迷子の妖精
―アジア人に恋する日が来るとは思わなかった。
一学期のフランス語のクラスに入ったらあるアジア人の女の子が目に入った。一番前の机にちょこんと座っている。手のひらサイズのトトロのぬいぐるみを机の上に置いてにこにこしていた。彼女の名前はリナ。リナ・キサラギ。8年生のとき理科のクラスが一緒だったけどそのときは気にならなかった。ハイスクール最後の年にして彼女に興味を持ったわけだ。彼女が日本人だと知ったのはごく最近。四年前、先生が彼女のフルネームを呼ぶことは何回かあった。だけど聞き慣れないラストネームのうえ言い難かったので覚えていなかった。
ぼくは去年からハマっているものがある。日本のアニメと漫画だ。カナダでは小学6年生のときから日本のアニメが徐々に浸透していたけど、ぼくが本格的にハマったのは12年生(高校3年生)になってからだ。毎週金曜日の深夜に放送される『犬夜叉』『機動戦士ガンダムSEED』や『Witch Hunter ROBIN』が楽しみだった。英語版の週刊少年ジャンプも買ってみた。『ONE PIECE』はゾロという剣士がかっこよかった。『ドラゴンボールZ』はテレビ画面で動いてなくてもかっこいい。『NARUTO』は忍者漫画にしてはあまり忍者っぽくないな。リナがいつも連れているぬいぐるみはアニメ『となりのトトロ』に出てくるトトロという生き物だ。これもまた日本のアニメ作品だ。古い作品だから最近のアニメとは雰囲気が違うけど。
おっと。自己紹介がまだだったね。ぼくはポール。ポール・コーネリー。人気じゃないほうのカナダ人。ただのしがないアニメ好きのオタクさ。髪は生まれつきプラチナブロンドの巻き毛でショート。背はカナダ人にしては低め。顔と成績は普通。高くも低くもない。今一番気になるものはリナ・キサラギ。
彼女はカナダ人から見れば地味だけど観察していると面白いことをいくつか発見した。まず彼女の持ち物。ハイスクールの生徒にしては小さいバッグから出てくるのは一見普通だがユニークだ。『鋼の錬金術師』のペンケース、『機動戦士ガンダムSEED』のプラスチックボード(下敷きというらしい)、『ファイナルファンタジーⅩ』の絵が貼られたフォルダー。ハローキティのペンは普通だけど極めつけはトトロのぬいぐるみ。色・サイズは違うもののリナはいつもトトロのぬいぐるみを持ってきている。大トトロ・中トトロ・小トトロのぬいぐるみを五つ机に並べたときは圧巻だった。初老の女の先生もフランス語で「家族で来たのね」と笑っていた。さすがに机の上にトトロを小さな椅子に座らせたときは先生もずっこけて笑ってしまった。リナは本当にトトロが好きなんだ。
クラスでは彼女はフランス語の会話を練習する時以外誰とも話さない。フランス語のクラスでは親しい友達はいないようだ。ときどき思い出したようにトトロのぬいぐるみを撫でる。もしかして彼女の友達はトトロのぬいぐるみだけかもしれない。高い声とのんびりとした話し方はアニメのキャラのようだ。ぼくたち白人とはまた違ったジェスチャーでアジア人にしては大げさだ。黙っているから目立たないけどしゃべるときは明るい。でもときおり見せる暗い影が気になる。彼女はとても不思議な人間だ。まるで妖精が人間の教室に迷い込んでしまったようだ。
好奇心からぼくはリナと友達になることにした。きっかけは授業がない時間帯に学校をぶらぶらしていたらできた。中庭でリナが歩いているところでばったり会ったからだ。ぼくは彼女に向かって微笑んだ。
「やあ」
リナは首を傾げた。頭の上に「?」が浮かんでいる。初めてぼくに話しかけられて、なぜぼくが話しかけたのかわからなかったからだろう。
「ぼくの名前はポール・コーネリー。フランス語のクラスが一緒だよね。君と友達になりたいんだ。よろしく」
握手のために手を差し出した。こんなベタな自己紹介をしたのはひさしぶりだ。傾いていたリナの頭はまっすぐになり笑顔が弾けた。
「うん!わたしリナ・キサラギ!よろしく!」
リナはぼくの手を抵抗もなく握った。無邪気だな。小学生の無邪気さを失わずに成長した高校生と言うとしっくりくる。外見は8年生のときとほとんど変わっていない。しいて言えば眼鏡からコンタクトレンズになって服がお洒落になっただけだ。8年生のときはリナに興味がなかったので彼女のユニークさにまったく気がつかなかった。でもきっと彼女の性格は8年生のときからほとんど変わってないだろう。12年生なのにこんなに無邪気なんだから。
***
教室に入ったら一番最初にやることがある。それはリナの存在を確認すること。そんなに難しいことじゃない。リナは前の席に座っているから意識しなくても見える。ただぼくの席はリナの斜め後ろにあるから真正面から見られるのは教室に入るときだけなんだ。
「あ。こんにちは、ポール!」
「やあ」
この教室で発する最初の言葉はリナへの短い挨拶。気が向いたらぼくもトトロのぬいぐるみを撫でる。それを見てリナはくすくす笑う。……そう。ぼくはリナに恋していた。ひょっとしたら彼女がトトロを連れているのを見た瞬間から恋していたのかもしれない。リナの席を通り過ぎたあとぼくは二人の友達に挨拶をする。ぼくの隣りの席――リナの席の二つ後ろにぼくの友達ハリーが座っている。前の席にはもう一人の友達ドナルドがいる。三人で話すことが多いからリナを見る回数が限られるんだ。ハリーとドナルドもボクと同じように日本のアニメと漫画が好きだ。二人はどちらかというとゾロのようなサムライよりガンダムのようなメカのほうが好きだけど。二人とも大切な友達だけどたまにうっとおしく感じることがある。二人が常にそばにいるせいでリナに話しかけられないからだ。このまえは英語版の週刊少年ジャンプを貸したおかげで二言三言話せた。理由がないと彼女に話しかけられない。本当はもっと話したいのに……。ハリーとドナルドはフランス語のクラスではお邪魔虫に感じた。リナを見ているところを話しかけられるのはまだいい。リナと話しているのに会話に割り込むのはやめてほしい。一番不愉快だったのはリナがそばにいるときに元カノの話をされたときだった。
昼休みをはさんでフランス語の授業が二時間あった日のことだ。昼休みが終わり教室前で先生を待っている間にぼくはハリーとドナルドと話していた。そのときドナルドは彼女と別れたばかりでそのことを話題にしていた。そしたらハリーが思い出したようにぼくに聞いた。
「なあ。おまえなんでベティと別れたんだっけ?」
リナはすぐ後ろにいた。壁際に立って行き通う生徒たちを興味無さそうにぼんやり見ていた。ポーカーフェイスだった。もしかしてただ単にぼーっとしていただけかもしれない。でも充分会話が聞こえる距離にいる。ぼくはリナが聞いていないか内心焦った。話を終わらせたくてぼくはぶっきらぼうに答えた。
「別に。ただ性格が合わないって気づいたから別れた」
「でもけっこう深い仲だったんだろう?あっちの相性が悪かったのか?」
「関係ないだろ。もう終わったことなんだから……」
話している間にリナを何回も見た。リナはポーカーフェイスのままだ。ときおり瞬きをする以外変化はない。リナはアジア人だし、真面目だし、なにより無邪気だ。ぼくたちの話の内容を理解していないのかもしれない。それでも彼女には聞かれたくないし知られたくなかった。ドナルドはおずおずとぼくに尋ねた。
「そうだけど……オレ、サーシャと別れたばっかだから参考にしたくて……。キスまで行ったのに別れようって言われて戸惑ってるんだ……」
「そうだよ。なにも怒ることないじゃん」
ハリーとドナルドにはぼくがリナが好きなことは言ってない。たぶん言っても彼女の魅力がわからないだろうから。
***
12月に気になること出来事があった。その日の授業は難しくつまらなかった。教科書に載っているフランス語の文章を読んでフランス語の質問にフランス語で答えるという問題だった。だけどなにが書いてあるかほとんどわからない。生徒が問題を解き終わったあと先生が解説をしたけど真面目に聞く生徒は皆無だった。たしか五十年前の時代に貧乏な女子大生が卒業する話だった気がする。でもみんな興味がない。教室が温かいせいか居眠りしている生徒もいる。あまりにも眠くてひそひそ話をしようとする生徒すらいなかった。ぼく自身あくびをしていた。ふとリナを見たらぼくは一気に目が覚めた。リナの目から今にも涙がこぼれそうだった。それもあくびの涙ではなく悲しみの涙だ。彼女はとても悲しい顔をしていた。今にも泣きそうに体を震わせている。それでも泣くまいと健気に涙を堪えていた。一体どうしたんだろう?前の授業でなにか嫌なことがあったのだろうか?クラスはうとうとしていたけどぼくはひやひやしていた。
ベルが鳴る時間間近になり机の上はバッグでいっぱいになった。リュックを机に置いて座るリナにぼくは話しかけた。
「どうしたの?」
「っ!?」
リナはびくっと肩を震わせた。さっきより落ち着いているけど表情が暗い。
「な、なんでもないの……」
そんな顔で言われても説得力はない。ぼくは話を続けた。
「さっき泣きそうになっていたみたいだけど」
「……」
リナは下を向いた。リナの目に涙が溜まっていく。ぼくは堪え切れずに言った。
「君の人生でいったい何が起こっているの?君はいつも悲しそうな顔をしている」
ぼくは彼女の涙を拭おうと腕を伸ばした。だけど彼女はぼくの腕を払いのけた。
「ごめんなさい……」
そのときベルが鳴った。彼女は逃げるように教室のドアへ向かった。追いかけようとしたら誰かに肩を叩かれた。ハリーだった。
「次の歴史の授業の宿題写させてくんない?」
大柄だけどまぬけなハリーがトロールに見えた。巨体で強いけど頭が悪いノルウェーの怪物だ。ハリーに似ていた。生徒たちに押されてぼくたちは廊下に出た。リナの姿はもう見えなかった。ハリーとドナルドは宿題をできなかった理由をあれこれ述べていたがどうでもよかった。ハリーたちの要求を断りたい気分だったが友情をふいにしても得はしない。
「……いいよ。あとでハンバーガーとフライドポテトを奢ってくれたらね」
条件付きだったが二人は上機嫌だった。ドナルドはパソコンのコンピューター・グラフィックの授業があるので途中で別れた。……やっぱりハリーとドナルドに恋愛相談はできない。今回ばかりは駄目だ。好きな女の子がアジア人という時点でわかってくれないだろう。今ぼくがリナに恋していることにすら気づいてないのだから。
***
二学期になって四ヵ月が経った。もう5月だ。来月には卒業してしまう。1月からリナと数学のクラスが一緒になったけどいつのまにかクラスから消えていた。リナがクラスから消える直前、彼女が授業中泣きそうになっているところを目撃した。なにがあったのだろう。陰でいじめられているのだろうか。それとも親に叱られたとか。台湾人と韓国人の両親は厳しいというけど日本人の場合もそうなのだろうか。初めてアジア人に恋したのでわからない。参考になる情報が少なすぎる。ぼくの知り合いでアジア人と付き合った前例はない。そもそもぼくがリナに恋したのは他のアジア人と違ったからだ。他のアジア人とどこまで同じでどこまで違うかよくわからない。台湾人と韓国人と中国人と日本人の違いを聞かれても上手く答えられない。リナのことを知りたいのにわからない。
数学の授業がたまたま休みで廊下を歩いていたらリナを見かけた。去年の卒業写真をじっと見つめていた。ぼくはリナに近づいたけど彼女は一向に気づかない。
「やあ」
「!?」
振り向いた彼女の顔に映ったのは純粋な驚き。動揺しているように見えるのは気のせいだろうか。
「ポール……こんにちは」
「こんなところでなにをしているの?」
リナは下を向いた。いつもの癖だ。リナは少し考えたあと卒業写真を指差した。
「ただ……私の写真が卒業写真に載るとしたら……どこらへんかな~って、考えてたの……」
「なるほど」
卒業写真はラストネームのアルファベット順で決まる。リナのラストネームはKから始まるから真ん中あたりになりそうだ。自分の卒業を前に憂鬱になっていたのかもしれない。ぼくはリナを元気づけた。
「心配しないで。リナならきっと卒業できるよ。卒業したら寂しくなるけど今を楽しもう。ね?」
「うん」
リナはこくりと頷いた。無表情なのが残念だ。悲しみを隠してしまった。
「なにか問題があったら相談してね」
「……うん」
返事が遅かった。リナは下を向いていた。信用されていないのか。あるいは心配させたくないのか。同年代の間ではあまり見かけないリアクションだ。やっぱり小さい子供のようだ。
「ありがとう」
微かに笑うと彼女はどこかへ行ってしまった。引き止める理由が思いつかず彼女の後姿を見送った。彼女がいなくなってからぼくは気づいた。
「数学のクラス……やめた理由を聞けばよかった……」
独り言は廊下に吸い込まれた。これがリナとの最後の会話になってしまった。このあとぼくたち12年生は卒業試験に追われたからだ。プロム(卒業記念パーティ)があったけどリナはそういうのに行かなさそうだったから行かなかった。もしリナを誘ったら、彼女はぼくとプロムへ行ってくれたのだろうか。笑顔でいいよと返事をするか、それともごめんねと下を向いて返事をしていただろうか。
***
ハイスクールを卒業して一年が経った。ぼくはソロモン・フレーザー大学の最初の夏休みをハリーとドナルドと楽しんでいた。卒業したあとリナの消息はつかめなかった。知り合いに片っ端からリナのことを聞いたが誰も卒業後彼女がどこへ行ったか知らなかった。彼らの答えはほぼ同じだった。
「リナ・キサラギ?……そういえばそんな女の子いたね。よく知らないけどいい子だったな。どの大学に行ったかまでは知らないけど」
彼女は不思議な美少女から謎の美少女になってしまった。アジア人にしてはかわいいほうだから美少女という表現は合っている。それに歳を取るようにも見えない。彼女ならずっと少女でいるかもしれないというおかしな考えに自分で笑った。ばかばかしい。妖精やエルフでもあるまいし……。
8月の半ばにぼくはハリーとドナルドとソロモン・フレーザー大学で開催されたアニメイベントに参加した。リナも好きそうなイベントだ。三つの建物を占拠して行われたイベントはまあまあ楽しかった。同人誌や同人グッズを売るブースは見ていて楽しいしどこに行ってもコスプレイヤーがいる。教室を借りてゴスロリを解説する女子サークルや自作のゲーム・アニメを無料で体験させてくれるサークルもあった。ぼくは友達と適当にぶらついた。買い物はあまりしなかったけど似顔絵を描いてもらって満足していた。中庭でハリーとドナルドとイベントの感想を話していたら正面のドアが開いた。ピンクのカウボーイの格好をしたアジア人の女の子はぼくの顔を見るなり「あっ」と呟いた。リナ・キサラギだ。ピンクのカウボーイハットとワンピースがよく似合う。デジモンに出てくる女の子のコスプレでもしているのだろうか?リナはひよこステップでこっちに来た。
「こんにちはっ!」
彼女はぺこりと頭を下げる。日本のアニメでたまに見かける挨拶だ。ぼくは微笑んだ。
「やあリナ。ぼくのことを覚えているかい?」
「うん。ポール!12年生のときフランス語のクラス一緒だった」
彼女はこくこく頷いた。他のアジア人でもこんなに頷かない。リナは去年とまったく変わっていなかった。ぼくより低い背丈、幼い顔つき、高い声、あどけない瞳……。彼女はぼくの顔をじっと見つめると首を傾げた。
「ポール。前より……歳取って見える」
「あははははははっ。そうだね」
正直な彼女の感想に笑ってしまう。たしかに彼女の言う通りだった。ぼくは老けた。前よりあごひげが生えたしおでこの毛も後退してしまった。ぼくたち白人はアジア人より早く老けてしまう。老化の遅いアジア人の中でもリナは際立っていた。8年生の時点で成長が止まってしまったようだ。それも病気ではなくただたまたま自然にそうなってしまっただけだ。
「ぼくたちはどんどん歳を取っていく。でも君だけは歳を取らずに永遠に美しいままだろうね」
「……?」
普通の人なら笑うか照れていたであろうセリフ。リナの場合困っていた。握りこぶしを顔に近づけてどう返事をすればいいか考えていた。やっぱり彼女は予測不可能だ。そしてかわいい。
「う~ん……そんなことないと思う。私も人間だから……見た目はあんまり変わらないかもしれないけど、歳を取っていつかおばあちゃんになると思う……」
「ふふっ」
もっともな答えにぼくは笑う。「そんなことないよ。君は妖精なんだから」と言いたくなったけど彼女をますます困らせるだけだから言わなかった。リナはぼくの似顔絵を見た。
「それ、描いてもらったの?」
「うん。気に入っているんだ」
「とっても似てるね」
「ああ」
アーティストは実物よりかっこよく描いてくれた。ご丁寧に禿げかけている頭に髪の毛まで足してくれた。リナと仲良くなったころのぼくにそっくりだ。リナはぽつりと呟いた。
「最後にあなたに会えてよかった……。わたし、もうすぐカナダから出ていくから」
「え?」
さりげなく大事なことを言われた。ぼくが考える前にリナは続けて言った。
「飛行機に乗るの。家に帰るの」
「え……?ちょっと待ってなに?どこへ帰るの?!」
話が唐突すぎてわからない。よく考えたら彼女が卒業後どこでなにをしていたか知らなかった。リナはきょとんとして答えた。
「……日本」
「日本!?」
予想外の答えだった。カナダのどこかの大学かカレッジに通っていると思ったらまさかの海外だった。アメリカなら隣国だし陸続きだからわかるけど日本だよ?ヨーロッパより遠いんじゃないのか!?
「わたし日本の大学に通っているの。知らなかった?」
「いや……。卒業してからみんなに聞いたけど誰もきみの行方を知らなかった」
「そっか~。ポールはソロモン・フレーザー大学に通っているの?」
「ああ」
恥ずかしいことだけど、リナはぼくの進路を知っていたのにぼくは彼女の進路を知らなかった。昔リナのメールアドレスを聞いた直後ハリーに話しかけられ、リナと会話が途切れてしまったのだ。そのあとも連絡先を聞こうとしたけどなかなかタイミングをつかめなかった。今ハリーは後ろで黙っているが少し憎く感じた。わざとじゃないんだろうけど毎回タイミングが悪かった。ハリーとドナルドは後ろで静かにぼくとリナを見守っている。
「ハイスクールで言ってたよね。法律を勉強してお父さんのようにソロモン・フレーザー大学で勉強して弁護士になるって」
そうか。リナはハイスクールでの会話を覚えていたのか。だからぼくの進路を知っていたのか。たしか昔の会話ではリナは……。
「きみは今も外交官を目指しているのかい?」
「うん!復習塾大学で勉強中!」
そのフクシュージュク大学がどんな大学かは知らないけどリナが通っている大学ならいい大学なのだろう。
「日本の大学は楽しいかい?」
「う~ん……そこそこ!でも日本でもフランス語勉強することになっちゃった。わたしフランス文学科なの。日本では外国語教えるとき文法ばっかり勉強してつまらない!」
「ははは。それは大変だね。」
「うん!ポールの大学はどう?」
「ぼくもそこそこかな」
「一緒だね!」
「ああ」
日が暮れていく。話したいことがたくさんあった。漫画のこと。アニメのこと。リナのこと。彼女の好きな色、服、食べ物、音楽はなにか。彼女が日本でどんなことをしてきたか。知りたい。知りたい。でも彼女は故郷へ帰らなければいけない。彼女は楽しそうにぼくと話しているけど腕時計を気にしている。彼女はふいに俯いた
「ごめん……そろそろ行かなきゃいけないの」
「うん……」
彼女はそわそわしていた。こういうときなんて言えばいいんだろう。リナは残された時間でぼくに最後のメッセージを伝えようとした。
「あのね……ハイスクールのときは心配させてごめんね!わたしね、あのとき好きな人がいたの。でも一歳年上だから先に卒業しちゃった。とってもとっても寂しかったの……。だからトトロを持っていくようになったの」
「……そうか」
彼女がハイスクールでときおり見せた陰。あれは好きな人を思って心を痛めていたのか……。前の年の卒業写真を見ていたときも、本当は好きな人の写真を見ていたのかもしれない。彼女を気になるきっかけになったトトロのぬいぐるみも彼女の好きな人が原因だった。
「昔フランス語のクラスで泣きそうになったのはね、物語に感動したからなの!覚えてる?貧乏な女子大生が卒業する話。女子大生のお母さんが娘のためにガウンを手作りしたの。でも下手で、布もぼろくて、ところどころほつれていて、でも……と~~っても愛情が籠もってた!」
「そうだね」
あのときのフランス語の文章の内容はよく覚えていない。言われてみればそんなことが書かれていた気がする。リナはあのとき真面目に授業を聞いていたんだ。
「あの日自分の誕生日で感傷的になってたの。でも泣いたら先生に迷惑かけるでしょ?だから一生懸命我慢したの」
「そうだったのか……」
なんて優しいんだろう。あんな話に感動して、泣きそうになって、でも先生を困らせたくなくて堪えていた。こんなに優しい女の子をぼくは他に知らない。
「数学のクラスは先生が授業でなに言ってるか全然わからなかったから泣きそうになったの。自分が情けなくて仕方がなくって……。卒業の単位は他の授業で間に合ってたからやめちゃった」
「うん」
アジア人は数学が得意だと思ってたから意外だった。だけどリナがいじめられたり、親から虐待を受けていたわけじゃないと知って安心した。
「……ポールは勘違いしてたよ。たしかに悲しいこともあったけどわたし、いつも悲しかったわけじゃない。ハイスクールでわたしと仲がよかった友達は年下だった。だからわたしはクラスでは一人だった。でも友達といるときは笑っていたよ!たまたまポールが見られなかっただけ。……わたしのこと気にかけてくれてありがとう!」
抱きしめたくなるくらいきれいな笑顔だった。でも彼女があのとき他の男の子が好きだったことを考えると抱きしめないほうがいいのかもしれない。それに日本の文化では男女が抱きつくのは恋人か夫婦の場合だけだとどこかで聞いたことがある。
「どういたしまして」
「うん!」
リナに触れたいけど触れられない。触れてしまったら妖精のように消えてしまいそうに思えた。
「……次きみと会えるのはいつかな?」
リナは人差し指をあごに当てて上を向いた。考えている。
「う~ん……わかんない。でもきっとまたいつか会えるよ!人生なにが起こるかわからないもん!」
偽りのない言葉は胸にすーっと溶け込んだ。……そうだ彼女の言う通りだ。カナダは広い。世界は広い。リナは遠い東の国に生まれたけど、それでもこうしてぼくと巡り会えたじゃないか!
「ああ。その通りだ。また会おう、リナ・キサラギ!」
「うん!またね!」
彼女は手を振って走っていった。地に足が着いていた。妖精ではない。うさぎのようにぴょんぴょん跳ねていったと言ったほうが正しいかもしれない。彼女の後姿が見えなくなってからぼくは振り返った。ハリーとドナルドはぽかんとしていた。先に話しかけてきたのはハリーだった。
「あれが昔好きだった女の子?」
「ああ」
「……アニメみたいな女の子だな」
「ははっ。そうだろう?」
ハリーを倣ってドナルドも質問をしてきた。
「なんでおれたちに言ってくれなかったの?言えば協力したのに」
「あの子の考えと行動を予測できる?」
「い、いや……。よく知らない子だし……それにアジア人だから……」
ぼくはため息をついた。
「知っても知っても謎が深まるばかり。それがリナだよ」
ハリーとドナルドは顔を見合わせた。ぼくは空を見上げた。カナダと日本を繋ぐ空を。