気になるあの子
―僕は勘違いをしていた。
9年生(中学3年生)の二学期。フランス語のクラスに入ったとき「げっ」と言いそうになった。仲間の台湾人の男子が一人、女子が三人いたことは素直に嬉しい。でも問題なのは台湾人以外の黒髪の女の子がいたことだった。台湾人の女子三人が縦に並ぶ席の後ろに座った彼女は違和感なく溶け込んでいた。リナ・キサラギ……まさか彼女と同じクラスになってしまうなんて……。
僕の名前はディオ。逆毛で眼鏡をかけていること以外は普通の台湾人だ。勉強は常に全力を出している。リナ・キサラギはというととにかく滅茶苦茶な女の子だ。何を考えているか何をするか全くわからない。手足をばたばたさせて話すし、階段を十段ぐらい飛ばしてジャンプするし、怒ると逃げるか怒らせた相手を追いかける。わけがわからない。台湾人の中で彼女を理解できるのはクラウディアくらいだ。6年生のときから友達らしい。リナはクラウディアを見かけると嬉しそうに話しかける。ひよこがにわとりのあとをついてくるようにクラウディアの後ろをとことこ歩く。でも普段リナは一人だ。なぜかクラウディアと一緒に台湾人の女子と行動しない。一人でいるのが好きなのかな?
初めてリナを見かけたのはハイスクールの二日目。8年生になって初めて本格的な授業を受けた日だ。昼休みに台湾人の男子で集まってランチを食べていたら廊下の曲がり角から彼女が現れた。
「…………」
彼女は僕たちに見向きもせず無言で電光掲示板を見つめていた。彼女が現れたとたん賑やかな廊下は静かになった。ぼくたちは全員彼女を見ていた。彼女は眼鏡をかけていた。横から見える彼女の素顔。眼鏡では横顔は隠せない。電光掲示板のお知らせが終わり、時計が表示されると彼女は自分の時計を調整して去っていった。
それからも数日間リナは電光掲示板の前に現れた。彼女が現れるたびに僕たちは黙る。最初は気配もないのに人が現れたから振り向いただけだった。でもその女の子が予想外にきれいな顔をしていたから見とれてしまった。でもときめいたのは最初の数日だけ。彼女が口を開けば出てくるのはとんちんかんなことばかりだった。
「リナ。さっきから何回もここに来てるけど迷子になったんでしょ?」
「ち、違うもん!迷子じゃないもん!ただ道を確認してるだけだもん!」
「それを迷子って言うのよ」
クラウディアの前で強がっているけどその様子じゃ十中八九迷子だ。日本のアニメやゲームにしか出てこないようなセリフとリアクションに僕たちはあんぐり。リナと同じ小学校出身の友達から日本人と聞いたときは驚いた。クラウディアと北京語で話さない時点で「あれ?」とは思ったけどまさかの日本人……。たまたまポケモンカードを買ったら一枚だけものすごいレアカードが出るのと似た感覚だ。テレビや本でしか知らない日本人が目の前にいる。リナのきりっとした顔は一度見ると忘れられない。これが日本人の顔?顔はともかく性格が想像していた日本人と違いすぎる。日本人は優しくて大人しくて真面目で律義というけど彼女はそうなのか?全然大人しくないし真面目に見えない。優しい……の?律義……なのかな?恩返ししようとしたら失敗して仇を返しそうだ。
「も~う、クラウディアのいじわるーーー!」
捨て台詞を吐いて彼女は逃げた。クラウディアはやれやれとため息をついた。……いったいあれはなんだったんだ?僕のときめきを返してほしい。
しばらくしてリナは台湾人の間で注目の的になった。仮に最初の頃のように黙っていてもいずれ噂になっていたと思う。あの顔はきれいすぎる。眼鏡をかけていてもその魅力は抑えられない。ズボンにTシャツという出で立ちでも惹きつけられる。学校が始まってから何人ものアジア系の女の子を見かけた。韓国人には興味がない。中国人にも興味がない。残念ながら恋愛対象の台湾人のなかでもリナに匹敵するきれいな女の子はいなかった。男友達はくちぐちに言う。
「好きな女の子できた?」
「えっ!?……いや。全然」
「いい女の子いないね~」
「リナは?」
「日本人じゃん」
「リナって黙っていればかわいいよな~」
「顔はいいけど性格はカオス」
「誰があんな女の子好きになるんだよ?」
僕たちは笑いながら話した。でもリナが男の子と話しているとみんな気になった。リナは稀に昼休みに僕たちがお弁当を食べている場所に来る。同じ小学校出身のアレックスに用事があるからだ。
「弟くんは元気?これに弟くんにあげて!アレックスにもあげるね」
リナがいなくなったあと友達は次々にアレックスを問い詰めた。アレックスいわくリナは子どもが好きで小学校では彼の四歳年下の弟をかわいがっていたらしい。それでもみんなはアレックスをからかった。初めてリナがアレックスにプレゼントをしたとき僕たちはみんなリナが彼に恋していると勘違いした。リナがいなくなったあと僕は慌てて台湾人の女子グループへ知らせに行った。
「大変だ!リナがアレックスにプレゼントをあげたんだ!」
女の子たちが振り返った直後しまったと思った。そのなかにはリナもいたからだ。彼女はちょうどクラウディアにもプレゼントを渡すところだった。北京語で話しかけたとはいえ思いっきり「アレックス」と「リナ」と言ってしまった。名前を聞けば話の内容はだいたい想像がつく。リナは僕を見たとたんあからさまに不機嫌になった。
「……なに?友達に日本のおみやげを渡すことのどこがいけないの?…………私の噂するのやめてよ!」
どうやらリナは夏休みに日本へ帰っていたらしい。日本で買ったおみやげを友達に渡しているところを僕は割り込んでしまったというわけだ。彼女はそっぽをむいてそのまま去った。クラウディアと一緒にいた女の子の一人が話しかけてきた。
「どうしたの?ディオ」
「いや……。さっきリナがアレックスにプレゼント渡してたからてっきりリナがアレックスに恋してると思ったんだけど……僕たちの勘違いだったみたい」
***
そんなわけで僕はリナと同じフランス語のクラスになって困った。彼女はどうも苦手だ。一年半前に睨みつけられたし僕のことをあまりよく思ってないかもしれない。意外性ナンバーワン、どたばた美少女のリナ・キサラギ。彼女のことだからきっと授業中先生に文句を言って困らせるに違いない。やれやれ……今年のフランス語のクラスは騒がしくなりそうだ。騒がしくなると思ってたのに……。
二学期になって一カ月。フランス語のクラスも軌道に乗ってきた。だがなにかがおかしい。このクラスは静かだ。静かすぎる……。先生の授業を妨害するカナダ人の男子が二人いるけどそれ以外は平和だ。一番トラブルの原因になると思っていたリナは意外にもクラスでは大人しかった。むしろ大人しすぎて不気味なくらいだ。彼女がクラスでトラブルを起こす覚悟をしていたのにまったくなにも起こらない。なにもしなさすぎて逆に彼女が気になってしまう。僕は真ん中の列の真ん前の席に座っている。リナは隣の列の四番目の席にいた。彼女はレイチェルの後ろで一人で黙々と勉強をしていた。台湾人の女子グループとも話さない。リナには気配がない。それにしゃべらないから振り返らないと彼女がいるかどうかわからない。同じクラスになってからリナの新たな顔をたびたび目撃することになった。たとえば一日目の授業のとき。先生は生徒にペアを組ませてお互いをフランス語で紹介させた。僕は後ろに座っているベンジャミンと組んだ。このクラスに唯一いる台湾人の男友達だ。リナは組む相手が見つからなかったのか先生に知らないカナダ人の女の子と組まされた。
「次はリナとサーシャの番よ。こっちへいらっしゃい」
中年の女の先生はにこにこしていた。サーシャと呼ばれたカナダ人は前へ出た。リナはひょこひょこサーシャの後ろを歩いていった。
「さあ始めてちょうだい」
先生は違和感に気づいた。リナはがたがた震えている。腕も脚も声も震えている。目はじわ~っとなっていた。
「◎、◎、◎、◎×△※□……!」
クラスにいた人はみんな「???」状態だった。サーシャはパートナーの行動に困った。リナは完全に緊張している。リナはクラウディアと廊下で話している姿からは想像できないくらいあがっていた。震える声で話すもようやく出てきた言葉は日本語。誰一人彼女が言ったことを理解できない。先生はじっとリナを見つめると優しく言った。
「あなたたちの紹介はあとにしましょうか。席に戻っていいわよ。……次のペア、前へ出てちょうだい」
その日の授業が終わるころ、リナとサーシャは先生の前でお互いをフランス語で紹介していた。他の生徒たちは帰る準備をしてベルが鳴るのを今か今かと待っていた。リナとサーシャのプレゼンテーションを見る人はいなかった。
***
それからというもののリナがクラスの前でプレゼンテーションをすることはなくなった。普段は周りを気にせず大胆な行動を取るのにクラスの前でプレゼンテーションはできないみたいだ。先生は気を利かせて放課後や昼休みなど他の生徒がいないときにリナにプレゼンテーションをさせた。ドアの窓からリナが先生の前でプレゼンをやっているのを見たことがある。リナはそわそわしながらも口をぱくぱく動かしていた。おてんばかと思ったけどけっこう恥ずかしがりやなのかもしれない。
リナのことがわからなくなった。もともとよく知らなかったけどますますわけがわからない。なぜクラスでは一人で大人しいかベンジャミンに聞いてみた。ベンジャミンはアレックスのようにリナと同じ小学校出身だった。
「このクラスには友達がいないからじゃないか?クラウディア以外の女の子と仲良くしているところは見たことないし」
「小学校ではどうだったの?」
「クラウディアと同じクラスだからはしゃいでたぞ。わからないことがあると無邪気に質問したし喜ぶとぴょんぴょん跳ねてた。気に入ったフレーズはCMでもアニメでもゲームでも友達のセリフでもリピートして言ってたから周りはみんな笑ってたな」
「たとえば?」
「そうだな……ポケモンが好きだったからよくピカチュウの真似をしていたぞ。声も仕草もめちゃくちゃ似てた」
謎が解けたけどまた一つ謎が増えた気がする。僕の親友のリガルドは去年リナとフランス語のクラスが同じだった。二人きりのときに去年リナがどう振る舞っていたか訊いてみた。
「クラスでは大人しかったよ。ぼくのように一人でいることが多かった。席が離れていたしリナは後ろの目立たない席に座っていたから交友関係はよく知らない。……そういえば黒髪のカナダ人とたまに話していた気がするけど、いつのまにか離れ離れになってたね。プレゼンテーションのときは必ずと言ってもいいくらい泣くけどすごくがんばってた」
リガルドは前のフランス語のクラスでは台湾人の男子が自分だけだったので一人でいることが多かった。もともと社交的な性格じゃないリガルドはそのクラスでは友達を作らなかった。レイチェルを含む台湾人の女子が四人いたけど彼女たちとも話さなかった。リナの境遇と似ている。リナは今のクラスでも大人しく勉強しているけど本当は真面目なのかな?
「成績はいいの?」
「リナのテストを採点したことがあるけど中の上じゃないかな。毎週行われていた動詞のクイズでは二十点中十五点だったよ」
成績は中の上ってところかな。
「よく覚えてるね」
「たっ……たまたま三回連続でリナの答案用紙を採点したんだ」
リガルドは恥ずかしそうに言った。わざとリナのテストを連続で採点したわけではないと言いわけした。リナはきれいなので彼女とほんのちょっとでも関わりを持つと誤解されてしまう。
「リガルドがわざとそんなことするやつじゃないってことはわかってるよ」
「あ、ありがとう……」
このままリナの会話を終わらせてもよかったけどあと一つだけ質問したいことがあった。
「三回とも十五点だったの?」
「……うん」
リガルドは照れて下を向いた。
「それはすごい偶然だね……」
僕は思わず頷いた。三回連続で同じ女の子の答案用紙を採点して、三回とも同じ点数だったら誰でも運命を感じちゃうじゃないか。
***
二学期の後半にリナはぬいぐるみを持ってきたことがあった。なぜ持ってきたのかはわからない。あのぬいぐるみはベンジャミンのポケモンカードで見たことがある。たしかヒノアラシというポケモンだ。背中から炎が出ている変わったキャラクターだ。先生が授業で使うワークシークを忘れたと言うと問題児のカナダ人男子の二人はリナのぬいぐるみを取った。
「先生!ワークシート忘れたってことは授業はキャンセルだよね?」
「それじゃあ今からバレーボールを始めよ~う♪」
二人は先生の許可もリナの許可も得ずにヒノアラシで遊び始めてしまった。宙を舞うヒノアラシにクラスのみんなは笑った。僕も笑っていた。リナの顔を見るまでは。
「返して!わたしのぬいぐるみを返してよお……!」
リナは必死に訴える。ついには一筋の涙が流れるが誰も彼女を見ていない。リナにとってボール代わりにされたヒノアラシは友達が空中で集中砲火に合っているのと同じだったのかもしれない。先生はリナの涙に気づかなかったがバレーボールをする二人組を止めた。
「はいはい。そこまでにしなさい。ワークシートがないぶん教科書の問題をたっぷりやりますからね」
「えー」
「ケチー」
二人は文句を言ったが少し遊んで満足したのかリナにヒノアラシを返した。リナは泣いたもののすぐ涙をふいたので彼女が泣いたことに気づいたのは僕だけだった。
***
9年生の二学期はあっというまにすぎた。フランス語のクラスでは二人組のカナダ人の男子がときどきリナをからかったが僕はなにもしなかった。リナと同じクラスだったにも関わらず僕は彼女と一回しか話さなかった。あれは先生がクラスに現れなかったときだ。突然の先生の不在の発覚に生徒はばらばらになった。クラスのドアに鍵がかかっていたら自習したくても入れない。残念なことにその日は図書館も閉まっていた。カフェテリアは勉強するには騒がしすぎる。ベンジャミンは次の授業の教科書を忘れたと言って家へ帰ってしまった。ぼくは次の授業の教科書もやり終えた宿題も持っていた。行くあてもなく、話す相手もおらず、やることもない僕は廊下をぶらぶらしていたらリナを見かけた。ロッカーから私物を取り出していた。念のため先生が遅れてクラスに来たか知りたかったのでリナに話しかけた。
「えーっと……リナ?」
リナは僕を見た。初めてリナに話しかけた。初めて彼女の名前を呼んだ。ただ先生の不在を確かめる。それだけのことなのになぜかどきどきする。廊下が静かなので自分の心臓の音がうるさく感じた。
「その……あのあと先生来た?」
きょとんとした顔は憂えを帯びた微笑へと変わる。
「ううん。来てないよ。やっぱり今日は休みみたい」
「そ、そっか……。ありがとう」
「どういたしまして」
僕はそそくさとその場を後にした。リナの微笑みはクラウディアに向けた笑顔とまったく違っていた。いつもクラウディアの前で見せるのは無邪気な笑顔。さっき見かけた微笑は控えめで相手を思いやる顔。同じ笑顔なのに真逆だった。僕は彼女に対する認識を改めた。彼女は台湾で言われていたように日本人のステレオタイプに当てはまる。クラウディアと一緒にいるとき活発なのは周りを意識していないから。クラスでプレゼンテーションができないのは周りを意識しているから。親しい人の前では甘えんぼうだけど親しい人がいないクラスで大人しいのは人見知りだから。彼女はちゃんと日本人らしい一面を持っている。優しくて、真面目で、大人しくて、恥ずかしがりやなんだ。人によって見せる顔が違うけど猫被っているわけじゃない。明るく無邪気に騒ぐリナも、大人しく真面目なリナも同じリナなんだ。どっちのリナも優しいことには変わらない。
***
月日が流れ僕は12年生(高校3年生)になった。あれ以来リナと同じクラスになることはなかった。僕が特進クラスになったからだ。リナは特進クラスに入らなかった。将来の夢はなんだろう?…………最近リガルドが恋する目でリナを見ている。リナが好きだと僕に告げたわけじゃない。でも狂おしいほど彼女を欲しているのがわかる。こんなふうにリナを見るようになったのはアレックスに彼女ができてからだ。もしかして僕が気づかなかっただけでリガルドは8年生のときからリナのことが好きだったのかもしれない。同じ学年の台湾人のなかでできた初めてのカップルに影響を受けているのだろう。リガルドは親友だ。大切な友達だ。でも……恋愛のこととなると話は別だ。リガルドにリナを取られたくない。僕もリナに恋してしまったから。でもきっとリガルドも僕もリナの彼氏になることはできない。リナに話しかけられないから。