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明暮のグリモア  作者: まきちぇ
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不思議な本は異界の扉

 「譜」を開けば異界からの獣を呼び出す事が出来る番人クストーデ

そんな世界で、「譜」ではなく「本」から獣を呼び出す少年リーエと不思議な本のお話。

  第一章(見返し) 

 『朝焼けか夕焼けか』


 昔の人はよく言ったものだ。

「時は金なり」とは、まさに真である。世の中の大抵の事は、早ければ早い方がいい。

日はまだあるが、森の中は暗い。可能な限り早く事を済ませてしまいたい。

馬は街道から少し入った森の中へ隠して来たが、ふた月程前に買っただけの馬だ。主の顔など覚えてはいないだろうし、誰であれ手綱を引かれれば付いて行ってしまうだろう。

男は足を速めた。ザクザクと枯葉を踏む音が響く。鬱陶しそうに視界にかかる草木を払いながら、軽く前髪をかきあげる。コンパスが狂っていないのなら、もうすぐのはずだ。


 「あったあったー!これだ、この木!」

風景に似合わない陽気な声に、小鳥達が驚いて飛び立つ。

コンパスを確認していた男は、少し先から聞こえたその声に訝しげに眉根を寄せた。

視線を上げ歩を進めれば、目的の木の前に声の主と思しき一人の男がいる。

「ちっ……先客かよ…」

舌打ちをしてさらに渋い顔をする。木の前の男は、「おい、あったぞ!」と、笑みを浮かべ自分の懐に向けて声をかけていた。

よく見ればまだ年若い男だった。少年と言うには些か遅いが、まだその顔には幼さが残っている。夕焼けのような色の緩く波打つ髪と瞳。軽装だが旅装束を着込み、背中に弓、そしてその姿に似つかわしくない、大きな革の鞄を下げていた。

正直あまり関わりたくはないが、致し方ない。男はその青年の方へと近付いた。

「おい、お前。その木全部持って行くつもりじゃないだろうな」

少し掠れた低い声に、青年はすぐに声の方に顔を向けた。

「あれ?こんな森の中に人だ!」

警戒するどころか、嬉しそうな顔をする青年。不思議なヤツだと男は思った。

自分の事を山賊だとか物盗りだとか、そうは考えないのだろうか。世間知らずなのか、お人好しなのか、単なるバカなのか…。

しかし、警戒されていないなら、それはそれで面倒がなくていい。そう考えなおして男は言った。

「俺は売人じゃない、欲しいのは自分の分だけだ。少し貰っていくぜ。」

そう断り、返答を待たずに腰に下げたナイフを取り出す。青年から拒否の言葉は聞こえてこない。

お目当ての木の表皮を剥がし、軽く丸めて懐にしまう。ナイフを戻しながら、男は青年にも同じように丸めた木の表皮を差し出した。

「邪魔したな。」

ひらりと片手を上げ、男は来た方へと消えていった。あっと言う間の出来事だった。

 「なんだ、あいつ…。」

取り残された青年は、首を傾げて男が消えていった森を見つめた。手には、先ほど渡された木の皮。

一度肩をすくめてから、青年は考えるのを辞めた。さっきの男は一体何者で、何が目的で、なぜこの皮をくれたのか。いくら考えてもわかるものではないし、答え合わせも出来ないのだから。

とりあえず…と、青年は外套の胸元を引っ張ると、そこに向けて呼びかける。

「待たせたな!!出て来いよ!!」

その声を聞き、ひょっこりと懐から顔を出したのは小さな白い猫だった。軽くキョロキョロと周囲を窺った後、白い猫は青年の懐から飛び出し地面へと降りた。

そうして、青年を振り返ると、数度鳴き声をあげる。すると今度は、その声に誘われたように、黒い猫が飛び出した。眠いのか、前足で顔を撫でている。

「ほら、お前らのお気に入りの木だぞ。」

青年は猫たちの前にしゃがみ込み、先ほどの男に手渡された木の皮を地面に置いた。

白い猫がその匂いを嗅ぎ、確かめるように数度爪を立てる。その確認行動が終わると一声鳴いて、そして黒い猫がそれで爪を研ぎ始めた。白い猫もそれをしばらく眺めてから、同じように爪を研ぐ。

「…ライもキーナも、その木で爪研ぐの好きだよなー…。」

しゃがんだ自分の膝に頬杖をついて、青年は呟いた。猫たちはその声を気に留めることもなく、爪研ぎに夢中だ。

空を仰げば木々の隙間から漏れる光は弱くなっていた。日暮れは近い。

「…さっきのヤツも、これで爪研ぎすんのかな…?」

青年のつぶやきに、答える者はいない。森での野宿も慣れたものだ。一心不乱に爪を研ぐ二匹から目を離し、青年は今夜の寝床を探し始めた。





 馬上の男の濡れ羽色の髪を風が撫でて行く。爽やかな風だ。高く上った太陽も穏やかである。

鬣をたなびかせる白馬に跨った男は、さながらお伽噺の王子のようである。もっとも、王子が共も付けずこんな街道を一人旅しているはずもなく、身形とて品はあるが豪奢なものでは到底ない。

だがしかし、男の白磁の肌や艶のある髪、薄く笑みを湛えた口元が、高貴なそれを思わせる。

「…?」

馬の上から、そのダークグレーの瞳が何かを捉えた。

街道の傍らに座り込んでいる一人の青年である。見れば旅姿のようであるが、街道の脇に座り、時折頭を掻きながら空を見上げている。

あまり見かけない髪の色は、朝焼けのようだと男は思った。その朝焼けの青年の方へ、馬を向ける。

「どうかしたのかい?」

芝居がかったような、少し鼻にかかる柔らかな声で馬上の男は声をかけた。彼の声は、おおよそその容姿から期待されるものと相違ないものであった。

「ん?あぁ、俺?靴がさ、破れたんだ。」

道端の青年は間の抜けたような口調で答えた。こちらは、濁りの無い快活な声だった。

言いながら青年は自分の右足の靴を脱ぎ、その靴底を見せた。踵の部分が剥がれており、かろうじて一部で本体と繋がっているのみだ。

「あぁ、これは酷いね。」

馬上の男は、大袈裟に眉をしかめる。

「町まで行けば道具借りて直せるんだけどさ。ここじゃ無理だし。どうすっかなーって。」

壊れた靴をまた履きながら、青年は言う。あまり、困ったような様子は見られない。

「どうするつもりだい?」

「うーん…それ今考えてたとこ。最悪、裸足かな。嫌だけどさ、痛いし。」

顔をしかめた青年の返答に、男はくすりと笑った。返答も、声も、その表情も、面白いくらいにストレートだと思った。

「そうかい。じゃあ、乗っていくかい?お友達も一緒に。」

自分の白馬の首元を優しく叩きながら、男はそう言った。どうやら青年は、ここから一番近い町へ行くらしい。それならば、自分と目的地は同じである。

「マジで?いいの?」

嬉しそうに青年は目を輝かせる。本当に、ストレートだ。

そして、彼に「お友達」と呼ばれた二匹の猫が、青年の胸元から顔を出した。小刻みに上下するその懐を見て、何か小動物でも飼っているのだろうと踏んでいたが、まさか二匹もいるとは予想外だった。まぁ、それは大した問題ではないが。

「僕はルナール。後ろへ。」

馬上の男、ルナールはそう告げると、くいと首を背後へ振り、青年を促す。それを見た青年は、右足を気にしながら立ち上がり、差し出された手を取って馬に跨った。

「助かるよ!俺はリーエ。よろしくな!」

ルナールの背後から、弾むような声が返ってくる。と、同時に二匹の猫がそれぞれ鳴いた。

「お友達も紹介してくれるかい?リーエ。」

馬が歩き始める。心地よい揺れの中で、リーエは答える。

「えっと、白い猫がライで黒い猫がキーナ。俺の相棒っていうか…なんだろ、保護者??まぁ、そんな感じ。」

わはは、とリーエは笑った。小気味の良い笑いだった。

なんだか懐かしいような、胸のすくような笑いに、ルナールは口角を上げた。

こういう笑い方があったことを、思い出した気がした。風が心地よい。






 「なんとかなったよ、ありがとう。」

夕暮れの町の食堂で、リーエは向いに座るルナールに軽く右足を見せた。

道具を借りて器用に靴を修理したリーエは、満足そうに自分の足を見る。簡単な修理で済んだことは幸いだった。

「何にもお礼とか出来ないけどさ…ホント。悪い。」

しゅんと頭をさげるリーエを、テーブルに頬杖をついて眺めていたルナールは、黒い長髪を揺らして笑みを浮かべた。

「構わないさ。見返りが必要なら最初からそう言うしね。」

所々傷の目立つ古びたテーブルに、時折軋む床。そんな場所にあっても、彼の仕草や表情には不思議と品があった。

二人は一度目を合わせ、何か食べるか一杯飲むか…という時だった。

「おい、次の開門はいつなんだ?」

隣のテーブルの男が、給仕の女にそう声をかけていた。

他人を寄せ付けないような、掠れた低い声だった。リーエはその声に、どこか覚えがあるような気がして、そちら凝視した。

「…知りませんよ、そんなの。」

浅黄色のスカートを履いたその中年の女は、突き放すようにそう答えると手に持っていた陶器のジョッキを乱雑に置いた。

それを見て気分を害したように片眉を引き上げたその男の顔は、まさしく昨夜爪研ぎの木の前でリーエが遭遇したものであった。

「あ、あいつ……」

リーエは小さく呟いた。それに気付いたルナールが、二人の顔を交互に見やりながら

「知り合いかい?」

と尋ねた。それにリーエが答える前に、隣のテーブルの男が声を上げた。

「……お前、昨日の…。」

あの時は気付かなかったが、男は人を拒むような鋭い目をしていた。リーエは思わず竦んだ。

しかし、それを意にも介さずルナールは軽い笑みを浮かべ、男をテーブルに招いた。

「よければ、どうぞ?」

それは相手を誘っているようで、どこか命令のような色を帯びていた。

眼光鋭い男は、舌打ちをしてからしぶしぶと言った様子で、ゆるりとリーエの隣に座った。

「お前たちは、なぜここへ?」

男が静かに口を開く。リーエが答えるより先に、ルナールが言った。

「特に用事はないよ。観光…というわけじゃないけど、ふらりと立ち寄っただけさ。あぁ、僕はルナール。こちらの彼はリーエだよ。」

それは本当に優雅な言いようで、さながら社交界での会話のそれであった。

「…そうか。俺はファルケだ。」

言葉少なに男が言う。なんだか機嫌が悪そうな人だ…と、リーエは心持ち男と席を離した。

「君はどうしてこの町に?」

ルナールの質問に、最初ファルケは視線を逸らし返答を拒否する仕草をした。

ところがルナールは笑顔を向けたまま、じっとファルケの答えを待っていた。まるで、逃がさないという風に。

「……領主の護衛を募集していた。だから来たんだ…」

観念したように、声を潜めてファルケが答えた

警戒し周囲の様子を窺っていた彼だったか、誰かに聞かれた様子はない。

ルナールの方も、さして気にする様子もなく「そう…」とだけ相槌を打った。

「それにしても……」

店内を見渡しながらルナールが続けて言葉を紡ぐ。

 このシュルンの街は、都市間を結ぶ街道からは外れているためさほど大きくはない。

だが、街を見下ろす丘の上に領主邸を臨み、お膝元として古くからある素朴なところだ。

かつて大きな戦乱に巻き込まれることもなく、代々の領主に堅実に治められてきた。

気候に恵まれ作物も良く育ち、人々がのんびりと暮らす街である…と、所謂書物には書かれている。

それがどうだ。今いる食堂を見まわしてみても、客と言える客がほとんどいない。

普通ならば町の人々が集い、賑やかな声が飛び交っていておかしくないはずなのにである。

「思っていたより活気がないね。」

声を潜めることもなく、ルナールが言った。それはけして大声ではないのに、不自然に部屋に響いてしまった。

なんだかマズい…とリーエは思ったのだが、すでに遅かった。

「……あんた達みたいなよそ者に何がわかるっていうのよ!!」

先ほどファルケに果実酒を運んできた中年女性が、リーエたちのテーブルに両手を叩きつけた。

ファルケは思いきり顔をしかめ、リーエは両目をぎゅっと瞑って体を強張らせた。ところが、ルナールだけは特に表情を変えることなく、肩を怒らせる彼女を見つめていた。

「すいません、どうも…。」

店の奥から恰幅のいい白髪交じりの男が駆け寄ってきて、彼女の肩をさすった。どうやら、男は店の主人で、この二人は夫婦のようだ。

お前は奥へ戻っておけ…と妻に小さく告げ、主人はまだ何か言いたそうな彼女を店の奥へ軽く押しやった。

その姿が奥へと消えたのを見届け、再び軽く頭をさげて主人は言う。

「…ホント、すいません。ちょっとね、最近税金の取立てが厳しくてね。それでピリピリしてるんです。」

誤魔化すような、取り繕うような笑みを浮かべ、主人はテーブルに少し零れた果実酒を手にした布巾で拭きとった。

「最近になって、なのかな?」

ルナールが場違いな程穏やかに尋ねると、主人は「えぇ、まぁ。」と視線を上げずに答えた。

「そうか、最近厳しくなったんだね。どうしてだろう?」

あくまで自分のペースのままのルナールに、ファルケは呆れたような目線を向けた。リーエも驚いたように目を瞬かせた。

「さぁ……、何かお考えがあるんでしょう。」

手に持った布巾を意味なく弄りながら店主は愛想笑いを浮かべる。それを見て、ルナールは唐突に言った。

「じゃあ、ちょっと調べてこよう。」

「はぁ!?」

それを聞いて驚きの声を上げたのはファルケだった。

「お前、何言ってんだよ!調べるってどうすんだよ!調べてどうすんだよ!」

リーエも大きく数度頷いて同意する。

「だって、気になるだろう?じゃあ、調べるしかないじゃないか。」

にこり、とルナールは笑う。気になるといえば気になるけど…、リーエは口の中で呟く。

気になるけど、だからってどうやって調べるって言うんだろう…。

「調べて、くださるんですか…?」

店主が、恐る恐るルナールに問いかける。ルナールは軽く肩をすくめた。

「くださるって言うか、僕が気になるからね。調べてみるだけだよ。」

そのルナールの言葉に、店主は小さく震えながら何度も頭を下げた。ルナールは「やめなよ」と店主に困ったような笑顔を向けていた。

 「調べるってどうするんだよ、お前…。」

店主がテーブルを離れてから、ファルケがルナールに不満そうに言った。

「うーん。まぁ、何とかなるよ。君は気にならない?」

テーブルに頬杖をつき、さして気にする素振りもなくルナールは事も無げに答える。

「…ちっ。俺は知らないからな。」

ルナールから視線を逸らし、ファルケが勢いよく果実酒を煽った。

その様子を、片眉を引き上げて見つめるルナール。リーエはただただ事の成り行きを見つめていた。

「君は領主の護衛になるつもりなんだろう?その領主がきちんと報酬を払えるものかどうか、気にはならないの?」

ルナールの言葉に、ファルケはぴたりと動きを止めた。

「どうやら、急な取り立ての強化で領主様はみんなに良い感情を持たれていないようだよ?いくらで護衛を募集しているか知らないけど、状況によっては報酬を払えないかもしれない。もしくは、その報酬じゃ割に合わない状況かもしれないよ?」

淡々と言ってのけるルナールを、忌々しそうに睨んでファルケはジョッキを置いた。

リーエはルナールの口から流れ出る言葉を、目を丸くして聞いていた。

少し話しただけなのに、こんなに色んな事を考えるのか…。リーエにはそれがまるで魔法のように思えた。


 ファルケはジョッキを掴んだまま、目の前の二人の男を盗み見た。

昨日森で会った青年の夕焼け色の髪は、日の光の下でみればさらに鮮やかだった。緩く波打った髪は目を引く。

深草色の外套は顎の辺りまで襟が高く、前は上から下まですべてきちっと止められていた。弓と大きな鞄が、なんともアンバランスだと思った。

先ほどから、自分やルナールの会話についてくるのに一生懸命といった様子が見て取れたことから、世間知らずなところがあるようだ。それに加えて感情が顔に出やすく、わかりやすい男でもある。ある意味年相応、なのかもしれない。

それから、もう一人の男。

艶のある髪は、それが作る影よりも黒く、白い肌と見事な対比を成していた。背中まである髪を項のあたりでまとめているのだが、その気障な髪型が似合っていた。女好きする顔だなと思う。

蒲公英色のマントの下は、鶯色の糸で控えめな飾り刺繍が施された白いシャツ、亜麻色のズボンと派手な出で立ちではないが、一つ一つが質の良さそうなものだ。

始終口元に笑みを湛え、のんびりしているように見えてよく人の動きを見ている抜け目のない男だ。口も上手い。

リーエとは違い、こちらは癖が強そうだと、本能的に感じた。

そうファルケが二人を窺っている時、同時にルナールもまたファルケを観察していた。

拘りはないのか成すがままにされた蒸栗色の髪はリーエよりも短めだ。吊り気味の目は獲物を狙う猛禽類を思わせる。

袖のない漆黒のローブの下に濃紺の上着を着込み、黒い革のズボンに黒いブーツを履いていた。

人を寄せ付けないような、始終不機嫌そうな顔をしているが、ローブを止めている胸元の細いチェーンには、「女神の涙」と呼ばれる滴型のアミュレットが見て取れた。おそらく彼は、聖職者であろう。

神に仕え人を導く聖職者が、この不愛想。これは面白そうだ…とルナールは内心笑っていた。

「さて、領主様のお考えが気になるということで、二人とも協力してくれるんだよね?」

ルナールがそう切り出す。リーエは背筋を伸ばし、ファルケは面倒臭そうにジョッキを置いた。

「…何をする気だ?」

「そうだね。とりあえず直接領主様に会って来るよ。」

にこり、とまるで知人にでも会いに行くかのようにルナールが言い放つ。

「ツテでもあるのか…?」

「いや、何も?でも、会うだけなら何とでもなるよ。」

少し長めの前髪の向こう、薄灰色の瞳はまだ笑っている。この余裕は何だ、どこから来るんだ…と、ファルケは訝し気な顔をする。

「協力してくれる?なんて言いながら、ファルケには動かないで貰いたいんだけど。」

ピクリとファルケの眉毛が引きあがる。

「君、領主様の護衛になる…なんて、この町の誰かに言ったかい?まぁ、言ってなかったとしても、おそらく君の前に誰か、同じ要件でここに来たものがいるのかもしれないけれど。どうにも、あの奥さんの君への態度が気になるんだ。たぶん君は、すでにこの町の人に警戒されていると思う。領主様のご意向を窺うと言って会いに行き、領主様側に付くんじゃないか、って。」

リーエははっとする。お店の奥さんのファルケに対する冷たい態度。あれは彼に対する敵意だったんだ。領主様の護衛になるってことは、町の人の敵になるってこと。表だっては誰もそう言わなくても、税金の取立てが厳しくなって、それに対して町の人達は納得していなくて。きっともう、町の人にとって、領主様は敵なんだ。

「…わかった。俺は何もしない。その方がこっちとしても楽でいいしな。」

鼻で笑うようにファルケは答えた。するとルナールは、今度はリーエの方を向いた。

「でも、君には一緒に来てもらいたいな。」

「え…?」

驚いて言葉が漏れた。何故自分が?リーエは首を傾げた。

この町に知り合いがいるわけでもなければ、もちろん領主も知らない。自分が一緒に行く意味が、一つも思い当らなかった。

「まぁ、領主様のところへ行くんだ、ちょっと危険かもしれないから、無理は言わないよ。」

またにこりとルナールが笑う。リーエはぎゅっと両手に力を込めた。

「…行く、一緒に行くよ。馬に乗せてもらった礼も、してないし。俺に出来ることだったらする。」

その答えに、ルナールは声を上げて笑った。

「大袈裟だな、君は。それは別に気にしなくていいのに。」

「でも、俺に出来ることがあるなら!」

彼の懸命な様子を見て、黒髪が揺れた。それは今までの含みある笑みではなく、もっと微かで柔らかい笑みだった。

「助かるよ、リーエ。じゃあ、いつ領主様に会えるのか調べてみよう。」

ふぅ、と短く息をついてルナールが立ち上がる。リーエも慌ててそれに続き、ジョッキに残ったわずかな果実酒を煽ってから、最後にファルケがゆっくりと立ち上がった。



 食堂でルナールが尋ねたところ、領主に会えるのは毎月決まった日のみだけだと言う。

2日後にその機会が巡ってくる事がわかり、その日を待ってルナールとリーエは二人で領主邸へと向かった。

 丘の上の領主邸へは、一本道だった。木々に囲まれた道を進み、途中小さな川にかかる橋を渡る。その頃には領主邸の門が見え始めていた。

道すがら、数人の人とすれ違った。誰もが肩を落とし、口々に不満や文句を言いながら通り過ぎていく。

不思議に思いながらも歩き続けると、やがて領主邸にたどり着いた。門の前には、皮鎧と鈍い銀色の兜を被った門番が2人。そうしてその横には、生成りのシャツを着た痩せた中年の男が立っている。

ルナールが門番に近付くと、のっそりとその中年男が近寄って来た。リーエは、門番以外の男が立っている事を不思議に思ったが、ルナールはさして気にした様子もなく、相変わらずの優雅な物腰で言った。

「領主様にお会いしたいのですが…。」

声をかけられた門番は面倒臭そうな顔をしたまま、何も答えなかった。その代わり、痩身の男が小さな溜息をついてから答えた。

「…どういう要件で?」

「宝石商をしている者なのですが、領主様に是非お見せしたい商品がございます。」

それはまるで、絵画に描かれるような笑顔だった。宝石商だなんて、ここに来る少し前にルナールに聞かされた設定だったのだが、そんな事を微塵も感じさせない笑顔に、リーエも面喰ってしまった。

「……少し待て。」

男はそう言い残して門の中へ消えていった。門番はただただむすっとした表情のまま突っ立っている。

門の向こうへ消えていく男を見送りながら、ルナールはこっそりとリーエを肘で小突いた。面喰ったままだったリーエは、それではっと姿勢を正した。

 しばらくして戻って来た男に、付いてくるように言われた。どうやら中に入れてもらえるようだ。リーエはまるで獣の巣に入るような緊張を感じながら、ルナールと共に領主邸へと足を踏み入れた。

領主邸は、小さな白い花をつけた木やこじんまりとした噴水のある中庭を囲むように建てられており、廊下のどの窓からも中庭を見ることが出来た。

陽の光も窓から差し込み、屋敷内はとても明るい。

廊下にも絵画や陶器が飾られているが、数は多くなく、全体的にすっきりとしていた。

入ってすぐのところに、ぽっかり開いた穴のような場所を見つけ、目を凝らしてみればそれは地下へ続く石造りの階段だった。そこだけが屋敷の佇まいに不似合で、花や果物とは違う匂いがした。

視線だけを動かして、屋敷の中を窺う。何もかも見たことのないような物ばかりで、リーエは瞬きをするのを忘れそうになるほどだった。

突然前を歩いていた男とルナールが立ち止ったので、リーエも慌てて足を止めた。

他の部屋のものとは違う、一際大きな木製の扉。その前に連れてこられた二人は、そこで待っていた別の男に声をかけられた。

「刀剣類と外套を預かる。」

門からここまで二人を連れてきた男と同じような服装だが、彼よりずっと若い男だった。

ちらりとルナールを見やれば、彼は何の戸惑いも見せずその蒲公英色のマントを外し、腰に下げた剣と共に男に手渡した。

それに倣い、リーエも外套を脱ぐ。旅の道中はいつも持ち歩いている弓はルナールに言われてあらかじめ宿に置いてきていたので、あとは使い慣れた大ぶりのナイフと、麻布に包んだお守り代わりの短刀を外套と一緒に男に渡した。

門から一緒だった方の男が、重そうに目の前の扉を開ける。蝶番の軋む音がした。

扉を開けた状態のまま、男が顎で中へと促してきたので、ルナールとリーエは部屋の中へと進む。

室内には見たこともない柄の赤い絨毯が敷かれていた。町の食堂の二倍以上もありそうな広さの部屋には、扉と対峙したところに、三人は優に座れるだろう大きさの椅子が置かれ、左右の壁際には、一人掛けにしては大きな椅子が、五つ程並べられていた。

「領主様がいらっしゃる。少し待て。」

男に言われ部屋の真ん中あたりで立ち止まる。二人の剣と外套を持った男は、今しがた入って来た扉の前にじっと立っていた。

「宝石商か。今日はコレだけか?」

男の声が聞こえそちらに目をやると、リーエとルナールが入ってきたのとは、丁度逆側にある扉から中年の男が入って来ていた。

白髪交じりだが表情は溌剌としており、仕立てのいいローブをはためかせながら一番大きな椅子に腰かけた。

「さようでございます。」

門から二人を連れてきた男が、椅子の後ろから答える。この人が領主様か…と、リーエは唾を呑んだ。

「そうか、ここのところ数が少なくていいな。」

機嫌が良さそうに領主と思しき男は軽く笑った。ルナールが恭しく視線を下げ、心持ち頭を下げたのでリーエも同じようにした。とりあえず、彼を真似ておけばいいのだと、そう言われていた。

「宝石商だそうだな。」

「お目通りありがとうございます、グラシュア様」

グラシュア、と言われたその領主はルナールを見やった。値踏みするような目だった。

そんな時、ふと小川のせせらぎのような音がリーエの耳をくすぐった。項垂れたまま視線だけを上げて音の方を盗み見れば、歩くたびに軽やかな音を鳴らす一人の女性が現れた。

所々褐色の透ける薄地の青いドレスを身に着け、足につけた銀色の飾りが音を鳴らす。歳はおそらく、ルナールよりも上に見えた。黒い髪は頭の高い位置でまとめられ、滝のように背中に流れている。

きゅっと絞められた腰紐によって、豊満な胸が強調されて、女性らしさを際立たせていた。

綺麗な人だな、とリーエは思った。

「宝石商だそうだ。お前のために何か拵えさせようか、私の蝶。」

グラシュアが女の方に手を伸ばす。女は真っ赤な唇で笑みを作ると、すとんとグラシュアの横に座った。

「あたしのために?嬉しいわ領主様。」

自分に延ばされたグラシュアの手を胸に抱え込み、顔をその胸に寄せる。それはまるで、その身に受ける寵愛を確かめるかのようだった。

「…にしても。宝石商を呼ぶことがあるが、訪ねてきたのは初めてだな。こんなところに、何故来た。」

女性に向ける目とは違い、訝しげに眼を細めるグラシュアの低い声に、リーエは俯いたままこっそりと顔を歪めた。怪しまれている…そう思うと額に嫌な汗が浮く。

だがしかし、それにまったく動じることなく、ルナールは相変わらずの笑顔で答えた。

「これは失礼を。私はアッシェ・ルッテンガルト、各地の質の良い宝石類を仕入れ、お客様に提供しております。本日は王都へ行く道中ではありますが、お目通りをお願い申し上げました次第です。」

疑われているという事はルナールにも当然わかっているだろうに、彼のそのいつもと変わらない笑顔と声音に、リーエはただただ驚くばかりであった。

「王都で商売しているのなら、ここに寄る必要もないだろう。王都の方が稼げるはずだ。」

グラシュアの厳しい言葉は続く。その声が耳に入るたび額の汗が引かない。緊張が続く。

「多くの宝石商が王都のお客様のもとにうかがっております。ただ、王都は社交界が活発である分、宝飾品の流行の移り変わりも早いのでございます。ですので、どんなに質の良い商品をお持ちしたとしても、その時の流行次第ではお手に取っていただけないということもございます。そうしますと、王都の流行ではないというだけで、その商品は『売れ残り』という汚名を背負う事になってしまいます。それは、品質に自信を持つ宝石商にとっては、とても辛いことなのでございます。私共は、王都に向かう前に、良いものはその良さのわかる方にご提供したいと、そういう思いで極力多くのお客様の下へ足を運ぶようにしておるところなのです。」

つらつらと、まるで歌でも詠むかのように言葉を紡ぐルナール。リーエでさえも、彼は本当に宝石商なのではないかと、そう思わずにはいられなかったほどだ。

グラシュアから、今度は敵意を持った声は聞かれなかった。ただ、短く息を吐く音が聞こえるだけだ。

「…でもあなた、商い人にしては見目が良いのね。宝石もだけれど、あなた自身も王都では女性からのお誘いが絶えないんじゃないの?」

グラシュアの代わりに口を開いたのは、その横に寄りそう女性の方だった。

場違いのようにも思えるその甘えたような声が、今は空気を緩めてくれるような気がした。リーエはそっと額の汗を拭った。

「お褒めにあずかり光栄でございます。しかしながら、やはり美しい蝶は、高貴な花にしかとまらないものです。」

飛び切りの笑顔でルナールは言う。それは、先ほどグラシュアが傍らの女性を『蝶』と呼んだ事をうけての、両者へ対する賛辞であった。

それを聞いたグラシュアは今までのどこか棘のあるような視線をゆるめ、ゆっくりと口角を上げた。

「折角だ、何か誂えようか。何がいい?」

胸にしな垂れかかる女性の髪を撫でながら、グラシュアが尋ねる。女は目を細め嬉しそうにグラシュアの顔を見上げた。

「いいの?嬉しい…。新しい耳飾りが欲しいと思っていたの。」

鼻にかかった声は、目の前の男の肌を撫でる。グラシュアがちらりとこちらを見やったのを合図にして、ルナールが軽く頭を下げた。

「本日は、石の見本をいくつかお持ちしております。色や透明度のご参考にされてください。大きさはご希望のものを取り寄せますので、ご安心を」

微笑みながら、ルナールはリーエを振り返り頷く。

リーエは前もってルナールに教わった通り、俯き加減で静々とグラシュアと女性の前に進み出る。

みなが自分に注目していると思うと緊張で足がもつれそうになるが、視線を落としたままで動けと言われていたのを幸いに、自分の足元を睨みながら歩を進めた。

丁度グラシュアの前まで来て、リーエは木製の小さな盆のような物を取り出し、片膝をついてそれを掲げた。

ルナールがその上にベルベットの黒い布をかける。その時、さりげなく盆の位置をグラシュアの目の前へと動かされる。リーエはひたすら従順にそれに従う。黒い布の上に、小指の先ほどの大きさの色とりどりの輝く石が、ルナールの手によって広げられた。

「あたしには、どんな耳飾りがいいかしら。」

女は言い、ちらりとグラシュアを見上げた。その視線を受けてグラシュアが柔らかい笑みを浮かべ、散らばった小さな宝石を見やった。

「どれがいい?お前の好きな赤がいいか?」

「そうねぇ…。赤もいいけど…。」

グラシュアの言葉を聞きながら、女が指で宝石を摘み上げたり、転がしたりしている。リーエはその綺麗に整えられ、藍色に染められた爪をちらりと見た。

今まで見たことのないような、人形のような指だと思った。

「あなたはどう思う?」

ふいに女がルナールに言葉を向けた。リーエはまさかこちらに言葉をかけられるとは思っておらず、心臓が跳ねた。

「そうですね。私としましては、この葡萄色などおすすめかと。お顔映りもよろしいですし、今お召の青に合わせてもよろしいと思います。」

淀みなくすらすらと、ルナールは魔法の言葉を紡ぐ。どれが嘘で、どれが本当なのかすでにもうわからない。

リーエは驚きを通り越して、むしろ安心感を覚えていた。

「確かにいいわね。でも……耳飾りじゃ小さい宝石しか付けられないわ。」

大袈裟に拗ねたように女は言う。そんな腕の中の長い黒髪を何度も撫でながら、グラシュアは彼女から目を離すことなく

「だ、そうだが?」

とルナールに言葉を投げた。

「でしたら、揃いの腕輪を誂えるというのはいかがでしょう?」

「まぁ!それはステキ!」

ルナールが言い終わる前に女が嬉しそうな声を上げ、両手を胸の前で合わせた。

グラシュアからも満足そうに息を吐くのが聞こえ、ルナールは綺麗な顔で人好きのする笑顔を浮かべている。

リーエはただただ俯いたまま、この息の詰まる虚実の空間にひたすら耐えるのであった。







 「手配した宝石が揃い次第またお伺いします」と話しをまとめて、ルナールとリーエは領主の屋敷を後にした。

そうして、自分たちが泊まっている宿まで引き上げてくると、各々の部屋の前の廊下にファルケが腕を組み、壁にもたれて立っていた。

「……よう。」

不愛想にそう言ったファルケの足元には、留守番をさせていたはずのライとキーナが並んで眠っていた。

丁度窓から陽が差し込んでいて、暖かそうだ。だがその陽の色もすでに赤味が濃く、日没の前触れを感じる。

「首尾を聞くかい?」

ルナールの問いに、ファルケは初めて会った時と変わらぬ不愛想で頷いた。

当のルナールの方は、こちらも最初に会った時と同じ綺麗な笑みのまま、自分の泊まっている部屋のドアを開け、無言で二人を中へと促した。

慣れない緊張感で全身にどっと疲れを感じながら、眠る二匹を抱き上げてリーエもファルケに続いて部屋の中へと入りドアを閉めた。

窓際に備え付けられた木製の古びた机の上に荷物を下ろし、リーエは二人の方へ向き直る。

ファルケは先ほどと同じように壁に背中を預け、腕組みをする。リーエはドアの近く、壁際に座り込んで胡坐をかき、足の上に暖かい二匹の猫をそっと置いた。

疲れが全身に絡みつき、座っている方がずっと楽だった。

「……人が変わるのに、理由は以外と多くは無い。身分のある人間が急に変わったと言う場合、大体理由は2つ。野心を刺激されたか、独占欲を刺激されたかだ。前者の場合、よくあるのがその野心を巧みに操る存在が現れたケース。例えば腹心にそそのかされて…なんてね。でも、こんな田舎の領主相手に、そんなことをする人物がいるとは思えない。護衛を募集しているというのも、そんな腹心がいるのなら、その人物が自分に都合のいい者を用意するはずだよね。だからこちらの可能性は低いと思って、もう一方の理由を疑った。独占欲を刺激された……ようするに、「女」だよ。」

ルナールは表情一つ変えずに滔々と語る。ファルケはそれを聞いて、舌打ちをする。

リーエは重い体を壁にもたれさせながら、一生懸命考えを巡らせる。

領主が急に税の取立てを厳しくした。急に変わったという話から、ルナールは二つの可能性を考えた。誰かにそそのかされて税金を搾取した?だとしたら何だかおかしいところがある。だから、もう一つの方の可能性の方だと思った。誰か気に入った女性が出来て、彼女に色んな物を買い与えるために税金を厳しく取り立てている、と。

だから、宝石商だなんて嘘をついて面会を求めたら、思った通り許可されて、領主は女性に宝石を買い与えようとしている…。

「…で?大当たりだって話か?」

ファルケが僅かな怒気をはらんだ声でルナールを促す。それでもやはり、彼は動じずに相変わらずの薄い笑みを湛えている。

「そうだね。ご寵愛を受けているのは、おそらく南方の出の女性。こちらでは珍しいから、目を引いたのかもしれないね。そして多分、身分はそんなに高くない。本当にたまたま、領主様のお目に留まったのかもね。」

リーエはその言葉にルナールを見上げた。とても綺麗で、なんだか優雅な人のように見えたのに、身分が高くないと言われたので、不思議に思ったのだ。

その視線に気付いたルナールは、ほんの僅かだけ眉根を寄せた。彼自身すら気付かないくらい、ほんの僅か。

「少なくとも、家柄のある女性は自分の事を「あたし」とは言わないよ。」

誤魔化すように笑うルナールの言葉に、リーエは目を丸くする。そういえば、あの人は自分の事を「あたし」と言った。でも、それが出自を表すとは、リーエは微塵も気付かなかった。

「……町の人間から搾り取って貢ぐ程、そんなにイイ女だったのかよ。」

嘲笑するようにファルケが言う。そこには、侮蔑の色が濃い。

「さぁ……どうだろうね。僕はあまり興味はないから。」

肩をすくめてルナールが軽く笑う。それを見てファルケはまた舌打ちをした。

「なんだよ、そんな面して女には興味ねぇって言うのかよ。スカした野郎だな。」

「僕は男にも女にも興味はないよ。」

少しの笑みが添えられた悪態を、ルナールも微笑みで躱す。

窓から差し込むオレンジ色の光が、独特の眩しさで三人を照らしていた。

「僕より、彼に聞いてみたらどうだい?」

そうルナールがリーエの方に視線を移す。それを追うようにファルケがこちらを見たので、リーエは思わず背筋を伸ばした。

「で、イイ女だったのかよ?」

ファルケの言葉がリーエを促す。リーエはファルケの言う「イイ女」がどういう女性の事なのかさっぱり見当がつかず肯定すべきか否定すべきかわからなかった。仕方なく、自分なりに説明しようとしばらく目をつぶって件の女性を思い出したのだが、どう表現していいのか言葉が出てこない。

「えっと……綺麗な人だったよ。髪が長くて、キラキラしてて、それで……甘い匂いが………。そう!腐りかけの果物みたいな甘い匂いがした!」

はっと思い付いた言葉。それを口から発してから、とても人を褒めるような言葉ではないと気付きリーエは冷や汗が噴き出るのを感じた。

「……ははは!そうか!腐りかけか!いい表現じゃねーか!」

ファルケが初めて、声を上げて笑った。ルナールまで、口元を手で多い、顔を逸らして噴き出していた。

二人の様子を見て、改めて自分の言葉選びが間違えた事を知る。顔が熱くなる。

「いや、あの、言葉が悪かった!あの、あのっ!!」

狼狽えるリーエを見て、二人はますます笑う。こうなってはドツボである。

「……あぁ~…もう……」

ガシガシと頭を掻きながら、リーエは真っ赤になって俯く。少年らしい仕草だとルナールは思った。

「……買い与えられる物の出所まで、頭が回らない女なんだろ。」

「腐りかけ……ねぇ。」

ファルケとルナールは、納得の言った様子で呟く。リーエは相変わらず俯いたまま、真っ赤な顔を両手で隠していた。





 陽が沈みかけ、僅かな明るさだけが薄らとあたりを覆っている時刻。

三人は食堂へと赴いた。店主へ領主の件を報告するためだ。

厨房で仕込み作業をしていた店主を呼び、客のいない店内の、隅の席に座る。

「……領主様には、お会いできたんでしょうか…。」

オドオドと店主は額の汗を拭きながら、伏し目がちに三人に問う。リーエとファルケがルナールを見やり、その視線を受けて、またルナールは薄い笑みのまま頷いた。

「あぁ、お会いして来たよ。もっとお歳を召された方なのかと思っていたのだけど、存外お若いのだね。」

彼が話すと、だんだんと空気が彼の色になっていく。リーエはそれを改めて目にした気がした。

店主は無言のまま、促すようにルナールの目を見た。

「…領主様には、可愛がっておられる女性がいるみたいでね。彼女を飾って、横に置いて、それはそれはお気に入りのようだよ。」

その言葉を聞いて、店主は手にしていた布巾をぐっと握りしめた。目を伏せ、よく見れば少し震えているようだった。

「……そう…ですか…。」

絞り出したような声。確かに、厳しい取り立てに悲鳴を上げている一般市民にとって、女性へ貢ぐためにその金が使われていると知らされれば、怒りがこみ上げるのは当然だ、とリーエは思った。

「本当に……くだらない理由だよ…。」

ルナールは口の上で小さく呟いた。ファルケは渋面のまま腕組みをしていた。

「…知らせてくださって、ありがとうございました…。何か食べていかれますよね?用意しましょう。」

取り繕うような言葉を残し、逃げるように店主は厨房へと下がって行った。

店主が心配で仕方がないが、声をかけることすらできなかった。自分にはルナールのような魔法の言葉は使えないなぁ…とリーエは残念に思った。


 沈んだ気持ちのせいで、味さえ覚えていないような食事を済ませ、食堂で分けてもらった小魚をライとキーナに食べさせていた時、ふいにドアがノックされた。

何事かとドアを開けてみれば、ファルケが立っている。その後ろには知らない若い男性、そして一番向こうにルナールがいた。

「何かあったのか?」

不思議そうにリーエが聞けば、ファルケが低い声で答えた。

「俺たちに用事があるんだと。一緒に来いってよ。」

言われて見知らぬ男性の方に目を移せば、彼が申し訳なさそうに頭を下げた。

「…用事?」

ファルケに聞けば、面倒臭そうに首を傾げられた。どうやら、彼にもその用事とやらに心当たりはないらしい。

ルナールを見ても首を振るばかりである。

「ちょ、ちょっと待ってて。」

リーエは部屋の中に戻り、食事中のライとキーナの傍にしゃがみ込む。

「あのさ、ちょっと出かけて来る。すぐ戻ると思うから。」

そう声をかけるが、キーナの方は顔を上げることなくひたすら小魚に噛みついている。ライは一旦食事を辞め、一声鳴いて返事をした。

それを聞いてから、リーエは部屋を出た。

 若者に何の用事かと尋ねたが返事はなく、無言のまま歩き始める。

三人は顔を見合わせてから、彼の後に続いた。

大通りを避けるように、若者は裏道を足早に進む。そうしてたどり着いたのは、なんと夕食をとったあの食堂だった。

店主が何か用事があるのかなと思いつつ、若者に続いて食堂の中に入ったリーエは、息を呑んだ。

薄暗い食堂の中、全ての席に人が座っているのだ。ルナールと同じくらいに見える人から、白髪の老人まで。

全員がただ静かに座っている。そして、その座っている全員が、男性であった。

食堂には、僅かにランプが二つだけ。薄ぼんやりとした店内には、およそ20人程がいるようだった。

その全員がリーエ達を見ている。その視線が痛くて、思わず一歩後ずさった。一体これは何事だ…。

三人を連れてきた若者は、いつの間にか店内の人々に紛れていた。

「どういうことだよ…こりゃ…。」

ファルケも驚きを隠せない様子で声をこぼす。さすがのルナールも、数度瞼を瞬かせた。

「……どうか、お静かに。こうして集まっている事がばれるといけませんので。」

食堂の店主が、三人の前へ進み出た。ただならぬ雰囲気に、リーエは頷いた。

「…あなた方が調べてくださった領主様の事、全員に知らせました。本当に、みな腸が煮えくりかえる思いです。ただ、我々にはどうすることもできない。どうか、助けていただけませんか…?」

言いながら、店主が頭を下げる。「助けてくれって言われても…」そうリーエが言葉を発する前に、店主は思い切ったように続けた。

「……我々は、娘や妻を領主様に攫われたのですっ…!!」

「はぁ!?」

ファルケが声をあげた。リーエも「えっ?」と声をもらした。ルナールはきつく眉根を寄せた。

「どういうことだよ!?」

店主の肩を掴みファルケが勢いよく尋ねる。取り乱したような彼の隣で、リーエも視線を泳がせる。驚きと動揺で息が苦しい。

「税金の担保だと言って、若い女は領主邸に連れていかれてしまったのです!私の娘も、彼のところの娘も!あそこは新婚の妻を、領主邸に無理矢理連れていかれたんです!」

声こそ大きくなかったものの、店主は必死でそう訴える。

ファルケは無言のまま、ゆっくりと店主から手を離した。店内の男たちは、各々怒りに満ちた表情を浮かべている。重くどんよりとした空気が、充満している。

「ずっと、身を削って金を払ってきました!ただただ、娘達を返して欲しい一心で!!でも、それが女一人のために使われているのだと聞いて、もう我慢ならなくなったのです!お願いします!我々を助けてください!!」

勢いよく店主がまた頭を下げる。店中の男たちが、三人に懇願の目を向ける。痛いくらい突き刺さる視線に、リーエの全身に汗がにじんだ。

税の取立てが厳しくなって困っていると聞いてから領主に会ったが、その時はそんなに悪人だという気持ちは無かった。見たこともない世界に触れて地に足が付いていないような状況だったこともある。

だが、目の前にいる人達は、本当に領主の事を憎んでいる、そういう顔をしていた。

あの人は、酷い人だったんだ。悪い人だったんだ。そう思うと、体の奥の方から恐怖が湧き上がる。

この人達を助けてあげたい気持ちはある。攫われた女性たちを返してあげたいと思う。だが、そのために何をすればいいのか、リーエにはわからない。

だから、助けてくれと言われても、はい、と言うことは出来なかった。

苦虫を噛み潰したような顔をしたファルケもまた、返事が出来ずにいた。

面倒臭い、知ったことではない、そう思うのだが、自分の胸に光るローブチェーンの女神の滴と同じものを手首につけている男たちが数人、店内にいるのである。

同じ神に信仰をささげる人間を見捨ててはいけない。とはいえ、助ける手立てが思いつかなかった。

助けを求める視線に刺され、それを切り捨てることも出来ず、固まってしまった二人の男を眺めながら、唯一平時と変わらぬ顔をした優男は、こっそりと笑った。

なんたるわかりやすい男達だろうか。助けてくれと言われて、断れないでいる。

「それは出来ない」と一蹴するなんて事は、自分にとっては簡単なことだ。そもそも何の由縁もない町である。助けるでも助けないでも、返事をしてそのまま姿を消してしまえばいい。もう二度とここを訪れなければ、何も不都合はない。それなのに、彼らはこの人々を助けたいという気持ちで、困り切ったような顔をしているではないか。

それなら、とルナールが口を開いた。

「僕らはそんな大層な人間ではないから、助けるなんて事は出来ないけど、手伝うくらいは出来るかな。」

その言葉に、表情を明るくしたのは、町の人々だけではなかった。リーエもファルケも、同じように、はっとルナールを見た。

ほぉら、本当に単純な人達だ、とルナールは二人に視線を返す。

「あ、ありがとうございます!」

店主がまた、繰り返し頭を下げる。食堂にいる人々が、みな一様に頭を下げた。

ルナールは「まだ何もしてないうちに、礼を言われても困るな。」と、そっと溜息をつく。

そうして、この薄闇の中、町の人々と三人は、女性たちを取り返すための作戦を話し合うことになった。




 「……あの、さ…」

町が闇に沈んでから、再び宿に戻ってきた三人は重い足取りで階段を登った。

疲れ切った体を引きずって、部屋の前の廊下にたどり着いた頃、ぽつりとリーエが言葉を投げた。

ファルケが振り返り、リーエの方を見た。ルナールは自室のドアに手をかけたまま、耳を傾けている。

「領主様って……どうなるのかな。町の人達がさ、女の人を助けられたとして、その、後。」

掠れ気味に言う彼に、ファルケが答える。

「まぁ…事と次第に寄っては、殺されるかもな。」

ルナールも、それを否定するような事は言わなかった。リーエは目を伏せる。もしかして、とは思っていたが、やはり殺されるかもしれないのか…。

「…殺すのはダメ……ってことかな?」

ルナールの声は、抑揚が無かった。それはまるで、「綺麗事を言うな」とでも言っているようだった。

だがそれでも、リーエは領主を殺す事だけはしたくなかった。

「……殺すのはダメだ。……人間は、殺しても食べない。命を奪っても、それは血にも肉にもならない。だから、殺すのはダメなんだ。何にも、ならないから…。」

命を繋ぐために、森で獣を狩る事はある。魚も取る。命をもらって命を維持してきた。だが、人間を殺してもそれは食事のためではない。それならば、殺したくないと思う。

子供らしいとファルケは思った。難しい事は何もない、わかりやすい理論だった。

だた言葉を飾りたてるよりも、よっぽど好感が持てた。

ルナールもまた、リーエの言う事は悪くないと思っていた。

もちろん、生き長らえるためよりも、もっと大事な事のために他人の命を奪うという事態が、この世界にはあり得る。

リーエの意見は、そんな泥沼の底のような世界を、覗いたことのない世間知らずの意見だと思う。

でも、彼が生きてきた世界の真理はそこにあるのかもしれない。単純で、世間知らずで、でもそれを隠さない素直な意見だった。

「……まぁ、そうならん事を祈れ。」

ファルケが案外と柔らかい口調で言い、自分の部屋へと入って行った。ふっと笑ってルナールも部屋へ消えた。

一人残されたリーエは、短く息を吐くと部屋のドアを開ける。

部屋では魚の頭だけを床に残して、白黒の猫がベッドの上で寄り添って寝ていた。







 三日後、町は濃い霧に包まれた。季節柄、それは珍しい事ではない。

例の食堂で、その日に出されたのは鳩のスープ。それが、作戦決行の合図だった。

空を飛ぶ、自由な鳥。町の女性たちの解放、自由を意味するメニューなのだそうだ。

そしてその日の夜、事は動き出した。


 闇と霧とに視界を覆われる中、リーエ、ファルケ、ルナールは領主邸前の、渡橋の下に身を隠していた。

領主邸の方角からは死角となる川縁を、上流の方から静かに下りる。途中に、同行していた村の男達七名程を潜ませ、まずは三人だけで、最も領主邸門に近い橋の真下まで進む。

作戦はこうだ。まずは領主邸の陰から、女装した少年を町の方へと走らせる。

霧と闇とで視界の悪い状態で、門兵はそれを脱走した町の女性だと見誤り、おそらく一斉に後を追う。

町には、同じ姿に女装した数名の囮が準備をしており、各々に兵を引きつける。

そして彼らが、町にある酒蔵や馬小屋等に兵を誘導し、閉じ込める。

また、囮によって拡散させられ、二、三人と分裂した兵は街の人間で各個捕縛。必ず、倍以上の人数で対処することで町の人間の被害を防ぐ。

そうして、兵が出払ってしまった領主邸に、リーエ達三人と同行している七名で潜入し、人質となっている女性たちを救出するという算段だった。


 川のせせらぎを聞きながら待つことしばし。ガサガサと草木の揺れる音がしたかと思うと、人の足音のようなものが響いた。音は街の方へ移動していく。

「なんだ!?」

「女だ!逃げたぞ!!!」

すぐに男達の慌てたような声が上がる。布に水が染み込むように、あっという間に広がる騒めき。

「追え!!逃がすとマズいぞ!!」

そんな声が聞こえたかと思うと、鈍い金属音の混じった足音が三人の頭上の橋を渡り始める。

「くそっ!面倒なことになった!!」

「早く捕まえて部屋に戻せ!」

口々に愚痴のような言葉を零しながら、兵達は門から飛び出ると町の方へ走る。

そんな兵達の「動く音」を聞きながら、ルナールは自分の予想が当たった事を知る。

彼らは、主である領主にこの事を報告しない。

町の人々からの搾取の理由を知るため領主邸に向かった時、おそらく謁見を断られたと見られる人々とすれ違った。それなのに、領主に謁見した時彼は「今日はこれだけか。数が少なくていいな」と言った。

恐らくは、全て現場で判断が下されている。領主に報告もしなければ、指示を仰ぐこともしていない。

まぁ、片田舎の小さな町では、指揮命令系統を整えておく必要性が、今の今まで一度もなかったのだろうから、それはある意味当然だと言える。

今この騒ぎの中、誰一人「領主に報告を」と言わなかった。やはり、兵士たちはそのまま、囮である脱走者を捕まえるべく駆け出して行ってしまった。

もしも逃がしてしまった事が知れたら、どうなるかわからない。兵士たちにとっても、その場で事を収めた方が都合がいいのだ。

それはもちろん、こちらにとっても好都合な事だ。指揮系統も整っていなければ、兵士の練度も高が知れている。

もし何かがあったとして、自分ひとりその場から身を消す事など容易い。

たかが小さな一領地の、些細ないざこざだ。この作戦の成否に関わらず、自分の身を守る事くらいなら造作ない。

その時にこの二人の男をどうするか、それはまだ決めかねているが。

「……あの、さ。」

兵士たちの足音が去り、辺りに静寂が戻る。町の人々から合図が合って後、三人も動く事になる。その合図を待っている間、ポツリとリーエが声を零した。

「この作戦ってさ………町のみんなで立てたけどさ。でも……ルナールは最初から考えてたんじゃないの?」

リーエの言葉に、ルナールはわずかに目を見開いた。この霧と闇の中では、リーエもファルケもそれには気付かなかっただろうが。

ずっと、夜更けの食堂で話し合いをしてから今日まで、リーエには気になっていることがあった。

町の人々が、女性達を助ける作戦を考えている時、ルナールは進んでは言葉を発しはしなかった。

だが、女性達を助けに領主邸に忍び込むにも兵士がいるから無理だと言った人々に「兵士を領主邸の外におびき出せればいいのにね」と言ったのはルナールだった。

おびき出す方法を考えている時も、「人質が逃げた…なんてことでもない限り兵士が挙って出てくることはないかな」と言ったのも彼だったし、囮を使っておびき出した兵士を「足止め出来ないかな、どこかに閉じ込めるとかしてさ」と言ったのも、やはり彼だった。

まるで、話し合いが彼の言葉に誘導されているように、思いの外すんなりとこの作戦が決まったのだ。

その、目に見えない糸を手繰るように進んでいく話し合いに、リーエはずっと違和感を持っていた。

そして考えていた。ルナールは、話し合いの前から、この作戦を考え付いていたのではないか、と。

「本当は、ルナールは最初からこの方法を考えてたんじゃないのか?」

「…だとしたら?」

いつものように柔らかく、どこか笑みの混じった声で、ルナールは言った。

リーエに真っ直ぐに投げられた疑問から、するりと逃げるような言い方だった。

肯定でも否定でもない返答に、リーエは面喰う。逆に質問で返されて、うっと言葉に詰まった。

「え?あ、いや…。だったら、なんで始めからみんなに、教えてやらなかったのかな…って…。」

疑問を投げたのはリーエだったのに、上手く躱されてしまったためたどたどしくなる。

「さぁ?思いついてなかったから、教えられなかったんじゃない?」

まるで他人事のようにルナールは言って笑った。あぁそうか、自分が敵う相手じゃないや…とリーエは思った。

彼がどう考えていようと、ともかくはこの作戦を成功させる他に、今すべきことはない。

リーエが疑問を諦めたその時、ルナールは諭すように行った。

「…この町の人々が、自分で戦わないとダメなのさ。『どこかの知らない誰かが来て、助けてくれました』じゃあ、次に何かあった時、彼らはまた 『どこかの知らない誰かが助けてくれる事』を祈るしかしなくなる。彼らが考え、自ら戦ったという履歴が何よりも大事なんだよ。」

それは、小さな声だった。だが、リーエにはそれが、今までのような「笑みのベール」を纏い忘れた、本物の声ように聞こえた。

良く見えない視界の中で、ルナールの様子を窺おうとしたリーエを現実に引き戻したのは、ファルケのざらついた一言だった。

「おい、合図だ。」

言われて耳をすませば、遠くで犬の遠吠えが聞こえた。続けて三回。それは犬ではなく、町の人間の声である。

町に降りてきた領主の兵を、無事に捕縛したという合図。

おそらく、リーエ達三人から少し離れた川縁に身を潜めている町の人間も、この合図を聞いてこちらにやってくるだろう。

「お前ら、どれくらいやれる?」

低くファルケが尋ねてくる。ルナールは事も無げに笑って答えた。

「僕は荒事はからきしだよ。」

悪びれもせずに言うルナールに、ファルケはわざとらしく溜息をついた。そして、ちらりとリーエの方を見やる。

慌ててリーエも首を振って答えた。

「お、俺だって、人間相手にしたことなんかねーよ!動物なら、狩ってたけど…」

ファルケは、二人の様子に思い切り舌打ちをする。申し訳ないと思いつつも、「仕方ないじゃないか」とリーエは一人言ちた。

「様子を見てくる。お前たちは残りの人間を待ってろ。」

ファルケが身を起こし、橋の袂に上がろうとする。慌ててリーエが言葉をかけた。

「ひ、一人で行くのか?」

「一人の方が安全なんだよ。」

すぐさま、冷たい返事が返ってくる。リーエは言い返す事が出来ず、ぐっと声を飲み込んだ。

「気を付けて。」

そんな中でも普段とまるで変わらない様子のルナールが、笑顔を浮かべてファルケを送り出した。

この「敢えて空気を読まない度胸」は、凄いと感服せざるを得ないとリーエは思う。

潜んでいた橋の下から地上へ飛び出すと、ファルケは身を屈めながら霧の中を進んだ。ぼんやりと見える灯りの方に、門があるのはわかっている。

問題は、その門の前に何人の人間が残っているのかという事だ。

足音を立てないよう、灯りの方へ。途中で少し方向を変え、門の右側に寄る。

松明の前に一つ影があるのが辛うじて見て取れる距離まで来ると、そっと足元の石を二つ拾い上げる。

それを少し離れたところへと投げ捨てると、石はカツンと音を立てた。

「なんだ?何の音だ?」

「わからん。俺、ちょっと見てくる」

そんな会話が聞こえる。どうやら、そこにいるのは二人のようだ。他に声はしない。それなら、何とかなる。

じっと身を屈め息を殺すと、程なく、足音が近づいてくる。足音の向かう先は、先ほど投げた石の方だ。

自分の居場所を知らせていると考えもしないその足音は、ファルケの近くで立ち止まる。

「…っ!」

何かを言おうと口を開いた瞬間。背後に回ったファルケは、男の首に腕を回して締め上げる。声を出す隙など与えない。同時に男の体を後ろへ引きバランスを失わせると、なんとか踏ん張ろうとする余り、ファルケに抵抗する事が出来なくなる。ギリギリと頸動脈を締め上げながら、背ばかり高い痩せた男だななどとファルケは考えていた。これなら、すぐに落とせそうだな、とも。

思った通り、腕の中の男はあっけなく気を失った。ずっしりと重くなった体をゆっくりと地面に横たえ、念のため呼吸を確認する。殺してはいけない。ただ、邪魔をしないでくれさえすればいいのだから。

「…おい?どうした?なんかあったのか?」

すぐにもう一人の男の声が近づいてくる。ファルケは急いで横たわる男から離れ息を潜めた。

「お、おい!!どうした!!」

意識を失い地面に転がる男に、髭を蓄えた男が駆け寄る。そこに再び背後から忍び寄り、同じように首を締め上げ落としてやる。

そうして、再び橋の下へと身を翻す。事は動き出したのだ、もう止まる事は出来ないし、一刻の猶予もない。

橋の下へ潜り込むと、町の人間もすでにやって来ていた。総勢10名。これから、領主邸に乗り込む面々だ。

「お疲れ。」

「まだ何も始まってねぇ。さっさと行くぞ。」

暢気に迎え入れたルナールに、ファルケがぴしゃりと言い放つ。全員に、緊張が走った。

「いいか、俺の姿が見える程度の距離でついて来い。離れすぎるな、近付き過ぎるな。」

ファルケの言葉に、全員が無言で頷く。彼の声が一層かさついていた。

ついて来い、と言っているということは、ファルケが先頭を行くのだとリーエは悟った。

この場にいる人間の中で、戦闘経験がありそうなのはファルケだけだ。ルナールについて本当のところはわからないが、彼が「荒事はからきしだ」と言っている以上、実力はともかく戦う気はないのだろう。

そうなれば、頼れるのはファルケしかいない。

自分に出来る事は、ファルケの指示に従う事。彼の手を煩わせない事だけだ。リーエはぐっと拳を握りこんだ。

ひらりと橋の袂に飛び上るファルケの姿が、霧にぼんやりと浮かぶ。その距離を保ってリーエも後に続いた。

闇と霧の中、ファルケを見失わないように懸命に追いかける。

それにばかり気を取られて、気付いたら領主邸の入口まで来ていた。開け放たれた巨大なドアから、明るい邸内が見える。背後も門前の松明によって煌々と照らされており、皆の顔がはっきりと見て取れる。しかし、門の前にも邸内にも、兵の姿はなかった。

「誰も……いない…?」

周りを見回してみても、人の気配がない。本当に兵は全員出払ってしまっているのだろうか。

「ここまで見事にお揃いで出ていってしまうなんてね。」

呆れたように笑ってルナールが呟く。そもそもこの作戦を考えたのは自分達だろうが、とファルケはまた舌打ちをする。

「……あそこは?」

エントランスホールからすぐのところに、ぽっかりと空いた穴。石の階段が地下へと続いているそこに視線を投げてファルケが低い声で尋ねる。慌ててリーエが答えた。

「わかんないけど、あそこからは鉄と皮の匂いがする。」

最初に邸内に入ったあの時から思っていた事だった。他の場所とちがって、あの場所だけは錆や金属や鞣した皮の匂いがしている。

「そうか。まぁ、大体察しはつくが…。ちょっと見てくる、お前らは壁に背中をつけて隅で固まってろ。しゃべんなよ、まだ中にはたぶん兵がいる。」

そう言い残し、ファルケは足音もなく走り出した。

残されたリーエ達は、慌ててエントランスの隅に固まった。まだ中に兵が残っていると言われ、緊張感も高まる。口はカラカラに乾くのに、額には汗がにじむ。

邸内に目を走らせ、誰も来ない事を祈りながら、背に担いだ弓に手をかけてファルケが戻るのを待った。

風で揺れた灯りで、影も揺れる。そうして、やがてファルケが姿を見せた。

「思った通り、あそこは兵の詰所だ。今は見事に出払っているがな。ただ、邸内には領主の護衛がまだ残っているはずだ。気を付けろ。」

懐から短刀を取り出しながら、ファルケが言う。ルナールも、その腰に下げた剣を抜いた。リーエは弓を手にする。町の人間も各々武器として持ち込んだ木の棒やスコップを握りしめる。

「外観から見てここは三階建てのようだが、人質を一階に置くとは考えにくい。探すのは二階と三階だ。どうする?しらみつぶしに行くか?手分けするか?」

邸内に目を走らせ警戒を怠る事なくファルケが行った。そうだねぇ…とルナールが思案を始めた瞬間、リーエはポケットから小さな布を取り出した。その布を解くと、中から乾燥した植物の葉が二枚ほど出てくる。

「…それは何だい?」

「昨日、町の人に貰ったんだ。攫われた女の人の中に、染め物屋のお嬢さんがいるんだって聞いて。その人からは、この染色に使う葉っぱの匂いがするらしくてさ。」

ルナールの問いに、リーエが答える。言われて己の嗅覚に集中してみれば、確かにその植物からは独特な匂いがしていた。

「これを手がかりにして、人質を捜そうかと思って。つっても、いくら鼻に自信のある俺でも、どこにいるかこれだけでわかるわけじゃねーから…」

言いながら、リーエは自分の外套の胸元を引っ張る。そこから、白と黒の猫が音もなく飛び出した。

白い猫が、リーエの足元にちょこんと座る。その横の黒い猫は、大きなあくびをした。

リーエはしゃがみ込み、手の上の葉を猫たちの前に差し出した。すんすん、と二匹は鼻を鳴らした。

「キーナ、ライ、この匂いのする場所を探してくれ。」

彼の言葉に、ライが顔を上げる。キーナは、ぶるぶると身を震わせ、後ろ足で耳を掻く。

「犬じぇねぇんだ、さすがにお前…」

言葉を零したファルケの前を、ライとキーナが歩きだす。一度リーエを振り返り、そしてまた二匹は軽い足取りで邸内へと進んで行く。

「頼むぜ、相棒。」

リーエは足早に猫たちの後を追う。一度顔を見合わせてから、一行もその後に続いた。

二匹の子猫は、しなやかに舞うように階段を駆け上がる。踊場を抜け、二階部分を素通りしそのまま三階へ。

「先に行ってろ。後で追いかける。」

そう言い残し、ファルケは二階の奥へと駆けて行った。あっ…とリーエは声を零したが、呼び止める時間は無かった。キーナとライは階段を登って行く。見失うわけにはいかず、リーエはファルケをそのままに、歩を進めた。


 皆から離れ、二階にとどまったファルケは壁に身を隠し奥の方の様子を窺った。

猫たちは三階へ行った。もしあの獣どもの嗅覚を信用するなら、人質は三階にいるということだ。

となれば、領主は二階にいる。人質と同じ階で生活しているとは考えにくいからだ。

人質など、隠しておきたいものだろう。ならば、一番奥へ、一番自分から遠いところへ置いているはずだ。

…領主に、特異で悪趣味な嗜好がなければ。

人質の解放はルナールたちに一度任せるとして、領主の方をどうにかしなければならない。

とりあえず領主を抑えておけば、指揮系統は完全に死ぬ。そして、たぶんそれは領主の身を守ることにもなる。

夜更けで間引かれたランプは、薄ぼんやりと廊下を照らす。幸いにも人の気配はなかった。

素早く、足音を立てないように壁にかかるランプに手を伸ばし、ゆらりと揺れる炎を吹き消す。

すぐに闇が降りてくる。消したランプの下でしばらく膝をつき、目が暗闇に慣れるのを待ってから、ファルケはまた駆ける。

二つ目のランプを消した時、遠くから足音が聞こえた。慌てて、廊下に飾られた調度品の棚の陰に身を隠す。暗くてよく見えないが、飾られているということはこの棚も良いものなのだろう。今のファルケにとっても、それは身を隠すために「良いもの」であるが。

「…ん?ランプが消えてるじゃないか。」

手にランタンを持った兵士が一人、ファルケが消したランプに気付いてこちらにやって来る。見回りの兵だろう。

消えた壁のランプの前に立つと、手に持っていたランタンを床に置き、再び火をつけようと壁に手を伸ばす。

その時、ファルケが背後から男の口を塞ぎ、喉元にナイフをつきつけた。兵の肩がびくりと跳ねる。

「……声を出すな。」

ひた…と喉にナイフを押し付けながら、ファルケが言う。小刻みに体を震わせながら、兵士は指一本さえ動かすのを辞めた。酷く怯えている。

殺す気はないのだがな…と、心の中で呟きつつ、ゆっくりと男の口から手を離した。怯えた男の、荒く早い息遣いが聞こえる。

「両手を後ろに回せ。」

言われた通り、恐る恐る震える両手が背後に回る。麻縄の端を男に持たせ、自分の片手はナイフを突きつけたまま、ファルケはぐるぐると男の両手を縛った。

「…抵抗しなければ、命は取らない。」

後ろ手に縛った後、目と口を布で塞ぐ。ゆっくりと膝をつかせ、最後に両足を縛りあげる。

布は前に立ち寄った村で怪我をした時の当て布用に買ったのものだったが、致し方ない…などと、妙に現実的な事を考えつつ、ファルケは最後に床に置かれたランタンを消して、再び廊下の奥へ駆け出した。

 それから二つの角を曲がり、五つのランプを消し、二人の男を縛りあげてようやく、ファルケは大きな両開きのドアの前に辿り着いた。

他の部屋のドアとは明らかに作りが違い、重厚で、飾り彫刻があしらわれている。

そっと、ドアに耳を当て中の様子を窺う。ここが領主の部屋であることは間違いない。問題は、本人がこの中にいるかどうかだ。

中から聞こえるのは、人の掠れた声と、荒い息と、衣擦れの音。

「……お楽しみ中かよ…。」

深いため息を落として、ファルケは乱暴に頭を掻いた。なんと暢気な事か。

そうしてなるほど、見回りが少ないのも、人払いしていたわけかと納得した。

「……ガキをこっちにやらなくて良かったぜ…。」

そう小さく言葉を零してから、懐から錆びた鎖と錠前を取り出す。これは先ほど、この邸の兵士詰所から拝借したものだ。何かの役に立つかと思って転がっているのを拾ったが、まったく良い勘をしているなと自分でも思う。

目の前のドアを、鎖と錠前で閉じてやる。これで、領主はこの部屋から出られないはずだ。

見回りの兵士がこの錠に気付いたとしても、鍵は自分が持っているのだから、そう簡単には開けられない。時間稼ぎにはなるだろう。

さて、三階に上った頼りない同行者達を追わなければ…。ファルケはまた闇の中を駆けだした。



 一方、ライとキーナを追いかけ階段を駆け上がったリーエ達だったが、三階を見上げる踊場で立ち止まっていた。揺らめくランプの灯りの下、人影が見えたからだ。

「……兵がいるみたいだ…。」

「それは困ったね。」

緊張と共に息を呑んだリーエに、相変わらずのんびりとした口調でルナールが答えた。

全然困っている様子はないじゃないか…とリーエは眉根を寄せた。

あの兵を何とかしなければ、先へは進めない。かといって、ここから弓を射たとしたら、怪我をさせてしまう。もし当たり所が悪ければ、死ぬことだってある。

どうすればいい……何か、良い考えは……。リーエがぎり、と奥歯を噛みしめた、その時だった。

足元にいたはずの二匹の子猫が、だっと階段を駆け上がった。あっという間に兵士の足元にたどり着く。

「えっ!?猫?なんで猫が!?」

突然現れた猫に、兵士の男が驚いた声を上げた。

ライとキーナは、兵士の足元をあっちこっちと走り回る。跳ね、走り、足の間を通り抜ける。

「こら、外へ出ろ!ここは領主様のお屋敷だぞ!」

兵士は動き回る猫を捕まえようと翻弄される。それをあざ笑うかのように、にゃぁと鳴いた猫たちは、すばしっこく逃げ回る。

しばらく体を反転させたりしゃがみ込んだりしていた男だったが、ついに苛立ちが募ったのか、手に持っていた槍を投げ捨て、ついにライを両手で掴み上げた。

「人間を舐めるなよ!猫のくせに!!」

拘束から逃れようと、懸命に身をよじるライを自分の眼前まで持ち上げ、男は声を荒げ黒猫の黄金色の瞳を睨みつける。

「このまま、絞め殺すぞ!」

男の口から物騒な言葉が聞こえる。堪らずリーエが駆け出そうとした瞬間だった。

全身の毛を逆立てたライが、男の顔面を思い切り引っ掻いたのだ。

「うわぁぁ!!」

男が顔を両手で押さえる。拘束から逃れたライは、ひらりと身を翻し、華麗に床へと着地した。

突然の痛みに狼狽した男が顔面を抑えながら悶える。さすがに痛そうで見ていたリーエや町の人間も思わず表情を歪めた。

そんな中、まるで留めとでも言うかのように、猛スピードで走って来たキーナが男目がけて飛びかかり、その痛ましい顔面を壁のように蹴りつけた。

「…っ!?」

予期せぬ衝撃に、男が階段を踏み外す。そして、凄い勢いで転げ落ち、あっと言う間にリーエ達の足元に転がり落ちて来たのである。

皆が恐る恐る踊場の床に転がる男を覗き込めば、打ちどころが悪かったのか、すっかり気を失っていた。

そっとしゃがみ込んで、ルナールが男の首に触れ脈を確認する。彼が頷くのを見て、死んではいない事を知った一同は、ほっと胸を撫で下ろした。…のも、束の間。

「どうした?何かあったか?」

奥の方から、別の男の声がする。先ほどの悲鳴を聞きつけたのだろう。

弓か、懐のナイフか、とにかく武器を構えなければ。捕まらないように、傷つけないように、殺さないように。どう戦えばいいのかわからないが、ともかく、構えなければ!

覚悟を決めたリーエが動こうとしたほんの一瞬前。だっと駆け出したライとキーナが、こちらに走り寄ってくる兵の足に体当たりをしたのだ。

「うわっ…!?」

急に何かが飛び出してきた事で、勢いよく蹴躓いたその兵士は、そのまま階段を転がり落ちてしまった。

リーエ達の目の前に転がって来たその男は背中を強かに打ってしまったようで、呼吸の出来ない様子で蹲る。それを見ていた一同は、

「早くっ!」

というルナールの言葉ではっと我に返り、急いで目の前の兵士を縄で縛りあげた。多勢に無勢。あっけなく、兵士は身動きもとれず、声さえ上げられない状態に。

なんだか、あれよあれよという間に上手いこと兵士を捕縛出来てしまった。安心や疲れや驚きで若干放心状態になっていたリーエと町の人々に、階段の上から二匹の猫が鳴き声を上げた。

キーナは、褒めて欲しそうな得意気な顔をしていた。ライは、こちらを心配するような表情だった。そう見て取れたのは、リーエだけだったかもしれないが。


 大勢で固まって進むのは危険だということで、先に三人がライとキーナを追い、残りの人間は少し距離を置いて続くことが決まった。

それとなく、自然に、ルナールは後続に決まった。まぁ、そうなるだろうなと思いながら、リーエは家庭用ナイフや棒などの稚拙な武器で精一杯の武装をした若い男二人と先を行くことになった。

隣を進む人間の数が減った事で、緊張感がぐっと高まる。だがしかし、そんな人間の気持ちなどお構いなしに、二匹の子猫の大進撃はとどまる事を知らなかった。

急に猛スピードで駆け出したかと思うと、見張りの兵士の顔面に飛びつき押し倒したり。

無邪気に鳴き声を上げ、撫でようと近付いた兵士の足元を駆け回り翻弄したり。

音もなく背後から忍び寄り、あっという間に兵士の背中を駆け上がり思い切り顔を引っ掻いたり。

後ろに続くリーエ達は、結局白と黒の愛くるしい刺客たちに気を取られている兵士達を、数に任せて取り押さえ縛り上げるだけで済んだのだった。

今まで一緒に暮らし、今も旅を共にしているが、こんなに戦力になるとはリーエすら知らなかった。

すごいすごいと盛り上がる人々の中で、リーエは一人複雑な顔をして笑うのである。


 二人並んだ兵士が、ライとキーナを追いかけて互いの額を強かにぶつけそのまま気を失った。それを縛りながら、リーエはそこにある扉に目をやった。

見回りをしている兵ではなく、扉の前に立っていた二人の兵士。これは所謂見張りであろう。

ということは、ここに人質となっている女性達がいるのか?

「……たぶん、そうだと思うよ。」

いつの間にか隣に立っていたルナールが、リーエに静かに声をかけた。

考えを読まれたような言葉だったが、もはや驚きはない。なんたってルナールは、言葉を操る魔法使いのようなものなのだから。

扉には大きな木材で作られた閂が刺さっている。後からとって付けたような、不自然な閂だった。リーエがそれに手をかけると、町の人達がすぐにそれを手伝ってくれる。

男三人で閂を抜き勢いよく扉を開くと、薄ぼんやりとした部屋の中に人影が揺れた。驚いたように息を呑む音や、小さな悲鳴のような声が聞こえた。高く、か細い女性の声だ。

カーテンのひかれた部屋には小さなランプ。その頼りない灯りに揺れるのは、部屋の隅に怯えたように固まる十数名の女性達。

「リズ!!」

リーエの隣の男が声を上げた。それを合図にしたように、男達が部屋に駆け込んでいく。女性達も、現れたのが見知った顔なのを知り、男達に近寄る。

抱き合う者、涙する者、手を握り合う者。それぞれが喜びを噛み締めている、そんな姿を見ていると、リーエはなんだか陽の光を浴びた干し草のような温かい匂いを感じた。

領主の横にいたあの綺麗な女性のような甘い匂いはしない。でも、胸いっぱいに吸い込みなくなるような、馴染み深い匂い。

あぁ、これは喜びの匂いだ。世の中に沢山溢れている、どこにでもある、それでいて大事な喜びの匂い。

ふと肩の力が抜けたその時だった。

「誰だ!何をしている!!」

扉の前から怒鳴り声が聞こえた。一瞬にして部屋の空気が張りつめ、冷える。

開け放たれた扉の向こうに、一人の兵士の姿が見えた。手に剣を構えている。

「しまっ…!!」

緊張感を失って、周囲への警戒を怠っていた。兵士に人を呼ばれるか、このまま剣を振りあげられるのか。

一瞬のうちに、色々な考えが頭を駆け巡る。望まない結末がいくつも浮かぶ。冷や汗、絶望、焦り、恐怖。

部屋の中で再会を喜んでいた人々も、悲鳴を上げ固まった。喜びの匂いは跡形もなく消えた。

手遅れと知りつつリーエが背中の弓に手をかけようとした時だった。

「…ぐっ…」

くぐもった声を上げて、兵士がふらついた。と、思った途端白目を剥いてそのまま倒れた。

何が起きたのかわからないまま、恐る恐る弓へ伸ばした手を下ろし目をこらせば、倒れた兵士の背後からゆらりと現れる人影。

「迂闊なんだよ、お前らは。」

呆れたような溜息と共に、こちらに歩いてくるのはファルケの姿。

手に刃物のようなものは無い。倒れた兵士を殺したわけではないようでほっとする。

「ありがとう。お疲れ。」

涼しい顔をしてルナールがファルケに片手をあげる。例えばあのまま兵士に見つかって捕まったとしても、彼はやっぱりこんな感じなのだろうかとリーエはふと思った。

視線だけで返事をして、ファルケが部屋を見渡す。

「ここから出るぞ。喜ぶのは後だ。」

彼の潜めたままの鋭い声で、皆の顔つきが引き締まる。リーエもぐっと唇を噛み、頷いた。

「俺が先頭を行く。リーエ、お前は最後に来い。」

ファルケに肩を叩かれる。返事をする前に、すでに彼は部屋の外へと駆けだしていた。

「みんな早く!逃げよう!!」

リーエの声を聞きながら、町の人々がファルケの姿を追い部屋を出ていく。それを見送って、最後にリーエは部屋を飛び出した。

まだ作戦は終わっていない。ここから全員無事に出る、それが作戦の一番の目的なのだ。気を抜いてはダメだ。

ところどころに縛り上げた兵士が転がっている。そんな廊下を駆け抜け、階段を駆け下りる。

そうして一階までたどり着き、外へあと一歩という期待感が首をもたげた。

足も自然と早まる。ところが、

「えっ?」

「うわぁ!!」

「なんだ!?」

リーエの目の前の人々が動揺の声を上げた。地面が揺れる。弾かれたように前を見れば、隆起した地面がまるで蛇のようにうねり、床タイルを割りながら走っていく。

蛇のように、ではなかった。まさに土の蛇だ。土の蛇は時折地面から顔を出し、口からチラリと二股の舌を見せる。その姿は、生理的な恐怖感を煽るものだ。辺りに悲鳴が広がる。

そうして、蛇は邸の入口前で見上げる程に隆起を高め、土の壁を作ってしまった。

扉は土の向こうにわずかに見えてはいるが、とても手が届きそうにない。土の壁は小高く男達の背丈を軽く超えており、人々を完全に拒んでいる。

「…クストーデか。厄介だな。」

先頭に立つファルケが舌打ちをして呟いた。彼の視線を辿れば、廊下の奥から一人の男が歩いて来る。大柄の骨ばった顔の男だった。水気を含んだような重そうな黒い髪がうねっている。長く白いローブを引きずり、手に竹で出来た何かを持っていた。それが何か、リーエにはわからない。

「とりあえず、契約金だけの仕事はしないとならんからな。」

笑みを含んだような低い声で黒髪の男はそう言った。ジリジリとこちらに近付いて来るその男と距離を取るように、皆が徐々に後退していく。

今までの兵士のようにはいかない。自分達が武器を取り、どんなに懸命になったとしても土の蛇のような、あんな力には勝てない。

あれを呼べるのは、選ばれた人間だけ。それがわかっているから、人々の中には恐怖しかなかった。

どんどん歩を進めてくる男から逃げるように、ついには領主邸の中庭に追い詰められてしまった。

「金もらったからって、力を使う相手は選べよ。」

苦々しい笑みでファルケが男に言った。もしかして、領主のした事やここにいる人々の境遇を聞けば、無駄に争う事なくそのまま見過ごしてくれるのではないかと、考えていた。だがしかし、その希望はあっさりと打ち砕かれた。

「仕事は仕事。雇い主が何を考えていようと、相手が誰であろうと、興味はないな。」

薄笑みを浮かべたまま、ローブの男は答えた。こちらの話を聞く気はないようだ。

リーエは、ともかく人々を外へ逃がさなければ、と周囲に目を凝らした。さっきのような土の蛇が人々を襲ったら一溜りもない。

早く何とかしないと。早く早くと気持ちが急き、頭が回らない。心臓をぎゅっと掴まれたような、痛さと息苦しさが全身を支配する。

それでも、何とか…と追い詰められた中庭を見渡せば、向う側にもう一つの扉が見える。中庭を囲うようにして建てられているこの領主邸は、廊下から中庭に出る扉が二か所あるようだった。

だが、その扉は閉ざされている。今は夜だ、おそらく鍵がかけられているだろう。この中庭は現在、袋小路だった。

同じくファルケも、現状の打破に苦慮していた。

自分だけなら戦える。だが、この人数を庇いながらとなると、話は別だ。

守るのが先決。しかし、防戦一方では拉致があかない。追い詰められている状況は変わらない。

張り付いたような薄気味悪い笑みを見せるローブの男を睨み、ファルケがぎりと奥歯を噛みしめたその時だった。

眉根を寄せ、何かを決意したような表情を浮かべたリーエが、肩にかけている大きな革鞄のベルトを外した。何かを取り出すのかと思えば、鞄だと思っていたそれが、蓋、底、档と開かれていく。

すっかり展開されてしまったそれは、背表紙で肩から吊り下げられた巨大な本となったのだ。

見たこともないその本は、鞄の形をしていた外側の革を開かれ、まるで頁と頁の間に、空気を抱き込んでいるかのように見えた。

リーエの手がその本にかかる。そして表紙をめくりあげれば、光を放ちながら勢いよく頁が繰られていく。リーエの手がそうしているのではない。彼が表紙をめくった途端、頁が風にでも操られているかのように、勝手にペラペラと進み、そしてぴたりと止まった。

大きく開かれたその頁が一際まばゆい光を放つ。この光を、ファルケは知っていた。こちらの世界に、アレを呼ぶ時の光。

輝く頁から、緑の光が飛び出した。それは形を変え、人間ほどの大きさの淡い若草色をした牡鹿となった。その光を放つ美しい毛並も、黒壇のような木で出来た大きな角も、この世界ではあり得ない。そう、これは、別の世界の生き物。それを人々は「現獣」と呼ぶ。

「現の世界に現れる獣」。それを呼ぶことが出来るのは、その才のある者だけ。そして、その現獣と契約をしている者だけだ。

ローブの男が呼んだ土の蛇も現獣である。そして一般に、現獣を呼ぶための「召喚譜」という紙は、蛇腹状に折り畳み竹製の板で挟んだ折本状で携帯されている。

ローブの男がそれを手に持って現れた時、現獣を呼べる「クストーデ(番人)」である事を知りファルケは現状の悪さを悟ったのだった。

だが、リーエが持っているのは、折本状の召喚譜ではない。まさに本なのだ。それも、鞄のような形の。そんなクストーデは今まで一人も見たことがない。

リーエの呼んだ牡鹿は、いくつもの音が重なったような不思議な声で一度長く鳴くと、風のように駆け出し、真っ黒のその木の角で、閉ざされた中庭の、もう一方の扉へと突進した。ドンと大きな音がしたかと思うと、扉は閉ざされたまま蝶番を壊され向う側へと倒れる。もはや何かを「閉ざして」おく役割など果たせそうにない。

「行くよ!」

ルナールが叫び、人々を連れてその壊された扉の向こうへと走り出す。牡鹿は軽く嘶いてから、再び光となってリーエの本へと戻っていった。

外へと走る人々を行かせまいと、ローブの男が召喚譜を広げたところへ、ファルケが剣を構えて迫る。

「くそっ!!」

走るファルケの前に、また地面から蛇が現れ土の壁を作る。行く手を阻まれファルケの動きが止まると、次はリーエが男に向かって弓を引く。とにかく町の人々がここから出るまでは、男から守らなければ。

地面を走る蛇は、今度は土の壁でリーエの矢を防ぐ。地面を泳ぐような蛇の動きはとても早く、二人掛かりでようやく引きつけておける程だった。

「速ぇな!」

今度は土の蛇に追われながら、ファルケが怒鳴った。そんなファルケを助けるべくリーエが再び矢を放てば、すぐに蛇はそちらを追って土の壁を作る。

「お前、クストーデだったのかよ!」

リーエの隣に走り寄ってきたファルケがそう叫ぶ。リーエは男に次の矢を向けたまま答えた。

「く、くす?何?何だよそれ!」

耳慣れない単語は、戦闘中のリーエの頭の中には留まれなかった。覚えないまま質問を返すと、呆れたような溜息が聞こえた。

「現獣を呼べる人間の事だ!」

また剣を構えて男の方へ走りながらファルケが叫ぶ。土の蛇が彼を追う。

「現獣?あっちの世界のお友達の事か?」

矢をつがえて声を上げれば、土の壁に阻まれたファルケが走りながらまた叫ぶ。

「お友達ぃ!?メルヘンかてめーは!」

「俺じゃない!俺の母さんがそう言ってたんだ!」

「じゃあ、お前のおふくろがメルヘンか!!」

軽口を叩きながら土の蛇を引きつけていた二人だったが、ようやく皆が中庭から出ていくのを見届けた。

「よし、じゃあ…やるか。」

おもむろにファルケはそうつぶやくと、手にした剣を鞘へ戻した。それを見たリーエは驚愕する。まさか負けを認めるのか。もう戦うのを辞めるというのか。どういうことだ…。

鞘へと剣を戻した彼の手が、背後へ回る。そして、取り出されたのは……黒い銃。

「実ぁ俺もクストーデなんだ。ちっと普通とは形が違うがな。」

言いながら、くるりとファルケが銃を回す。その様子に、ローブの男が目を見開いた。

「その銃が「譜」だと言うんじゃあるまいな。」

「言うんだよ、それがっ!」

言葉と同時に、ファルケが駆け出す。走りながら男に向かって銃を向け、引き金を引く。

銃口から飛び出したのは弾丸ではない。それは炎の鳥だ。片手程の燃え盛る鳥が銃口から男へと向かって一直線に飛んでいく。炎が描く直線の軌跡は、神秘的で美しかった。

「この程度!」

ローブの男が土の蛇を操る。泳ぐような速さで壁を作り、それにぶつかった炎の鳥は儚く消えてしまう。

「速さには自信があるぜ。勝負しようや!!」

ファルケが噛みつくように怒鳴り、走りながら銃を撃つ。それを土の蛇が追い、壁を作り、炎の鳥が消える。鳥が消えると、土の壁もぼろぼろと崩れていく。どうやら、速度を重視して壁を作ると、すぐに崩れてしまうようだ。

初めて見る銃。初めて見る不思議な生き物同士の戦い。リーエは思わず両の拳をぐっと強く握った。

蛇が泳ぎ回った中庭は、あちこち土が盛り上がり、崩れ、整えられていた植え込みも噴水も、もはや見る影もなかった。

初めて領主邸に来た時は、この中庭を綺麗だと思った。それなのに、今ではその領主のした事を知り、人々の思いを知ったら、もうあの時綺麗だと思った庭が思い出せないのだ。リーエはそれが無性に悲しかった。

ファルケが連射する炎の鳥に、徐々に蛇が追いつけなくなっていく。

そしてとうとう、燃え盛る鳥は壁をすり抜けローブの男へ向かって飛び込んだ。

それは一瞬だった。

「俺の勝ちか。」

尖った牙のような犬歯を見せ、にやりとファルケが笑う。

炎の鳥は男の手に広げられていた蛇腹折の紙に纏わりついたかと思うと、瞬く間に燃え上がる。見たこともない程の真っ赤な炎だった。男が熱さに絶望の声を上げる。だがその炎は、譜を焼いただけでは治まらなかった。

男が身を包んでいた、長く白いローブに燃え移り、瞬く間に燃え広がる。

「ちっ!」

それはファルケにとっても予想外の事だった。譜を焼いてしまえばもう蛇は呼べない。それだけで十分だった。だが、炎はそれ以外にも餌を与えられ、男の表層に絡みつき浸食を始める。

このままでは男まで燃えてしまう。命を取るつもりはない。もしその必要があったとして、こんな残酷な方法はファルケも望んでいない。どうするべきか考えつく間もなく、思わず男の方へ踏み出そうとしたファルケの視界に、まばゆい光が割り込んできた。

それはリーエが生んだ光。あの巨大な本がまためくれ、そこから今度は薄青い光が飛び出した。

真っ直ぐに、光は男へ向かう。その形がだんだんと変わる。青く透き通った山鼠だった。

リーエの鼠は宙を駆け、燃え盛る男の体を螺旋状に駆け上がっていく。その軌道には、みるみるうちに水が生まれた。

男の頭上まで駆けた鼠は、空中で弾けるように消えた。そしてまたそこから、弾けるように水が生まれる。何もないところに突如生れ出たその水は男に降り注ぎ、山鼠の軌道に生まれた水と共に、男を舐めていた炎を剥がしていった。

ほんの数秒。それだけで炎は全て消えた。後に残ったのは、燃えてしまった譜の欠片を握りしめ、茫然と立ち尽くす男。ローブは所々焼けていたが、命に別状はないようだった。

焦りで忘れていた息を深く吐きながら、ファルケはリーエを盗み見た。自分の失態の尻拭いをさせたようでどことなくばつが悪い。

当の本人は、肩から下げた本をまた鞄の形に戻しながら、胸元から顔を出した二匹の小さな獣と何やら話しているようだ。

そんな姿も、平素の仕草も、世間知らずのあか抜けない青年だが、まさか複数種の現獣を呼べるクストーデだったとは。

現獣を呼び出せる者は、その力の大小に関わらないとするならば十人に一人くらいの割合で存在する。だがしかし、複数種を呼び出せる者は、さらにその中の十人に一人いるかどうかだ。

もちろん、その才を持ちながら、現獣に縁もなく生涯を終える者もいるが。

本について。所持している現獣について。リーエに聞きたいことはいくつもあったが、緊張の解けた体にどっと疲れが圧し掛かり、何はともあれ町に帰るか…とファルケは一人つぶやいた。

そしてもう一人、壊れた扉の向こうから、リーエの様子を窺っている男がいた。闇色の髪のその美青年は、薄く笑った。

チャンスがあり、さらに気が向けば手助けをするつもりはあった。それと同じく、事と次第によっては、そのまま一人姿を消すつもりもあった。

ともかく、と興味本位で、人々を町へと逃がしてから引き返して見てみれば、不思議な獣が戦っていた。

土の蛇は、驚く程のものではなかった。ほとんどのクストーデがそうしているように、ローブの男も折本状の譜を持っていた。だから、「あぁ、これはあの男の現獣なのか」とすぐに理解出来た。その姿は、今まで出会ったクストーデと大差はない。

だがしかし、ファルケのそれは銃の形をしていた。銃口から飛び出す炎の鳥。そんなクストーデは初めてだった。そして、巨大な本を携えた少年クストーデも、もちろん初めて見る存在だ。

本と言う姿もそうだが、違った種類の現獣を二体呼んでいるのも、珍しい。

なんとも面白い男達と出会ったものだ、とルナールはもう一度こっそりと笑みを作った。

戻ってみて正解だったかな、などと考えながら、彼も再び二人のクストーデと合流すべく一歩を踏み出した。

夜はまだ深い。霧は晴れない。領主邸は酷い有り様だが、夜明けを待つのは辛くなかった。



夜が明けて、また人々が動き始める。

領主は結局部屋に閉じ込められたままで、兵士達も現場の指揮権限者はじめほとんどが町の人々達により捕縛されていた為機能せず、城に残った兵士の中には、あまつさえ逃げ出す者さえ出る始末だった。

「あんだけ派手にやりあったんだ、訓練された兵士でもなきゃ仕方ないだろ」

と、ファルケは言っていた。それだけ、現獣同士の戦いは珍しく、規模も大きかったということだろう。リーエは、そんなものかと数度頷いたのだった。

薄明るくなった空の下、監禁状態の領主をどうするのか、女性達を救う為それぞれ棒や農具などを手にしたまま、町の人々は中心部にある広場で口々に声をあげた。

リーエが危惧した通り町の人々は領主に対してそれなりの「対処」を求めた。

私財の没収や、投獄を希望する者もいた。もしも囚われていた女性が傷つけられている場合は、命も奪え、とも。それに関して、直接被害を受けたわけでもなく、何も奪われていないリーエ達が口を出すことは躊躇われた。

何か言ったとして、そこに説得力はないだろうと、怒りを抱え声を張り上げる町の人々を前にリーエは渋面になって俯いた。

ファルケは口を引き結んでいた。結局、自分達は部外者なのだ。その事実は覆せない。

そんな時、またいつもの調子で言葉を発したのはルナールだった。

「公平な第三者が決めた方がいいんじゃないかな?」

彼が言うには、町の若者を一人、隣の領地の領主へと使いに出しているというのだ。

隣の領主は人々に慕われている事で知られており、事が落ち着くまでの間、仲介を頼むのだそうだ。

混乱が続くのは誰にとっても良くない、とルナールは言う。土地が荒れれば治安も乱れる。その上、領主排斥の正統性を認められなければ、反乱として扱われ、国の軍隊が動く可能性もある、と。

だから可能な限り早急に事を治めなければならない。それには、それなりの立場の第三者が必要だと言うその言葉には、人々を黙らせる力があった。

「領主の方にも、言い分はあるだろうし。お互い、言うべき事は言って、今後どうるすか決めるといいよ。君たちの町なんだからね。」

そう言って浮かべる微笑みには、反意を封じる何かがあった。人々は、納得したような顔や渋々といった顔や、各々の思いを抱えて言葉を呑んだ。

全員が喜んで同意したわけではないという事はわかるが、それでも、領主がすぐにでも殺されるわけではない事にリーエは胸を撫で下ろした。

その様子を横目に見て、ファルケはひっそりと口角を上げたのだった。

 こうして、長い一日が終わった。リーエは懐で眠る二匹の猫を撫でながら、今まで経験した事の無いここ数日の出来事を思い返していた。世界は、世間というのは、広いのだと感じた。大きな渦の中に、飲み込まれ浮き沈みしながら、自分という小さな存在が辛うじて「有る」のだと。

そんな思いなど他所に、幸せそうに眠る二匹の猫は、寄り添い同じリズムで呼吸していた。



 「あれ?どっか行くの?」

翌日の深夜。隣の領主が直々に仲介にやってくると使者から伝えられ、町では受け入れの準備がなされていた。

そんな、まだまだ騒乱の治まらない町の宿の廊下で、水を汲んで部屋に戻る途中、リーエはルナールとばったり鉢合わせた。

ルナールは初めて出会った時と同じ蒲公英色のマントを見につけ、剣を下げていた。見れば荷物も抱えている。

リーエが声をかけると、ルナールは柔らかく微笑んだ。

「この町を出ようと思ってね。」

「えっ!今から!?」

彼の耳に心地良い声は、唐突な旅立ちを告げた。リーエは目を見開いて驚く。

ルナールは町の人々に、ここを出るような事は一言も言っていなかった。それなのに、こんなに突然、しかも夜更けに出ていくなんて、思いもしなかったのだ。

リーエの驚いた様子にも、ルナールは動じることはなかった。ただ、微笑む。

「あぁ、そうだよ?もう、ここに残る理由はないからね。」

そう言われれば、反論の余地はない。作戦は成功したし、町のこれからは、隣の領主の仲介で話し合われていくだろう。ここに彼らが残る必要は、もう何一つない。

「ファルケには言ったのか?ここを離れるって。今日発つって。」

「彼はもう出ていったよ。」

ルナールのその言葉に、リーエは再び驚く。何の知らせもなく、すでにファルケはこの町を出ていったというのだ。

「そんな…っ!みんな、勝手に……。」

そこまで言って、リーエは口を噤んだ。自分に何も言わず出ていったファルケにも、出ていこうとしているルナールにも、寂しさを感じていた。だが、考えてみればもともと共に旅していたわけではない。別々にこの町に来たのだから、去るのも別々なのは当然なのかもしれない。

俯いて黙りこんでしまったリーエを見て、ルナールは密かに息を吐く。そして、またいつもの涼しげな笑顔を取り戻し、夕焼け色の髪の青年に声をかけた。

「僕は今から馬小屋に馬を取りに行ってから、町を出るよ。東門から出るから、気が向けば君も来るといい。」

リーエは弾かれたように顔を上げルナールを見た。

目の前の彼は、闇の中でも薄く光るような艶のある黒髪をさらりと揺らし、軽く手を上げるとリーエの横を通り抜けていった。

リーエは小走りで部屋へ帰ると、慌てて荷物を詰め込み、眠っている二匹の猫を大事そうに胸元に忍ばせると、慌てて宿を出た。

夜のしっとりとした空気がリーエを包む。東へ走る青年の髪が跳ねる。明日は何が起こるのかわからない。でも、明日が来るのは怖くはない。

大きな鞄を揺らしながら、青年は夜明けの方へと駆けて行った。





 初めての旅は、出会いも別れも、初めて見るものも沢山!

少年の目は興味津々、キラキラしっ放し。

明日は何に会えるかな。

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