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6.東雲色(le Beige)【解決編】

 西野さんの腕の中で赤ん坊が、モミジのような小さな手を開いて、西野さんの頬をさわろうとしている。まるで何か遊んでくれ、とでも訴えているかのようだったが、肝心の西野さんの方は、赤ん坊のなさんとする行為には気付いたものの、それに応対する余裕もなく、始終ムスッとしながら凝り固まっていた。

「摩耶ちゃん、いつまでもわがまま言っていないでさあ。陽翔はると君を返せない理由なんて、実際、なにもないじゃないの」

 マスターは、どちらの側にも就くことができずに、ただうろたえていた。

「あります。その人はまだ嘘を吐いています。だから、私は信用することができません」

 西野さんがはっきりと指摘した。

「うちの子が、これ以上なんの嘘を言っているというのですか」

 たまらずに、花梨の母親が反駁はんばくした。

「花梨さんは先ほど、一瞬魔が差したから、摩太郎を私に託した、とおっしゃいました。それは嘘です。一瞬に魔が差しただけなのに、どうして事前に手紙が用意されてあったのですか」

「それは誤解です。私はその場で手紙を……」

 木内花梨が反射的に反論を企てたが、言葉は途中で途切れてしまった。

「あの手紙はプリンターで印刷されていました。その場で書かれたものでは、決してありません。あなたは家を出た時から、すでにこの子を手放すつもりでいたのです。そして、公園にやって来た時に、たまたまそこに私が居合わせただけです。

 あなたさっき、私が摩太郎を見つけた時にも、身を隠しながら摩太郎のことをずっと心配していた、と言いましたよね。じゃあ、どうしてその後で私を追いかけなかったのですか。私はあの日、もしかしたらと思って、うしろを気づかいながら、わざとゆっくり歩みを進めて、家へ帰りました。捨て親がどこかから私の様子をうかがっているかもしれないと、思ったからです。でも、誰もついて来る気配はありませんでした。

 つまり、あなたは、摩太郎が拾われたのを確認してからすぐに、その場を立ち去ったのです」

「そんなことは……、ありません。私はずっと、あなたを追いかけて……」

 駄々をこねる子供のように、説得力のない主張を花梨は唱えた。

「まだ嘘を重ねるつもりですか。あなたが私を追いかけていたのなら、あなたは私の家までついて来ていたはずです。でも、あなたはそうはしなかった。あなたが私の家を確認していたのなら、通報を受けた警察は、私の家へやって来たはずです。でも、警察は私の家には来なかった。

 もしも、マスターの気遣いで警察への通報がなければ、あなたは摩太郎には二度と会うことができなかったし、あなたが取った行動は、そうなるように意図的に仕向けた、としか考えようのないものです。

 それに、あなたはさっき、大切な陽翔はると、と言いましたけど、摩太郎と過ごした一週間は、私にとっても大切な一週間です。

 はじめの三日間は、真夜中にこの子が泣き止まず、私の住んでいるのが集合住宅ですから、家の中にいることすらできずに、近くの橋まで出ていきました。必死に摩太郎を抱きかかえて、何をしたらよいのか分からずに、ずっとそこでうずくまっていました。アパートの隣人たちからは、私が摩太郎を抱えているから、驚かれてしまうし、本当に苦労のしっぱなしでした。

 おとといには、摩太郎が三十八度を超える熱を出しました。慌てて病院へ連れていったら、三十八度程度の熱は、赤ん坊には茶飯事だと言われました。その時は、本当に心からほっとしました。

 もはや私と摩太郎は一心同体なんです。今さら、返せと言われても、そんな身勝手が通用するはずないでしょう」

「病院の診察でかかった費用は、こちらが全額お返しします。ですから、どうか陽翔だけは……」

 議論での論駁は不可能だと悟った母親も、泣きながら訴えてきた。

「違います! そこが問題じゃないんです。私はお金が欲しくて文句を述べているのではありません。あなたがたのそういうところに、さっきから……、その……、分かりませんか?」

 身勝手な母親の主張に、西野さんの方もぶち切れかけていた。

「大事なことはこの子の未来でしょう。無責任なふるまいを続ける花梨さんよりも、私が育てた方が、この子はきっと健やかに成長すると言っているのです。

 花梨さん。あなたに伺います。今私が申し上げたこと、それをあなたは否定することができますか。できるものなら、してみなさい。さあ、私よりもこの子を大切に育てられる自信が、あなたにおありというのですか?」

 西野さんが鬼気迫る剣幕で詰め寄った。これにはさすがの母親も黙って引き下がるしかなかった。父親の方は、まったくなにも言えずに、きょろきょろと視線だけを動かし、ただ立ち尽くすのみだ。家では一番威張っていそうだけど、こういう場では、やはり男は無力な存在ということだろう。

 そもそも、西野さんにディベートを挑んだところで、誰も勝てるはずがないのだ。ましてや、髪を脱色してネイルアートに明け暮れる小娘など玉砕もいいとこで、まるでその様子は、ショッキングピンクの目立つジャンパーを羽織りながら、連発される機関銃の前へ立ちはだかるようなものだろう。

 当の花梨はと言うと、いよいよ追い詰められたのか、突然、悲鳴とも取れる意味不明な金切り声を発したから、驚いた僕たちの視線がいっせいに彼女へ集まった。

 すると、花梨の叫び声にびっくりした赤ん坊が、ぎゃーーっと喚き始めたから、西野さんは椅子からすっと立ち上がって、ふんふんと、何やら意味不明な鼻歌を歌い出した。すると、少しの間をおいて、それを聞いていた赤ん坊が泣き止んだのだ。西野さんはほっとしたのか、笑顔を一瞬見せて、いきがる素振りも見せずに、もといた椅子へ腰をおろした。

「西野さん、すごいじゃないですか」

 驚愕の余り、僕は西野さんに声をかけた。

「別にすごくなんかありません。摩太郎が考えることは、だいたい分かっていますから。今は大きな声がしたからびっくりしたみたいですね」

 西野さんは淡々と返した。横を見ると、大声を張り上げたおかげでちょっとは落ち着いたのか、木内花梨が静かにたたずんでいた。やがて、彼女は、覚悟を決めた面持ちで、おもむろに口を開いた。

「大きな声をあげてすみませんでした。私は馬鹿だけど、馬鹿なりに、今、一生懸命考えました。

 さきほどあなたは、私に、あなたよりも陽翔を健やかに育てる自信がありますか、と訊かれました。自信なんてありません――。それに、あなたがおっしゃったことは、ぜんぶ真実です。ここに来て、私はまだ自分のことを守ろうとしていました。こんな私に母親を名乗る資格なんて……、ありません。

 でも、陽翔がいなくなってからしばらくして、急に胸が張って痛くなりました。そうなってからですけど、はじめて分かったことが一つあります。それは、この子が私にとってかけがえのない存在だと……」

 花梨はここで言葉を詰まらせた。何かが込み上げてきて、最後までしゃべれなくなったみたいだ。西野さんがすぐさまそれをとがめた。

「胸が張ったくらいどうしたというのですか。たしかに、私は摩太郎に母乳を与えることはできませんよ。でも、それ以外のことなら、どんなことだってあなた以上に摩太郎にしてあげられるのです。

 そうですよ。母乳以外なら……」

 西野さんも、そこまでしゃべって急に口を閉ざしてしまい、細い胸の中で赤ん坊をぎゅっと抱きしめた。しばらくの間、じっと動かずに、何かを考えているようだった。すると、うつむいている西野さんの顔から、涙がぽたぽたとこぼれてきた。

「私は……、真夜中に橋の上で摩太郎をあやしていた時、一瞬ですけど、この子がいなくなってしまえばなにもかも楽になる、という考えが頭をよぎりました。ですから、本当のことを言えば、私にも、あなたがした行為を非難する資格はないのです」

 そう言って、西野さんは椅子から立ち上がった。赤ん坊は抱きかかえたままだけど、顔は上げることができないでいる。西野さん自身もいっぱいいっぱいの感じだ。下を向いたまま、西野さんは花梨にそろそろと近づくと、しぼるような小さな声で、彼女へ語りかけた。

「花梨さん。あらためて、あなたに伺います。この子を幸せにしてくれますか? あなた、責任が持てますか。この私に向かってそれを約束できますか?」

 花梨は少しの間をおいて、西野さんへ目を向けた。これまでの無責任な子供の目とは違う、大人のしっかりとした目をしていた。

「はい……、絶対にお約束します」

 それを聞いても西野さんはまだ顔をあげることができずにいた。うつむいたまま、西野さんは赤ん坊を優しく差し出した。

「じゃあ……。この子はお返しします。それと、たったの一週間でしたけど、私が摩太郎に、いえ、陽翔はると君に関して気付いたことをいろいろ記したメモです。これも差し上げます。どうぞ」

 赤ん坊を西野さんから手渡しで受け取った木内花梨は、途端に涙が噴き出してきて、その場でひざまずいてしまった。日吉巡査も安心した様子で、笑いながら引き下がっていった。店から出る時も、木内家の人々は何度も頭を下げていた。


「やれやれ。摩耶ちゃん、よく決断したね。偉かったよ」

 店にいるのが僕たち四人となったところで、さりげなくマスターが西野さんに声をかけた。

「偉くなんかありません。私が育てた方があの子を幸せにできる自信は、まだ私は持っています。ある一つのことを除いては……」

「ある一つのこと?」

「母乳です。私は母乳が出せません。

 あの子のおむつの処理をしていて感じました。以前ここで初めて処理をした便のにおいと、その後の便のにおいはまるで違っていました。私は気付きました。最初の便は、私にあの子を託す時に、母親が最後に与えた母乳の便だったのだと。そして、そのあとのは、市販のミルクを飲んで出した便だったということを。

 しつけや勉強でいくら上手に育てても、肝心の健康を与えることができなければ、子供は幸せになったとは言えません。私は、医学の知識はありませんが、あの子は母乳で育てられた方が、もしかしたら幸せかもしれないと思いました。だから、たったそれだけでしたけど……、私は……、引き下がりました」

「そうだったんだねえ。偉い偉い。

 でもさあ、木内さんから名刺をいただいたよ。ご両親たちも、落ち着いたら遊びに来てください、って言っていたし、とにかく良かったじゃないか。またいつだって会いたい時に、あの子に会えるんだからさ」

 マスターが気を遣って、思い付く限りの言葉で、西野さんをなぐさめた。

「もう会いません。その名刺は捨ててください――」

 西野さんがきっぱりと断った。

「えっ、どうして?」

「あの子の母親は、花梨さん一人です。私が会いに行くことは、あの子が一瞬とはいえ、捨てられてしまった事実を、木内家に思い起こさせることとなるでしょう。そうなっては、あの子を混乱させることはあっても、利益になることは何もありません」

 そういって、西野さんは無理やり作り笑顔を装った。

「知っていますか。赤ちゃんの記憶って、三歳になると全部消えてしまうそうですよ。記憶を失うことで、そのあとで生きていくためのなんらかの必要なことを得ると言う事でしょうね。

 摩太郎が三歳になれば、私の記憶は彼の頭の中から永遠に消えてしまうんです。そして、私のことを知らないまま、彼は健やかに成長していくのです」

「だけど、それは……。だって、あれだけ可愛がっていたのだしさあ」

 未練がましく、マスターは最後まで同意しかねていた。それに応じるように、西野さんが口元を少しだけ緩ませた。

「いえ、もう大丈夫です。もう会わなくたって……。

 その方が、摩太郎にとって……。きっと、そうですよね。

 …………。

 ふええええん――」

 いかがだったでしょうか。今回の事件で、摩耶ちゃんはちょっとだけ大人に成長できたのかもしれませんね。ご意見・ご感想をお待ちいたします。


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