんは一枚の写真を取り出して西野さんへ差し向けた。
「ふーん、ハンサムな人ですね」
西野さんが率直な感想を述べた。
「そうでしょう。とてもいい人だったのに……」
「まだこの人のことが好きですか」
西野さんが上目遣いに、麦倉さんへ視線を送った。
「それは……。でも、今回の裏切りは絶対に許せないわ!」
麦倉さんは、最後はピシャリと言い切った。
「そうですか……。最後になりますけど、彼からプレゼントされたことはありませんか」
「ええ、それは、あるわよ」
「洋服とか?」
「出会ってすぐに……、ワンピースをね」
「それは、私がいま着ているようなロングスカートのワンピースですか、それとも、タイトスカートのワンピースでしたか」
西野さんの洋装は、例のごとく、モノトーンのロングスカートだ。
「それがどうかしたの?」
「いえ、参考までに……」
「ロングスカートだったわ。ちょうどあなたが着ているみたいなね」
「洋服の色は?」
「色ですって? そうね、常盤色よ」
「きっと、そうでしょうね……」
西野さんは予想をしていたかのような返答をした。
「あたしはどちらかというと、身体の線がはっきりと出るボディライン系のワンピースの方が好みなんだけど」
麦倉さんは、西野さんに目をやらずに、口先を尖らせた。
「それを彼に言いましたか?」
「ええ。あたしって何でもはっきりと言う質だから」
「その時の彼の反応は?」
「苦笑いしていたわ」
「多分、そうでしょうね」
「なによ、まるでその場に居たかのような話しぶりね」
麦倉さんは、さっきから知ったかぶりをしている西野さんに、少々いらついた様子である。
その直後、西野さんのトーンがいきなり最大級に高揚した。
「水のそばで重い物がなくなっていたら、水の中に何かが沈められたと見て、まず間違いない。バイ、シャーロック・ホームズ――」
僕たち三人は驚いて、いっせいに西野さんの方を振り返る。
「何ごともきちんと手掛かりを集め、論理をたどっていけば、やがては唯一無二の真相に到達できるものです」
僕たちの困惑に気付くことなく、西野さんは淡々と自己の主張を続けた。
「すると、今回の話からなにか新しい結末が出せたというのですか」
とっさに、僕は西野さんに訊ねた。
「ええ。その通りです」
いかにも自信に満ちた表情で、西野さんがにっこり微笑んだ。
どうやら西野さんは、ここまでの話からひとつの結論を導き出したみたいだが、一方で、優秀なる読者諸君においては、西野さんが到達したのと同等の結末に、果たしてたどり着けているのだろうか。ちなみに、僕はちんぷんかんぷんの状態だ。
それでは、このあとの章にて、彼女の解答をゆっくりとご賞味いただくこととしよう。
誠実だと信じていた彼が、卑劣な裏切り行為を……。果たして乙女さんは立ち直ることができるでしょうか。