5.朱鷺色(le Rose)【解決編】
ラ・グルナードへ帰ってくると、マスターと乙女さんが閉店後のあと片づけをしていた。もう六時を過ぎているのか……。
「ああ、お帰り。霊力は存分に堪能できたのかな?」
マスターがさっそく声をかけてきた。
「ちっともです。今回は完全に当てが外れましたね」
即座に僕は返した。
「そうかい。摩耶ちゃん、せっかく行ってきたのに、残念だったねえ」
すかさずマスターが西野さんに声をかける。いつものルーティーンである。一方で、西野さんはというと、さっきからずっと考え込んだままの無言状態となっていた。
「だいたい、亡くなった人の念力なんかで花が成長したりするわけないじゃない?」
今回の件に関して、乙女さんは真っ向否定派である。
「いや、もしかしたら、そのお婆さんのお墓だけに何か特別な秘密が存在するのかもしれないよ。例えば、日当たりが格別に良いとか、植物の成長を促すなんらかの化学物質がなぜか近辺の空気中を漂っているとかね」
マスターはまだ未練がましく超常現象の解明にこだわっている。やがて、西野さんが沈黙を破って語り始めた。
「今晩、もう一度お墓を監視します。もちろん、アドニス君も付き合ってくれますよね。もっとも断りたくても、アドニス君に拒否権はありませんけど……」
そうなのだ。僕は西野さんにあのしりとり対戦以来、勝負じみたものをすでに三回行っており、ものの見事に三連敗中で、彼女からの命令を三つは無条件に従わなければならないのである。
「いいですよ。その代わり、命令権を一回行使ですからね」
西野さんに知力で勝負を挑んだところで勝ち目がないのは分かっているのだが、勝てた時には、西野さんに好き勝手な命令が一つできる、という魔の誘惑にいつも屈してしまい、結局勝負でも負けてしまう、というのがこれまでのパターンだ。でも、万が一勝つようなことがあれば、西野さんがものすごく恥ずかしがるような命令を、僕は容赦なく下してやる。ここまで来たら、とことん深みに嵌まるまでである。
「そういう事なら、僕も同行しようか。そうだ、ちょっと待っていて。今ならまだ間に合いそうだ。あっ、乙女ちゃん。後は頼むね」
そういって、マスターは何かを思い出したように外へ飛び出していった。
「やれやれ、会計ごまかして横領しちゃうわよ……」
残りの処理を任された乙女さんは、ふーっと大きくため息を吐いた。
しばらくすると、戸口で車のクラクションの音がした。外へ出てみると、トヨタのエンブレムが装着された黒の大きなワンボックスカーが、狭い路地を覆いつくさんばかりに立ちふさがっていた。運転席にはマスターが座って手を振っている。
「どうだい、こいつに乗ってこれから青山霊園に行こうじゃないか」
「こんな車があるなんて、初めて見ましたけど、マスター。この車をいつもどこに置いているのですか?」
僕が知る限りでは、ラ・グルナードに駐車場はない。あまりに意外だったので訊ねてみた。
「まさか。レンタカーだよ。すぐそこの店で、今借りてきたばかりさ。僕は車を持たない主義でね」
「わざわざ霊園に行くだけのために?」
僕が顔色を変えて質問すると、マスターが素っ気なく答えた。
「お金はこういう時のために使うものさ……」
青山霊園は、僕にはちょっと信じられなかったのだが、園内への車の乗り入れが可能なのだ。さすがは大都会中心地に横たわる大霊園と言ったところか。その大霊園の中央を南北に走る狭い道路を、マスターが運転するワゴン車がよろよろと進んでいった。途中で西へ折れる小道があり、そこを曲がったところでマスターは停車した。
「外は寒いから、ここから様子を観察しようよ。もしも怪奇現象が起これば、ここからでも確認できるだろうからね」
実はここからあのお婆さんのお墓が見えるのだ。もっとも夜だから、献花の様子となるとおぼろげにしか見えないのだが。
「入り口に夜間は駐車禁止と書いてありましたけど、大丈夫ですか」
「大丈夫、大丈夫。ほかに車がいるわけじゃないし、警察が近づいて来るようなことがあれば、立ち去ればいいのさ」
普段は車を運転しないマスターの発言だけに、説得力は何もない。
「もっと近くに寄らないと、ここからじゃ、花が成長する様子まではよく見えませんよね」
僕は心配になって提案をした。
「いいえ、ここで大丈夫です」
西野さんがあっさりと断言した。どうやら霊力は傍で見ていると効力が発揮されないのかもしれない。
「とはいうものの、ちょっと様子を見てきますね」
そう言って僕は車から降りると、お婆さんのお墓の前まで歩いて行った。花立てに供えられた花は、夕方見たのと相変わらずであった。時刻は七時半か。九時まではまだもう少しある。夕方の五時にはあれほどの人の往来があった都心の霊園も、さすがにこの時刻となると人影は皆無だった。とはいえ、何かの間違いで幽霊が出てきそうな雰囲気はなく、夜の落ち着いた公園といった感じではあるのだが。
車の助手席に戻ると、後部座席の西野さんが窓にピタリと顔をくっつけて、じっとお墓の様子をうかがっていた。マスターはと言うと、さほど関心が無さそうに小さくあくびをすると、腕組みをしながらこくりこくりと居眠りを始めた。
車内は無言のまま、時だけが過ぎていく。どのくらい経ったのだろう。僕はふっと時計を見ると、時刻は八時四十五分になっていた。
「あと十五分で九時ですね」
僕は小声で車内の沈黙を破った。
「そうですね。そろそろ、時刻的に……。あっ、ほら……。何か起こりそうですよ!」
ささやくような西野さんの声が後ろから返ってきた。何かが起こりそうだって?
誰かがやって来た! 暗闇ではっきりとは見えないが、明らかに人の影でお墓が隠されてしまっている。人数は一人みたいだ……。
「行ってみましょうか?」
「いえ、もう少しここで様子を見守りましょう」
その人影は、しばらくの間お墓の前で居座り、こそこそと何かをしている様子であった。辺りには人間はおろか、猫の子一匹見えない寂しげな夜の霊園である。気が付けば、時刻は午後九時をとっくに過ぎていた。
「そろそろ頃合いですかね。じゃあ、まず先にマスターを起こしてください。味方は多いに越したことはありませんから。では、車を降りましょう」
西野さんの指示の下、寝ぼけまなこのマスターをせかして、僕たちは車から降りると、お婆さんの墓地へ向かって歩いていった。近づいていくと、謎の人影はお婆さんのお墓の前に膝をついてしゃがみ込んで両手を合わせていた。しばらくじっと動かなかったが、やがて立ち上がると、うしろを振り返って歩き出したのだが、僕たち三人が後ろに立っているのに気づいて、かなり驚いた表情を見せた。その人物は、今日の夕方、僕とすれ違いざまに肩がぶつかって謝ってきた、あの背が高い男であった。
間が悪そうに肩をすくめながら、無言のまま、その男が僕たちの横を通り過ぎようとしたちょうどその時、なんと西野さんが男に声をかけたのだ。
「内倉裕斗さんですね?」
内倉裕斗って誰だろう。どこかで聞いたような名前だが。
「はい、そうです。もしかして、あなたがたはご遺族の方ですか?」
たどたどしい口調で男が返してきたのを、一歩進み出て、西野さんが付け足した。
「いえ、私たちは小野田家とは今日知り合いになったばかりで、特別な関係はありません。でも、せっかくですから、少しだけお話できませんか?」
思い出した。内倉裕斗は七年前にお婆さんこと、小野田洋子をひき逃げした犯人として報道されていた人物の名前である。マスコミ報道によれば、かなり身勝手で、遺族への謝罪は一切しなかったということだから、今ここで出くわして物怖じしているのがその犯人と同一人物だとは、とても思えなかった。
「今から七年前のことです。ご承知の通り、ここで眠っておられる小野田洋子さんを、私は自動車でひき殺してしまいました。私は持病を持っておりまして、運転中に意識を失ってしまったのです。気が付くと、救急車と警察が取り囲んでいました。私はすぐに逮捕され、警察署へ連行されて職務質問を受けました。私はその時、自分がとんでもないことをしでかしたことは重々理解しておりましたが、当時雇われていた会社を首にされてしまうことを恐れ、とっさに、意識を失ったのは今回が初めてであると嘘の証言をいたしました。実際は、少なくとも三回はそれまでに意識を失ったことがあるにもかかわらずです」
内倉と名乗った男はさらに話を続けた。
「私は本当に小さい人間です。事故後の裁判で実刑判決を受けてからでも、考えることは自分は悪くないという言い訳ばかりで、自らの罪を決して認めようとはしなかったのです。
しかし、刑務所で生活を始めて一年が過ぎようとした冬のことでした。その頃になると、少しは心に余裕ができたのでしょうかね。私は自分がある重要なことを知らない事実にようやく気付いたのです。本当にお恥ずかしくて情けない限りです。私は、あやめてしまった小野田洋子さんのお顔を、その時、まだ存じ上げていなかったのです――」
そう語った内倉裕斗は、ふいに両手で顔を覆った。押さえていた感情が一気に込み上げてきたのかもしれない。
「申し訳ありません。ちょっと取り乱したみたいです。
それから私は職員に頼み込んで、事故後当時の新聞に掲載された被害者の顔写真のコピーを見せてもらいました。そこで初めて、私は小野田洋子さんのお顔を拝見しました。とてもやさしそうなお顔でした。あの時私が車を運転していなければ、今でもお元気で過ごされていたでしょうに。ここへ来てようやく、私は自分がしでかした事件の罪深さを痛感できたのです。
それからは自責の念に駆られ、眠れない夜も何度か過ごしました。さいわいにも刑務所での行いが良かったのでしょうか、私は三年と三か月で出所することができました。すぐさまその足で、ご遺族の方へ謝りにうかがおうと思ったのですが、果たして、私の顔を見てご遺族の方々がどのように感じられるでしょうか。不愉快極まりないことは間違いないでしょう。今さら謝ったところで、返ってご遺族の方々たちを傷つけてしまうだけかもしれません。結局、私は謝罪する勇気すら持てずに、今日まで来てしまいました。
せめて、洋子さんのご命日にお墓詣りだけでも、と思いまして、私は三年前の三月三日にここ青山霊園までやってきました。出所時に場所を教えていただいたので、洋子さんのお墓はすぐに見つかりました。私はすぐその場で弔いをさせていただこうと思いましたが、なにしろご命日ですから、私がお祈りをしている最中にご遺族がやって来てばったりと出くわす恐れはありました。うっかりお線香を立てたりすれば、私が立ち去った後で、やって来たご遺族がその燃えさしを見て、混乱したり、迷惑がったりはしないだろうか。そう考えると、線香の一つすら立てられません。私は途方に暮れました。その時に私の目に留まったのが、花立てに飾られたきれいなお花でした。
どうして今まで気づかなかったのでしょう。そうです。まだ新しいお花が花立てに飾られているということは、おそらくつい最近、ご遺族によるお花のお供えがあったということでしょう。
その時、あるアイディアが私の脳裏にひらめきました。そうだ。線香ではなく、花で弔えば良いのだ。お花を供えることで、私なりの供養をさせていただこう。
それから私は、お供えのお花の中に私の想いを込めたお花をこっそり加えさせていただくことで、毎年、小野田洋子さんにお詫びをしております。飾られているお花と同じ花を供えれば、多少分量が増えたところで、それを見た人が気分を害されることはなかろうと、勝手ながら考えました。程なく、洋子さんのご主人が、いつもご命日の数日前にお墓参りを済まされていることや、霊園入り口の花屋でお花を購入されていることも分かりました。たとえご命日とはいえ、夜となればさすがにご遺族がお墓参りされることはないでしょう。私はこの時を狙って、ひそかに供養をすることにいたしました。
あらかじめ、昼のあいだに一度お墓を訪れておいて、飾られた花を確認します。それから花屋へ行って、墓に供えられていた花と同じものを購入します。そして、夜になってからお墓へ出向き、花立てにほんの気持ちばかりのお花を加えさせていただくのです」
内倉の話はまだ続いていたのだが、分かってしまえば、亡くなったお婆さんの発する奇怪な霊力の正体は、実に単純であっけないことであった。
内倉裕斗はそのあと帰宅した。別れ際に、赤の他人である僕たちに何度も何度も頭を下げ続けていたのが印象的だった。その姿がやっと見えなくなった時、僕はマスターにそっと問いかけてみた。
「今回の結末は、小野田さんに報告しますか?」
マスターが首を振った。
「その必要はないよ。黙っていればすべてが丸く収まるのだから。そういう時ってさ、得てして黙っている方がいいものなのさ」
僕は西野さんにも目をやった。
「西野さんは、それでよろしいですか?」
顔をプイっとそむけつつも返された西野さんの言葉は、意外にも、僕が望んでいた通りのものだった。
「私は謎さえ解ければそれで満足です。そもそも他人の行動になんて、ぜんぜん興味ありませんし……」
最後に摩耶ちゃんが発した一言は、たぶん照れ隠しからでしょうね。




