ネオマヤン
シカンが、井崎と待ち合わせをした場所は病院だった。病棟の一階の待合室の裏側で、人の出入りはほとんどなかった。井崎は時間通りに来た。シカンはその十分前にはいた。
「二人で話すのは、いつ、以来でしょうか。Lさんの葬儀以来かな」
井崎は夏なのに冷たい空気が漂うこの場所に、早くも落ち着かない様子を見せた。
「いい結婚式でしたね」
シカンはまったく動じることなく話し続けた。
「なあ、どこかで、お茶を飲もうよ」
「井崎さん、ここは、半年前、Lさんの死体が安置されていた場所ですよ」
「知ってる」
「どうして、今日、ここにあなたを連れてきたと思います?」
井崎は答えなかった。
「Lさんの著作は、もうすぐ出版されるんですよね。あ、そうだ。北川さん。Lムワさんの元奥さんの。最近は、ぴたりと、スキャンダラスな記事も消えてしまいましたね。井崎さんでしょ。あなたが、消したんでしょ。さすがですね」
シカンは一人でぺらぺらと、しゃべり続けた。
井崎はだんだんと、苛立ちが隠しきれなくなった様子で、靴の先を床に押し付けていた。
「ねえ、僕がどうして、ここにいると思います?実は、ここの医者のところに通っているんですよ。誰にも言ってませんが。その、体に問題があるんですよ、僕。井崎さんにも、その中身までは教えられませんが、結構ひどくて。やばいんです。致命傷ではないと思うんだけど。外傷じゃないですよ。いろいろと、ストレスを抱え込んでいるみたいなんですよ。こう見えて、繊細なのかな。医者は過労だって、言ってましたけど、過労なはずがないじゃないですか!あの野暮医者。薬ばっかりだしやがって。その、つまりは、僕はここの患者なんです。今さっきまで、診察してもらっていたんですよ。また、今朝に、悪い症状が出てしまいまして。でも、どうして、こうやってあなたを呼び出したのか。そうです、それを言わなければならないです。あなたは、もうすでに、苛立ちは限界にきているようだから。すみません。僕の通院に合わせて、こんな場所まで来てもらって。でも、ここは、Lさんの、元安置所ですよ。そこのところは、お忘れなく。僕らはいろんな意味で、繋がっているんです。そういえば、僕がだんだんと、体調に問題を抱えるようになったのは、Lムワさんが死んでしまったときからなんですよ。それまでももちろん、潜在的にはいろいろと抱え込んでいたのだろうけど、Lムワさんが焼死したって、そのときから、どんどんと僕の身体の表面上には、いろいろな現象として、まとわりつくことになった。それは確かなことです。
あなたも、Lムワさんのこと以来、何か変わったことはありませんか?
僕はあの出来事が、すべての象徴だと思うんですよ。今までベールに覆われていた事実が、どんどんと明るみになってきていると思う。どうです?どうして、そんなに無口なんですか?僕はしゃべりすぎですか?それなら、止めてくださいよ。僕は病気ですか?止めてください。あなたしかいないんです。僕の暴走を止められるのは。医者でもない。薬でもない。そう、あなたなんです。そういえば、万理さんは、最近はお元気ですか?すっかりと、連絡がとれなくなってしまって。その、僕、たまに、万理さんと会って話がしたいんですよ。でも、最近は、全然電話に出てくれなくなって。彼女の仕事のスケージュルを、確認したいんですけど、どうも、公式ホームページを見ても、何だか、いまひとつ最近の活動状況がわからない。いつからだろう。S・Gって映画の公開は、もうしたんでしたっけ?その前後から、どうも、活動が鮮明ではなくなってしまった。井崎さんってば!こんなところで話すのは、申し訳ないって、さっきから言ってるじゃないですか!その、今は、外には出ていけないんです。あと、十分くらいで、薬が処方されるんです。会計もすませないと」
どうして、こんな所に、のこのこと来てしまったのか。井崎は心の中で呟いた。
誰かと話したかったのは確かだった。相手は誰でもよかったが、できることなら知り合いの男がよかった。気兼ねなく、しゃべれる男がよかった。たまたまそのタイミングで、電話がかかってきたのがシカンだった。即答した。場所も、時間も、すべてシカンに任せた。まさかこんなところに呼び出されるとは、思ってもみなかった。
「お前、働きすぎじゃないのか?」
井崎は、シカンの顔を初めて凝視した。
「ずいぶんと、白い顔だぞ。艶が悪い」
「働き過ぎ?」
シカンはきょとんとした表情になった。「そんなはずはないですよ。むしろ、働き足らないくらいです。というかね、井崎さん。僕、先週から、休暇をとってるんですよ。井崎さんの言うとおり、そうです。過労気味だと思ったんです。だから、少し抜こうと思って。そしたら、この様ですよ。あははは。これはね、休暇をとったことで起こった、体のアンバランス状態なんです。魔が差したんです。これは。あなたの認識は間違っている。仕事に復帰すれば、そこでまたこの症状は治まる。病院に来るのも、薬を処方されるのも、全然、筋違いなんですよ!僕もね、他の人の意見というものに、多少、耳を傾けてみたんです。確かにやりすぎてるなって。だから少し緩やかにしようかなって。あなたも同じことを言う。それで実践してみたんです。それが、この様ですよ。なんだか、気持ちも落ちてきてしまって。これなら、いくつもの仕事をかけもちして、同時にいろんなことを作業しているほうが、全然よかった。僕に休暇は向かない。一般的な意味での。それがはっきりとわかった。それだけは今回の収穫です。でも休暇が明けるまでは、僕も何とか持ち直さないといけない。だからこうやって、来たくもない病院通いなんて続けているんです。それでもやっぱり、束の間の気分転換は必要だ。で、万理を呼び出そうとしたのだけど、まったく反応がない。万理さんがいないから、僕はうまく気分転換することが、困難になり始めた。そこに隙が生まれたんです。他のいろんな人の意見に耳を傾けてしまった。働き過ぎだ。過労だっていう一般的な見解に、与してしまった。違うんですよ」
「それで、俺に、万理のことを?一体、どうしろと?」
「僕、知ってるんですよ」シカンの声のトーンが少し落ちた。「あなたと万理がデキていることを。別の女性と結婚したものの、万理とは切れてはいない。ねえ、万理は、今、何をやってるんですか?どうして僕と、連絡がとれなくなってしまったんですか?」
シカンは、井崎に縋り付くような声を一瞬出した。
「いや、申し訳ない。取り乱してしまった。いや、何も、あなたを否定しているわけじゃない。結婚したって、別の女性と付き合っていて、全然構わない。それが万理さんだったとしても、全然・・・。けれど、だからといって、万理さんを束縛してもらいたくはないですね。あなたが結婚したように、万理さんだって、誰かと結婚することはありえる。あなたはそれを止めるべきではない。そうでしょ?」
井崎は、靴の先を床に擦りつけるのをやめた。
「万理のことは知らん。行方不明だそうだよ。一度、事務所に確認した。それで、後日わかったのは、事務所の社長であるセトという男も、どうもスタッフと連絡がとれなくなっているみたいだ。これは、誰も、知らないことだ」
「あなたも、万理に連絡を?」
「一度だけだ。そういえば、ふと思ったんだが、お前、さっき、Lの話をしてただろ。それで、北川裕美、万理・・・と続いたら、・・驚きだな。俺とお前は、ほとんど繋がってるじゃないか!全部、お前が関わってきた人間たちだよ。お前がきっかけとなって、こっちに流れてきたやつばかりだ。お前が発見して、見い出して、そして覚醒させて、それで俺のところに流れついてきている。うんっ、待てよ。俺の役割・・・そうだ。見い出すのは、俺じゃない。しかしある意味、羽ばたかせたのは俺だ。そうだよな。万理のことも、北川裕美のことも、今度はLじゃないか。もっとも、L本人は、存在しないし、この著書たちは膨大で、これを羽ばたかせるのは、ちょっとばかし、難儀だ。でも、全部、お前から流れてきた、流れてきたって言葉はよくないか。お前がきっかけで、そのあとで、俺が引き継いだみたいな形になっている。今、気がついた」
「僕は、ちょっと前から知ってましたよ。だから僕は万理も、すでにあなたの手に渡ってしまったと、何度も諦めようとした。でも、彼女に対する想いは消えるどころか、どんどんと増していくばかりです。あなたを憎んだこともありました。すいません。ただ、どうして、今度は、Lさんのことはスムーズにいかないんですか?はやく、リリースしてくださいよ。井崎さん!あなたは何を待っているんですか。それとも、止められてるんですか?脅されてるんですか?障害物が何かある。それとも怯えてるんですか?あなたの所が滞っているから、こうして僕にも、悪い症状が出てきているんだ。すいません、あなたのせいにするつもりはないけれど、それでも、僕らは繋がりがあるんですから。さっきの話のとおりに」
「なあ、シカン。それに関しては、本当にすまないと思っている」
「えっ?」
井崎は、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべた。そして、白い長椅子に腰かけた。しかし埃まみれであることに気づいて、すぐに立ちあがる。
「あなたの所で、滞っているんですよ!」
「どうすることも、できないんだよ」小さな声で井崎は言った。「お前の方が、先に、突破しないといけないことがあるんじゃないのか?それが俺の方にも影響してる。それはわからない。だから、そんなことで、罵り合うのはやめよう。それぞれ自分のせいなんだ」
「そうですけど」シカンは口ごもった。しかし、仕切り直すかのように唾を飲んでから、しゃべり始めた。「これだけ、関係性が深いんです。無視はできない」
井崎は俯いた。それから天を仰いだ。
シカンはその様子を、ずっと静かに見ていた。数分が過ぎた頃、ようやく井崎は何かを思いついたように口を開く。
「お前の所が、第一弾で、俺の所が、第二弾と考えると」
シカンは相槌を打った。「ええ」
「もうすでに、万理と北川裕美は、第三段階に入っている」
「どういう意味ですか?」
「もうすでに、俺の手からは、離れてしまったということだ。万理の行方は分からず、北川裕美は、まあ、もともとそうだったが、ほとんど俺の存在とは関係のない所で、俺の影響力なんて及ばないところで生きている。もっと言ってしまえば、Lムワ。あいつもそうだ。次の段階に、旅立ってしまった。俺はふと思う。俺は誰か生きている人間、その本人を、世の中に力強く羽ばたかせる能力があるんじゃないか。死んだ人間の、遺していった著書に、羽をくっつけ、それで、ほいって空に放り投げたとしても、あっというまに墜落してしまうんじゃないのか」
「恐れているんですね」
「ああ、正直に言うと」
「誰かに、脅されているわけではないんですね」
「ああ、そうだ」
「安心しました。いや、たとえ、誰かに圧力をかけたれていたとしても、全然構わないですけど。結局は、あなた自身の問題だから。それをさらに辿れば、僕の問題にもなる。あなたの言ったとおりだ。Lムワの著書が次の段階に行かないのは、僕のせいだ。僕が何かを恐れているからだ。今、はっきりとわかりました。確かにそうだ。僕が恐れていること・・・。ありすぎる!エリア151のことが筆頭かもしれない。あとは万理に対する恐れもあるし。仕事に対する恐れは・・・、それだけは、ないか。でも、いつオファーがなくなるのか、こればっかりはわからない。そう考えれば、すべてのことに臆病になる。あとは・・・。あの、その、Lさんは、まだ死んでないと思ってるんですよ。たぶん僕だけでしょうけど。最初はそうは思わなかったですけど。だってそうでしょ。あなたと一緒に葬儀にも参列したし、埋葬された墓地にも行った。Lさんが生きていたとしても、どこでどんな生活をしているのか。想像すらできません」
「お前、ずいぶんと怖いことを言うな」
「僕はね、Lさんを助けようとしていたんです。奥さんの北川裕美に、絵を描いたらどうかと、提案したのは僕です。それは、Lさんを助けたかったからだと、僕は最近になって認識したんです。北川裕美を思ってのことじゃない。Lさんのことを思ってのことです。Lさんから、彼女を引き離したかったからなんです。もうこれ以上、あの二人が一緒にいれば、Lさんは完全に駄目にされてしまう。Lさんは、北川裕美の内部の深淵に、最も近づいた人です。彼は自ら入っていったんです。彼女のマグマに。そのマグマを愛していた。八年ものあいだ、彼は北川裕美を見つめ続けた。しかしついに、本当に生存が危ないところまで行ってしまった。彼は助けがほしかったんです。その助けを求める声に、僕がまず引き寄せられた。次はあなたでした。あなたと僕は、Lさんを助けるために繋がった、相似形みたいなものです。僕が、Lさん本人を、そしてあなたが、Lさんの作品群を、それぞれ受け持つことになった。ところが寸でのところで、破滅への火事が立ち上がってしまった。Lさんは煙に巻かれたことになっている。でも、僕は間一髪で、逃げ延びたんじゃないかと。僕の感性は、そう捉え始めました。その想いは今も膨張している。それは悦びでもあると同時に、一種の恐怖にもなっている。あなたもそうなんでしょう。Lさんが生きているなんて、これっぽっちも、思ってないでしょうけど、それでも、心の奥底では違う。Lムワは、まだ生きている。それを遺作として、自分が打ち出していいものかどうか、迷いがあるんです。次の段階に、すべてを託すことができないでいる。さっきも言ったように、これは僕の責任だ。僕の恐怖心が、あなたにも伝染してしまっている。あなたをこうして呼び出すのは、お門違いだった。僕は、最近、こう思っていたんですよ。その、誰かのために何かがしたいとか、誰かと一緒にみんなで楽しいことがしたいとか。そういう愛を求めていたんです。でも、それは間違っていた。それは甘えだった。一種の逃避だった。自分ひとりでやることから、逃げるためのね。自分に負けることを暗に意味していた。その負けを認めないために、誰かのためだとか、みんなでとか、そういった発想で誤魔化そうとしていた。・・・挙句の果てに、あなたにまで、責任を転化させようとした。最低の男だ」
井崎の顔は、穏やかになっていった。一度も頷くことはなかったが、深く何かを納得しているような表情に、シカンには思えてきた。その様子を見ていると、こうして自分の我儘で呼び出した身勝手さではあったが、結果的には功を奏したようだった。
「ところでさ、今日、俺がここに来たのは、何も、こんな古めかしい病棟だと知っていたからじゃない。不思議なこともあるもんだ。ここの表、そう、向こう側。表と裏が合わさって、このビルは一つの存在になっている。ここが裏だとすると、あっちが、表。あとで行ってみろよ。俺は、そこに呼び出されたものだと思ってたんだ。前から気になっている建物だった。だから、こうやって、ノコノコ出てきた。ところが、案内された場所は、全くの逆だった。裏にこんな病棟があったとは。もちろん、こっちが、先に建っていたのだろうが、何もあんなに近代的で、豪華な建物を、こうしてぴったりと背中合わせに建てることもないだろう、なあ、そうだろ。どうして、ここまで寄り添うように、いや、ほとんど、くっついてるじゃないか!何もわざわざ、なあ、そうだよな、シカン。本当に後で見にいけよ。あれ、もう知ってた?」
シカンは、首を横に振った。
「そうだよな。確かに、内部で繋がっているわけじゃない。外に出てすぐに覗くこともできない。でも、確かに、住所は一緒だ。同じ敷地の中に建てられている。まあ、ぐるりと回れば辿りつける。何か噂では細菌の研究所だとか。重傷を負った人間のリハビリ施設だとか言う人もいて、実体はよく分からない。中に入ることはできないだろうが、外観は見られるから。な。それじゃあ」
井崎は去っていった。
シカンは取り残された待合室から、病院内の薬局のある場所へと移動した。他に患者の姿はなかった。しかしシカンは、薬局には寄ることなく、そのまま通過した。会計を済ませると、建物の外に出て、ぐるりと逆側へと周るために歩きだした。
雪が降り始めているかのように、街は真っ白に染まっていた。だが、体は少しも寒さを感じなかった。半袖を着ている。季節は夏だった。しかし空からは、舞い落ちてくるものがあった。あっというまに、豪雪地帯のような雰囲気に変った。ユトリロの絵の中に入り込んでしまったかのように、建物は白く、空も白かった。建物も乗り物も、すべて白い。視界だけが、冬に染まってしまい、皮膚の感覚は夏そのものだった。じとじとと湿気のある空気が皮膚の表面を覆い、ほんの少し汗ばんでいた。だがふと井崎の言っていた建物の存在を感じた。そのビルだけが白く染まってなかった。黒い外観には大きな窓が無数に付いていて、中からは淡い電灯とは違う明かりがともされている。
一階に目を移したが、エントランスらしきものは見当たらない。オフィスなのか住居なのか見当がつかない。看板も表札も出ていない。井崎の言うとおり、研究所のような感じもすれば、リハビリ施設のように見えなくもなかった。映画館や美術館のようにも見えるし、役所のようにも見える。
ふと、入り口は屋上にあるとか、そんな特異な位置にあるのではないかとシカンは思った。この建物が発する雰囲気は只ならなかった。一階に入口があるという発想を完全にあざ笑うかのような佇まいだった。ここは普通に車や徒歩で入場できる場所じゃない。上から入るに違いない。何か、飛行できる乗り物で近づき、そしてヘリポートのようになっている屋上へと着陸して、そこから中に入る。そういう建物のような気がした。上空からこの建物を見てみたいと、シカンは思った。そうすれば、ここの敷地にどんな形の建物が立っているのかがわかる。おかしな図形を描いているのかもしれない。仕掛けはすべて、上から見ることなしには解明することはない。
こうして地上から見上げているだけでは、この建物は何も答えてはくれない。
シカンは、建物の外観を目に焼き付けながら、踵を返した。
その外観は鉄筋のようではあったが、もしかすると、すべて木造ではないかとも思った。
病院に通うのも今日でやめだとシカンは思った。薬は飲まない。仕事に復帰する。人から過労だと言われようが、そんなことは関係ない。暇をとれだとか、休みを設けろだとか、そういう言葉の嵐を、俺は真に受けてしまった。自分の感じ方はそうではなかった。それを信じ続ければよかった。自分には自分のやり方があった。今までと同じように複数の仕事を引き受け、同時進行させることで、すべてを終結へと持っていく。一つ一つ集中してやるとか、休暇をとるとか、時間に余裕をもたすとか、そういうことはせずに。
エリアが、今も存在しているという恐怖。そのエリアの職員から、自分が狙われているのではないかという不安。さらにはLムワはまだ生きているのではないかという奇妙な感覚。すべてを受け入れ、同時にオファーされる仕事を引き受け、その、ある種のカオス状態の中に生きること。それが俺にとって、今を生きるということだった。誰が否定してもそれが自分そのものだった。そして、そうすることで、日々にリズムも生まれていた。その刻まれるリズムに合わせることで、俺はそのカオスの先にある世界を目指し、走りだすことができる。それこそが、俺にとっての、最大の癒しだった。
新月と満月の解釈は少しだけ曲解してしまっていた。
古い世界が満ちる時、それは形やシステムを維持することではなく、それに固執することではなく、それまでの仕事の軸を貫くことなのだということを。そして、それ以外のことは、すべて解放し、あたらしい流れに身を任す。それが新月の到来のことだった。
少し誤解し始めていたことが、井崎に会ったことで修正された。
GIAは雲間から地上へと下降していた。
しかし視界はいっこうに晴れてはこない。
いつまでも白いままだ。
地上は霧が出ているようだった。
湿気が高かった。
GIAは今世界が「冬至の儀」を通過していることを知っていた。
その時間帯を狙って地上に下降していた。
その間、世界に、地面の存在はなくなった。
建物はすべて宙に浮いている。
車の存在はなく、GIAは濃い霧の中、
ヘリコプターのようなものとすれ違うことがあった。
プロペラの音は煩かった。
GIAは無音であった。
相手から気づかれることはほとんどなかったため、
自らが寸前で避けなければならなかった。
へリコプターが発着する停留所のようなものが、無数に存在していた。
そこも宙に浮いていた。
すれ違うヘリコプターは、その停留所に漏れなく入っていった。
GIAは、その様子を横目に、さらに今はなき、地上へと、下降を続けた。
もうすぐ、「ゼロ湖」に近づくはずだった。
「ゼロ湖」は、この「冬至の儀」と共に出現する、いわば、「冬至の儀」の象徴的なものだった。
「ゼロ湖」は縦に長く太い、柱のような大木のような円柱の空間であって、(正確に言うと、直方体なのだが、肉眼ではそうには見えない)その空間が現れるのだった。
人々は、(地上をなくした世界にあっては、宙に浮く乗り物でなければ、移動できなかったが)、その「ゼロ空間」に近づくことはなかった。
近づけないこともなかったが、人々はこぞって、その空間を避けた。
むしろ、人が避けたからこそ、何も存在しない空間が、出現したといったほうが、正確かもしれなかった。
どちらが卵で、鶏なのかは、わからなかった。
とにかく、「ゼロ湖」は、出現した。
一日に、二度。朝と夕方だったが、
そのあいだも、白い闇に包まれているため、
時間の感覚を視界で、判断することはできそうにない。
太陽の存在はなく、かといって、漆黒の闇が訪れるわけでもない。
「冬至の儀」が、どれほど続くものなのかもわからない。
GIAは、その空間が確実に現れたことを、確認する目的で、やってきた。
「ゼロ湖」に近づいたヘリコプターのプロペラが、異常に加速していく様子を見ると、やはり、現実的には近づけないのだろうか。
しかし、GIAは、そのような情報の持ち合わせはなかった。
そのような警告も出てなかった。
むしろ、「ゼロ湖」の中に入ることは、重要なことであるという認識だった。
一日に二度現れるその空間の中に入り、その喪失と共に世界に戻ることで、特別な意識を獲得し、その世界を生きることができるようになるという。
それに、こうして、太陽の存在を失っている時間帯だった。
湖を時間のサイクルとして、あらたなに体感する以外には、世界の規律は失われたままになる。
「湖」と呼んだが、水が入っているわけでもなく、特別目に見えて、物質があるわけではなかった。
ただ、ヘリコプターのプロペラが加速することから、気圧の変化はかなりある。
台風の眼と一緒で、中央に入ってしまえば、特に問題はなくなる。
GIAは、その内部に入る試みを開始した。
確かに圧力は強かった。
押し戻される感覚があった。
それでも、強引に入ることをやめ、しばらくその淵でじっとしていると、次第にその気圧の差に対する違和感は消える。
そう思った瞬間、機体は、中央にぐっと引き寄せられる。
まるで、磁力が発生しているように。
しかしこれが、プロペラ機となると、現実的に内部に入ることは可能なのだろうか。
おそらく、可能だろう。
プロペラを止めるタイミングさえ、間違えなければ。
あとは、この「湖」そのものが、誘導してくれる。
GIAは、内部に留まり、「ゼロ湖」が消滅するのを待つ。
出現する前、あらかじめこの場所にいて、「ゼロ湖」に変化するのを、静かに待っているほうが、合理的かもしれなかった。
「ゼロ湖」が現れ、「ゼロ湖」が消滅するまで、少しも動かないようにする。
出現した後に、やってきた場合には、プロペラを止め、中へと吸い込まれてしまえばいい。
何度か繰り返せば、慣れる。
GIAの偵察は、はやくも、終盤に差し掛かっていた。
その存在が、最も濃くなる瞬間は、通過した。
GIAにも、そのことがわかった。
機体そのものの粒子が、とても細かく認識することができた。
無数の粒子が静かに蠢きあっているのがわかる。
普段なら、大雑把に、自らの機体を確認できる程度だったが、このときは違った。
その細胞が、それぞれ自らの意志を持ち、分断して、GIAからは離れてしまうような感覚もおぼえた。
分解されると思った、その瞬間、同時に何か自分を超えた大きな存在が、機体全体を包みこんでいる気がして、安心感も同時に抱く。
その、同時に感じた異方向性が、「ゼロ湖」体感のピークだった。
次第に細胞はまた粗くなっていった。全体として、のっぺりとした感覚を蘇らせていた。
包まれている感覚も、低下していった。それでも、その、ピークの感触は残り続けた。
「ゼロ湖」は消滅する。
霧と停留所と、それぞれが浮かんだ、高層の建物が、現れる。
そこだけが、周りと著しく異なる。
円柱型の透明な空間は、拡散して消える。
二度目の刻を待たねばならない。
だいたい、この場所にいつも出現するのだろうか。
それを確認しないといけない。
GIAは、それまで時間を潰すことになった。
少し、「冬至の儀」の帯に入っている世界を、観察しておくのも、悪くはなさそうだと
思った。
誰も、人間を乗せてはいないGIAは、
空車のまま、しばらく、遊泳することになる。
その女性に会ったとき、私はかつて、何度か、彼女を見たことがあり、特別の想いを抱
いていたことを自覚しました。
インドの修行僧時代のことです。
私は若い時分から、世俗とは距離を保ち、意識の覚醒を目指して、仲間と共に街の寺院
と山奥とを、行ったり来たりする生活をしていました。
その女性は、大学生でした。
彼女は、その年で卒業する予定のようでした。
卒業後の仕事も決まっているようでした。
付き合ってる男性も、いたようです。
私は何度か見たことがあった。
彼女はとても眩しく見えましたが、その一見華やかな外見の中には、いつもほんの少し
だけ、寂しさが映りこんでいるときがありました。
彼女は何不自由のない生活を送っているようでしたが、心のどこかには、今とは違う自
分の姿に想いを馳せているようでした。
彼女自身も、その湧き上がってくる気持ちの根源が、まったくわからなく、困っている
ようでした。
彼女は、寺院の傍のレストランで、ウエイターのアルバイトをしていました。
私はレストランの前を通るときに、彼女の姿を見ました。
彼女が出勤してくる日も知っていました。
私はレストランに入ることはありませんでしたが、彼女とは何度も、すれ違う機会があ
ったため、目と目が合うことがありました。
軽く会釈をする仲にはなっていました。
会話をすることはありませんでしたが、彼女もまた、私のことが少しだけ気になってい
たに違いありません。
若い身でありながら、汚らしい恰好で、働きもせず、怪しい修行を繰り返している自分
に、少し興味を抱いているようでもありました。
この人には、あまり関わらないほうがいい。
そういった態度は、感じられませんでした。
むしろ、私と、話がしたい。
何か、話をする必要が、あるんじゃないか。
今後、怒涛のごとく、人生が進んでいく前に、私という人間に興味があったのか、修行僧という抽象的なものに、興味があったのかはわかりません。
しかし、他にも、たくさんの修行僧が、この界隈にはいたので、その両方の気持ちが、彼女にはあったのだと推測します。
私は、私で、この自分の中途半端な身を案じ、彼女に気安く声をかけられるはずもありませんでした。
そのようにして、我々は、ずっと、目を合わせてはすぐに逸らし、そそくさとすれ
違うという生活を繰り返しました。
しかし、私の胸の中は、締め付けられる想いでいっぱいでした。
何故、彼女に、惹きつけられるのか。
私は、修行僧の身ではありましたが、結婚を考えている女性がいました。
彼女とは、寺院に入る前に知り合いました。
私が身勝手に寺院に入ったあとも、数か月おきに、彼女の家に泊まり、愛を育むということを繰り返してきました。
しかし、彼女のほうも、私との将来を不安に思い、何度も別れようと言ってきました。
けれど、何度、そういう事態に陥っても、再び私たちは、恋人の関係へと戻っているのです。
私の修行は、いったい、どこに、辿りつくことになるのでしょう。
彼女との生活は、これから成立していくのでしょうか。
すべてが不確定なままに、さらには、別の女性に、新たな恋心にも似た、気持ちを抱いている。
絶望的な状況でした。
事態は何も動きはしない。
動かせない。
レストランで働く大学生の彼女の風貌は、とてもエキゾチックでセクシーでした。
眼はとても大きかったのですが、それに比べて、眼光はいまいち、強くはなかった。
それでもそれは、本来の彼女のエネルギーが何かに遮られているために、そうなっているのであり、きっかけさえあれば、開ききるのだと、私は何故か確信していました。
かつては、華々しく開いていたのであって、今世に限っては、生まれたときから、ずっと閉じてしまっている。
その開く機会を、彼女は、待っているのだと、私にはそう思えました。
それがあの、ふとした時の、淋しい表情に繋がっている。
私は、強烈な葛藤に襲われました。
修行僧としてのレベルを体得し、寺院を出て、社会的な存在とし生き、生計を立てていく。
結婚をする。
しかし、そういった状況には、今はなっていない。
あの女性と話すきっかけがない。
何と、無為に時間は過ぎていくことでしょう。
私は何か行動を起こさないといけない。
どうしたよいのか。
一年は、すでに、後半戦に入りかけている。
あと半年で、エキゾチックな風貌の彼女は、卒業していなくなってしまう。
レストランはやめ、新しい仕事の地へと、旅立っていってしまう。
その行き先は、当然、私にはわからない。
それ以降、会わなくなる。
私は、その頃までに、自分が目指していたステージへと到達し、寺院を出て、社会人としての仕事を、持つことができるようになるのでしょうか。
あの女性。
そう、彼女は、エジプト時代においては、有名なマッサージ師でありました。
魅力的な風貌は、男性の人気を、独り占めにしていました。
時の王、ファラオも、彼女を、大変気にいっていました。
そのおかげで、彼女は邪な心を持って、近づいてくる男に、煩わされることはなかった。
彼女は、マッサージの技術においては、高度なものを持っていながら、その風貌を生かし、あらゆる祭りや宗教行事においては、人前で踊ったり、歌をうたったりしていました
芸能の女神のように振舞い、世の男たちは皆、彼女に憧れていました。
そのとき、私は神官として、宮殿に仕えていたので、彼女が踊る姿。彼女が、舞台に立つ姿を、この目ではっきりと見ていました。
淋しげな表情など、少しもしてなかった。
しかし、彼女は結婚することなく、年齢を重ねていくことになった。
ファラオという存在が、無言の鉄壁となり、彼女を外界から保護をしていた。
誰も、彼女に近づくことができなかった。
王の愛人であるという噂もあった。
真実はわからない。
私も彼女に憧れていました。
その時代は、物質的な豊かさ、華やかさが、最高潮の時期を迎え、誰もが、その優雅さの中で、美の祝福を讃えたものでした。
彼女は、その象徴的な存在だった。
権力者が、主に彼女のマッサージを受ける恩恵に預かっていました。
しかし、こうして芸能の女神として、表舞台に現れるときは、多くの男に対して開かれているわけであり、その美しい光を、私も享受していました。
もちろん、彼女と言葉を交わす機会もなければ、彼女が誰かと会話をしている姿も、見ることはなかった。
その謎めいた部分が、見るものをさらに惹きつける効果を、助長させていた。
私は、彼女の夜の姿を想像し、深く嫉妬もしていました。
あの彼女だって、夜は、普通の女になる。
ファラオの愛人なのか、上級神官の中の誰かが、特定のパートナ―なのかはわからない。
しかし、彼女は、女になっている。
そう思うと、私は、夜も眠れなくなるほど、愛おしい気持ちになりました。
もう、だいぶん以前に、私は去勢をしていました。
冬至の儀に入ったことが伝えられる。
それと、同時に、私は一人の女性と出会う。
出会ったというよりは、その女性はニュースキャスターだった。
冬至の儀の臨時ニュースが流れたとき、そこには、今まで見たことのない新しい女性のアナウンサーの姿があった。
その女性を見たとき、私の心は、強烈に反応を示した。
この女性は、知っているかもしれない。
そして、そんなことはありえなかったが、画面越しに、彼女と目が完全に会ったような気がした。
冬至の儀の報告は、すぐに終わった。
それが、どんな現象をもたらすのか。
何か気をつけなければならない警告のようなことも、全く出なかった。
ニュース速報は、別の話題に、移っていた。
軍用機のGIAが、民間用の飛行体として、払い下げられてから約二年。
一般市民向けに、このたび、発売することになったというのだ。
GIAは、ヘリコプターと、飛行機を合体させたものに、さらには、海上においても、船として機能し、深くて、長時間の使用は無理だったが、潜水艦の機能も備えている飛行体だった。
さらなる、開発の進化は、地上を走る車としての機能も備え、ミサイルなどを搭載した防水仕様の総合軍用機としての、最終形を目指していた。
すべての任務を、一台の車で網羅するというのが、コンセプトだった。
そうなれば、空母も補給艦も存在する必要がなく、機体別に、乗組員を要請する必要もなくなる。
一人で、任務のすべてをこなせるようになる。
だが、その計画は、頓挫する。
軍は、何故か、その最終形としての軍用機の計画を嫌い、それ以上の進化を許すことがなかった。
政府も、同じ見解だった。
そこで、技術が停滞することを嫌った軍の上層部が、民間の自動車会社を立ち上げ、そこで民間用の車として、GIAの技術を継承させることになった。
そのことに関して、反対や抵抗はなかった。
あっけなく、法律も、国会を通る。
あれから、二年が経ち、半ば、市民はGIAのことを、忘れていた。
あの華々しく駆け巡った宣伝は、打ち上げ花火のように、完全に一瞬で、姿を消していた。
だが、ここに、GIAは、民間における、普通の自動車として、蘇ることになった。
今、この瞬間、地面が不安定になり、地上が一時的に喪失してしまうという、このタイミングで、空中も走ることのできる、車の発売が決まった。
これほど、宣伝効果のあるタイミングもなかった。
価格は一千万円を超えていたが、五百万を切るのは、時間の問題だという。
一年が過ぎれば、五百万を切り、さらに一年が過ぎれば、二百万を切るのではないかという試算も出ている。
安全性に関する話は、まだそれほど詳細には、検証されていない。
さらに、ニュースは続く。
乗り物の次は、建築の話題だった。
ゼロ建築という新しい技法が開発され、実用化への、カウントダウンに入っているというニュースだった。
時限建築であり、耐用年数が過ぎると、自動的に、自然消滅するという。
解体する手間が省け、使用中はかなりの強度で、建造物はその場所に保たれている。
国の許可が降り、着工への算段がついたということだ。
すでに、注文が入っているという。
立て続きに、三本のニュースが耳に入ってきた。
私はずっと、その内容よりも、キャスターの若い女性から、目が離せなかった。
すぐに、ネットで検索する。
当たりさわりのない個人情報が出てくる。
だが、そんな情報は、どうでもよかった。
個人的な繋がりを示す情報が、私は欲しかったのだ。
そんなものは、どこにも、載ってはいない。
その後、定時のニュースに、その女性が現れることはなかった。
臨時ニュースも、あれから流れることはなかった。
冬至の儀の影響なのかは、わからなかったが、霧が出ていた。
うっすらと、街は灰色懸かった白い世界に、なっていた。
ふと、私は、あの臨時ニュースの最後に、四本目の話題が、紛れていたことを思い出す。
あのときは、全然、気に止まらなかった。
だが、ある若手の(名前も、年齢も、経歴も忘れた)その女性画家が、新作を披露することになり、そのタイトルだけが、発表されたということだった。
都市を妊娠した、初めての女性。
確か、そんな名前だ。
風変りなタイトルだったので、潜在意識に、くっきりと、刻まれてしまっていたのだろう。
その女性作家の姿は、ニュースの画面で、紹介されたのだろうか。
記憶には、なかった。
たとえ、されていたとしても、あの女性キャスターの姿に、すべては掻き消されてし
まっていた。
その四つは、すべて、何かしら、関係のあることなのだろうか。
深く考える気にはならなかった。
どれも、実現不可能なもののように思える。
しかし、これも、冬至の儀が成せる技なのかもしれなかった。
この帯に、世界が包まれているときには、実に可能なことなのかもしれない。
それが過ぎてしまえば、また不可能な技へと、失墜してしまう。
文字通り、GIAも、地上に墜落してしまう。
エジプトでは、そのとき、「再会の儀」が執り行われていた。
何千年というときを経て、ファラオは、マヤ人たちの入場を許可した。
そして、長い断絶の時代を、労わった。
マヤ人は、八人という小数でやってきた。
リーダーの男とファラオは、大衆の前で、力強く握手を交わした。
さらに、マヤ人は、テオティワカンの要人をも、引き連れていた。
そっちの方が、数は多かった。
テオティワカンとは、だんだんと、巨大になっていった、マヤ国の住人の一部を、移動させて、あらたなる都市の創造建築へと、あてた、その土地のことを、そう呼んだのだった。
テオティワカンは、事実上、マヤの属国だった。
だが、世代が代わり、テオティワカンの人口が、エジプトを悠に超えるようになったとき、すでに、テオティワカンに生きる人間は、マヤとの関係を知るものは、ほとんどいなかった。
マヤという小ぶりな国の存在自体、誰も聞かなくなっていた。
マヤ人の一部だけが、その事実を継承していた。
マヤ人は、最初、エジプト人そのものだった。
エジプトが、物質的な栄華のピ―クを迎えると同時に、エジプトを出ていった、人間の集団がいたのだ。
彼らは、その当時のエジプトの政府を、非難しているわけではなかった。
反抗でもなく、転覆を図っていたわけでもなく、ましてや、国を追い出されたわけでもなかった。
自ら、出るべきタイミングを見計らい、同じ価値観を共有す、る小数の集団で、脱出を図った。
初めから、“その地”に、国を作ろうなどという意図はなかった。
メンバ―の中には、思想はまったく、共有していなかったものの、一人だけ女性を加えていた。
再会の儀は、盛大に、執り行われる。
かつての母国の地を踏んだ、マヤ人。
そして、テオティワカン人は、喜びを隠せないといった表情を浮かべていた。
私たちは、いつでも、あなたたちの帰還を、お待ちしていたんですよと、ファラオは言
った。
あなたたちは、あらたに、国をお造りになったそうで。
それなのに、どうしてまた、戻ってきたのでしょう。
マヤの人間の顔色が、一瞬、険しくなった。
だが、リーダーが、他のマヤ人を制止するように、前に進み出て、穏やかに答えた。
私たちは、本来の自分の国に、戻ってきただけですと。
故郷に戻って、一体、何がいけないのでしょうか。
もちろん、悪いことなんて何もないです。
さっきも言ったでしょう。
心から、お待ち申し上げていたのです。
しかし、参考までに、お聞きしたいのです。
いったい、何故、戻ってきたのか。
建国した国は、いったい、どうなさったのですか。
そのまま、放置してきたのですか。
マヤのリ―ダーは答えた。
放棄というよりは、その役目は、終えたんです。
ファラオは、その後に続く言葉を、静かに待った。
我々は、新しい土地で、新しい試みをする必要があった。
だから出ていった。
そして、その試みは、その新しい土地で、やりつくしたということです。
なので、こうして、戻ってきた次第です。
その新しい試みというのは、失敗に終わったのですね。
ファラオは、皮肉たっぷりに言った。
マヤ人のリーダーは、反応しなかった。
私は、あなたたちに、警告をしに来たのです。
再会の儀は、次第に、険悪な雲が立ち込めていた。
接待に当たった、エキゾチックな女の表情に、変化はなかった。
その様子を、静かに見守っていた。
私たちが出ていったときの、エジプト王国は、また一段と、レベルが低下しましたね
と、マヤのリーダーは言った。
予想通りですよ。
しかし、何も、あなたが悪いわけではない。
これは、世の、必然的な流れなのだから。
どこに行ってもそう。
逃れることなどできない。
海を渡り、別の大陸に辿りついて、別の王朝を築き上げたとしても。
堕落は、もう留まることを知らない。
あなたも、お気づきの通り、私たちは新しい土地で、精神世界に特化した、文明を、築こうとしました。
何故だか、お分かりですね。
かつてのエジプトの黄金時代には、肉体的な、物質的な華やかさと、精神的な深みのある、美の世が高度に融合していた。
だが、次第に、人々は、肉体的な魅力物質的な、豊かさに、次第に酔うようになってい
った。
その一方に、急激に傾き始めていった。
人間の欲望は、剥き出しになっていった。
その傾倒は、留まることを知らなかった。
我々は、そんな世界の変化に、たえられなくなった。
同志は、別の地への移住を考え始めた。
消えてなくなってしまった精神的な世界を、途絶えさせないために、別の、何のしがらみもない場所で、華やかではないが、心の影の世界に特化した、宗教国家の勃興を、決意したのです。
それは、常に、表面的で、華やかさに著しく傾倒していった、エジプトの世界との、バランスを取るためです。
何を隠そう、二つで、一つの世界なのです。
しかし、そうして、始まったマヤの世界でしたが、物質世界の波が来るのは、避けられなかった。
増えていった人間の多くは、おそらく、エジプト王国への郷愁を、抱えていたのでしょ
う。
無意識に、エジプトの世界を、求めるようになっていった。
そして、自ら、マヤの都市国家を破壊するという行為に出てしまう。
しかし、そんな末路を辿ったマヤでしたが、それは長い年月にわたり、平穏で激しい
生きがいのある、そういった世界が、実現できてもいた。
エジプトとは、また違った、深みのある時間の感覚を伴う、日々を、送ることができた。
歴史の中においては、実に短い期間ではあったかもしれないが、それでも、確実に、私
たちは記憶の彼方に、その存在を、刻みつけることに成功した。
もう、これ以上、あの地に残る必要はなくなった。
終わってしまった世界に、存在する意義は、ない。
私たちが戻る、場所。
それは、ここしかない。
しかし、王。
私は、一つの警告を、あなたにするために、帰ってきたのです。
あなたも、おそらく、把握しているかもしれないが、エジプトはもう間もなく、真っ二
つに割れます。
王を支持する勢力と、支持しない勢力に。
そして、それらは、次第に、距離を持ち、お互いの交流を閉ざし、憎しみあいます。
覇権を争うようになる。
分裂は激しくなり、小さな勢力が、そこらじゅうで、対立するようになる。
しかし、政治に力を持つという意味では、二つの勢力の対立という、大きな構図が、主軸になる。
実情は、さらに細かく、いろんな勢力が入り交じり、つぶし合う。
そういう世界になる。
エジプトは、自滅への序章を開始する。
ついには、追放の時代が、幕を開ける。
淘汰された巨大勢力は、海を渡り、広大な土地に、活路を見い出すことになる。
別の土地で、そう、我々のように。
都市国家を、次々と、作りだすことになる。
その頃には、もう、エジプトへの想いは、消えてなくなっていることだろう。
新たなる覇権国家は、エジプト以上に、繁栄を極めるのだから。
忘れさられてしまって、当然だ。
それでも、かつての故郷を、懐かしむ連中も出てくる。
再び、命がけで、海を渡る者もでてくる。
だが、そうして、やっとたどり着いた、かつての地は、すでに、没落した荒野に近い、不毛な土地へと、変わってしまっていた。
すでに、栄華の中心地は、移動してしまったのだ。
そして、さらに新しい地では、分裂が起こる。
二つの、巨大な勢力同士の、争いとなる。
追放の歴史は、繰り返される。
さらなる地、さらなる地へと、人々は移り、広がっていくことになる。
人間の数は、増えていく。
地球上に、広がっていく。
さまざまな国が建てられていく。
物質的な技術も進化していく。
国家同士の繋がりも生まれ、そこでも争いが起こる。
まれに、手を組んだり、親密な交流が始まることもあったが、それが、さらに、別の国との関係にも、繋がっていき、そこでも、融和か対立といった、二つの概念を軸に、闘争が繰り広げられる。
私は、すでに、過去形で話をしているね。
おわかりですね。
あなたに、警告するまでもない。
枝分かれした、あなたの子孫をお見せしましょう。
これです。
そう言ったマヤのリーダーの体の周りには、人の姿の映像が、あらわれていた。
初めは、別の人間が姿を、見せたのかと思った。
けれど、人の姿の色素は、薄かった。
人の周りには、また、別の世界の背景が、薄らと映りこんでいた。
複数の映像が並んだ、テレビ画面のように、存在している。
マヤのリーダーは、その一つ一つに、説明を加えていった。
エジプトはまず、二つに分裂し、その最初に反逆した側を、ユダヤと呼んだ。
もちろん、呼んだのは、エジプト側の人間であって、呼ばれた彼らは、もちろん自分たちが正当なエジプト人であるといった、主張を変えはしない。
そして、何と、そのユダヤが、勝利を収めてしまった。
流浪の民となったのは、エジプト人を称する、側だった。
彼らは二度と、エジプトの地を踏むことはなく、別の大陸へと移り、そこで、数を増やしていった。
別の小数民族との交配を、することもあった。
エジプトを支配したユダヤも、次第に、その内部では内乱を起こし、さらに分裂していくことになった。
国を追われた人たちは、先に出ていたユダヤの民と、合流するものも多数いた。
そこではもう、ユダヤと呼ばれることを、恥辱に感じることはなく、ユダヤの民は、世界中に広がっていった。
それから、時代は進行していったが、すでに、ユダヤとエジプトという国家が、対立しているという構図はなく、それでも、血統を正確に辿れ、ば間違いなく、最初の分裂した二つの源流へと、流れつくのだった。
最初に敵対したという、血の起源による区別が、その後、どこまでも続くことになる。
分裂し、憎みあう世界の原風景として、いつまでも、エデンの園のよう、に奉られていたのである。
宗教においても、二つの流派があった。
しかし、それも、元を辿れば、エジプトを神とする派と、ユダヤを神とする派による、構成が大元だった。
それから、さらに、宗派はできては、消えていったが、その原風景は、いつまでも消えることはなかった。
エジプトの宗派が、世界の精神世界を、統一した時代においても、ユダヤの宗派の隆盛は、勢いを止めることなく拮抗していった。
戦争にまで発展することが、頻発したが、それでも、一方が、極端に力を失うということはなかった。
まるで負けて、弱体化していくことが、予想される側に、いつも誰かが、そっと援軍を送っているかのごとく、力はほぼ、均一の域を保っていた。
その時代の、その場所では、こっち側が、支配階級についていたほうが、都合がいい。
別のまた、違った状況のもとでは、こっちが、権力を握っていたほうが都合がいい。
そういった具合に。
ただし、小国が、無数に存在していた中世の少し前では、同じ宗教の中でも、土地を争う闘いが、常に小国同士で行われていた。
その領主である、男の姿が見える。
それから、中世へと移ると、ほら、修道院が見えるだろう。
そこに、宗教家として修行する男の姿も見える。
彼は、真面目に教義を学習して記憶しようとしている。
けれども、常に疑問をもっている。
彼は、宗教家を極めようとしていながら、実は、別のものを求めている。
彼は異端だ。
生まれながらにしての、異端の宗教家。
彼は、密かに密教の類に興味を抱き、その関係者に近づこうとしている。
彼は、より頭で理解する教えではなく、自ら体感する宗教というものを、目指している。
いわば、神秘主義だ。
肉体と精神が、深く統一されることで出現する、神聖なる世界を求めている。
それは、この世で、しかも、この自分という存在を通して、実現できると、生まれながらにして、直観している。
字句通りの教えを、そのままただ受け入れ、素直に言われるがままに、生きていくことに、彼は疑問を感じる。
激しい怒りさえ抱く。
彼は、結局、密教系の指導者と出会うことは、叶わなかった。
表向きは、一人の聖職者として、過ごす一方、ひとりで、いろんな文献(禁書のようなたぐい)を掻き集め、独学で天井なる世界を、この世で体感しようと努力した。
書記官として、年中行事の様子を、書き記す仕事もこなした。
速記官としての任務も、滞りなくこなした。
彼は、それ以上は、何も掴めない人生に苛立った。
しかし、決して、自堕落で、自暴自棄な生活を送ることはなく、生涯を、品行方正で、模範の宗教家としての生を、まっとうすることとなった。
彼は、非常に、裕福な生活を送り、人々の尊敬を集めた。
無名ながらも、平穏で、幸福な人生を送った。
この中では、彼は、非常に恵まれた人生だった、とマヤのリーダーは言った。
その前の、あの領主は、ひどい暴君で、無数の人間を、国内外問わずに殺していった。
戦国の世だ。
当然だ。
さらには、こういうのもある。
これは、もうすでに、終えた世界だ。
我がマヤと、密接に関わりのあった、テオティワカンの話。
一人の男の姿が、見えるだろう。
ほら。
背景には、ピラミッドの姿が見える。
彼は生贄だ。
見てごらん。
いや、話すのは、やめよう。
これは、実に、非常に近い過去だ。
まだ、詳細に分析したり、報告したりする、時期ではない。
そっとしておこう。
マヤのリーダーはそう言って、率いてきた男たちの方を見た。
そして、こちらには、女性の姿もある。
はっきりとは見えないが、これは、女性性の時代だ。
すでに、二千年後、だろうか。
人間の知能の代わりをなす、機械というものが、大量に物を作っていく時代になる。
ちょうど、その先駆けだ。
これは、労働者という、分かりやすく言えば、自由の多少はある、言葉は悪いが、奴隷たちが酒を飲んだり、女と遊んだり買ったりする場所だ。
キャバレーと呼ばれている。
歌を謳う女もいる。
ちょっとした余興を、こなす芸人の姿もある。
その客の中には、労働者に混じって、人生の悲哀を絵にする、画家という人間たちもい
る。
ずいぶんと、美しい女だろう。
彼女は、このキャバレーという場所で、健気に歌をうたい、踊って日銭を稼いでいる。
これだけの美しさを持っていながら、彼女はどこか遠慮がちだ。
自信を持つことができないでいる。
まだ、自分が何者であるのかを、掴んではいない。
この店に集まる人間たちは、みな、彼女の本質をしっていた。
こんな場所に、いつまでも存在している人間ではないことを。
もっと広くて華やかな場所が、似つかわしく、そこでたくさんの人たちに向かって、心
を開くことができることを。
それが、彼女の心の、本望だということを。
しかし、キャバレーに集まる男たちは、彼女がいつまでも、ここに居ることを望んだ。
誰も、彼女を羽ばたかせようとはしなかった。
そして、彼女は、そのキャバレーで年老いていくことになる。
若くて綺麗な女性が、その後、あらわれるに伴い、彼女はどんどんと、身の置き場を、
なくしていった。
晩年は、店の支配人や、その知り合いに、体を売るような。それに近いようなことをして、生き延びていくことになる。
貧しい結末だった。
非常にゆるい、飼い殺しでもあった。
また、その隣には、別の女性の姿が見えると、マヤ人のリーダーは言う。
彼女はもっと時代を新しくしている。
彼女は、女性性を、完全に、社会に対して開き、剥き出しにしている。
それを売り物にして、商売にまでしている。
男性の視線だけでない。
女性の注目をも浴びている。
モデルとか女優とか、そんな風にも見える。
どっちの性に対しても、性欲というものを掻き立てる、そんな役割を果たしている。
彼女は、ずいぶんと若くして、亡くなってしまったようだ。
25歳くらいだろうか。
短い生涯の中で、その凝縮した魅力を、最大限に発揮した。
しかし、彼女もまた、幸福そうには見えない。
何か、運命に対する復讐をしているかのようだ。
しかし、その性の魅力を売り物にしている反面、貞操観念は、非常に硬かったようだ。
誰にも体は許していない。
男性にも。
そして、同性にも。
その肉体と精神が、最も美しく融合している、その瞬間、彼女は命を絶ってしまった。
自殺ではなかったが、彼女の生きる意志は、そこで途切れた。
その生における彼女は、目的を果たしたのだろう。
さらに、別の女性が見える。
彼女は、今の彼女とは、正反対のようだ。
表舞台には一切出ず、太陽の光には、もうずいぶんと当たってなくて、彼女は、そう、娼婦だ。
ほとんど薄暗い世界の中で生きている。
誰も、その素顔を知らないくらいに。
男たちは、夜になると、彼女の体を買いにくる。
皮肉なものだ。
彼女はとても長く生きたようだ。
風貌の老化による劣化も、陽の光が届かないという一点で、克服していた。
老婆に近い年齢になっても、彼女は仕事をし続けた。
宿の女将は、もう何人も変わってしまったあとでも、彼女は生き続けた。
いったいどんな病気に侵されているのか、誰も知ることはなかった。
彼女はほとんど、その部屋から、一歩も出ることなく生涯を終えた。
死んだとき、彼女の姿は、太陽の光に、ほんの少しだけ晒された。
マヤ人のリーダーは、一息ついた。
これが、君たちの子孫が辿る、運命の一部だ。
エジプトが、これから、真っ二つに分裂する、そのことで始まる、新しい時代の結果たちだ。
よく見ていったらいい。
そして、複数の映像たちは、消えていた。
重苦しい空気に包まれていた。
エキゾチックな風貌の女性が、ファラオと、テオティワカンからの、集団の後ろに、そっ
と立っていた。
ここで、あなたに提案をしますと、マヤのリーダーは言った。
我々だけでも、時代を、遡っていったらいい。
我々ならできると、彼は言った。
時間は確かに、前へと進んでいく。
今みた、映像のような生は、繰りかえされることになる。
それは、避けられない。
逃れることはできない。
体験せねばならないことだ。
しかし、それとは別で、我々は、密かに力を合わせて、違う気流を生みだしたら、どうだろう。
エジプトが、最も繁栄を極めた時代に、遡ることを目指して、お互いの力をすべて、結集させていく。
そういったビジョンを、立ち上げるよう。
私たちは、エジプトを脱出し、精神と宗教に特化した、非物質的な世界を極めるべく、立ち上げたが、これもやはり、分裂の一部にすぎなかった。
エジプトの物質性の中で、表現してこその、宗教性だった。
そのことが、よくわかった。
私たちからして、すでに、分離してしまった世界が、さらに、あなたたちの中で、大きな二つの流れが生まれ、それを合図に、解体する方向へと向かっていくのです。
そうなってしまえば、もう誰も、解体の大元の起源を、特定することは、不可能になってしまう。
ここ、なんですよ。
元々の、分裂の核たる、部分は。
わかりますか?
これから、あなたたちの、物質を主にする世界では、解体の連鎖が、何千年に渡ってくり広げられる。
その流れは、食い止められない。
じっと、見ていたらいい。
けれど、その、些末な解体の流れとは別に、我々は、その大元の分離を、修復していくのです。
世界が、些末なところで、カオス状態をきわめていくのと、逆行して。
世界が解体しているように見えるのは、表面上の、浅い世界であって、深い部分では、まったく乖離などしていない。
エジプトの黄金時代の復活に向けて、着実に、進化接近している。
今やらなければ、もう手遅れです。
何千年後のために、今やらねばならない。
我々は、手を組むんです。
もっと、大きな目で世界を眺めてください。
私は、そのことを伝えるために、こうして戻ってきた。
あなたがただけでは、決してうまくはいかない。
私たちだけでも、破滅してしまう。
お互いを、必要としているんです。
もう一度、今、同じ土地で、一心同体となって、理想の国の姿を、目指すべきなのです。
あなたの一声に、かかっています。
我々は、協力を惜しみません。
この二人の会話の密約を、エキゾチックな女性は、一番近い距離で、そのすべてを聞い
ていた。
インドの修行僧時代の私は、その年が終わる頃になっても、寺院の中で、毎日、食事の準備から掃除、読書、そのあとに残った時間で、瞑想に費やしていました。
私たち若い修行僧たちは、ほとんど自分一人で、過ごす時間が多かった。
集団で同じカリキュラムをこなすようなこともなかった。
食事や団らんのときには、共に過ごしたが、肝心の修行に関しては、長老が指導にあたってくれるわけでもなかった。
寺院の中にも、女性の姿はあった。
しかし、完全に隔離されていて、食事の時にも、すれ違うことすらなかった。
外との行き来は自由であったため、奥さんを持っている修行僧もいれば、彼女や遊ぶ相手を、外に持っていることもあった。
中に連れて来れないだけであり、彼らは自ら、外の女たちに会いにいった。
前にも話したとおり、私にはすでに、何年も付き合っている彼女がいて、それでいながら、近くのレストランで働く大学生の女性にも、恋心を抱きながら、悶々とした気持ちを抱えていた。
寺院での修行の成果に、自分自身が納得でき、そしてそれを、この社会に役立てて、繋げていくことができるのか。
それが、最も大事なことであり、不安な要素でもあった。
彼女と結婚し、家庭を持つことは、できるのであろうか。
さらには、大学生の女の子が卒業するまでに、私たちは、何か話をする機会が、持てるのだろうか。
何かを感じるのだ。
我々は会って、何かを伝え合わなければいけない。
複数の想いが錯綜し、私を、苦しめていました。
私は、そのとき、何故こうして寺院になどに入り、修行の身であることを続けているのだろうか。
心を、魂を、本当の意味で、私は救いたいと願っていたのだ。
深く深く傷つき、そして、最も救われない魂たちを、光の世界へと導きたい。
あるとき、私は、何かの啓示を受けたような恍惚感に、突如、襲われた。
私は、自分の魂の中に、もっとも根深く傷ついた魂をもち、この世に生まれてきたことを、はっきりと自覚した。
私は、すべての人の魂を救いたい。
しかし、この自分の魂を救うことも、他人の魂の一部を救うことも、それは同じ行為なのだということに、気づいていた。
魂に人格などはない。
すべては、繋がっている。
しかし、私という人間が、他人とは違う、一つの固体として生まれている以上、それは受け入れて生きていかざるをえない。
私は、ある特定の短い時期に、ある種の音楽や、絵画、彫刻によって、つまりは、誰か別の人間が制作したその作品に、強く心を打たれ、自分の中の最も救われない魂の一部が、ほんの少しだけ浄化されたような、そんな疑似体験をしたのだった。
私の意識は、確信を持った。
これなのだと。
これこそが、私の求めていたものなのだと。
しかし、私のとった行動は、物を制作するという方面ではなかった。
寺院だった。
私は、自分の魂の在り処をちゃんとした形で、しかも、自力で突き止めたかった。
私が、レストランに勤める大学生を初めて見た時も、いまだに、制作物はゼロであり、果たして、私はこのまま何も生産することなく、この場所で朽ちていくんじゃないだろうかと、絶望的な気持ちになることもあった。
芸術作品を作り上げたいという欲求が、すべての上位に、あるわけではなかった。
ただ、最も救われない魂に光を当てたいという、想いがあっただけだ。
私は、あの大学生の女性の、救われない魂のことを考えていた。
彼女はおそらく、中流以上の、わりと、裕福な家庭で育っている。
大学に行き、学問に励み、そして、その延長にある社会へと、これから羽ばたこうとしている。
働き、出会った男性と結婚し、家庭を持つ。
子供をもうける。
しかし、彼女の淋しげな表情は、消えることはない。
ふとしたときに現れる、その表情。
それは、心の深淵が映る唯一の瞬間だ。
もっとも救われない魂は、彼女をひどく悩ませるわけでもなく、人生そのものを引っ掻き回す暴れ者でもなかった。
それは、ひっそりと息を潜め、ふとした瞬間に、彼女の全存在を乗っ取り、また次の瞬間に、姿を消してしまう。
人生の終焉のときまで、それは続いていく。
彼女には、その人生を貫く一つの軸がなかった。
あるいは、私は自分の境遇や、精神的な状況を、そのまま彼女に投影してしまっているのかもしれなかった。
ただ、それだけのことではないのかとも思った。
確かに、そういう面は、あった。
でも、あのエキゾチックな風貌が、何か別の面をも、映し出しているのは明らかだった。
彼女とは、何度か会ったのだ。
エジプト時代の記憶のこともある。
彼女は、あのときのやりとりを、すべて聞いていたのだ。
その上で、こうして、インドの中流階級へと生まれてきていた。
そうだ。
このことを彼女に伝えなければいけない。
話題など、すでに存在している。
臨時ニュースの二回目。
あのエキゾチックな女性が登場する。
冬至の儀があと少しで終わるというニュースだ。
まもなく、冬至の儀は終了です。
一日の中に起こる二回の鬼門の刻を封じるために、各人は行動に備えるように。
警告が出された。
一回目の時と同様、GIAの一般発売の事が告げられる。
時限のゼロ建築の、ニュースが続く。
都市を妊娠した女性という絵を描いた、女性画家についての、報道が続く。
周期的に、気流が悪くなる時間帯というのがあった。
その時間を、逆手にとることを奨励していた。
私はその後、エキゾチックな女性から、何か語られるのを待ったが、彼女はそれっきり、姿を見せることはなかった。
インドにおいて、彼女の姿を見たときから、半年が経ったときだ。
私は初めて、彼女と話しをする機会が訪れた。
店の常連になっていたため、彼女も顔を覚えていてくれた。
私は、彼女の出勤の日を狙って、通い続けた。
働いている最中に、言葉を交わす機会はなかったし、店長らしき男が、店員の私語を極端に嫌っていたようで、客と店員の交流は、世間話という程度でも、許される雰囲気ではなかった。
それに、私は元来、激しい人見知りでもあった。
しかも、見ず知らずの女性に、とりとめもなく話しかける、技術の持ち合わせもなかった。
なので、店の外で、偶然彼女と出会うというシチュエーションに、頼るしかなかった。
誰か、友達にセッティングしてもらうのが、一番私の性格に合っていたが、今回ばかりは、そうもいかない。
私の知り合いはすべて、私が誰と付き合っているのかも知っていたし、店の関係者には、私が、寺院で暮らしている修行僧であることは知られている。
私は一人で、突破する道を、模索するしかなかった。
彼女に一番高い確率であえる場所と時間を、あらかじめ把握しておく必要がある。
しかし、綿密に計算した結果というのは、だいたいにおいて、何も起こらない。
それでも、何か行動を起こさずにはいられない。
しかし、私はあるとき、店の店長と話しをする機会があった。
寺院に関することで、彼は意外にも、興味が高じているらしく、わりに勇気を振り絞って、一番若い部類に入る私に、声をかけてきたのだ。
私は丁寧に、その質問に答えた。
このチャンスを、最大級に生かす必要性を強く感じた。
あの女性に繋がる、唯一の道だった。
その男に、何気なく、あの若い店員のことを訊いてみた。
彼女はとても、感じがよくて、真面目に働いていますね。
僕が来る日は、彼女が担当なことが多いんです。
大学生なんですよね?
もう卒業ですか?
卒業しても、ここで働くんですか?
そんなことはないですね。
どこか、別の土地に引っ越してしまうんでしょうね。
私はまだ、ここの寺院にいるでしょうから、その、彼女のほうが早く、この土地から旅立っていくんですね。
店長は、じろりと私の顔を見た。
私の心はどぎまぎした。
完全に彼女に対する好意が出てしまっていた。
しかし、決して下心はないのだと、そういう念力を、必死で、店長の男に送った。
なんともお粗末なやり方だったが、店長の男はにこりと頷き、彼女に何か伝言があれば、伝えておくよと、私に言った。
そう言われた私は、また舞い上がってしまった。
しかし、最大のチャンスを、フイにしてしまうわけにはいかない。
それでいて、粗相な願いをしてしまえば、そこで二度と彼女との繋がりは、途絶えてしまう。
私は素直になった。
どんな女性に対しても、少しはあるであろう、下心のようなものは完全に浄化させ、むしろ、彼女とはそういった男女関係や、表面的で儀礼的な挨拶を超えた、特別な会話を、する必要を感じたという、そういう想いのようなもので、全身を満たした。
そして、彼女と食事をする機会を設けてほしいんですと、はっきりと切り出した。
ここのお店では、もちろん迷惑でしょう。
別のお店に、予約をいれておきます。
もし、できたらでいいので、彼女が承諾したときは、そこに来ていただけるよう伝言してほしいんです。
けっして、軽はずみな行為ではないし、かといって、重い告白でもない。
うまくは説明できないけど、とにかく、一度だけ話をする必要があるんです。
そうだ。
そうなんです。
一度きり、なんです。
何回も、連れまわすことはない。
たったの、一度だけでいいんです。
とにかく、伝えたいことが。
男は承諾した。
日時は承諾した時点で、彼女の方が決め、私に店長のほうが、連絡するということで、合意した。
そのあと、私が、別の店に食事の予約を入れ、その場所を、店長を経由して、彼女に伝え
る。
そういうことになった。
それまで、私は、彼女と顔を合わせない方がいいと思い、彼女の出勤日に、店には行かないようにした。
前を通り、それとなく覗き、彼女の働いている姿を確認すると、そのまま、店の入り口の前を通過した。
三回目の、臨時ニュースが入った。
キャスターは、男性にチェンジしていた。
なんと、その男が、あの店の店長と、そっくりだった。
割烹着とスーツの違いはあったし、髪も整髪料で、びっしりと、頭皮に撫でつけられていたが、目元と口元はどう見てもあの男だった。
冬至の儀は終了しました。
真夏の冬至の儀の帯は、通過が終了しました。
男はそう言って、深々と、丁寧なお辞儀を繰り返した。
彼女は、二度と、報道ニュースに現れることはなかった。
私は記憶の中で、あの日の情況を再現する以外に、彼女と再会する方法は、すべて失った。
一体、何度、「ゼロ湖」を体験したことだろう。
一日に、二度の出現を、もうすでに、何日も繰り返していた。
GIAは、「ゼロ湖」が現れる場所を、正確に把握していた。
その時間になると、GIAは、その内部にあらかじめ入って、待機していた。
そして、円柱空間の内部の粒子は、変わる。
きめ細かくなり、GIA本体の構造は、分裂を繰り返すかのような、状態を体感する。
同時に、本体の外の粒子の方を、引き寄せるといった、相反する二重の状態が、キープされる。
意識は、通常の感覚からは、著しく変容する。
それが、ゼロ湖による、影響だった。
約一時間後、「ゼロ湖」は消える。
GIAの本体の感覚は、その後もずっと、変容状態を保ちながら、空中の遊泳をする。
夕刻における、二度目の出現まで、変容状態は、多少の低下はあるものの、キープされる。
GIAは、そのあいだ、「冬至の儀」に包まれた世界の状態を観察するため、飛び回ることになる。
目的の二つ目だった。
GIAは、まだ、特定の人間には仕えてなかった。
誰も乗せてはいなかった。
冬至の儀が終わるまで、空車の状態を保った。
世界は、正常な状態ではなかった。
そのあいだ、GIAは、単独で存在してなくてはならなかった。
世界における街の姿が、今まさに、組み変わっている最中だった。
その世界に生きる人間のDNAも、組み変わっている最中だった。
全体のすべての配置が、組み変わることもあれば、一部は焼失し、また一部はあらたに蘇生されることになる。
一部の人間は、消失し、あらたな生命が、誕生する。
死と再生が繰り替えされ、崩壊と創造が、同時に進行する。
地面が、一時的に喪失し、あたらしい土地が隆起してくる。
冬至の儀の最中、宙に浮いてくる仮の地面が現れ、そこに遊泳する乗り物は、発着する。
すべての物質の在り方が、変わる。
その過渡期に適した、建築の方法が考案され、実行される。
そのあいだ、GIAは、ずっと、空車の状態で単独飛行を繰り返す。
世界が安定したとき、GIAは、再び、特定の人間のもとへと帰っていく。
そして、その人間に仕え、彼、彼女と共に、新しい世界を遊泳し続ける。
今の単体のあいだに、冬至の儀の世界を体感するべく、動いていた。
ゼロ湖を体感し、その変性意識のままに、ゼロ建築を始めとする、様々な現象を、体感していく。
まもなく、冬至の儀は明けることだろう。
その夜明けのときに、GIAは、結合する相手の人間と出会うことになる。
待ち合わせの時間から、三十分が過ぎたときだ。
エキゾチックなその風貌の彼女が、店にやってきた。
長いスカートを風になびかせ、上は白いノースリーブを着ていた。
店に入るなり、彼女は、その肩を隠すかのように、黒のカーデガンを羽織ってしまった。
遅れてごめんなさいと、彼女は儀礼的に言った。
私も、何か言わなくてはと思ったが、極度の緊張のため、こんにちはとしか、口からは出てこない。
今日は、大学でしたかと、私は訊いた。
彼女は、首を横に振り、大学はもうやめましたと答えた。
予想外の答えに、私は戸惑ってしまった。
えっ、やめたって、まさか。
本当に?
急に。
どうして。
「もう、いいかなって。ずっと前から、思っていたことなんです。バイトは続けます。
そうしないと、食べていけないから」
食べていけないって・・・。
それよりも、いいんですか。
親には何て言ったんですか。
「言ってませんよ。あなたに、今、初めて言いました」
そうなんですか。
親にはこれから?
「どうでしょうか」
彼女は、それよりも早く、料理を注文しましょうよと、メニューを食い入るように見てい
た。
私はすでに、グリーンカレーを注文することにしていたので、彼女にメニューを渡してしまっていた。
彼女は、チキンライスを選ぶ。
料理が運ばれてくるあいだ、彼女はずっと、私の眼を見続けた。
彼女の大きな目は、その黒目において、灰色の模様が描かれていた。
私は、未知なる世界に引き込まれていくかのように、再び彼女に激しい恋をしていた。
彼女が逸らすことなしには、逃れることなどできなかった。
言葉を交わすこともなく、時間は消え去っていった。
食事がすでに運ばれてきたことにも気づかなかった。
ウエイターがやってきたことも、知らなかった。
彼女は食べましょうと言って、やっと解放してくれた。
私は半ば、呆然とした意識のままに、彼女の輪郭を頼りに前を見続け、そのあとで、ようやく料理へと目を落とした。
いろんな情報と感覚が、あらわれては消えなかった。
そのまま、混濁としたままに、眼の前の空間に、放置されていた。
今日は、一体、何を話しにきたのか。
その道筋が、すでに、混乱してしまっていた。
それに、彼女とこうして、二人きりで、デートのようなことをしているのに、彼女は私に対して、壁をまったく築いてなかった。
すでに、打ち解けた間柄の男女のような雰囲気に、なっていた。
恋人というよりは、親しい友達のような。
お互い、すでに結婚して、別の家庭を持っていながらも、こうして、たまに、密会するような。
密会といっても、全然陰湿ではなく、むしろ解放的な。
こうして、レストランで、堂々と、他の客に交じって会っているような。
いろいろと、彼女に対しては、想うことがたくさんあった。
会ってからの、話す内容の段取りもしていた。
だが、実際に、こうして向き合うと、彼女自身が醸し出す空間の中に入ってしまうと、この身はすべて、成り行きに任せるしかないなと思ってしまう。
大学をやめたってどういうことだよと、私は、声を少しだけ荒げた。
それで、どうするっていうんだ?
いったい、何をする?
レストランで働いて、それでいったい、何になる?
君は、もともも、何を目指しているんだ?
「ねえ、私の家族の話を、していいかしら」
大学の話に、関係があるのならな。
「もちろん、ある。そもそもの始まりは、私の家族と、その親族にあるんだから」
私は静かに、耳を傾けることにした。
「父は、去年に亡くなったの。母はもうだいぶん前に。私には兄弟はいないし、母もいなかった。父の兄弟は、父を含めて六人いた。男が四人で、女が二人。そのすべてが、もう死んでいなくなっている。父が最後だった。父の兄弟の子供たちは、何人かいるらしい。私も小さいときに会ったことがあるけど、全然覚えていない。今は、連絡をとっていないから、まったくその居所は、わからない。よって、私は、ほとんど、一人ぼっち。奨学金で通っていたの。今やめなければ、まだあと、一年分払い続ける必要があった。結構な額なの。あなたは、あそこの寺院の中にいるって、店長からは聞いた。お金がかからないそうね。最も稼ぐこともできないようですけど。そういう無菌状態の中で、あなたたちは、一体、何をやってるんですか?傍目に見ていると、気持ちが悪いわ。あんなにたくさんの人が、何の生産性もなく、ただ生きているだけのように見えて。こんなこと言って、御免なさい。わたし、何も知らないの。そのことも、私、今日は、あなたから訊きたかったの。でも、まずは、私の話からね。親族の話だった。父が亡くなったときから、奨学金に切り替えた。あのレストランで、学費を稼ぐために働いたんだけど、私は四年生なのね。授業の内容は、だいたい三年で終わってしまう。あとの一年は、遊びにいくようなものなの。それって、私にしてみれば、まったくお金を捨てているようなものだわ。やめて当然よ。もちろん、父が生きていて、ちゃんと授業料を出してくれるのであれば、やめることはない。でも、状況は変った。父の兄弟の話を、していいかしら?どうして、そんな話をするのだろうって、あなたは、首をかしげるでしょう。でも、これは、私に流れている血の問題だから。そんなもの、私には、まるで関係がないって、そう他人は言えるでしょうけど、私は無視して生きていくことができない。少なくとも、避けて通ろうとすればするほど、血の色というものは、濃くなっていくよう。わかるかしら?その血が、どれだけ濃く、ドロドロとしたものなのか。私自身、ちゃんと把握して、浄化しなければ、いつになっても消えることはない。すると、どうなると思う?子供よ。子供。もし私に子供ができたとしたら、そのときに、子供にさらに、色濃くなった血液が、注ぎ込まれることになる。それは、子供の責任じゃない。親である私の責任。子供を産む前に、血の浄化を怠った、その結果なのよ。だから、今、あなたに向かって、こうして話をしている。あなたにとっては、いい迷惑ね。でも私は抑えることができない。こんなこと、あなた以外の誰にも、話せない。何故かわからないけど。私、店長から、あなたのことを言われたとき、この話をするんじゃないかっていう、予感が沸いた。あなたが私と話したがっているって聞いたときも、なんだか不思議な感じがした。あなたのことは、一人のお客さんとして認識していたし、ちょっとした顔見知りではあったけど、食事に誘われた瞬間に、何故か、もともとそうなる運命に、あったんじゃないかって気がした。私の血液の話を、あなたは真剣に聞いてくれる。私は、今そう思う。父は四男で、全部の兄弟の中では、一番末っ子だった。父は去年死んだんだけど、他の兄弟は、もう十年以上も前に亡くなっていた。最初は、次女が癌で亡くなった。そのあと、三男が酒に酔って車を運転して、事故で亡くなった。生活保護を受けていた長男は、なんと、四百万円の貯金をしたまま、自らの体調不良を自覚しつつ、病院に行くことなく、自室で一人淋しく死んでいた。一晩中、苦しみ続けての死だったみたい。隣人が、妙な物音を、その晩、何度も聞いていたらしい。最初に亡くなった二女なんだけど、彼女の夫というのは、暴力団に少し関わりのある人間だったのね。やばい仕事に、結構手をつけていたようなんだけど、夫婦で焼き肉店を経営していて、結構、繁盛もしていたんだけどね、別のその、ヤバい仕事で、不渡りを連発してしまって、それで、その焼き肉店も、抵当に入ってしまった。そのヤバい仕事に、長男も、一枚噛んでいたらしいの。生活保護を受けるまで落ちぶれてしまったのも、その事件が大きく関わっているらしい。つまりは、様々な事象が、何故か、それぞれの兄弟と、その連れ合いに、密接に関わっている。長男は、事業をいろいろと展開していたんだけど、政界との繋がりもあってね、それで、そのコネで何と、次男の息子の就職をも、斡旋した。彼は役所に就職した。その母親、つまりは、次男の奥さんね、彼女は軽い脳梗塞を患って入院して、それを機に、どんどんと、体力を低下させていってしまった。半年後には、精神に異常をきたしていってしまった。突然、発狂してしまったり、感情をコントロールできなくなってしまって、暴れたり。本人は全然覚えていないらしいんだけど。次男が付っきりで、看病をしていた。そして、ついにその生活にも、終止符が打たれる時が来た。彼女は自宅で死んでしまった。自宅には、夫と二人で住んでいたから、当然、死んだときには、警察が入ってね。事件性はないかを確認された。それで、特に問題はなかったらしいんだけど。彼女は突然発狂するだけでなく、電気のコードを首に絡みつけたり、いきなり包丁を持ってきたりして、ものすごい修羅場になっていたらしいの。だから、状況的には、そうやって暴徒化した嫁さんを、無理やり押さえつけようとしたときに・・・何ていう、勘繰りもできる。誤って死なせてしまったか、どうもそういうことらしいのよ。穏やかな死に方じゃない。けれど、その状況は、別のところで、過去に起こっていた。次女の夫、ここでも、何か因縁があるんだけど、その次女の夫は、次男の息子が、長男の縁故で入れてもらった役所の、上司だった。直属ではなかったらしいんだけど。その旦那も、退職するとすぐに、脳梗塞を患った。そして、半身不随のまま、自宅療養を余儀なくされた。リハビリ中、彼は次第に、精神に異常をきたしていくようになった。突然、暴れることは少なくなかった。奇声を上げて、まるで赤ちゃんのように見境なく、泣き続けることがあったという。そして、彼は死んでしまった。やはり、ここでも、穏やかではない死の連鎖が続くことになる」
彼女はここで、一息入れる。
「長男が、自宅のアパートで死に、四百万円が残されていたって言ったわよね。彼は何も遺言を残してなかった。彼の子供、娘が二人いたらしいんだけど、奥さんと別れた時から、すでに彼女たちとも絶縁状態だったらしく、喪主を断ったのよ。そのときは、次男が喪主を務めたの。それで、その四百万円は、葬儀代と墓の代金に充てることにした。残ったお金は、次男が持っていた。すると、そこに喪主を断ったはずの娘たちが乗り込んできた。遺産があることを知り、彼女たちは弁護士をたてて、そのお金をわけるように要求してきた。そして、裁判沙汰になってしまった。結局、和解という形で、双方が分け合うことになったんだけど、ひどい話じゃない。そして、次男は、そのことが、直接の原因ではなかったにしろ、その一年後に死んでしまった。自殺だった。電気コードを首に巻いて、吊っていたの。
次女も自殺だった。次男と次女は。似たような運命を辿った。共に連れ合いが、末期には、同じような症状を見せていた。その長男の話に、また戻ってしまうんだけど、彼は事業で、失敗したっていったわよね。長女の旦那が、一枚かんでいた危ない仕事で、失脚をしてしまった。そのときね、長男は、本当にお金がなくて、次男の息子のところに、つまりは、自分の縁故で役所に上げた人のところにね、着物をもって、一万円を借りにいった。ところが、その次男の息子は、お金を貸すことはできないと、はっきりと断った。信じられる?自分の就職の力になってくれた人が、今困っていて、それもたったの一万円よ。大事にしていた高価な着物を、質にいれるように持ってきたというのに。一円たりとも、貸すことはなかった。もちろん、父である次男に、相談はしたんだろうけど。長男は打ちひしがれ、そして帰っていった。その話を、父に寂しげに話したことがあるらしい。そういう、うちの父もね、その不渡りになった事業に、一枚噛んでいた。姉の、その長女の頼みでね。つまりは、お金を貸したの。父は、長女に恩義があったから。父は兄弟で、唯一、大学を出たんだけど、それは、兄貴や姉が進学をあきらめて、若いとときから、働いたからこそだったから。だから父は、その長女の頼みに、すぐに答えた。四百万円もの大金を、念書をとることなく貸した。そして、当然のことながら、その金は返ってこなかった。当時、父は、その金が、どんなふうに使われるのか分かってなかった。姉家族の、当面の生活費だと思っていた節がある。父は、姉の一番大変なときに、力になってあげたいと、ただその気持ちだけで、手を差し伸べた。でも、それが、あだとなってしまった。その大金の穴は、当然、自分の家計を圧迫した。父は、サラ金に手を出して、その短期の欠損を、乗り切っていこうとする。利子は、ほとんど暴利に近かったが、姉は、すぐに、お金を工面して、送金することを約束してくれていた。しかし、いつになっても、金が届くことはなかった。次第に、父にも、その金は全額返ってこないのではないかという、疑いが確信へと変わっていった。夫婦のあいだの絆は消え、信頼関係は失墜し、そのころの家庭は、本当に殺伐としていた。私は小さくて、よくは覚えていないけど、きっと、この身体は、今も覚えているんでしょうね。父も、他の兄弟に漏れずに、破滅への道を突き進んでいった。けれど、母の親戚の一人が、あるとき、その借金をすべて、肩代わりしてくれることを申し出てくれた。そして、その借金は、チャラとなった。利子をとられることはなくなり、あとは、その親戚に、毎月、少額のお金を返金していけば、よくなった。その親戚の彼女は、独身で、すでに、70歳を超えていた。資産は、ふんだんにあった。返す必要はないわと、彼女は言った。父の情況を、親身になって聞いてくれ、そういうことなら、どうして早くに、相談してくれなかったのと、逆に父を叱責した。そういう話。父は結婚して故、郷を離れたけれど、血による因縁は、ずっと纏わり続けた。けれども、彼の兄弟がすべて死んだとき、言葉は悪いけど、父は初めて、自由になったの。彼らが死んだおかげで。もちろん、怨念のようなものは消えてはいないのでしょうけど。それでも、父は、身軽になった。兄弟たちが残していった子供たち。私も含めて。もう世代は、次へと移っていた。けれども、ここでも、血の影は、完全には消えてなかった。もちろん、だいぶん、薄まってはいる。けれども、お金のトラブルは、少なからず発生したし、何より、結婚生活が、うまくはいかなかった。父の兄弟も含め、その子供たちも、ほとんどが、離婚という結末、迎えてしまった。添い遂げた夫婦は、結局、連れ合いが病気を患い、その影響で精神が発狂してしまった。ひどい最期を迎えてしまった。残されたほうは、自殺。もう、ほとんど実体は、崩壊してしまっていた。はやくに、離婚してなかったばかりに、こういった結末を、迎えてしまったんじゃないかと、そんなふうにも、私には思えてくる。私の両親だってそうだった。表面的には、仲よく、取り繕ってはいたけど。日々の生活は、実に殺伐としていた。お金の問題が、彼らの真ん中には、厳然と聳え立っていた。毎月の利子の支払いのために、母も必死で働いた。二人はどれだけ働いても、減らない元金を見つめながら、日々、心の交流を絶ったままに、働き続けた。私はその中で暮らしていた。
両親は、私に、心配をかけさせまいと、そんな話は、一切することなく、私自身は大事に育てられた。私が成人を迎える辺りで、少しずつ、真実を話すようになり、親戚の叔母が全額立て替えてくれたときに、すべてを、私に打ちあけてくれた。そのあいだも、父の故郷では、何らかの不幸が続いた。そのたびに、私は、父の家系の血の因縁について、思い煩うということが、繰り替えされた。私のルーツは、これなの。父が去年、他界してしまっても、その因縁は、消えることはない。しかし、人が死ぬというのは、おおかれ少なかれ、そういった感情の遺産のようなものを、浄化させてくれる。人が死ぬ意味といういのは、そういうことでもある。そのことを、私は学んできた。すべてを清算するために、人は死を迎えるものなの。死後の世界のことは、よくはわからない。でも、この世においては、確実に死ぬことで薄まる。だからって、死ねばすべてから、逃れられるのか。それは違う。でも、死後のことは、よくわからない。本人にとっては、それでも消えないものなのかもしれない。もっと増大しているのかもしれない。それまで以上に、のたうち回っているのかもしれない。私には何もわからない。この世ですべて、清算してからでないと、安らかな死の世界は、存在しないのかもしれない。でも周りに対しての、影響力は違う。自分が死ねば、その負の遺産は、確実に薄まる。ごめんなさい。初対面なのに、ぺらぺらと個人的なことを。それで、叔母への借金に変った、そのお金の全額を、すべて払い終えた時、父はあっけなく死んでしまった。彼の兄弟と比べてみれば、ずいぶんと、穏やかな死だったかもしれない。私の肩からも、何か、その重荷の一部が、取れたみたいだった。そして、四年生となった私は、すべての授業課程を終え、何もすることがなくなってしまった。ずっと、アルバイトをしてるだけだもの。それなのに、授業料を、おさめ続けるなんて、馬鹿みたいよ。
「俺は、君がどうして、そのような家系の最後に、位置しているのかがわかる。なぜなら、君は、歴史の目撃者だからだ。君はずっと、同じ運命を担ってきた。それは何度だって、繰り返される。過ちにしろ、失敗にしろ、成功にしろ、幸福にしろ、何度だって、人は繰り返す。誰かが、どこかで止めない限りは。でも、そんなことは、ほとんど起こらない。歯車は、同じ繰り返しを続ける。そして人は、同じ反応を取り続ける。同じ結末を辿り、そのことは、記憶に蓄積される。今度こそは、と思う。しかし、再び生まれ、同じような状況は、繰り返し現れる。同じクセは、繰り返される。馬鹿みたいな話だ。人は何故生まれてくるのだろう。同じ過ちを繰り返すためだけにか?君は何度も、そうした歴史の目撃者であった。そして、今度もまた、そうだった。君のお父さんが亡くなった時点で、君はその負の連鎖がすべて終わりで、自分とはまるで関わりのないものように感じている。そうだろ?それは過ちへの序章だ。俺はそれを阻止ために、こうして君の前に現れている。いや、本当は、こんなことを言うために、食事に誘ったわけじゃないんだ。でも今は、何故かそう思う。君の目の前では、そう、君には、いつも、直接的な影響はなかった。目撃者という立場が繰り返された。けれど、ここで、何の変化も起こさなければ、過去の過ちは、繰り返される。君はこれまで、見たり聞いてきたことを、そのまま無視して、過ごそうとしている。
自分には関係のないものとして、やり過ごそうとしている。しかし、そうすればするほど、その消えたと思っていた負の連鎖は、再び、君の肉体のもとで再現される。ないものとすればするほど、君の周りでは、その脅威が再び、吹き荒れることになる。俺に話してくれてよかった。手遅れではなくなる。大学に戻れ。今からなら、退学届は撤回できる。とにかく戻れ。確かに授業料は、無駄かもしれない。けれど、君はここから、逃げてはいけない。状況を受け入れろ。君のお父さんが死んだからといって、自動的に自由になれたと思うな。そんなものは、マヤカシだ。運命の罠に嵌るんじゃない。さっきも言ったはずだ。不幸も、幸福も、失敗も、成功も、すべては過去の繰り返しだ。それは新しい出来事ではない。すべて、過去にあったことの焼き直しにすぎない。そんな人生を送るために、君は生まれてきたんじゃないぞ。運命とは罠でもあれば、逆手にとれば、それは強力な味方にもなる。繰り返される状況の中、君はそれまでの癖で、同じことを繰り返してはいけない。無自覚に。無意識に、同じ対応をとろうとする。あのときだって、そうだった。あのとき?
「そうだ。エジプトが崩壊へと向かう、まさにそのときだ。エジプトの新しい流れに納得のいかなかった一部が、南米へと脱出して、新しい都市を築いた。しかし、あまりに極端な精神世界へと走り、最後には狂気が吹き荒れた結果、天地は不安定な状態へと陥り、崩壊していった。そして、数十人の神官は、その崩壊の直前に、再びエジプトへと戻った。エジプトはまだ、緩やかに、瓦解のプロセスを踏んでいた。神官たちの代表である男は、ファラオに直談判して、未来の崩壊した姿を伝えることで、ここで、自分たちと結託して、新しい国家の流れを、創造していこうと提案した。そのことを、君はすぐ傍で聞いていた。君はまさに、エジプトが崩壊を加速していくその分岐点にいた。分岐点そのものだといってもいい。君はそのとき、今と同じで、そのエキゾチックな風貌で、ファラオの傍に居たのだから。ファラオの愛人だったのかはわからない。けれども、ファラオに重宝されていたのは、確かだ。君は、ファラオに何か、助言をすることも、できたはずなんだ。けれども、君は、何も進言することはなかった。君はただの、傍観者に徹した。責任をすべて回避するために、自らの私情を挟むことをしなかった。自らの心の中に湧き起こってくることを、黙殺することで、そのときの自分の立場を、安定的なものにした。繰り返される運命に、そのまま抗うことなく、享受することに徹した。君は生涯、ファラオの傍で裕福な一生をまっとうすることになった。そのあと、君はインドに生まれた。インドではそれほど、裕福な家庭ではなかった。けれども、それは、エジプトのときも同じだった。君の家庭は貧しく、人間関係がいささか複雑だった。今さっき、君が語ったようなドロドロとした金銭問題を中心にして、兄弟の憎悪が怨念となって、渦巻いていた。しかしやはり、君が、二十歳を迎える頃には、その関係者たちは、すべて亡くなってしまい、君の周りには、誰ひとりとして、親族がいなくなった。そのとき、まるで図ったかのように、宮廷からお呼びがかかる。たまたま、君が道を歩いている様子が、ファラオの眼にとまり、宮殿の中へと招待され、そしてそこで働くことになった。マッサージの専門家としての人生が、スタートした。君は、今もまた、すべての身内が死んだことで、何か新しいチャンスが舞い込んでくることを、予期している。それは予知能力でも何でもなくて、すでに体験したことの、繰り返しだからだ。何度でも起こることを、知っている。だから、大学をやめた。新しい道がすでに、近づいてきている。君はすべてを知っている。今度もやはり、富豪か誰かの元で雇われ、囲われることになるのだろう。けれども、今度こそは、そこで繰り広げられた男たちの再会の場面においては、それを見て見ぬふりをしないでほしい・・・。自分の心の奥底から湧き上がってくることから、目を逸らさないでほしいんだ」
あなたが何を言っているのか、全然わからないわと彼女は言った。エジプトがどうだとかインドがどうだとか。全然、私の頭の中では繋がらない・・・。整合性のない気違いな話のように聞こえる・・・。あなたと会ったのは、間違いだった。何だかんだ言って、あなたは私を誘惑してるのよ。それだけは、はっきりとわかった。私の頭の中を攪乱させておいて、それならこんなことがあるよって、余計な唯一の選択肢を、ホイって差し出すつもりなのよ。それこそが罠よ。あなたは私を手に入れたいだけ。いったい、どうしてそんな気になれるの?あなた、気は確かなの?あなたは、あの汚い寺院の中では、働きもせず、お金を稼ぎもせず、遊んでいるんでしょ?ずいぶんなご身分よ。そうよ。わたしは、いつも、あなたのことを蔑んでみていたのよ。きっと、あの料理や飲み物の代金も、自分のお金ではないんでしょうねって。あなたは人間じゃないわ。家畜と同然よ。それでも、まだ、家畜は労働の価値がある。あなたはまったくの無価値。はやく、寺院の中に帰りなさい。同じような仲間が、たくさんいるんでしょ?快く迎えてくれるわ。せいぜい、みんなで傷のなめ合いでもしていなさい!私は違うの。あなたのような人とは、本来、こうして食事なんかする柄じゃない。ああ、どうして、こんな場所に来てしまったのだろう。気がどうかしていたんだ。きっと、親族が誰もいなくなってしまったことが、意外にも心にきていたのかもしれない。一人ぼっちになってしまったことが。でも、話を聞いてくれたことは、ありがとう。少し気は楽になった。もしかして、あなた、聖職者のようなものを、目指してるのかしら?人の悩みを解決へと導く、そういった役割を、果たそうとしているの?だとしたら、もしそうだとしたら、あなた、少しは向いているのかもしれない。私はそう感じた。今はまだ、私の心を、救えるレベルにはないけれど、いずれ、あなたはそうやって、人の中の、最も救われない心を、繰り返し堕ちていってしまうことを、止めることができるのかもしれない。あるいは、どこか、別の方向へと飛び立たせていくことが、できるようになるのかもしれない。けれど、私の言葉なんて、実は買い被りなのよ。あなたを、過大評価してしまっているだけなのよ。そのことはわかって。あなたは稼ぐことのできない、生活能力のまったく皆無な男に、変わりはないのだから。それだけは、声を大にして、言いたい。肝に免じておきなさい!あなたのような経済的破綻者には、私の心は掴めないの。私を守っていくことはできないの。あなたは、一生、どの女性とも一緒にはなれないし、子供を作る資格もない。でも、もし本当に、誰もあなたを相手にしないんだったら、私がボランティアで、あなたの子供を産んであげてもいい。でも、そうなると、私はあなたの忠告に、完全に背かないといけないわ。裕福な為政者の元で働く、その運命を、そのまま享受しないと生きてはいけないわ。
彼女は、その後、大学に復学する。
名前を訊いてなかった。
彼女は、レストランでのアルバイトを続けた。
そして、十か月後、彼女は大学を、卒業した。
レストランに現れることはなくなった。
私は、そのあいだ、ずっと、彼女と顔を合わせることはなかった。
わざと、彼女のいないときに顔を出し、食事をしていく以外に、不用意に近づくことはなかった。
店長の男とも、それから、親しく話しをすることはなかった。
彼は、もう寺院のことには、興味をなくしてしまったのか。
個人的に、私を呼びとめることもなかった。
彼女との食事はどうだったのかと、あの日の夜の出来事を、訊いてくることもなかった。
私は、あの日の夜、エキゾチックな風貌の女と、ホテルの一室に行っていた。
彼女の方が誘ってきたのだ。
彼女は部屋に入るなり、着ていた服を、脱いだ。
長いスカートを、ストンと床に落とし、ノースリーブを、首から抜き取った。
彼女の豊かな乳房が、あらわになった。
下着の一枚だけを、身に着けていた。
私は、その無駄な贅肉のほとんどない、豊満な肉体に圧倒されてしまった。
しかしよく見ると、彼女は案外、華奢な体つきだった。
全体としては、それほど、大きくなかった。
胸を中心に、上半身だけを、見たときと、頭からつま先、全体を見たときの、印象は、
驚くほど違った。
彼女は、
一言も発することなく、ずっと立ったままだった。
私は、彼女に近づこうとした。
あるいは、自分の服を脱ごうとした。
しかし、体は、硬直したままだった。
今、ここで、彼女を抱き寄せ、そして、彼女の中に、生命を宿したいという衝動に駆ら
れた。
しかし、そう思えば思うほど、体の自由は奪われていった。
性的な興奮とは、反比例するように。
性器も次第に、萎んでいってしまった。
結局。
私は、彼女と、一つになることはなかった。
私はそれまでも、数か月に一度、自分の彼女を、抱いていた。
性的な不具合など、かつて、一度も、経験したことはなかった。
とにかく、そのときの目の前の女は、服を着たとき以上に、エキゾチックであった。
褐色の肌は、発光していた。
裸で抱き合えば、歴史が変わるとさえ思った。
どうして、あのとき、勇気を出して、彼女をこの胸に引き寄せなかったのか。
たとえ、性的に不能だったとしても、抱きしめて、彼女の皮膚の感触を、経験しておけ
ばよかった。
彼女から抱きついてくることはなかった。
どれほどの時間、彼女は、私に裸体を晒していたのだろう。
気づけば、彼女は服を着ていた。
そして、ベッドの端に、ちょこんと座っていた。
私には、まだ、彼女を押し倒すチャンスがあった。
彼女も、それを待っているようにも、思えた。
しかし、そのときでさえ、私の身体は、動きを完全に止めてしまっていた。
ただ、意識だけが、時を前へと進めていた。
次に、意識を鮮明にしたとき、彼女の姿は、ホテルの部屋にはなかった。
そのあと、私は、何度も後悔を覚えた。
しかし、私は、やはり何度だって、彼女と二人きりになったとしても、抱くことはでき
ないのだと悟った。
彼女と、私のあいだには、強固な、目には見えない壁が、常に立ち聳えていた。
それを取り除かないかぎりは、同じ空間に、存在することはできなかった。
そうなのだ。
我々は、結局、同じ空間には、居なかったのだ。
可視的には、同じ次元に、存在しているようには見えたが、実体としては、まるで手
の届かない場所に、存在していた。
私は、彼女に、この想いを捧げたかった。
付き合っている女とは、また別の感情に支配されていた。
エキゾチックな女は、時間の壁を超越し、さまざまな歴史と共に、私に訴えかけてくるものがあった。
付き合っている彼女には、そんな所はまるでなかった。
エキゾチックな女は時代を超え、複数の場所に、それも、時代の最転換点に、象徴のような存在で立ちそびえていた。
もしかすると、私は、個人としての彼女に、魅かれたのではないのかもしれなかった。
もっと、実体のない、別の世界との繋がりを、彼女通じて、感じとっていただけなのかもしれなかった。
一人の女として、付き合い、ひとつになり、ときに生活を共にし、というようなものを、望んではいなかった。
それでも、私は、彼女のことを忘れることができなかった。
復学し、アルバイトを続ける彼女の姿を、完全に忘れてしまう日はなかった。
何をしていても、常に彼女の存在が、私の脳裏には刻みこまれていた。
寺院の中で、日々の暮しをしているあいだにも、あの風貌が、突如、眼の前にあらわれ、私を誘惑してきた。
一度、抱きたい。
あるいは、彼女という存在を、現実に消し去りたい。
そうだ。
あの女は、目障りな記憶のようなものだった。
解消せねばならない。
消して、闇に葬ってしまう以外に、方法はない。
私は、彼女に、強烈な殺意を覚えた。
あの女を、完全に抹消してしまいたい。
当初の軽い恋心は、すでにどこかに、吹き飛んでしまっていた。
私は、その日から、彼女に対する殺害計画を、目論んでいくことになってしまった。
いつ殺す機会が訪れるのだろう。
もうすでに、最大のチャンスは過ぎ去ってしまった。
ホテルで二人になったとき、彼女はほとんど、全裸に近かった。
あのときだった。
致命傷は、簡単に与えることができた。
彼女は、卒業後、やはり引っ越しをしてしまった。
彼女がその後、どうなったのか。
一度だけ、店長にそれとなく、訊いてみたことがあった。
しかし、彼は、何も知らなかった。
そもそも、彼女は、最後の一週間の出勤を、すっぽかしてしまったのだという。
そのままいなくなってしまったのだ。
最終月の給料は、支払われることなく、彼女は消えてしまった。
店長は、何か、事件に巻き込まれたのではないかと思い、彼女の親族に、電話をした。
しかし、そのとき初めて、彼女には身内がいないことを知った。
彼女の行方を、知る者は、誰もいなかった。
逆に、私に、質問してきた。
彼女のことで、何か知っていることはないかと。
そのとき、店長は、あの日の夜のデートのことを、話題に出してきた。
あの日から、彼女は少しずつ、様子がおかしくなったのだと、彼は言い出したのだ。
君と会った日からだ。
いったい何があった?
けれど、あれから、君たちが、親密な仲になったわけではなさそうだったし、でも、確実に、あの子の表情が、曇ることが多くなっていった。
働いているときも、気がついたら、物思いにふけってしまっていた。
お客さんの呼びかけにも、まるで、気がつかない。
間違った注文を、とってきてしまうといった、それまでの彼女らしくないミスが、目立つようになっていった。
大学の授業も終わり、卒業後の進路も、決まったことで、少し気が抜けてしまったのかなとも思った。
そんなとき、俺は、気がついた。
その、分岐点になるような事が、あったことに。
君だ。
君と会った夜からだ。
でも俺は、彼女にも君にも、何も問うことはできなかった。
プライベートなことに、首を突っ込みたくはない。
じゃあ、あれか。
親密でないとすれば、その逆だ。
君たちは、破局したんだ。
じゃあ、いつ、付き合っていたのか。
そんなのは、わからない。
付き合った期間があったのだろうか。
あるいは、そうかもしれない。
あの日の夜から、交際がスタートした。
それから、ほんのわずかの間に、別れてしまった。
それしか、考えられなかった。
俺は自分で、そう結論づけた。
君たちは付き合い、そして別れた。
それでいい。
彼女を、それとなく、元気づけようとした。
彼女が、おかしな店のやめ方をした、その二週間くらい前のことだ。
彼女は、店の前で、高級の馬車に止められた。
黒い服を着た紳士と、ずっと話こんでいた。
そして、その馬車へと乗り込んでいった。
そういう場面を、そのあと、三度ばかり見た。
その馬車は、そのあと、宮殿の中へと消えていった。
彼女は、おそらく、あの宮殿の中へと引っ越していった。
誰かに見初められたのかもしれない。
お妃の候補として、あの中で、誰かと密会しているのかもしれない。
私はそのことを、君に伝えたくて。
彼女は、すでに、我々一般庶民では、ないのかもしれない、ということをね。
私は、とにかく、寺院の中で、自分の瞑想システムを確立するための日々を、過ごした。
ただ単に、目を瞑り、呼吸に工夫を加え、心を鎮めるというやり方では、心の中の激しい葛藤を生じさせる傷痕を、永続的に塞ぐことには、貢献しない。
目を開け、瞑想をやめてしまえば、再び、痛みは再生する。
瞑想の最中だけしか、持続力はなかった。
確かに、その瞬間には、心は癒されている。
何年も、瞑想を繰り返した結果、確かに、半日くらいは、持続するようになった。
しかし、一度寝てしまえば、傷は再生する。
つまりは、根本的な接触が、できていないということだ。
私は、寺院を出ていくことができなかった。
エキゾチックな彼女は、すでに大学を卒業し、この街にはいない。
自分が付き合っている女も、すでに、忍耐の糸を切らしてしまっている。
別れて、別の男の元に走るのも、時間の問題だった。
しかし、そんなとき、私は結婚することを決意してしまった。
それまでは、自分が結婚をするなんて、考えたことすらなかった。
たとえ、相手が、誰であろうとも。
しかし、私は、突然決意をした。
これが、瞑想を日々、繰り返した結果なのかどうは、わからなかったが、あとは、彼女に直接伝えるだけだった。
寺院を出ていく算段はついていなく、彼女をどうやって、養っていくのかもわからなかったが、とにかく、このタイミングで、結婚をし、一人の女に対して、心を完全に開きたいと思った。
しかし、そういった想いが、高じていくにつれて、脳裏にはあの、エキゾチックな女性の残像が、色濃くなっていく。
彼女に、捧げようとまで思った。
自分なりの新しい瞑想を開発し、そしてそれを、彼女に捧げようとしていた。
その相手は、付き合っている女ではなく、あのエキゾチックな女の方であった。
あの女は、いったい、何者なのか。
私との、本当の関係を、知りたかった。
今はもう、叶わない、彼女との再会を思い、心苦しくなっていった。
私はどうして、こんなにも、瞑想に惹きつけられ、新しい方法を開発するために、必死になっているのだろう。
自分のことと、そして、女二人のこと。
三つのことが、細かく入り乱れ、同化し、そしてまた、分裂していった。
私は、寺院に入ってから初めて、出ていくタイミングを、模索し始めていた。
近い将来、といっても、何年先になるのかわからなかったが、そのとき、私には妻
がいる。
ここを出る直前に、結婚を済ませている。
そして、エキゾチックな女性とも再会している。
どこで、再会したのかはわからない。
けれども、私の傍にいる。
妻と私は、二人で同じ仕事をしている。
二人で一つのことをしている。
一心同体となっている。
その仕事に関連して、あのエキゾチックな女性も、そこに存在している。
一心同体ではないが、我々の仕事を手伝っている。
仕事場として見てみれば、妻よりも、その女性の方と、場所を共にしている時間が、圧倒的に長い。
私は、我に返った。
今、目の前に、そんな現実はなかった。
たまに、レストランを覗くことはあったが、そこに彼女の存在はない。
代わりに、若い男が、彼女の穴を埋めるべく、連日のように働いていた。
私は、その男に対する悪意が、何もないにもかかわらず、ひどい憎しみを抱くことになった。
死んでしまえと、呪いをかけるかのごとく、激しい闘争本能が生み出されていた。
私は、そんな激しい憤りをも、受け止め、自分の肉体と一体化させ、その自分の肉
体を、空へと浄化させていくようなイメージを、繰り替えしおこなった。
次第に、憎悪は、消えていった。
私は激しい感情に襲われるたびに、同じことを繰り返した。
私は反復することで、感情を安定させ、自分の瞑想を進化させるべく、その糸口を、探り続けたのだった。
すべては、絡み合っている。
私も、寺院も、レストランも。
この土地における、建造物や、人物の配置さえも。
すべてに意味があり、綿密な計算のもとに、存在しているのではないかと。
そんなふうに、感じ始めた。
私の身体の周りには、薄い半透明な空気の膜が、現れていた。
私は、その膜に包まれていた。
それが、瞑想の影響なのかどうかはわからない。
すぐに消えるものだと思っていた。
しかし、膜は夜になっても、寝たあとの朝になっても、消滅することはなかった。
そして、その出現を感じたのを境に、どんどんと、その持続力を増していくようにも感じられた。
私は、薄い膜に、覆われている。
そして、それは、物理的に、瞑想状態が、目を開けている間も、誰か人と話しをしている間も、何か別のことをしている間も、そのことに、影響されないということを、発見したのだった。
それからだ。
私の瞑想は、劇的に変化した。
まずは、目を瞑ることがなくなった。
瞑想だけに、集中するということがなくなった。
常に、何か、別のことをしながらというのが、基本的な形となった。
体を動かしながら。
特に、手を動かしながら。
私の中に、自信が蘇ってきていた。
この状態が、完全に自分のものになれば。
寺院の外でもやっていける。
確信した。
どんなことが起ころうとも。
何がやってこようとも。
それを遮断し、目をつぶることなく。
瞑想の中で、すべてを、生きていくことができる。
それが、私が到達した、この寺院における、生活の最終的な姿だった。
シカンは依頼されていた映像の仕事に対する、アイデアを模索する一方、それとは別に、自発的に湧いてきたイメージに対する、スケッチを繰り返し、脚本作りにも着手していたため、いったいどれがどれなのか、混在してしまっていた。
気づいたときには、メチャクチャになっていた。どれも整合性が取れず、けれども、そのすべてが、密接に絡み合っているような気がした。
こんな状態は、もう末期状態だとシカンは判断した。
古い満月は、完全に、崩壊の直前であった。
もう、こんなことは、いい加減にしてくれと、シカンは行き場のない思いを、未来へと託そうとしていた。
シカンは、この一続きになった創作物を、もう一度読み直し、そして、所々、分離させることで、それぞれの仕事に割り振ることにした。これで終わりだった。
この今の情況からは脱退する。今いる世界からは、遠く離れる。遺書のようなものだった。ここで打ち切ろう。仕事の依頼はすべて断り、休業する。そのままリタイヤすることになるかもしれない。シカンは、預金残高を確認した。最後の仕事がもたらすであろう、金銭の予測も、その残高に加えた。そして、シカンは、家を購入することを決意していた。
前々から、ずっと目をつけていた物件があった。それはクリスタルガーデンと呼ばれる高級住宅だった。
大理石がふんだんに使われた近代的な屋敷だった。庭には南国の植物が生息し、その世話は、管理会社が随時手入れしてくれるということだ。
シカンは結婚もしたかった。その家で一緒に暮らす女性が欲しかった。それは万理が最も理想的だった。しかし叶わなければ、別の女性でも構わなかった。とにかく彼は、それまでの生活を一変したかった。そのきっかけとなるのが、このクリスタルガーデンの購入だった。
シカンは、購入後のことに、思いを馳せた。
GIAは霧が晴れていくなか、次第に「ゼロ湖」が消滅していっていることを知る。
街は静かに眠りから覚めるように、じょじょに姿を現してくる。
GIAは、一つの高層ビルに目をつけた。その一階の出入り口から、一人の男が外に出てくる様子を目にする。GIAは下降していった。この男で間違いはないかと、自分に問いかけた。そして間違いないことを確認すると、その男に狙い定め、GIAは最速で彼を目掛け、地上へと高度を下げていった。あっというまに男と同化した。
その瞬間、男の情報が一瞬で、GIAの方に流れてきた。
男は、寺院から外の世界に出る、まさにその時だった。
超高層ビルの中には、時代を超えた寺院が存在していた。そこに、彼は長いあいだ、出家のような状態で修行に勤しんでいた。そして彼は、別の段階へと移っていく決意をした。この高層ビルは、その寺院と都市を繋ぐ、出入り口そのものだった。男に結婚を約束した女性がいることや、また別に恋をしている女性の存在が、いることも、GIAは知った。
男がこの街で何を成し遂げたいのか。
どんな目的と、計画を持って現れたのか。情報はすべて、GIAに流入していた。
男と一体化したGIAは、そのあと地上を滑走して、再び宙へと舞い上がり、ジェット機のように、空に向かって飛び立っていった。
この街もまた、男にとっては、乗り継ぎの飛行場のようなものだった。
GIAは、彼を拾い、彼という存在を投入する新しい世界を目指し、飛行していった。
男はまだ、目覚めてはいない。彼はおそらく寺院を出たときから、意識を失ったままだ。
GIAは加速していった。久しぶりに乗せる人間の存在に、心は躍った。目的地に到着することが、GIAには少し、名残惜しかった。ずっとこのままの状態を保っていたい。それが本音だった。
しかし、すでに、GIAは男と同化していた。男に仕えるという立場になった。
男からのオファー、リクエストに、最大限応えるべく動いていくことになる。男からの情報が、そのすべてだった。
目的の場所へと到達したとき、GIAは意識をなくした。男は目覚めた。
こうして一体となって、飛行していたという記憶も、彼は持つことはなかった。
寺院にいたという記憶さえ、曖昧になっていた。おぼろげに思いだすことはあるだろう。だが、この乗り継ぎの飛行のことは、いっさい忘れている。それでも、GIAは、彼と完全に同化していた。
景色は、次第に雲の中を突き抜け、機体は大気圏へと突入する。暗闇が続く。星が輝いている。天体がいくつも見える。赤く輝いているものから、青く輝いているものまで、さまざまな色が混じり合っている。
その天体の輪郭が、鮮明になってくる。
GIAはいよいよだと、心を引き締める。
大気圏に突入するときには、まだ意識はあるだろう。空から地上を眺め、男が降りることを、心から願う大陸の存在を確認するところまでは、鮮明に覚えているだろう。
その後、その大陸が発する空気の層の中へと突入したとき、そのときに、GIAの意識は完全に消滅することになる。
こんがらかったピースが宇宙のゴミのように散らばっている。
それが一つの意志のもとに集まり、一ピースごとに意味を帯びてきている。
それぞれが本来の位置へとつく。
突入する星の名前は、【エリア151】。
GIAは、その星に向かって、加速度を上げていった。だんだんと意識は薄れてきていた。
再び暗闇から白い霧の情況に変わる。雲が一面を覆っている。それを過ぎる。海と大陸の姿が見えてくる。どの大陸に降りていけばよいのか。発光していた。その大陸だけが青紫色に発光していた。GIAの車体は赤く燃え始めていた。異なる色同士が、これから合流することを確認し合っている。
GIAは大陸のほとんど真上に来ている。そこから、真ん中へと狙いを定め、そして直滑降で落ちていく。
その大陸は、【バルヴォワ】と呼ばれた。
GIAは大陸の真上に位置したときに、その情報を読み取る。
GIAは、近い未来に合体する対象物の、全情報を、一瞬で把握できた。
バルボワ大陸の他にも、大陸はいくつもあった。その大陸同士は、まるでパズルのピースのように、その配置を常に変えていた。
GIAが、下降する瞬間、それぞれの大陸は暫定的に固定される。
バルボワ大陸の中心地は、【バルヴォワ・クォンタム・DC】と呼ばれ、その大陸の中に存在する情報が、極端に集中している場所だった。
バルボワ大陸と別の大陸との配置が、時間と共に変わっていくその様子は、【アトランズタイム】と呼ばれていた。
バルボワ大陸の中には、GIAの車体と同じ赤色が、点在する場所があった。
【レイライン】だ。レイラインが何を現しているのかは、GIAにはわからなかった。
しかしそれは、自分が知る必要はないことだった。<男が>、バルヴォワ・クォンタム・
DCの中で、認識する必要があるものだった。
GIAは、バルボワの気流と、ほぼ同化した。
そして、GIAは、この大陸の中心へと、男のDNAを落としこんでいった。