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蝉の葬列  作者: 胡姫
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董卓と呂布

貂蝉さまのお屋敷は相国、董卓とうたくさまの別邸である。

現在この国の最高権力者である董卓さまは、あまり評判の良くないお方である。辺境出身で満足な教養を持たず、礼義に欠け、粗野で粗暴で道義のかけらもない男と巷では噂されていた。勿論私はここに来るまでお会いしたことはなかった。

初めて目にした董卓さまは、大柄でよく肥えている以外は存外普通の男であった。噂で聞いたように、誰彼構わずどなり散らすこともなければ、些細なことで侍女を斬ったりもしない。宮廷ではまた違う顔をお見せになるのかもしれないが、少なくとも女たちの前では常識的な壮年の男に見えた。

貂蝉さまは董卓さまの側室となられてまだ日が浅いが、寵愛は最も深いようだった。董卓さまは三日を置かず来られるし、その度に抱えきれぬほどの贈り物を携えてこられた。美しい反物や装飾品の数々は侍女にも分け与えられたため、侍女たちの評判は悪くなかった。


お屋敷に来てひと月近く経っても、私は同僚とうまく馴染めなかった。理由は私の髪だろう。赤みがかって縮れた私の髪は奇異に映る。群れる女たちは異質なものを本能的に排除する。

侍女たちはこぞって美しい女主人の関心を得ようと画策していたが、悉く失敗していた。貂蝉さまはそうしたことに関心がないようだった。親しい侍女もいなかった。取り巻きを作ることもなく、侍女たちと談笑することもなく、いつも一人だった。それは邸にいる時も、街に出て侍女たちとそぞろ歩く時も同じだった。女には珍しいことだが、貂蝉さまにはそれがふさわしいように思えた。

ある時貂蝉さまは、気まぐれのように私を呼ばれた。

「お前、暇ならこちらへ来なさい。」

それは小さなお茶会だった。香り高い茶に珍しい異国の菓子が積み上げられた円卓は、夢幻のように私には映った。しかし広い円卓に並ぶのは貂蝉さまと私の茶器のみで、それが少し奇異に感じられた。

他の侍女は呼ばないのか聞いてみると、貂蝉さまは不思議そうな顔をした。

「話すことないもの。女は苦手なの。」

それなら私も同じだろう。何故私なのか。そう聞くと、貂蝉さまは気がなさそうに答えた。

「お前は面倒なことを言わないから楽なのよ。それだけ。」

貂蝉さまとした話は他愛ない話ものだった。天候不順のこと、市に出る品物の値段が上がったこと、女たちの衣装の品定め、…しかし私は気づいていた。貂蝉さまの洩らす感想には、常に彼女独特の毒が隠れていた。貂蝉さま自身はお気づきではないかもしれない。ご自分のことには驚くほど関心を持たない方だと私にも薄々分かってきていた。

私は同僚たちの棘のある羨望を浴び、ますます孤立していった。無視や陰口、小さな嫌がらせが毎日のようにあったが、大したことではなかったので放っておいた。


董卓さまは絶大な権力をお持ちだが決して見栄えのよい方ではない。年齢よりも老けた顔はお世辞にも整っているとは言い難いし、樽のように腹が出ている。挙動も洗練されておらず野卑である。貂蝉さまにはいかにも不釣り合いに見えた。

「貂蝉さまは、董卓さまをどう思っておられるのですか?」

何度目かにお茶に誘われた時、私は思い切って聞いてみた。

嫌な顔をなさるかと身構えたが、貂蝉さまは気分を害した風はなかった。お茶の香りを楽しむように美しい睫毛を伏せ、貂蝉さまは他人事のように答えた。

「あの人、可愛いところもあるのよ。意外と紳士的で優しいの。」

「そうなんですか?」

「ええ。無理強いされたことはないし。変な要求もしないし。」

「……」

ねやでの行為を仰っているのだろうか。何と返答してよいか分からず私は黙った。身体が大きいので年齢以上に見られるが私は十五歳になったばかりだった。男女のことなど分からない。ただ、貂蝉さまは董卓さまがお嫌いというわけではないことは分かった。

「では…呂布さまは?」

呂布さまは董卓さまと養子縁組をして義理の息子になられた方である。董卓さまと違ってお若く、見目もよい。何より武勇に優れ、「人中の呂布、馬中の赤兎」と噂される人物であった。その呂布さまが、貂蝉さまに関心をお持ちらしいことは侍女たちの間で噂になっていた。英雄色を好むと言うけれど、貂蝉さまの美貌は都でも評判だったのでそれも当然と思えた。

しかし義理とはいえ息子の呂布さまに懸想されては貂蝉さまもご迷惑だろう。何より外聞が悪い。容姿も年格好も董卓さまよりずっと貂蝉さまにふさわしい呂布さまだが、これは人としてよろしくない。

「あの人にも困ったものね。」

貂蝉さまはため息をついた。

「迷惑な話ですよね。人の道に反します。」

「そうじゃないわ。あの人、なかなか手を出して来ないから。」

「え?」

一瞬、何を言っているのか分からなかった。貂蝉さまの無邪気な笑みは童女のようで、見とれるほど可愛らしかった。

「武人って皆ああなのかしら。女に慣れていないのかしら。」

まるで誘っているようではないか。義理の息子を。私はよほど困惑した顔をしていたのだろう、貂蝉さまはくすりと笑い、悪戯っぽく付け加えた。

「手を出してもらわないと困るの。王允さまがそうしろって。」

「貂蝉さま!」

あまりに驚いたので私は茶器を落としてしまった。繊細な器が床に落ち、幾つもの破片に砕けた。

「も、申し訳ありません!」

私は慌てて屈みこみ、破片を拾うふりをして動揺を隠した。この方は好きでもない男を誘惑なさろうとしているのか。ご自分が大事ではないのか。

――心がないのよ。

初めて会った時の言葉が蘇った。破片が滑り、指の先を切った。赤い血が滴った。

粗忽者そこつものね。」

貂蝉さまが私の指を取った。次の瞬間、貂蝉さまは私の指に形よい唇をあて、血を舐めとった。

呆気にとられる私の前で、貂蝉さまは、花のような唇に指を当てた。

「今のは失言。忘れて。秘密なの。」

「でも…」

「忘れなさい。お前のためよ。」

有無を言わさぬ口調だった。私は今の出来事で動揺してしまい、何も答えることができなかった。嫌な予感がした。貂蝉さまは何かとてつもない厄介事を背負いこもうとしているのではないか。でも貂蝉さまはまるで気にしていないのだ。貂蝉さまはご自分が不幸になることにも関心がないのかもしれない。

貂蝉さまが舐めた指がひどく熱かった。傷のせいではなかった。この話はそれきり終わった。


呂布さまが、ひそかに貂蝉さまのもとに通われるようになったのは、それからまもなくのことであった。



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