貂蝉の死
その日は屋敷中が蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。国の最高権力者が他ならぬ義理の息子に殺されたのだから当然である。そしてそのいずれも貂蝉さまと深い仲だった。
うろたえた侍女たちが右往左往する中、私は貂蝉さまの姿がないことに気がついた。
――まさか。
私は屋敷中を走った。自害などなさるお方ではないが、ご自分の命すら軽んじられるお方だ。役目を終えたら終わり、と思っておられるのかも…
貂蝉さまは庭園にいた。
屋敷の混乱など知らぬ気に蓮池を眺める姿を目にして、私は安堵で倒れそうになった。声をかけようとすると、貂蝉さまの方から声がかかった。
「お前ね。気配で分かったわ。」
貂蝉さまは振り返らない。私は貂蝉さまの視線の先を見た。四月は花の時期ではない。赤い欄干から身を乗り出すように眺めるほど、蓮池に目を惹くものがあるとは思えない。私は貂蝉さまの袖を引いた。
「お逃げ下さい。都は大混乱です。呂布さまが来る前に、早く…」
「呂布さまが、私に危害を加えると?」
「そうではありませんが、呂布さまは危険です。破滅の匂いがします。一緒にいてはなりません。」
口から出まかせだ。そんな匂いが私のような小娘に分かるわけがない。でも貂蝉さまが呂布さまとお逃げになるのが嫌で、私は適当なことを言った。貂蝉さまのおそばには、私が居たかった。
「私の伯父が襄陽にいます。戦乱もなく静かなところと聞いています。私がお連れします。」
「どうして?何のために?」
ようやく貂蝉さまは私を振り返った。
「いらない。お前だけで逃げなさい。」
「嫌です!」
私は貂蝉さまにとりすがった。
「私は、あなたと逃げたいんです。あなたが一緒じゃないと意味がないんです!」
「ありがとう。でも私にその価値はないわ。」
貂蝉さまは赤い欄干にもたれ、たおやかな体を預けた。一連の動きは、舞台の上の繊細な舞を思わせた。
「私はからくりだから。」
ざあっと風が過ぎた。貂蝉さまと私を隔てる風が。私はいつの間にか貂蝉さまの袖を離していた。貂蝉さまは血の気の失せた顔で美しく微笑まれていた。それこそからくりのように。
「初めて舞をお見せしたとき、」
からくりの貂蝉さまは歌うように言った。最初から用意されている科白のようだった。
「からくりの舞だと王允さまが言った。私はからくりなのだとその時分かった。今のお前と同じ年の頃よ。」
貂蝉さまの舞が目に浮かんだ。それを見つめる王允さまの冷淡な親愛の目も。王允さまはその時、この計を思いつかれたのかもしれない。皆に残酷な、連環の計を。
この計は、貂蝉さまの存在がなければ成立しなかった。
「私はね、ほっとしたの。心を求められることに疲れていたから。どうして皆心を求めるの。そんなものはないのに。でも王允さまは、心のない私を受け入れてくれた。」
「あなたはからくりなどではありません。心がないなんて嘘です。」
「本当にそう思う?」
私は黙った。貂蝉さまに心があるかどうかなど本当はどうでもよいことだった。からくりでも心がなくても、私は貂蝉さまが好きなだけだ。
貂蝉さまは興味深そうに私を見た。私の必死さが興味を引いたのかもしれない。
「お前を見ていると、あの頃の私を思い出す。あの頃は、少しは心があったのかもしれない。」
貂蝉さまの言葉は私に淡い期待を抱かせた。私は呼吸も忘れて貂蝉さまを見つめた。もしかしたら、一緒に逃げて下さるかも。
だから次の貂蝉さまの言葉は、にわかには信じがたいものだった。
「英、私を殺してくれない?」
さっきより強い風が吹いた。どこからか柳の葉が吹き込んできた。貂蝉さまは…笑っていた。
「傀儡は、糸を引く者が居なくなったら廃棄されるものよ。」
私の目の前で、貂蝉さまは美しい手をひらいた。手の中にあったものが日の光を浴びて煌めいた。それは金銀で装飾を施された、短刀だった。
それを貂蝉さまは私の手に握らせた。短刀はずしりと重かった。女物で、刃も細くて、貂蝉さまのための特注なのか普通のものより軽く作られているようなのに、ひどく重かった。
「どうして…私に…」
「自分でやろうとしたけど、不思議ね。いざとなると手が震えるの。」
体が死を拒絶するのは当たり前の反応だ。不思議なことは何ひとつないのに、貂蝉さまは不思議そうな顔をしておられた。
「できません。」
「英は私の侍女でしょう?私の命令を聞くべきでしょう?」
「できません!」
「私が望んでいるのよ。」
驚くほど強い口調だった。貂蝉さまはお仕えして以来、何かを強く望まれたことがなかった。これが初めての望みだった。初めての。たったひとつの。彼女にとって死は、既に決定されたことなのだ。
私自身が貂蝉さまの傀儡になったように、私は短剣を貂蝉さまの細い首にあてた。ぴくぴくと脈打つ頸部に命が感じられた。今からこの命を私が断つ。貂蝉さまの命を私が握る。
不思議な高揚感が私を襲った。
「それでいいわ。」
その言葉が合図のように、私は手を動かした。切れ味のよい刃はさっくりと貂蝉さまの喉を裂き、赤い血を滴らせた。上質な絹糸を巻いたようだった。
――お前は余計なことを言わないから楽なのよ。
「…あ。」
――私を手にかけたら、英は、私をずっと忘れないわね。
私は我に返った。幻のような貂蝉さまの声。今のは。
貂蝉さまは微笑んだ。欄干に全体重をかけていた貂蝉さまの体がふわりと浮きあがった。
私は慌てて貂蝉さまを支えた。軽かった。たおやかな体はぎょっとするほど軽く、何かの抜け殻のようだった。例えば…蝉の。
その途端、貂蝉さまと初めて会った夏の日の記憶が蘇った。降るほどの蝉の声、じりじりと照りつける日差しの熱さ、貂蝉さまの手の中で粉々になっていった、乾き切った蝉――
頭の上に無数の蝉が降ってきた。それはひとつ残らず死んでいて、中身がなくて、抜け殻だった。それが喉に赤い糸を巻いた貂蝉さまを取り巻き、包み、葬列の鳴声を上げていた。
――ああ、落ちる。
私の目の前で、貂蝉さまの体はゆっくりと蓮池に落下した。満開の蓮の花の中に、貂蝉さまの体は沈んでいった。濃い桃色の、薄い桜色の、白い色の蓮の中に、厳かに、音もなく、…花?
蓮は咲いていなかった。蝉もどこにもいない。四月は花の時期ではないのだ。ましてや蝉の時期では。
「待って下さい、私も…」
一緒に死なせて下さい。そう言いかけて私は止まった。
一緒に死んでもあの世で会えるとは限らない。待っていてくれるとは限らない。私は。
私は貂蝉さまに待たれているわけではないのだ。
不意に乾いた笑いが喉の奥からこみ上げた。
「…私の名は英ではありませんよ、貂蝉さま。」
私は笑いながら呟いた。何もおかしいことなどないのに、笑いが止まらない。
「月英です。黄月英。それが私の名です。」
さざ波を立てた水面を見ながら、私は何度も同じ言葉を繰り返していた。初めて名を呼んでくれたのに、やはり覚えていてくれなかったのだ。泣けばいいのか笑えばいいのか分からなかった。涙が流れていることだけはかろうじて分かった。私は短刀を落とし、両手で顔を覆った。そのまま崩れるように座り込むと、もう立つことができなかった。
足音高く現れたのは呂布さまだった。
呂布さまは私の足元に落ちた短刀を見て、私を見た。それだけで呂布さまは状況を把握したようだった。座りこんだ私を抱き起こし、呂布さまは血走った目を向けた。
「貂蝉は?」
私は黙って蓮池を指差した。花の咲いていない蓮池はくすんだ色の葉を浮かべているばかりである。不自然にさざ波が立っているのを見て、呂布さまは天を仰いだ。
「ああ、貂蝉。…俺が救ってやるとあれほど言ったのに。」
男の人が声を上げて泣くのを私は初めて見た。素直なお方なのだろう。でも聡明な方ではない。その声は意外なほど哀切な響きに満ちていた。呂布さまなりに貂蝉様を愛しておられたのだと私は思った。しかし呂布さまは何も分かっていないのだ。貂蝉さまは、誰も愛していなかった。董卓さまのことも、呂布さまのことも、私のことも。
私は嘆き悲しむ呂布さまを置いてその場を去った。呂布さまは何も言わなかった。
その日のうちに最小限の荷物をまとめ、私は混乱に陥った都を後にした。