無垢なる少女
―あたしはただ人生を楽しみたかっただけ。
クラスメイトが泣いていた。アジア人でもあんなふうに泣くことがあるんだ。外は寒かった。周りに誰もいなかったし、ヒマだったから話しかけてみた。
「どしたの?」
彼女は顔を上げた。雨で濡れたお花みたい。
「……だあれ?」
「あたしは……」
***
あたしはコレット。カナダ人。ハーフムーン・セコンデリー・スクールに通う8年生(中学2年生)。黒髪のミディアムロングでおかっぱ。背は普通。顔も普通……だと思う。少し太っているのが悩み。化粧は毎日してる。スッピンで外出なんてありえない。学校は退屈。勉強嫌い。成績は悪い。ハーフムーン・セコンデリー・スクールは五年制の公立学校。カナダ人の生徒が多いけどアジア人の生徒もいる。台湾人とか韓国人とか中国人とか。先生もカナダ人がほとんど。アジア人の先生なんて二人しかいない。ほとんどのクラスは自由席。小学校のように席替えもない。先生によっては最初だけ指定席で、先生が生徒の名前と顔を覚えたら自由席になることもある。リナ・キサラギと同じクラスになったのは一学期。彼女と知り合って一週間、あたしは少しずつリナの生態を理解していった。
「こんにちは!コレット!」
リナはあたしを見るとぱあっと明るくなる。花のつぼみが一気に開くように。誰だって友達を見かけると笑顔になるけどリナはギャップがすごい。無表情から笑顔MAXになる。いつも笑っていればもっと友達もできるだろうに。リナはいつも教室の後ろに座る。でも成績はいいはず。だってアジア人はみんな頭がいいんでしょ?少なくともあたしよりかは上のはず。真面目で堅いと思ったけどそうでもなかった。けっこう話しやすい。
リナとはフランス語の授業が一緒だった。なんでカナダではフランス語なんか習わなくちゃいけないんだろう。英語だけで十分じゃん。わからないことがあったらリナに聞いた。なんか答えを知ってそうだったから。あたしは égalementの単語を指差した。
「これなんて発音するの?」
「んー……エゲルモン?」
今度はimitationの単語を指差した。
「こっちは?」
「イミタション?……わかんない。わたしに聞かないでよ。日本人だもん」
間違った答えでもリナが言うと正解に聞こえた。リナはあたしと違って真面目に勉強してたから。
リナは年齢より子どもっぽい。うれしいときは思いっきり笑って悲しいときは心から悲しそうに泣く。プレゼンテーションをするときは緊張していつも泣く。でもがんばっているのが伝わってくる。プレゼンテーションの準備はしっかりしている。ただ心の準備ができてないだけ。かわいいと思ってしまうのはなぜだろう。プレゼンテーションなんてテキトーに終わらせればいいのに。
先生は毎週二十問の動詞のクイズを出す。クイズの回答用紙は前へ集められ、先生は違う列にランダムに配って採点させた。勉強しなかったあたしは八問しか合っていなかった。リナの点数が知りたくてちらっと見た。リナはアジア人の男の子から回答用紙を返してもらう最中だった。
「ありがとう!」
「ど、どいたしまして……」
「?」
なぜか男の子は照れていた。名前はリガルドだっけ?このクラスではアジア人の男の子は彼しかいないので何気に目立つ。何人かは知らないけど日本人ではなさそう。リナと英語で話してたから。リガルドがいなくなったあとあたしは訊ねた。
「何点だった?」
「十五点!思ってたより低かった……」
「あたしよりいいじゃない。あたしなんて八点よ?」
「でもわたし勉強したのにこれだよ?勉強が足りなかったのかも……」
リナは落ち込んでいた。テストのことをこれ以上考えたくなかったしあたしは話題を変えた。
「勉強以外ではなにしてるの?」
「絵を描いたり、アニメ見たり、音楽聞いたりしてる!」
リナは絵がうまい。日本のアニメが好きだ。よくポケモンとデジモンの絵を描く。音楽も日本のものが好きみたい。たまに先生が教室を開けるまで歌っていることがある。
「デジモンの日本語版のエンディングテーマなの!」
そう言って彼女は歌った。上手いほうだと思う。英語の「I wish」しか聞き取れなかったけど。リナは楽しそうに歌っていた。まるで妖精みたいに。
***
「リナっていつも一人だよね」
授業が始まる十分前。あたしは友達のサーシャと男子二人と話していた。こいつらはあたしの仲間。勉強がキライで成績が崖っぷち。サーシャはあたしの親友。赤毛のロングでそばかすあり。顔は大したことないけどあたしより背が高くてスタイルがよくてうらやましい。リナとあたしとフランス語のクラスが同じ。いっしょにいる男子はキャスパーとガス。ガスは茶髪の普通の男の子。キャスパーはこげ茶の角刈りでデブ。そして…………あの日リナを泣かせた張本人。
「かわいそうだから友達になってやったの。利用できそうだし」
キャスパーとガスは笑った。
「あいつわけわかんねーよ。ふだんはおとなしいくせに怒ると日本語で叫ぶし……。からかいがいがあるよな」
キャスパーはリナと同じ小学校のクラスだった。あたしよりリナについてくわしい。リナをほとんど知らないガスがキャスパーに質問した。
「なんであの子いつも一人なの?他の中国人といればいいじゃん」
「バカ。あいつ日本人だぞ。中国人とつるむわけねーよ。小学校ではクラウディアっていう台湾人と仲がよかったけど今は一人だ」
「そーなの?日本人と中国人と台湾人はどう違うんだ?」
「知らねーけどなんか違うんだよ」
あたしとサーシャはへえ~と言った。日本人と中国人と台湾人って違うんだ。同じに見えるのに。でもよく考えたらリナは他のアジア人と違う気がする。日本人だからかリナだからかはわからないけどなんか違う。なにが違うんだろう?
「あ~。それにしても彼女ほしいな~」
キャスパーが急に話題を変えた。おかしなことを言ったのであたしたちは笑った。あたしはキャスパーを現実に戻してあげようとした。
「あははっ。あんたのようなデブで、ブサイクで、おまけにバカなブタに彼女なんてできるわけないでしょ~。寝ぼけるのもいい加減にしなさいよ~」
ふざけて言ったつもりだった。だけどキャスパーは逆ギレした。
「はあ?うるせーよブス!!おまえこそデブでバカじゃん。おまえみたいな女誰も相手にしねーよ!だいたいおまえ化粧してもブスじゃん。化粧してないリナのほうがまだかわいいんじゃねーのか?おまえと違って勉強できるしまだマシ!」
「なによ!」
マシンガンのように悪口を連発された。ムカついてひっぱたいてやろうとしたけどサーシャに止められた。キャスパーを叩くスキをうかがっていたらベルが鳴った。
「コレット!あんなやつほっといてクラス行こう。一限目は数学でしょ?」
サーシャのクラスは家庭科だったので途中で別れた。数学のクラスに向かっていたら廊下でアジア人の女の子を見かけた。細くて小さい。リナだ。地味な服を着ている。大きな目はメガネによって守られている。
「あっ!おはよう!コレット!」
いつものようにリナは明るく挨拶した。その無邪気な笑顔がムカついた。あたしはなにも言わずにリナを冷たい目で見た。
「コレット……?」
リナはすぐ異変に気づいた。あたしたちはそのまますれ違った。
***
人生は退屈だ。学校はつまらない。親は勉強しろとうるさい。勉強するのに意味なんてあるの?あたしはなにか面白いことはないかといつもテレビをつけている。ここは田舎だ。映画館は車がないと行けない。ショッピングモールはたいしたものなんて売ってない。お金がないから好きなアーティストのCDもライブのチケットも買えない。読むなら本より雑誌。読むのはファッション、ハリウッド、芸能人、ゴシップ……キラキラ輝く遠い世界。あたしの世界に楽しいことなんてほとんどない。なんでリナはいつも楽しそうなの?
「やっとこの歌の歌詞を全部覚えたよ!」
「プレゼンテーション恐いよお……」
「見て見て!新しい絵を描いたの♪」
「いつもよりテストの点数低い!どうしよう!!」
小さなことでいちいち喜んで小さなことでいちいち落ち込む。勉強して、絵を描いて、暇なときは歌って…………いい子ちゃんでいてなにが楽しいの?あたしにとってつまらないことを楽しそうにやっている。なんで?なんで?リナが憎くなった。なんであたしよりかわいいの?なんであたしより頭がいいの?なんであんなに無邪気なの?同じ黒髪なのにリナの髪のほうが綺麗だ。あたしはリナがうらやましかった。あたしより何十倍も人生を楽しんでいるように見えたから。あの子の世界は小さいけどしっかり輝いていた。
あのあとフランス語のクラスでリナを見かけた。リナはあたしに話しかけてこなかった。あたしはサーシャとの会話に夢中なふりをしていた。リナがあたしに話しかけたのは翌日だった。
「コレット……どうしたの?わたしなにか悪いことした……?」
あたしは黙ってリナを見ていた。リナはおろおろしている。
「なにかあったの?知らないうちにいやな思いさせてたらごめんね!よかったらなにか言ってくれないかな……」
なんて無垢なんだろう。なんて素直なんだろう。なんて優しいんだろう。まるで日陰に咲く花みたい。思わず踏み潰したくなる。
「コレット……わたしたち友達だよね……?」
あたしはリナを無視することにした。これからずっと。永遠に。友達ごっこはもうやめた。リナはいつも楽しそうだけどあたしは全然楽しくない。リナといても楽しくならない。……役立たず。リナなんて汚れちゃえ。