連環の計
董卓さまが、貂蝉さまと呂布さまの関係に気づかれるまで、そう時間はかからなかった。
傍から見れば危ういことこの上ないが、呂布さまは、義理の母と深い仲になったことをそれほど重大事と思っていないようだった。辺境のご出身と聞いたがそのせいか、都の常識とはややかけ離れた感覚をお持ちのお方に見えた。人の道に反することだと忠告してくれる者も、周囲にはいないようだった。
貂蝉さまの方は隠す素振りすらなかった。董卓さまと呂布さまの仲は日に日に悪くなった。
時折、王允さまが屋敷を訪れるようになった。王允さまは貂蝉さまの養い親である。貂蝉さまは王允さまがいらっしゃると必ず人払いをなさり、二人きりで長いこと話しこんだ。でもそこに性的な意味は感じられなかった。王允さまが貂蝉さまを見る目に、淡白な親愛以上のものはなかったからである。
王允さまの物腰は都人らしく品があり、董卓さまや呂布さまに比べると親しみやすかった。ご年配だが端正な顔立ちをしておられたこともあり、侍女たちには人気があった。しかし私は不安だった。
――王允さまがそうしろって。
私はいつかの貂蝉さまの言葉を思い出していた。忘れろと言われても忘れられるものではなかった。お二人が何を相談されているのか気になったが、侍女の分際で問うことなどできない。私は以前にも増して注意深く貂蝉さまを観察した。貂蝉さまがたまらなく心配だった。
表向き、屋敷の中は平穏だった。むしろ見目よくお若い呂布さまが通われるようになってから華やいだ雰囲気になった。侍女たちは愛人の登場に活気づき、女主人をめぐる恋のさや当てを無責任に楽しんでいた。馬鹿な女たち。それがどんな結果をもたらすか考えもしないのだ。
「可哀そうな貂蝉。俺がお前を守ってやる。」
「可哀そうな貂蝉。俺がお前をここから連れ出してやる。」
董卓さまと呂布さまが貂蝉さまに囁くお言葉は、私には同じものに聞こえた。貂蝉さまを心配しているようで、実は自分のプライドを守ることが最優先なのだ。我がままで、手前勝手で、愛情に見せかけたただの独占欲。そこに貂蝉さま自身の意思はない。本当に愛しているなら、貂蝉さまの意思を尊重するはずだ。私ならそうする。
お二人は、本当は、貂蝉さまのことなど愛していないのだ。
――私なら、もっと貂蝉さまを幸せにできるのに。
貂蝉さまは董卓さまの前では董卓さまに甘える素振りを見せ、呂布さまの前では呂布さまを頼る風情を見せていた。そしてお二人はそれに手もなく騙されているようだった。でも普段の貂蝉さまを知っている私には、貂蝉さまの態度はよくできた芝居に見えた。男の人には何故それが見抜けないのだろう。董卓さまも呂布さまも、貂蝉さまの外見しか見ていないのだ。美しい貂蝉さまは美しい玩具であればよいとでも思っているのだ。
男という生き物は不思議なもので、自分の女に他の男の影がちらつくと途端に独占欲を燃やすものらしい。董卓さまと呂布さまは、貂蝉さまを通じてお互いがお互いを男として意識し、敵とみなし、必要以上に攻撃的になっていくように思われた。元から不和の芽はあったのだろう。それが貂蝉さまというきっかけを得て、一気に表面化したように私には見えた。そしてこれこそが、王允さまの狙いだったのだ。
貂蝉さまは普段通り振舞っておいでだったが、お二人が険悪になるにつれ、食が細くなり、少しずつお痩せになっていった。細い腰はさらに細くなり、たおやかな風情はいっそう貂蝉さまの美貌を際立たせた。眠りも浅いようで幾度も寝がえりを打たれているのも私は知っていた。神経がすり減っておられるのだ。
王允さまのためになぜそこまでなさるのだろう。
――もしや貂蝉さまは、義理の父である王允さまに……
そんなことがあるわけがない。貂蝉さまは心がないと仰っていたではないか。しかし一度芽吹いた疑惑は日に日に私の中で大きくなり、私の胸を刺した。心がないと仰っていた貂蝉さまに、大事な人がいるかもしれないという想像は、理由は分からないがとても嫌だった。聞くべきではないことは承知していたが、十五歳の私には、全てを飲み込んで大人の対応をすることは難しかった。
ある月の夜、一人庭園に出られた貂蝉さまを、私は追った。
「貂蝉さま。」
貂蝉さまは驚いたように振り返った。他に起きている者がいるとは思っていなかったのだろう。
夜の庭園は死のような静寂に包まれ、生きている者の気配がなかった。貂蝉さま自身も美しい傀儡のように見えた。私は思わず貂蝉さまの衣を掴んだ。
「どうしたの。眠れないの?怖いの?」
「…いえ、あの…」
あなたが心配で、という侍女ならば当然口にしてしかるべき一言が、何故か出なかった。貂蝉さまは小首をかしげ、ああ、と思い当たったように言った。
「悩みがあるのね。そうね、悩みのない人間などいないわ。」
急に興味をなくしたように貂蝉さまは蓮池の方へ視線を投げた。庭園の中心で澱んだ水を湛えている蓮池に、花は咲いていない。花の時期ではないのだ。
私は理由の分からない焦燥感にかられた。蓮池の方へそれてしまった貂蝉さまの関心を、自分に向けたいと思ったのだ。
「貂蝉さまは…王允さまをお慕いしておられるのですか?」
「え?」
貂蝉さまはびっくりしたように私を振り返った。意外そのものといった顔だった。
すぐに私は後悔した。踏み込んではいけないことを聞いてしまった。でも言いかけた口は止まらなかった。知りたかったのだ。
「呂布さまのこと…王允さまがそうしろと…だから…」
「ああ、あのこと。」
私のしどろもどろな説明でも、聡明な貂蝉さまは理解されたようだった。私は身を縮めた。侍女の身で出過ぎたことを言った。…嫌われただろうか。
次の瞬間、貂蝉さまは花のような笑顔を見せた。
「お前は子供ね。王允さまは、大事な商品に手を出される方ではないわ。」
商品。私はぽかんと口を開けた。
「商品の条件を知っている?玩具になれることよ。だから王允さまは、私を選んだのですって。」
貂蝉さまは声に出して笑い始めた。
私は笑うことができなかった。董卓さまよりも呂布さまよりも、王允さまに対する怒りが噴き出して、立っていられないほどだった。でも貂蝉さまは少しも怒っていらっしゃらないのだ。どころか心底おかしそうに笑っていらっしゃるのだ。
この方のために怒ってくれる人はいないのか。私以外に?
しかし次の貂蝉さまの一言が、すべてを吹き飛ばした。
「面白い想像をするのね。やはりお前は可愛いわ。」
――可愛い。私が。
どきりと心臓が跳ねた。
頬がかあっとほてるのが分かった。褒められた気は全然しなかったけれど、可愛いと言われたことがとても…とても嬉しかった。心臓のどきどきが止まらない。こんなことは初めてだ。
そして悟った。私は、貂蝉さまが好きなのだ。
何てこと。眩暈がした。今度こそ立っていられなくなり、私はその場に座り込んだ。何てこと。何てこと。
ふと気づくと、貂蝉さまはもうどこにもいなかった。
貂蝉さまと過ごす穏やかな夜がこれで最後だということを、私は知らなかった。
ほどなく、国中を揺るがす大事件が起きた。呂布さまが、義父であり国の最高権力者である董卓さまを殺めたのだった。