7.柘榴色(le Rouge)【解決前編2】
「もう答えは目の前まで来ています。三進数にもかかわらずゼロが含まれていなければ、それらの数字は必然的に『1』と『2』の数字しかないこととなります。さあ、麒麟丸鳳仁氏になった気持ちで考えてみてください。1と2だけで書かれた数字を用いて、ひらがなを表現しようとしたら、あなたならどうしますか?」
語りかけるように、西野さんが核心を指摘した。麒麟丸一族遺言状の秘密の公開場所が、いよいよ明らかにされようとしている。
「1と2の二種類の数字で表された数か……。はっ、もしかして!」
茶器をナプキンで拭っていたマスターが、急に大声をはり上げた。
「分かりましたか?」
西野さんがさりげなくマスターをうながす。
「モールス信号じゃないのかな?」
マスターが西野さんへ目配せをすると、西野さんはにっこりと微笑んだ。
「正解です」
「なんですか、その、なんとか信号って?」
僕はその時、恥ずかしながら、モールス信号という概念を知らなかった。
「モールス信号――。指で押すと電気が流れて送信できる簡単な仕組みの電鍵を用いて、短く押した時の『トン』と、長く押した時の『ツー』の二種類の音を使い分けながらやり取りをする通信のことだよ。二〇世紀初頭までは電報などで重宝されていたものの、その後の電信機器の発展のために徐々に廃れていき、さらには船舶運航の通信に使われていたこともあったけど、通信衛星の登場とともに消えてしまった。今となっては、アマチュア無線で使われているくらいじゃないかなあ」
「そうですか。全然知りませんでした」
「まあ、IT革命以後に生まれた君たち世代では、まさに無用の長物に過ぎないし、知らなくても仕方がないんだけどねえ。
そうだ、モールス信号は音の代わりに光を利用しても通信ができるんだよ。照明ライトに手動のブラインダーを装着して、それを動かしながら信号を送るのさ。ほら、ジブリアニメの『紅の豚』で、飛行艇に乗ったポルコロッソが空の上からカシャカシャと送っていたじゃないか」
「ああ、あれがモールス信号なんですか」
紅の豚なら見たことはある。そういえばそんなシーンもあったな。
「モールス信号なら、『トン』と『ツー』の二種類の音の組み合わせでひらがなの一文字一文字を表すことができるし、その企画は統一されている」
「ここにその表を書いてきました」
西野さんがバッグからまた一枚紙を取り出した。こういったところは、彼女は用意周到で、実に几帳面である。
「でもさ、二種類しかないモールス符合を数字で表すのなら、二進数を使えばよかったのに、どうして鳳仁翁はわざわざ複雑な三進数なんかを持ち出したんだろう。合理性に欠けるよね」
マスターが首を傾げると、西野さんが即答した。
「鳳仁氏は極めて合理的で論理的な人物ですよ。実際のところ、モールス信号は二進数では表現し切れないのです。
表を見ながら考えてみましょう。例えば、『い』のモールス符合となる『・-』を二進数で表したら、どんな数字になるのでしょうか」
「それは、『・』を0で、『-』を1で表して、01だね」
「それを十進数に直すと?」
「1だ」
「では、『う』だとどうなりますか」
「『う』は『・・-』だから、001となる」
「それを十進数に変換すれば?」
「1になる。なるほど、これでは『い』も『う』も、どちらも1となってしまうんだ……」
マスターの口からうめき声がこぼれた。
「そうですね。モールス信号は一見すると二種類の文字があれば代行できそうですが、実は『トン(・)』、『ツー(-)』のほかに、『何もなし』の三文字で構成されていたのです。
ですから、それをもっとも効率的に数字に置き換える手段は、三進数となるのです」
「なるほど、そう考えれば極めて論理的なんだ」
マスターが納得してうなずいた。
「モールス信号なるものは理解できました。
さっそくですが、さっきマスターが書き出したメモを使って、暗号文の19個の数字を照らし合わせてみませんか。この場合、三進数の数字の『1』がモールス信号の『トン(・)』で、『2』が『ツー(-)』に対応しているとみて良さそうですね」
待ちきれなくなって飛び出した僕の提案に、西野さんは小さくうなずいた。
「最初の数字の67が、三進数表記では2111となり、これをモールス符合に置き換えると『-・・・』ですから、それが表すひらがなは『は』ですね」
「次の数字80が、三進数では2222で、モールス符合は『----』。それが表すひらがなは、ええと、『こ』だな」
横にいたマスターも身を乗り出してきた。こうして僕たちは暗号文に標された19個の数字を次から次へとひらがなへ変換をしていった。
「できましたよ!」
僕は手書きのメモを頭上へ高々とかかげた。
「は、こ、ね、や、ま、て、い、こ、く、ほ、て、る、て、ん、ほ、〝、う、し、つ、となりました。箱根山帝国ホテル展望室――、これが遺言状の公開場なんだ!」
興奮のあまり、僕は雄叫びをあげていた。
「箱根山帝国ホテルか。なるほど、親父の会社の御用達ホテルで、小さい頃によく連れて行ってもらいましたよ!」
麒麟丸雀四郎も歓喜の声を発した。
「念のため、『1』が『ツー(-)』で、『2』が『トン(・)』の場合や、アルファベットの場合も想定して変換してみましたけど、意味を成す文章は得られませんでした。だから、暗号の答えは、箱根山帝国ホテル展望室で、まず間違いはないと思われます」
西野さんが冷静に付け足した。
「素晴らしい。実に理路整然としたエレガントな答えだ!」
麒麟丸雀四郎が椅子から跳びあがった。
「そうですね。あなたのお父様は、たぐいまれなる論理的思考の持ち主だったみたいですね」
西野さんがほめた。
「違いますよ、マドンナさん。あなたこそが、かの名探偵シャーロック・ホームズを彷彿させる、現代の名探偵ですよ!」
麒麟丸が興奮気味に答えた。
「マドンナですって……?」
さっきまでニコニコと笑顔を振りまいていた西野さんの眼が、突如ジト目と化したから、僕は少し蒼ざめた。
「麒麟丸君。マドンナじゃなくて、にしの、西野さんだよ」
「ああ、そうでしたね。西野さん。お願いがあります」
麒麟丸は自分の非にまるで気付いていない様子であった。
「来る八月十五日に親父の遺言状が公開される箱根山帝国ホテルに、ご同行願えませんか。あの親父のことです。そこでは間違いなくあらたなる謎解きを用意していることでしょう。まだ戦いは前哨戦が終わったに過ぎません。
あなたが来てくだされば、まさに鬼に金棒です」
「ふぇっ、でも今回は、たまたま解けただけですし……」
あまり乗り気でなさそうで、戸惑っている西野さんを、麒麟丸が両手を押し出して制した。
「もちろん、あなたの宿泊代や交通費は僕が負担をします。何しろ莫大な遺産がかかっていますからね。安いもんですよ。そうだ、一人で来るのが不安でしたら、平野君もいっしょに来ればいい」
「えっ、僕もいいのかい?」
棚から牡丹餅とは、まさにこのことだ。箱根と言えば日本屈指の風光明媚な温泉観光地だし、しかも西野さんと一緒に旅をするというおまけ付きだ。
「そうだね、ここは『チーム摩耶ちゃん』として四人で仲良く箱根へ乗り込んで、遺産相続の謎をバッチリ解明しちゃおうよ」
マスターもノリノリではしゃぎ出したが、それを見て麒麟丸が言った。
「申し訳ありません。僕もいち学生の身分に過ぎませんから、戦力外の人物にまで宿泊を提供する金銭的余裕は持ち合わせていません。残念ですが、マスターさんには今回はご遠慮願いたいです」
「ええっ、そんなあ。せっかく、摩耶ちゃんといっしょに……」
絶望の淵に蹴落とされたマスターの口からは、それ以降、いっさいの言葉がこぼれることはなかった。
そして、八月十五日がやって来た。箱根山帝国ホテルの展望室には午後三時までに到着すれば良かったのだが、せっかくの観光名所だから、八時前にもかかわらず僕たちは東京駅へ集まった。
西野さんは、いつものようにロングスカートワンピースを着ているけど、それには不釣り合いな、頭をすっかり覆ってしまう日よけ用のバケットハットをかぶり、動きやすいスニーカーを履いていた。それと、おそらくは着替えなどが詰め込まれているのであろう大きなリュックを背負っていた。
わざわざ無駄金を使うこともなかろうと、僕たちは新幹線の利用は取りやめて、JR在来線で箱根湯本駅まで行くことにした。箱根登山鉄道へ乗り換える小田原駅まではおよそ一時間半だ。運よく座席が空いていたので、西野さんを中心に、僕と麒麟丸で彼女を挟んで座った。
はじめこそ無駄話を交わしていたが、三人とも雄弁な気質でないので、やがて会話は途切れてしまい、僕は窓の向こう側を流れ行く景色に気をひかれていた。
「ちょ、ちょっと、平野君。相談に乗ってくれないか……」
麒麟丸が小声で僕に呼びかけてきたから、目をやると、麒麟丸が背筋を伸ばして硬直していた。というのも、となりでうたた寝をしている西野さんの顔が麒麟丸の肩へもたれかかっていたのだ。相変わらず、西野さんは朝には弱い体質のようだ。
「平野君。ど、どうしよう……」
麒麟丸は困っている様子だが、顔は真っ赤になっている。僕はうらやましい限りだと思いながらも、冷静さを振舞った。
「重たかったら、遠慮せずに押し返せばいいんだよ。まあ、我慢できるんだったら、そのまま寝させてあげればいいんだし」
「我慢だなんて……、滅相もない。じゃあ、こうして居てもいいんだね」
麒麟丸は確認を取るかのように念を押してきた。見かけによらず初心な性格のようだ。
小田原駅が近づいて来たので、西野さんの肩をゆすってやると、もう着いたんですか、と西野さんはあっけらかんと答えて、座ったまま両手を持ちあげて、無防備に大きく背伸びをした。モデルのように腕が長く、しかも柔軟な細身の身体がしなやかに反り返るその仕草は、僕たちだけでなく、同じ車両に乗っているすべての男性客の心を確実にとりこにしていたのだが、いつものごとく、当の西野さんはその事実にまったく気付いてはいない。
「早く、早く、こっちですよー」
小田原駅で列車から降りても、西野さんが先陣を切って、ホームの階段を駆け上り、改札を通過していった。とにかく一番はしゃいでいるのが西野さんだった。そのあどけない姿に、僕たち二人は苦笑いを交わすしかなかった。
これにて、柘榴色の章の第1ステージが終了いたしました。次回からは、麒麟丸家遺産相続の壮絶なる謎解き合戦が繰り広げられる第2ステージへと進みます。どうぞご期待ください。
iris Gabe




