(1)精霊の策謀
精霊界は今日も平和である。
ミコトは今、精霊界の一つである妖精の国に滞在していた。身がすくむほどに巨大な世界樹の根元から広がるように、妖精たちの見事なツリーハウスが低空様々に乱立している街並みは、緑豊かな自然と空想的芸術を織り込んだような不思議な色合いに満たされている。
魔力を宿した淡青のカンテラで照らされた街道には、北欧神話でも有名なサラマンダーやらウンディーネ、果ては他国の神話出身のエルフまでが昼夜を問わずに行き交っている。人間離れした美男美女ばかりしかいないため、半分人間の血を引くミコトの姿は否応なく浮いていた。
わけあって人間界から身を引いたミコトは、精霊界に来てからずっとここで暮らしている。今はエルフの師匠のもとで魔法の研究にいそしむ生活をしているのだが、容姿は浮いてしまうわ、師匠が面倒くさいわ、極めつけは全く予想外なことばかりをしでかす精霊たちに囲まれていて、心身ともに疲労が続く日々である。それでも居心地がいいと思えるぐらいには、ミコトは妖精の国を気に入っていた。
「あ! 半人のお兄ちゃんだー!」
「またお師匠様のところに行くのー?」
「今日ぐらいおれたちと遊べよー!」
師匠に買出しを頼まれて歩いていたミコトを、近所の精霊の子供達三人が目敏く見つけて駆け寄ってきた。うち一人であるサラマンダーの男の子が、ふざけ半分にミコトの背中に飛び蹴りをかました。持っていた食料の入った紙袋が危うく手元から浮きかけて、ミコトは軽く悲鳴を上げた。
「うお! バカ、危ないだろ」
やんちゃなサラマンダーの少年にミコトが軽くチョップをかますと、彼は痛がるフリをしながら「ごめんなさーい」と心にもない謝り方をした。
その後ろから遅れてきたエルフとウンディーネの少女が、母親の真似をするように「コラ!」と声を張り上げた。
「ダメだよー! いきなり人の背中に飛び蹴りしたら!」
「君のお父さんに言いつけちゃうぞー!」
「うひゃあ! それだけはやめてくれよー!」
サラマンダーの少年は二人の少女の脅しに涙目になった。エルフとウンディーネは楽しそうにキャッキャッと笑いながらサラマンダーの少年をからかい始める。
こういった子供同士の戯れを、つい最近までミコトは苦々しく眺めていることが多かった。
精霊達はみな不老不死で、目の前にいるこの子供達も例外ではない。彼らはおよそ千年ほど前からずっと子供のままだ。つまりこの子供達は年齢的にはミコトより何倍も年上だ。見た目を考慮しなければ、目の前の光景は老人会の温かな戯れと等しいのである。
例え精神年齢的に老人会でも、それはそれで可愛いものじゃないかと納得できるようになったのは、つい一年前。やっと精霊界に慣れてきた証拠だろうとミコトは明るく捉えておく。
不意に、ウンディーネの少女がサラマンダーのほっぺたをつつきながら、ミコトにこんなことを聞いてきた。
「半人のお兄ちゃんは、いつ精霊になるのー?」
無邪気な言葉にミコトは少したじろいてしまう。
半人、というのは半人半精霊の中途半端なミコトのことを指している。蔑称ではないが、彼ら精霊と区別されているような気がしてあまり好きな言葉ではない。
子供じみた疎外感を表には出さないように、ミコトは苦笑しながらウンディーネの少女に言った。
「いつって言われても、いつか勝手になるもんだよ」
「そうなったら人間界に帰らない? ずっと一緒?」
「ああ。精霊になったら、ここに移住するのも良いかもな。この国に師匠がいるのが問題だけど」
「やったー! ずっと一緒だって!」
ウンディーネの少女に抱きつかれながら、ミコトは精霊の国の街並みを眺めた。
妖精たちの作り上げた美しい街並みは、温かみがあり見ていて癒される。暗い木々の隙間から覗く月明かりと淡いランタンの色合いは、日本の実家から見上げた星空によく似ていた。
人間界から隠居した、半精霊の自分が移住するにはうってつけであろう景色だ。
ぼんやりと幻想的な景色に見入っていると、ケチをつけるように風に乗ってきた焦げ臭さが鼻についた。
「なんだ?」
顔をしかめながら視線を巡らすと、街の一角から真っ黒な煙が上がっているのが見える。その上空には黒い蝙蝠の翼を広げて高笑いする大柄な男がいた。
頭に生えた山羊の捻じれ角に、浅黒い肌。ほぼ半裸の服装からして、あれは隣国の魔の国に住んでいるはずの魔族である。
「ひゃっはっはっはっは! よぉフェアリーのザコども! 暇だから殺しに来てやったぜぇ!? 感謝しろ!」
支離滅裂な発言の後にその魔族は両手を頭上に掲げた。するとどこから現れたのか、似たような恰好をした他の魔族が飛来してきた。合計三十人前後の軍隊が、最初の大男を筆頭に同じポージングをし、浪々と声を一斉に張り上げた。
『蔓延る闇に身を潜めし 悪食なるものよ 飽食の晩餐に舌先を伸ばせ さすれば更なる贄を与えん!』
極少数の中学二年生が聞けば手を叩いて喜びそうなセリフが響き渡る。しかしあれはふざけているわけではなく、魔法を使う際には基本的に必要な詠唱である。
魔族たちの唄に誘われたかのごとく、周辺を漂っていた魔力がごっそりと彼らに吸い込まれていく。高密度の魔力が一か所にとどまるせいで、遠くにいるミコトでさえも肺が潰されてしまいそうなほどの圧に襲われた。
長い詠唱が終わった瞬間、魔族たちの頭上に集まった魔力がふっと濃縮され、突如として極大魔法陣が展開された。五角形や六芒星、その他幾何学模様を内包した円が、禍々しい紫色で街を照らしあげ、人々の影を歪に引き延ばしていく。
この街一帯を覆い尽くすほどの魔法陣は、ミコトの両目に明瞭な悪意を焼き付けた。一瞬で喉が干上がってしまい、かすれた吐息が歯の隙間から滑り落ちる。何が起きるかは全く想像がつかない。ただ間違いなく、街にいる精霊たちを完膚なきまでに蹂躙し、安息を奪い去っていくだろう。
額から汗を伝わせるミコトのそばで、エルフの少女が笑顔で魔法陣を指差した。
「わぁ、綺麗!」
「感心してる場合か!」
萎えそうになる足を鞭打ち、ミコトは子供達をまとめて抱きかかえて建物の中に飛び込んだ。
数秒遅れて、建物の外で無数の弾丸が驟雨となって降り注ぐ。雨が大地を砕き、耳がイかれそうな爆音が四方八方から押し寄せた。
数秒もしないうちに窓が砕け、天井代わりの木々の枝がパラパラと上から落ちてきた。ミコトは子供たちの頭をかばい、衝撃が収まるのを待とうと身を固くする。
だというのに、耳元でサラマンダーの少年が大声で抗議しだした。
「兄ちゃん、何で隠れんだよ! 外見えないじゃん!」
「いやいやいや! 外にいたら蜂の巣だぞ!?」
「わたしもちゃんと見たいー!」
「待てこら!」
常識外れに状況を楽しんでいるエルフの少女を抱き止めながら、ミコトは真っ青な顔でいまだ雨に穿たれる外を見た。
綺麗に舗装されていた道が、無数の砲弾を受けたように凹み、陥没していく。近くの建物からは鮮血が飛び散っているのが見えた。
ミコトたちがいる建物は防御魔法が常に使用されていたおかげか、こうして無事でいるものの、もしまだ外にいたら体の原型をとどめていなかったかもしれない。
やがて死の雨が止み、魔族たちの哄笑がやたら大きく響き渡った。
「ふっはっはっはっは! さぁ! 掛かって来いフェアリーども!」
先の攻撃で、街の精霊たちはほぼ殲滅された。人間界であれば、間違いなく「掛かって行けるわけないだろ!?」と理不尽な言葉としてとらえられただろう。
しかしここは不老不死の精霊の世界。魔族が楽しそうに遊びのお誘いを入れてくるのは当然だった。
「「「「「うおおおおおおおお!!!」」」」」
勇ましい怒号が街中から轟いた。
ミコトは子供たちのそばから離れて、眼元を引き攣らせながらドアから外を覗いてみた。
刹那、鼓膜をたたく心臓の拍動が止まりかけるほど、恐ろしい光景を目の当たりにした。
魔族とは反対方向の街道から、腕が千切れてたり頭が陥没している妖精たちが、武器を持って魔族たちに殺到する。そして、魔族と問題なく交戦し始める彼らの、心からの叫びがミコトの元まで届く。
「俺の家ボロボロになっちまったじゃねーか! 新築なんだぞ!」
「店の売り物がダメになったじゃない! 弁償しなさい弁償!」
「ヒャッハー!! 魔族だー! 戦だー!!」
「Oh………」
瀕死の怪我でも生き生きと魔族に食ってかかる彼らを見て、ミコトは変な声が出た。
いくら不老不死だからって、痛覚ないからって、あそこまでやるか? やらないだろ普通。美男美女がゾンビ見たく血まみれの格好で、一様に狂気的な笑顔を浮かべている光景は誰得か。
ちなみにこの争い、精霊にとっては魔族の襲撃ではなく遊びである。突発的に血が流れる運動会を、妖精たちと魔族たちはゲーム感覚で楽しんでいるのだ。発狂した彼らの満面の笑みを見れば、どれだけ楽しいか推し量るのは容易である。
精霊界ってやっぱり異国なんだな、としみじみ思いつつ、ミコトは危機から免れた三人の少年少女を見やった。彼らも戦いたそうにウズウズしていた。
「半人のお兄ちゃん! 行こうよ!」
「行こうよ殴り込み! 二ヶ月ぶりの祭りだよ!」
「男なら行くべきだろ! なぁ!」
エルフの少女を皮切りに口々に遊びの誘いを受けて、ミコトは後ずさる。
「いや、俺はお前たちと違って痛覚が残ってるから。遠慮しとく」
丁寧に断ったつもりだったのだが、子供たちは不満そうに頬をむくれさせた。ミコトがさらに謝罪の言葉を重ねようとしたとき、ふっ、とウンディーネの少女が消えた。
瞬間、後ろからガッチリと水でできた腕に掴まれる。反射的に振り返れば、案の定ウンディーネの少女がそこにいた。人魚じみた妖艶さをにじませながら、少女は白々しくのたまう。
「楽しいことはみんなで分ける! それがわたしの家訓なの! 嫌でも連れてっちゃうぞー!」
「待て、待ちなさい! 俺一応半分は人間だから! 痛いのだめなんだって!
「じゃあ痛くないように、傀儡魔法かけてあげるー!」
がくん、と体の制御がウンディーネの少女に持っていかれ、白昼夢に取り残されたように体が動かせなくなった。
(痛覚どころか体の感覚がなくなったんだけど! ねぇ!)
必死の形相で心の叫びを伝えようと試みたが、ウンディーネの少女はむなしくもミコトから視線をそらしてしまった。
「みんなー、 いっくよー!」
「待ってマジで!! 死ぬ! 死ぬ!!」
「「せーのっ!」」
「ほいさーっ!」
「ぎゃあああああああああ!?」
エルフの風とサラマンダーの炎の合体魔法が背後で炸裂し、ミコトは三人の子供たちを連れてロケット花火になった。
もちろん行き先は戦場の真っ只中。
「とめ、とま、止まってくれええええええええええ!」
腹の底からの絶叫と懇願が情けなく戦場に響き渡った。猛スピードで駆け抜けていく景色の端々にこちらを見て爆笑する妖精たちが見えた気がしたが、正直気にしていられるほどの余裕は微塵もなかった。
カラフルな魔法が飛び交う中に紛れ込んで、ミコトは剣戟が繰り広げられている前線へ飛翔し続ける。その様子はさながらスーパーマンだった。一方根性なしのヒーローの背中に乗った三人の子供は、ミコトの悲鳴をBGMに戦争祭りを楽しんでいる。
「わぁー! あ! あそこお母さんの魔法陣!」
「おれの親父が魔族の足切り飛ばしたー! かっこいいぜぇ!」
齢千の子供たちの口から聞きたくない台詞である。
ミコトは涙目になってウンディーネの傀儡魔法をやっとの思いで解くと、戻ってきた体の感覚を確認しながら体内の魔力を手のひらに集めた。
半人が戦地にいるのは、猛獣の前に全裸で立っている状況となんら変わりない。ここから一刻も早く抜け出すには適当な理由でも子供たちから離れる必要がある。後で腑抜けだとか根性なしだとか罵られるだろうが、ここで痛い思いをするよりは遥かにマシなはず。
ミコトは召喚陣を脳裏に思い描きながら、子供たちが大好きな使い魔の召喚を行った。
「こい、ラフィール!」
『キュイー!』
手のひらを中心に直径一メートルほどの召喚陣が現れ、中央から真っ黒い仔犬が飛び出した。そのもふもふの背中には黒曜石を結集したような翼が生えており、空中を飛翔するミコトの隣を難なく並走し始める。
「あ、ラフィールちゃんだー!」
狙い通り、一気にテンションを上げるエルフの少女。その後ろに続いてウンディーネとサラマンダーも黒い犬姿のラフィールに歓声を上げた。小犬一匹で大喜びする無邪気さにミコトは色々とどうでもよくなってくる。だからといって一緒に死地に行きたくはないが。
まだまだ遠い戦場を見据えながら、ミコトは飛翔速度を抑えるために風魔法を逆噴射した。
「えー遅くしちゃうのー?」
「前線は危ないから、ラフィールと手前で遊んでこいよ」
「むぅー、お母さんとおんなじこと言うのね」
不満げな子供達を宥めながら戦場に安全着陸する。そこはすでに先陣切った大人がはっちゃけた後で、あれだけ綺麗だった街並みが更地になっていた。
「戦さば終わったら畑耕すべー」
血まみれの桑を担いだ、太ったノームが鼻歌を歌いながら脇を通り抜けた。殺気がまるでない平和なコメントに毒気を抜かれて、ミコトはちょっとだけ笑いそうになる。
彼らにとってこの遊びは、延々と続く時間の暇つぶしでしかない。退屈しのぎで死人も出ないし、被害総額はともかく軍資金には金はかからない。精霊界では、戦争も平和そのものだった。
ミコトは深呼吸して緊張を解すと、何も言わずとも待機している子供たちを振り返った。
「じゃあ俺はちょっと用事あるから。お前らも死なないからって突っ込みすぎるなよ?」
「「「はーい!」」」
遠足かこれは。
ミコトは苦笑しながらツッコミを飲み込んで、召喚した仔犬のラフィールに話しかけた。
「子供たちの後は頼んだぞ」
『キュイ!』
犬らしからぬ返事をして、ラフィールはバッサバッサと子供たちの周りを飛んでから、先導するように比較的争いが激しくない場所へ向かい始める。子供たち三人は素直にラフィールを追いかけ、ちらちらとこちらに手を振りながら走り去っていった。
ミコトは完全に三人の姿が見えなくなったところで、さっさと危険地帯からおさらばしようと、街の原型が残っている場所へ走り出した。
進めば進むほどに爆裂魔法の騒音が遠のいていき、徐々に強張っていた足も滑らかに動き始める。戦場から離れていくとはいえ、弾かれた魔法が流れ弾となって着弾する距離に変わりはないので、ミコトは用心深く防御魔法を己にかけておいた。
精霊界は景色も美しくみな人が良い。だから人間界よりも暮らしやすいことは確かであるが、こういった戦争もどきの祭りだけは、どうしても受け入れがたい。半人をやめて完全な精霊になれば、いずれは彼らと同じく楽しい行事として、師匠や先ほどの子供たちとともに待ちわびることになるのかもしれないし、それならば早く精霊になってしまおうとも思うのだが、ミコトはいまだに精霊化の儀式を行う決心がつかなかった。
人間をやめてしまうのが恐ろしいのか、それとも人間界に残した友人たちにまだ未練が残っていたのか。
家族代わりとなった彼らに別れを告げる間もなく逃げ出してしまったことが、後を引いているのか。
防御魔法があるからと、ミコトは平然と考え事にふけっていた。そのせいで、ミコトは目の前の地面に浮かび上がる巨大な影が、まさかこちらを狙っているとは予想もしなかった。
影が自分の背中にかぶさったところで、ようやくミコトは不自然さを感じて後ろを振り返った。
赤い飛沫が軌跡を描く。
右側の視界を削り取るように迫る刃物から、ミコトは咄嗟に身を伏せて回避した。
「うお!?」
九十度に曲げたお辞儀で頭上の剣撃をやり過ごすと、ミコトは大きく後ろに飛んで襲撃者の容貌を確認した。
そいつは、魔族にしては小柄ながらも、鍛え抜かれた筋肉が服越しに浮かび上がっている。鎧を一切身に纏っていないのは、攻撃が当たるわけがないと言う自負があるからか。ツンツンと跳ね上がった髪が、ワックスを塗りたくったかのように血で濡れ滴っている。
魔の国で狂剣士と名高いアシェエマ軍隊長が、大剣を肩に背負いながら、鋭利さの目立つ顔をミコトに向けていた。
「誰かと思えば、半人か」
アシェエマのそんな発言は、今気づいたというよりは、お目当てのものを見つけたというニュアンスを感じた。呆れと恐怖で頬をひきつらせてミコトは低い声を出す。
「分かってて攻撃しただろお前。つか俺だからやったとかじゃないよな」
「そうに決まってるだろうが」
俺が何をしたっていうんだ。
ミコトはアシェエマと一応の面識はある。しかしそれは二年も前の、精霊界に来たばかりの時に魔王ヌーヴァスにお目通りが叶った時の一度きりである。今が来るまで一言も会話を交わしたことがない男が、なぜピンポイントでミコトを狙ってきたのか意味が分からない。
訝しげかつ情けなさ満載の表情でミコトがアシェエマの無骨な顔を睨み付けると、彼は鼻を鳴らしながらこう答えた。
「ふん、魔王ヌーヴァス様に刃を向けたこと、我はまだ許していない」
「え、それだけで?」
確かにミコトは刃を向けたが、それはヌーヴァスが「模擬戦やらない?」と誘ったからであって、決して悪気があったわけではない。合意の上だし、ヌーヴァスが先に喧嘩を吹っかけてきたのだ。
そんなことは近衛のアシェエマも重々理解しているだろう。要は理由をこじ付けてでもミコトと戦いたいだけなのだ。
「なんで俺なんだよ。二年前ヌーヴァス君にあっさり負けたの、お前も見たじゃん。ここで俺を切ったって剣の手入れに時間がかかるだけだから。俺じゃなくてほかの精霊斬ってこいよ」
「オマエでなければ意味がない。さぁ剣を構えろ」
どうあってもアシェエマはミコトのことを斬りたくて堪らないらしい。魔王の近衛兵士であるアシェエマから逃げられるはずもなく、一度喧嘩を買わないかぎりは平穏が来ないだろうことは容易に察せられた。
ミコトはどうしてこんなことにと涙目になりながら、左手に召喚陣を描き、右手をそこに突っ込んで魔剣を取り出した。魔剣を見たアシェエマはむっと目を見開くと、肩に背負った大剣を下段に持ち替えながら鼻で笑ってきた。
「ふん。そんな安物で勝てると思っているのか」
「金欠なんだ許せ」
ミコトの魔剣は確かに安物だ。アシェエマの持つ大剣と比べれば雲泥の差であるが、得物の質だけで相手に勝てないわけじゃないのだ。それにもし負けてもめちゃくちゃ痛い思いをするだけ。だが痛いのは嫌なので絶対に勝って師匠の元に逃げ帰らねばならない。
ミコトはまたぞろ乾いてきた喉に唾を落とし込んだ。呼吸を整えつつ、剣を正眼に構える。
一拍の後、同時に大地を踏み抜いた。
常人離れしたスピードで彼我の中央で交錯する。
鬼気迫るアシェエマの顔を見ながらミコトは必死に恐怖心を抑え込み、大剣を魔剣で受け流しつつ懐に滑り込ませた。大剣の柄の部分に刃がぶつかる寸前、ミコトは魔剣を跳ねあげてアシェエマの鳩尾へ突き刺そうとした。
しかしアシェエマは冷静にそれを躱し、大剣を地面に突き刺して両足で蹴りを放ってくる。間合いを図りつつミコトは後ろに飛び、魔力を込めながら右手を翳した。
『炎よ!』
ボシュ! と火球がアシェエマの腹を撃ち抜く。
直撃したはずなのにアシェエマは怯んだのみで、地に刺さったままの大剣を手放して空手で打ち掛かってきた。
目に追えない速さの拳を魔剣の腹で何とか受け止める。だが勢いまでは殺し切れずに、ミコトの体はどんどん押し込まれてしまう。反撃しようにも、殴られた際のノックバックのせいでリーチが足りず、防御に徹するしかなかった。
何度か受け止めるうちに、ミコトの安物の魔剣にヒビが入った。気づけば、後もう一発喰らえば魔剣が砕け散ってしまいそうなほど危うい状態になっている。
ミコトは舌打ちを堪え、アシェエマが右手を振りかぶった瞬間に両足を浮かせた。
かぃん! と魔剣が中程から砕け、アシェエマの殴った勢いが分散する。おかげで先と違ってノックバックはなく、リーチが届く。
打ったままのアシェエマの右腕にミコトは摑みかかると、左手に握ったままの折れた魔剣をアシェエマの顔面に突き刺した。
左目頭から右鼻の穴にかけてアシェエマの顔が陥没し、勢いよく血が噴き出す。しかしこれで動けぬ近衛兵士ではない。
顔半分を剣に埋もれさせながらアシェエマは叫んだ。
「来い!」
後方で刺さったままの大剣がひとりでに動き出し、彼の左手に収まる。同時に勇ましいアシェエマの右手が翻り、ミコトの首を握りしめた。
「ぐっ」
呼吸を塞がれ本能的な焦りが生じる。それでもミコトは顔に刺さった魔剣を強く握りしめた。折れた魔剣は自身を修復させようと順調にアシェエマの魔力を吸い、ミコトの手元で眩く輝いている。
アシェエマの大剣がミコトの心臓を狙う。
ミコトは首をへし折られないよう歯を食いしばり、刺さったままの魔剣に魔力を込めた。
『誘え 魔獄氷!」
バシィイッ!
アシェエマの魔力を吸い取った魔剣が、彼の頭部に氷牙を穿った。
目の前でアシェエマの鼻から上の頭が吹き飛び、さらに傷口から全身にかけて霜が降りた。冷気は魔剣を握るミコトの腕までも侵し始めたが、幸い主を殺す手前で魔力が尽きたらしく沈黙した。
ぱきん、と凍ってもろくなったアシェエマの右手が砕け、握られていたミコトの首が解放された。足から地面に崩れ落ちた瞬間、塞がっていた気道が広がり、今まで意識の外にあった苦しさがこみ上げてきた。
「ゲホッゲホッ」
噎せながらじりじりと這いつくばり、凍って動かないアシェエマから離れる。周囲では相変わらず爆裂魔法やら気が狂った笑い声が散らばっているものの、ミコトたちの場所に流れ弾が飛んでくるような気配はなかった。
戦いの途中で乱入してくるような精霊がいなくてよかったと心底思う。一対一でなければ、逆にミコトが肉片にされていた。
休憩がてら周囲の妖精や魔族たちが遠くで殴り合っているのを見ていると、アシェエマの体がようやく修復に入り始めた。吹き飛んだ頭が逆再生のごとく綺麗に戻って、凍った肉体が湯気を上げて溶けていく。やがて風呂上がりのように前髪を掻き上げたアシェエマは、ミコトに対して満足げに笑いかけた。
「今のは予想外だったな。まさか安物の魔剣にそんな力があるとは」
「安物でも使いようってもんがあるんだよ。あとで弁償な」
「ふっ……人間は金にうるさいな」
「やかましい」
胡坐をかきながらミコトが吐き捨てれば、アシェエマは美貌に笑顔を浮かべておもむろに懐に手を伸ばした。ぐしょぐしょになった服の中から現れたのは、同じく濡れて皺くちゃになった紙切れだった。
「なんだそれ」
「勝者へのプレゼントだ。少し待っていろ」
アシェエマは魔法を口ずさんで紙を乾かし始める。さっきまでの闘気が嘘のように消えうせていて、口笛まで吹き始めるのだから、なんだか間抜けな感じがした。
遠き戦場の音を聞きながら、ミコトはねずみ色から白さを取り戻していく紙切れをぼんやりと見つめていた。
「ヌーヴァス様が、オマエに渡したいものがあると仰っていた」
唐突に始まった説明にすぐには反応できなかった。何度か瞬きを繰り返して、アシェエマの顔を覗く。どこか寂しそうだった。
「この紙は魔王ヌーヴァス様の願いを導くための足掛けに過ぎない。しかしオマエならばきっとやり遂げると信じている、と仰っていた」
「何の話だよ」
「すぐに分かる。今にもな」
アシェエマは完璧に紙を乾かすと、得意げに歯を見せてミコトの顔にべしっと押し付けた。
「んぶぇ」
「―――。確かに渡したぞ」
最初の言葉が聞き取れず、ミコトは紙を顔から引きはがしながらアシェエマを見上げた。
「今なんて」
言いかけた瞬間、足元から虹色の閃光が滲み出てきた。紙をつまみながら足元を見下ろせば、ミコトを中心に幾何学模様が広がり始めていた。たまらず立ち上がって幾何学から逃げ出そうとするも、二メートル走った程度で目に見えない壁にぶつかった。
さりげなく幾何学の外に避難していたアシェエマが、その様子を見て泣いているのか笑っているのかわからない顔で、いや、確かに声を出して笑っていた。
「ハハハッ! 無様だな半人よ!」
「おいなんだこれは!?」
アシェエマはくっと笑みを引っ込めて、目じりを柔らかくした。
「言っただろう。プレゼントだ」
「んな得体の知れねぇもんいらねぇから! 早く出せって!」
「無理だな。一度起動すれば後戻りできない」
「はぁ!? なんでそんなもん………」
「聞け、半人」
罵りを途中で阻止されたが、ミコトは苛立ちより先に不安感に駆られた。アシェエマが何かを言う前に息の根を止めなければならないという意思が芽生えては、このまま話を聞くべきだという意識に敵意が刈り取られていく。
「この魔法陣の時間制限は二年。ヌーヴァス様はこの時間のすべてをオマエに託した。行った先で選ぶのはオマエだ。それを努々忘れるな」
「………意味が分からない」
ミコトは苦笑しながら弱弱しくつぶやいた。なぜ魔王ヌーヴァスがその結論に至ったのか全く理解できない。ただ、あの魔王のことだから、この魔法陣も、これからのことも逃げられるようなものではないことだけは明白だった。
足元の幾何学模様は、虹色の光を纏いながら巨大な魔法陣となってミコトを囲い込んだ。やがて背後から地響きが発生し、何かが砂を落とすような音がする。
振り返って確認すれば、笑ってしまうぐらいに立派な石門がミコトを待っていた。
微細な装飾の施された取っ手部分が、何者かに引かれるように動きだし、門が開かれる。中からあふれ出た闇を見つめながら、ミコトは門に向き直った。
「えっと……アシェエマさん? せめて行先ぐらいは教えてくれねぇかな」
「行けばわかる」
「心構えの問題だって言ってんの!」
アシェエマに食って掛かるのに合わせて、門から掃除機のごとき吸引力が発生した。
「うおぉ!? タンマタンマ! まだ死にたくないぃ!」
「死なないだろうオマエ」
「やかましい!」
危うく吸い込まれかけたところで門のふちに四肢をひっかけ、どうにか中に入らないように固定することに成功した。しかしこの体制、背骨への負担が大きすぎる。
ミコトは必死に後ろを振り返りながらアシェエマに怒鳴った。
「ねぇ! 師匠とか俺の研究とかレポートとかどうなるの!?」
「大丈夫だ。問題ない」
「それ問題あるって!」
「いいから行って来い!」
痺れを切らしたアシェエマが、突然野球選手も顔負けな投球フォームを描く。その手から、何か黒くてもふもふした物体が顔面に放たれた。
『キュイー!』
その黒い物体、いや生物は、犬らしからぬ歓声を上げて主人を地獄に引きづり込んだ。
「あああああぁぁぁ……! ふざけんなクソ犬ぅぅぅ……!」
『キュイィィィ……!』
使い魔の嬉しげな鳴き声とともにドップラー効果を残して、ミコトは門の中の闇に落ちて行った。