間章(しおり) 旅の続き
お料理パート
「どうしたって言うんだよ…」
浅く光が差し込む潺でゆっくりと水を飲む馬の様子を窺いながら、ファルケは眉根を寄せた。
街道から少し入ったその場所で馬を休ませているのだが、これで何度目の休憩だろうか。
夜が更ける前に町を出たのは、煩わしさから逃げるためだった。少し長めに滞在してしまったために、無駄に顔を知る者を作ってしまった。そうなると、出立の際色々と面倒になる。だから、暗くなってから密かに町を出たのだ。
ところが、まだ幾らも進んでいないというのに、馬の様子がおかしいのに気付いた。
歩みも遅く、歩幅も狭く、頭は落ち下ばかり見ている。
何度か水を飲ませ休憩もとったのだが、様子は改善しない。少し睡眠もとってみたが、夜が明けても緩慢な動作は続いている。
力なく視線を動かし、のそりと水を飲む馬を見やりながら、ファルケが溜息をついた時だった。
ガサガサと草木を揺らす音がして、何かがこちらに近付いてきているのがわかった。
ファルケは腰に下げた剣に手をかけ、音の方を睨んだ。こちらに害なす輩でなければいいのだが、こればかりは運である。
警戒し、身動きせずじっと様子を窺っていると、視界に現れたのは見覚えのある「夕焼け色」と「闇色」だった。
腰元で構えていた手の力は抜けたが、逆に眉間の皺が一瞬で深くなる。
「あっ!ファルケだ!!」
夕焼け色の髪をした少年リーエが目を丸くして声を上げた。すぐにその顔には笑みが広がり、邪気も裏もない幼い表情がファルケのそれと反比例する。
馬を引いてリーエの後ろに立つルナールは、相変わらずの綺麗な笑顔を浮かべていた。周囲の状況や場所を無視したようなその美しさが、ファルケの内に不信感を掻き立てる。どうにも苦手な男だと思う。
「良かった!また会えた!追いつけたんだな!」
深く深く彫り込まれたファルケの眉間の皺に気付かないのか、リーエはだっと駆けだすとファルケの傍で立ち止まった。
寄るな、離れろと言いたいのだが、この無垢な男の警戒心の無さを目の当たりにすると、思わず言葉を飲み込んでしまう。調子が狂う。だから、こいつらが苦手なのだとファルケは気付いた。
「追いつけてしまったね。」
自らの白馬にもファルケの馬と同じように水を飲ませながら、軽く馬の首元を撫でてルナールが言った。
「…追いつかれちまったよ。」
苦々しくファルケは応えた。彼の馬は、やはりまだのろのろと水を飲んでいる。
「俺たちより先に出てたから、追いつけるとは思わなかったぜ。同じ道進んでたんだな。」
機嫌が良さそうに白い歯を見せてリーエは言うが、同じ道を進むだろうことは彼以外の二人の男にはわかっていたことだった。
この街道が枝分かれするのはまだしばらく先で、この道をこちらに進む他に選択肢はほぼ無かった。逆の方角は、彼らが来た方角だ。
「……馬、どうした?」
ふとファルケから目を移したリーエが尋ねる。明らかに疲弊している彼の馬の様子が可哀想に見えた。
同じ距離歩いて来たはずのルナールの馬と比べても、その動作は緩慢で呼吸も早い。何かあったのだろうかとリーエは目を瞬かせてファルケを向いた。
「わかんねぇ。どうも疲労してるらしい。そんなに無理をさせた覚えはないんだがな。」
水面から顔を離し、ゆっくりと向きを変える馬を見つつファルケは応える。
彼も不思議で仕方がないのだ。心当たりがない。
「例の騒ぎの時、隣の領主の屋敷まで走ったんだろう?君の馬。」
「はぁ!?」
謡うようにさらりと紡がれたルナールの言葉に、思わずファルケが声をあげた。
勢いよくルナールを見ると、彼はわざとらしくきょとんとした表情を見せる。
「使者を出す時、緊急事態だったから馬はどれでも借りればいいと言ったんだ。ただ、出来るだけ早そうな、目立たない馬がいいんじゃないかと付け足したんだけど、君の馬が選ばれたみたいだね。」
それを聞いたファルケは、強く奥歯を噛んだ。この男、だから好きになれないのだと痛感した。
「てめぇの所為じゃねぇか…。」
低く唸るが、当のルナールは意に介さない様子で笑顔を返すだけである。見た目に反して肝が据わっているというか、図太いというか。
使者を出したのは夜明け前だと聞いた。その時刻に目立たない馬をと言われれば、ファルケの粕毛の馬が選ばれる可能性はかなり高い。その一方で、白毛のルナールの馬は避けられて当然だ。
ファルケの馬を狙って言った事なのか、自分の馬を避ける為だけに言った事なのかわからないが、今はそれが問題ではない。
長距離を長時間、全力で走らされれば馬は疲弊して当たり前だ。休ませるには数日が必要となる。
面倒を避け、騒動が片付いて後すぐに出立したのが悪かった。馬は十分に回復する間もなく再び歩く事となってしまった。
「俺たちも、そろそろこの辺で野宿するかって話してたし、馬がそんな状態ならファルケも一緒に休めばいいんじゃないか?」
リーエが控えめに提案してきたのを聞き、ファルケはまた何度目かの溜息をついた。
仕方ない、こうなったら今日はもう休むしかない。ルナールやリーエに振り回されているような感じがして癪だが、そうするより他ないなとファルケは腹を決めた。
彼の肯定したような空気を察して、ルナールは密かに呆れたように息を吐いた。
やっぱりね。彼はなんだかんだ言って、リーエを邪険には出来ない。リーエを、と言うよりも、自分以外の誰かを、と言ってもいい。
自分には到底真似は出来ないが、それが彼の良いところだと言えるのかな。ルナールはそう無責任に考えていた。
ルナールとファルケが手綱を握り、野宿に適した場所を捜そうと潺を離れる支度を整えた頃だった。
「あの、さ…。」
リーエが、視線を彼らの足元に投げながら、言い難そうに口を開いた。
「もし…、もし良かったらさ、この先もみんなで一緒に行かないか?二人がどこへ向かってるのか知らないけど、とりあえず行けるとこまでは、一緒にさ。」
そのたどたどしい言葉を聞いて、ファルケは無表情のまま目を閉じた。ルナールはいつもの薄い笑顔のまま、ただ黙ってリーエを見ていた。
「あの…。」
「ダメだ。」
思い切ったように二人の顔を見たリーエに帰ってきたのは、ファルケのかさついた声だった。
「お前と一緒に行くことに何の利がある。俺は荷物は増やしたくねぇんだ。」
苦々しい表情をしてファルケがそう切り捨てた。おや…と、ルナールは彼の返答を意外に思いながらも、表情は微塵も崩さない。
てっきり承諾するものだと思っていた。ファルケは他人を、特に自分よりも弱い者を拒絶するような事は苦手に見えた。そんな彼が否と言ったのだ。
まぁ、彼らが同行しようが別れようが、自分には関係の無い事だが。
ファルケの意外な返答に少し驚いたが、ルナールの興味はすぐに消え去った。
ファルケに断られ、縋るようにリーエがルナールを振り向けば、そこにあるのはいつもと同じ美しい笑み。
それが否であり、またファルケに何か言い添えてくれる気もない、という事はリーエにも分かった。
あの綺麗な笑顔は、何者も寄せ付けない美しい盾なのだ。要塞と言ってもいい。
「そっか……そうだよな。あ……でもとりあえず、今日は一緒でいい…のかな。」
おずおずとリーエが言えば、ファルケは乱暴に自分の頭を掻きながら面倒臭そうに数度頷くと馬を引いて歩き出した。
ルナールもそれに続いて歩きだし、リーエも慌ててそれに続いた。
森の中、少し拓けた場所を見つけた三人は近くの木に馬を繋いだ。
陽が落ちる前に薪を拾って火を起こす。二頭の馬も大人しく体を休めている。
たき火の灯りのそば、しばらく地図を広げていたファルケは、それを畳むと荷物の中から小さな包みを取り出す。
それを開けば中にあるのは干し肉だ。それより少し先に、小さな革袋から乾燥した果実を取り出し口に運んでいたルナールが、ふと声を漏らした。
「…リーエ、遅いね。」
それを聞いたファルケが、そういえばと顔をあげる。
近くの川まで水を汲みに行くと言ったリーエが、まだ戻っていない。水場はそう遠くないはずなのだが。
ファルケとルナールが思わず顔を見合わせた時だった。
「あれ?もう飯食ってんの?」
ガサガサと木々を掻き分けて、リーエが姿を現した。その手には、おそらく水を満たしたであろう水筒と、何枚か重ねられた木の葉が見て取れる。
「ちょっと待ってろよ。」
そう言うと、彼は水筒を地面に置いた。その横に置かれた木の葉の上には、生肉が乗っていた。
「おい、何だよそれ。」
ファルケが干し肉を口に運んでいた手を止め、それを指さす。
リーエは器用に石を組みながら、「ウサギの肉だよ」と事も無げに答えた。
「水汲みに行く途中で、見つけたから狩ったんだ。んで、そのまま川で捌いてきた。皮も処理すれば売れるかと思ったんだけど、そんな暇なかったんで鳥にわけて来た。」
言いながら、作業の手を止めずリーエが作り上げたのは、即席の石の竈だった。
手慣れた様子で竈に薪をいくらか放り込み、たき火から火を分ける。
すぐに竈の上に置かれた平たい石の上に、木の葉のまま肉を置く。よく見れば肉だけでなく、細かく切られた何かの草や砕かれた小さな種のような物が肉に付着している。
「狩ったって…どうやって。」
「弓だよ。弓で射ただけさ。丁度川があるから、捌くのはそこでやれば血の匂いで獣が集まることもないだろうし。皮は鳥が持ってってくれた。骨は土に埋めてきた。」
木の葉の上で焼かれる肉の様子をちらりと見ながら、リーエが近くの木の枝を数本折った。それを持って、自分が組んだ竈の近くに腰を下ろし、ファルケの質問に答えながら、懐から大ぶりのナイフを取り出した。
同時に、懐から二匹の猫が滑るように飛び出した…かと思うと、リーエの傍に丸まってすぐに目を閉じた。
小さな腹が一定のリズムで上下する。それをちらりと見やったリーエは、満足そうな目をした。
取り出したナイフで枝を研ぎ、二股にする。それを三本作る間に、何度か肉を裏返す。次第に、焼ける油とどこか柑橘類にも似た爽やかな香りが漂ってくる。
その良い香りは、ファルケとルナールの食欲を平等に刺激していく。まるでどこかの食堂にでもいるような気分だ。まさかこんな旅の途中の、森の中でこんな香りに出会うなど、二人とも思ってもみないことだった。
「よし、もういいかな。」
肉の焼き加減を見ていたリーエがそう声を上げ、先ほど作った二股の枝を水筒の水で軽く濯いでから、焼けた肉を突き刺した。
「ん。」
当然のように、ファルケとルナールに差し出された、肉の刺さった枝。ルナールが枝を削って作っていたのは、二股のフォークだったようだ。
「あ、あぁ…。」
「ありがとう。」
戸惑ったようにそれを受け取るファルケと、ニコリと笑顔を向けるルナール。
二人はまだじゅうじゅうと音を立てるその肉を、ほぼ同時に口に運ぶ。リーエはそれを見届ける事もなく、火の上の肉の位置を、微調整している。その姿もまた、手慣れていた。
「はぁぁぁぁぁ!?なんだこれ、美味っ!!!!」
食べてすぐに、ファルケが感嘆の声を漏らした。美味い。野営で食べるという条件を除いたとしても、それは驚く程美味かった。
「本当だ。凄いね、これは。」
ルナールからも、賞賛の言葉が上がる。二人からの視線を受けたリーエは、驚いた顔をする。
「いや、別に何も…。」
驚き、そして照れた顔をするリーエに、二人が矢継ぎ早に質問を投げる。ファルケは興奮を隠せない様子で、ルナールはいつもより幾分か自然な笑みを作っている。
「この草は何だ。お前が持ち歩いてる香草かなんかか?」
「い、いや。これはこの辺に生えてるヤツだよ。これ使うと肉の臭味が消えて、香りも付くし…。」
「この、黒い種みたいなものは?」
「これ?これも川の近くで取った。ちょっとピリっとするんだ。砕いて入れないと、焼いた時弾けちゃうけど。」
二人から注目され、気圧された様子で何度も瞬きをしながらリーエは答える。
恥ずかしそうにぎこちなく、リーエは言葉を紡ぎ、二人の視線から逃げるように再び火の上の焼けた肉を枝のフォークに刺し二人に差し出す。一つは自分の口に放りこむ。
「君は、料理人の経験でもあるのかい?」
柔らかくルナールに聞かれ、大げなくらいに首を横に振って否定するリーエ。
「んなまさか!俺の家は森の中にあって、毎日野宿と変わんないような生活してんだ。そりゃ、屋根もあるしベッドもあるけど、動物を狩って、木の実をとって、茸を取って。街に買い出しにも行くけどそれも毎日じゃないし、基本的に森の中にあるもので暮らしてる。だから、いつもの通りやってるだけ。」
火に当てられて火照った上に照れているせいか、頬を赤らめながらリーエは言う。少し怒ったようつっけんどんになっているのは、照れ隠しだろう。
ルナールは口の中の肉を、ゆっくりと味わう。焦げ目の部分は香ばしく、ふっくらと柔らかい肉からは臭味を感じない代わりに、咀嚼し飲み込んだ後広がるのは爽やかな香り。ほんのり感じる刺激は微かな辛味か、食欲を刺激して後を引く。
これを綺麗な皿に盛り、付け合わせを飾り、それなりのクロスの上に置けば、一般貴族の晩餐会にも出せそうだ。
ウサギを狩り、捌き、後処理をして、肉を調理する。全てを一人で、しかもそこにある物だけでここまで出来るというのは、立派な特技だなとルナールは思った。
見かけによらないものだ、と微かに笑ってみる。
ファルケもまた、豪快に一口で肉を頬張りながら思案していた。
これから次の街まで暫くは野営が続く予定で、干し肉や乾燥させた木の実を用意しているが、それらは非常食であって決して美味いわけではない。致し方なく摂取しているのだ。
それが、こんなきちんとした美味い『食事』にとって代わるとすれば、画期的なことだ。
野営が続けば食事の質は落ち、それと共に体力も落ちる。判断力が落ちる事もある。睡眠と食事は、生きていく上での根幹だ。
もしかしてこのリーエの技術は、とても価値のあるものなのではないか…。
脂の甘みと肉汁の旨味を感じながら、咀嚼し終わったそれを飲み込んで、ファルケは口を開いた。
「……俺はこのまま街道を進む。ノールの渓谷を越える予定だが、お前の道も同じなら一緒に来い。」
リーエはファルケの言葉と一緒に、口の中の肉を飲み込む。ゆっくりと、ファルケのいう事を咀嚼する。
つまりこれは…同行してもいい、ということでいいのだろうか。そうなのか?そういうことなのか?
「い、いいのか…?」
戸惑いがちに榛摺色の瞳を覗き見れば、そのつり上がった目が伏せられる。そしてファルケは面倒臭そうに頷いた。
「あ、ありがとう!!助かる!!」
ぱっと表情を明るくしてリーエが言う。そういう無垢な感情を向けられるのも、ファルケは苦手だろう。舌打ちをして不機嫌そうに肉を頬張るファルケを見て、ルナールは喉の奥で笑った。
それに気付いた猛禽類の目が、ルナールを睨む。おぉ怖い、と狡猾な狐はまた笑みを見せる。
「その代わり、お前が飯当番だからな。サボんなよ。」
「わかった!それくらい、一人で旅する時でもやる事だし、大したことじゃねぇし!」
すっかり機嫌を良くしたリーエは、寝ている猫たちを撫でながら返事をする。こんな事になるのではないかと、ルナールは最初から思っていた。わかりやすい男達だ。
「じゃあ、僕もご相伴に預かろうかな。」
「なんでだよ!!」
「ここからノールの渓谷まで大きな分岐もないからね。わざわざ街道を外れてまで寄るところもないし。」
「やった!!また三人一緒だ!」
たき火の灯りと温かさを囲んで、ワイワイと夜は更けていく。眠っている猫達が、煩そうに耳を下ろした。
まだ旅は続きます。