心のない女
初めて会った時、彼女は蝉を殺していた。
暑い日だった。彼女――貂蝉さまは、赤い欄干にもたれて、飛び込んできた蝉を指の中に握りこんでいた。
作り物のような美しい指だった。白くて繊細な指の間から、今まで蝉であったものの残骸がぱらぱらと落ちてくるのを私は眺めていた。それは命ある生き物であったことが信じられないくらい脆く、生命の残りかすのように軽かった。命は軽いのだ。
蝉はかすかに鳴いていた。哀れというより暑苦しいと私は思った。
「あなたが新しい侍女?」
貂蝉さまは私の顔は見ないまま声をかけた。想像していたよりもずっと可愛らしく、幼さすら残る声だった。傾国の美女と聞いていたから、もっと妖艶な大人の女だと勝手に思い込んでいた。
人形のような横顔に西陽が当たっている。正面から見たいと私は思った。
「人にものを尋ねる時は、目を見るものではないですか。」
貂蝉さまはようやく振り返り、私の顔を見た。
改めて見ると貂蝉さまは本当に非の打ちどころのない容姿をしておられた。顔の造作から物腰、雰囲気に至るまで全てが美麗で、完璧で、この世のものではないようだった。
「可愛い顔をしているわね。」
「…ありがとうございます。」
一応礼は言ったが、彼女に言われると嫌みに聞こえる。完璧な美女に言われてもちっとも嬉しくない。それに私は人から可愛いと言われたことはなかった。私の髪の色は赤い。それに縮れている。まっすぐな黒髪が美人の条件とされる世の中では致命的である。
しかし貂蝉さまは私の反応になど興味がないようだった。世辞を言ったつもりもないようだった。
「私に仕えるなんて、あなたも巡り合わせが悪いわね。」
「はい?」
貂蝉さまは小さな掌を広げて、蝉の残骸をふうっと吹いた。茶色い塵が欄干の下に落ちていった。
「知っている?蝉はほんの七日程しか生きられないんですって。」
「そうらしいですね。」
虫を苦手とする女は多いけれど、私は嫌いではなかった。蝉の生態もおぼろげだが知っていた。
「私の名も、蝉よ。王允さまがつけてくれた。早く死ぬってことかしら。」
「美しい女人にふさわしい優雅な名だと思います。」
「人は儚いと言うけれど、嘘ね。人は図太いわ。本当に儚いのはこうした命。」
「儚きものがお好きですか。」
「好きじゃないわ。人も蝉も本当は嫌い。」
貂蝉さまはさっきから蝉の話しかしていない。私は蝉に興味はなかった。何故蝉の話ばかり熱心になさるのだろう。私は初日のご挨拶に伺ったのである。そもそもさっきから名すら聞かれていない。違和感を抱えながら、私はとりあえず思いついたことを口にした。
「貂蝉さまはお優しいのですね。」
「優しい?私が優しく見えるの?本当に?」
私の笑顔はこわばった。適当に言っただけなのだ。
「嘘つきね。お前の言葉には、心がないわ。」
貂蝉さまの言葉に私は凍った。見透かされている。何か気のきいた言い訳を、と考えあぐねるうちに貂蝉さまの軽やかな笑い声がした。
「いいのよ。私にもないから。」
そして驚くべきことをさらりと口にした。
「私には、心がないのよ。」
高価な人形のような美貌が笑っていた。否、笑うふりをしていた。
ご冗談を、と笑って差し上げるのが侍女としては正解なのだろう。しかし私はそれができなかった。昔からそういうふりができない。愛想がない、気がきかないと前のお屋敷でも散々言われてきた。
「驚かないのね。そういう子は好きよ。あなた、名は?」
名を答えたのかどうか私は覚えていない。蝉の声がひっきりなしに響いていた。暑い日だった。欄干に差し込む照りつけるような日差しの中、私は軽い眩暈を覚えた。
それが貂蝉さまとの出会いだった。