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 雨期の名残のような雨が、朝から降っていた。

 娘の様子に、とくに異変は感じられなかった。ほっそりとしていて無口なため、病気がちな印象を持たれやすいが、体は丈夫なほうである。学科に比べれば成績は劣るものの、体育の授業もそつなくこなしていた。

 繭美が家を出てからは、むろん、彼女自身が服を選んでいた。小学校とは奇妙なところで、服装も髪型も基本的に自由。制服に着替えるのは大きな式典のときばかりである。ところが、中学校に上がったとたん、一気に締めつけがきつくなるわけだが、それまでは「子供らしさ」と親の良識に任されているということか。

 母親の人形として育てられた夏奈未に、子供らしい意志などない。ひたすら繭美のセンスを模倣するばかりだ。ただし、彼女がいなくなって半年が経ち、その間も、コピーが繰り返されるうちに、少しずつだが、オリジナルの形態がぼやけてきた感がある。きっちりと固められた殻を破って、夏奈未自身のセンスが萌芽するかのように。

 それは繭美に輪をかけた少女趣味。常軌を逸した人形的センスと言わねばならない。

 あたかも人形がおのれの意志で、服を選び始めたように。

「車を回すから、玄関の中で待ってなさい」

 会社を休んでからは、学校以外、夏奈未を独りでは一歩も外へ出さないようにしていた。雨が降っていなければ、駐車場まで一緒に歩かせたのだが、傘からはみ出しそうなスカートが濡れるのも気の毒に感じて。

 その一瞬の間に、異変は起こったのだろう。

 どういうわけか、エンジンがなかなかかからず、五分以上待たせてしまう。彼女はガラス扉の中に入っておらず、道端にぽつんとたたずむ赤い傘が、鮮やかに目を射た。にもかかわらず、車に乗り込んだ彼女の髪が、ぐっしょり濡れているのが気になった。私は後部座席へ身を伸ばし、タオルを拾い上げねばならなかった。

「猫と遊んでいたのかい」

 彼女が唯一、興味を示す動物が猫だ。またこの極めて用心深い生き物も、なぜか夏奈未がいると、みょうにすり寄ってくることに気づいていた。娘はけれど、にこりともせず、肯定も否定もしなかった。おそらく問い詰めても無意味だろう。

 いや、問い詰めるべきだったのかもしれない。私は猫のせいにして、安心したかったのだ。異様な胸騒ぎに、居ても立ってもいられなくなって。

 発車させる前、なかば無意識に辺りを見回した。灰色にけぶる住宅街の絵に、これといった異常は何も見出せなかった。

 ただ、ぼろぼろになったワインレッドの傘が一本、開かれたまま反対側の歩道に転がっていたばかりで。

 風はほとんどないし、雨脚も決して強くない。なのにその傘は、ほとんど骨だらけになり、防水布が腐肉のように垂れ下がっていた。しかも強風に引きちぎられたような恰好ではなく、骨の形は奇麗に保ったまま、長い時間をかけて腐敗したようなのだ。

 独身の頃、繭美がこの色の傘を好んでいたことを、懸命に頭から閉め出した。芥川の「歯車」ではないが、私は繭美のイメージに憑かれているのかもしれない。

 それとも、繭美を失ったことを、想像以上に哀しんでいるのだろうか。

 午後になっても、雨は止まなかった。

 夏奈未が学校にいる間、当然私は孤独である。これほど有り余る時間の中に身をさらすのは、学生時代以来だろう。時間に追われ、メーターが振り切れる寸前までストレスを溜こんで働いていた時分は、あれほど渇望したもの。それが目の前にごろりと転がっている今、私はなす術もなく、時間という怪物をもてあましていた。

 訴訟の準備のために買っておいた参考書も、ベッドの脇に積み上げたまま、なかなか読み進められずにいた。

(訴えたからといって、勝てるとは限りませんよ)

 調停員の男、建築鑑定士の意味ありげな一言が、耳の底にこびりついていた。虐待の証拠は出ない。妻は安アパートでつましく暮らしながら、金銭の受領を拒否し、ひとえに娘を手元に置きたいと願っている。もしかすると、夫は娘が無口なのをよいことに、虐待の事実をでっち上げたのではないか?

 そんなかれらの印象は、当然、裁判官たちにも伝染してゆくだろう。

「まるで『ねじの回転』だ……」

 むかし読んだ「怪奇小説」が思い起こされた。住み込みの若い女家庭教師ガヴァネスは、兄妹が悪魔に憑かれていることを知る。けれども物語の最後まで邪悪な存在が見えているのは、彼女一人しかいない。

 あの小説の真の怖さは、すべての怪異が彼女の妄想なのかもしれない点だ。家の主人への恋に憑かれた彼女の……

 電話が鳴ったのは、午後二時ちょうどだった。

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