7.柘榴色(le Rouge)【出題後編1】
箱根湯本駅は、箱根火山を構成する優駿な山々の麓にあって、まるで関所に君臨しているかのごとく、観光地のメインゲートとして堂々と鎮座している。これは後から分かったことだが、箱根火山は日本屈指の巨大なカルデラを形成しており、観光地は美しい外輪山に四方を囲まれた完璧なまでの閉ざされた世界なのだが、その強靭な城壁の一角を突いて、東海道本線の小田原駅との連結に成功し、終点の強羅駅までをつないだ箱根登山鉄道は、今や、箱根の観光事業がここまで反映できた最高殊勲選手であったと認定されたとしても、決して過大評価ではないだろう。
箱根山帝国ホテルは、その箱根湯本駅のすぐそばの、もっとも便が良いところに位置しており、サウナ付きの温泉大浴場に高級レストランやラウンジバーまでを兼ね備えた、誰もが認める四つ星ホテルである。駅から外へ出て、帝国ホテルの場所を確認した僕たちは、時刻がまだ十一時前だったこともあって、駅周辺の商店街で、飲食店や土産物売り場を楽しむことにした。
美術館のような雰囲気の画廊喫茶があったので、まずそこで腹ごしらえを済ませ、それから僕たちは各自を自由行動にして、約束の刻限の一時間前である午後二時に箱根山帝国ホテルのフロントロビーで落ち合う約束をした。
午後二時を一〇分ほど過ぎた頃、僕は息も絶え絶えロビーへやって来たのだが、麒麟丸はまだそこにはいなかった。西野さんがひとり長椅子に腰かけていた。
「遅れてすみません」
僕は西野さんにあやまった。
「いえ、どうせ始まるのは三時ですし、問題はありません」
西野さんはこちらに目を向けず、何かに集中している。そのとき西野さんが手にしていたのは、木でできた小さな箱だった。
「箱根伝統工芸の『秘密箱』です。商店街の土産物売り場で買いました」
西野さんが得意げに言った。
「秘密箱?」
「ええ、だいたいからくりは理解できました。ちょっと待ってください」
そう言って、西野さんはしばらく細かい手さばきで秘密箱をいじっていたが、やがてすっと僕に差し出した。
「どうぞ。今は完全に閉じた状態になっています。さあ、この箱を開けられますか」
僕は秘密箱を手に取って回しながら観察してみた。直方体の箱は、表面に美しい和風の絵柄がコーティングされており、そのままインテリアとして飾っておいても良さそうな一品だ。でも、どの面にもふたのようなものはなく、開けろと言われても、なにをしてよいやら訳が分からなかった。
「開けられますかと言われても、この箱、そもそもどこにも開け口がありませんよね」
「だから秘密箱なんです」
西野さんがふふふんと答えた。結局、僕は何もできずに秘密箱を西野さんへ返した。西野さんは秘密箱を手にして、側面に指をかけて力を込めた。すると、側面の板の一部が少しだけ動いた。動いたといっても、ほんのわずかズレただけで、決して、蓋が開いたわけではないのだが、それが動いたことにより今度は別な箇所が動かせるようになり、それを繰り返していけば、最後に全体のふたが開けられる構造となっているらしい。外見はシンプルな秘密箱だが、箱の側面にこれでもかというくらいの精密なからくりが施してあって、西野さんが何度もカシャカシャと細かく板を動かしていくと、ついに天井の面がスッと横へスライドして、秘密箱が開けられた。
「全部で二十一回の行程を経て開けられるみたいです。まさに日本の伝統工芸の技術の集大成とも言える逸品ですね」
「でも、それだけ複雑な構造で、開けるのに苦労すると、誰も面倒くさがってそれを使おうとしなくなるのではないですか」
僕は思ったことを素直に口にした。
「だからセキュリティ効果があるとも言えます。それに、ちょっとした根気さえあれば、誰だって簡単に開けられるのですよ」
「そんなもんですかねえ」
少なくとも僕にはそう簡単に開けられそうな気はしなかった。すると、麒麟丸雀四郎がロビーへ駆け込んできた。
「すみません、ついつい遊んでしまいました」
麒麟丸が速攻で詫びを入れた。
「それでは展望室へ行きましょうか」
僕のひと声で、僕たちは最上階の展望室へ向かった。
箱根山帝国ホテルの展望室は建物の最上階にある。エレベーターを最上階で降りると、正面にぶ厚い一枚板のアンティークな扉が立ちふさがっていて、どうやらその向こうが展望室らしかった。扉の横にはテーブルが用意されていて、そこには男女二人が腰かけていた。男性の方は年配で、タキシードを着ている。若い女性の方はいかにもアシスタントといった感じで、男性からの指示を黙ってじっと待っていた。
「雀四郎さま。ようこそ、いらっしゃいました。さあ、中へお入りください。
お連れの方々は、申し訳ありませんが、お名前とご住所・連作先をお教えください。いえ、決して悪いように使用するつもりはございませんが、この先も雀四郎さまにご同行を希望されるのなら、なにとぞよろしくお願いいたします」
年配の紳士が丁寧に説明をした。
「ということは、ここが遺言状の公開される正解の場だということですね。すぐろさん」
麒麟丸が紳士に向かって、なれなれしく話しかけた。どうやら、顔見知りであるらしい。
「親父の会社の顧問弁護士の勝呂勝利さんだよ」
麒麟丸が僕たちに紹介した。
「ところで勝呂さん。今、ここへやって来ている兄弟は、僕のほかに誰かいるのかい」
麒麟丸が勝呂氏に訊ねた。
「ええ、いらっしゃっていますよ。虎次郎さまのご一行が……」
「虎次郎が……。こいつは意外だったな」
麒麟丸の瞳が丸く見開いたので、彼の動揺がはっきりと見て取れた。兄弟の中で一番謎解きが苦手そうな次男が、真っ先に正解の場へ到着していたことが、よほど意外であったのだろう。
「ほかには?」
「いえ、龍太郎さまと亀三郎さまは、まだのようですね」
麒麟丸雀四郎の問いかけに、勝呂勝弘氏はあっさりと答えた。
「そうか……。とりあえず、みなさん、展望室へ入ってみましょうよ」
麒麟丸の誘導で、僕たちは箱根山帝国ホテルの展望室のいかつい扉をかいくぐって、中へ進んでいった。




