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その夜の無言電話は、とくに長かった。
午後九時半を回ったところだ。呼びかけることを、とっくにあきらめていた私は、ただ汗ばむ手で受話器を握りしめたまま、耳をそばだてていた。
リビングにはまだ、夏奈未が起きていた。相変わらず決してパジャマを着ようとはせず、吸血鬼映画の被害者のような、白い夜着に身を包んで。
ただ一週間前と決定的に違うのは、少女の手に例の「お人形」が、たいせつそうに握られている点だ。花弁を逆さにしたような、深紅のドレスを着せられて、虚ろな眼窩で宙を睨んだまま。
小学校低学年くらいまでだろうか、私はこの髑髏というものが、むしょうに恐ろしかった。たぶん、死への恐怖ではない。この人間の残骸が、不可思議な生命力を得て、生き生きと動き出すイメージを恐れた。
小学校の図書室には、真っ黒な表紙に頭蓋骨が大きく描かれた本があった。タイトルは「怪談」だったので、ハーンの翻案だろうか。田舎の木造校舎だったので、図書室には闇と独特なかび臭さが、いつも重く張りついていた。
北斎の浮世絵のように、頭蓋骨には、ぎょろりとした眼球が描きこまれていた。その一冊があるばかりに、どうしても図書館へ入りたくなかった自分を、まざまざと思い出す
私は無意識に眉をひそめて、娘から視線を逸らした。
きん……、きん、
沈黙の背後で、単管パイプを打ち鳴らすような音は、まだ続いていた。最初はかすかだったその音が、今では頭に響くほど、大きくなっていた。まるで、音そのものが養分を吸って成長したように。
無言電話の主が繭美であることは、間違いなかった。必ず公衆電話からかけてきて、こちらが何を言っても決して一言も喋らず、そしていきなり回線を切られた。
ざらざらと荒い息遣いは、切れる直前まで聴こえているので、受話器を置くのではなく、フックを指で下ろすのだろう。十五秒ほどで途切れるときもあれば、二、三分持続する場合もあった。少しでも相手側の情報を得るために、私は耳をそばだてたまま、こちらからは切らないよう、心がけていた。
回線の調子がよくないのか、不明瞭に歪められているが、相手の息遣いは、紛れもなく、繭美がベッドの中で上げる声と同質なのだ。
きん……、きん、
常にこの音が聴こえるということは、、毎回、同じ公衆電話からかけてくるのだろうか。工事か、あるいは工場が近いのだと最初は考えたが、例えば人の声や車のエンジン音などがまったく聞こえないのは、いかにも不自然だ。
まるで何もない、荒涼とした、真っ暗な虚空で、単管パイプだけが叩き合わされている。そんな印象をぬぐえなかった。
その叩きかたには、一定のリズムや規則性がまるでない。強いて例えるならば、檻に入れられた大型の猿が、鉄パイプを振り回しているような。あるいは、狂人が金属バットで鉄格子を叩き続けているような、言語道断な気配を孕んでいた。
狭い公衆電話の中で、棒を振り回すなど不可能だろう。あるいは、潰れた商店の店先に取り残された電話から、かけてくるのか。荒い息遣いとの相乗効果で、その音は聴く者を真っ暗な潜在意識の底へ、引きずり込むようだった。
電話が長く続くときは、必ずリビングに夏奈未がいることに気づいていた。念のため、マンションの周囲をくまなく探してみたが、この部屋がのぞめる位置に、公衆電話など一つもないようだ。
むろんその間、夏奈未が声や、もの音をたてていたわけではない。骸骨人形を抱いたまま、怯えたように目を見開いて、こちらを見ているばかりだ。私がいるところでは、人形に話しかけることもなかった。
だからきっと、偶然なのだろう。
強いてそう思い込もうとしても、ねっとりと絡みつくような視線で、見据えられているような圧迫感は、いつも電話が切れるまで続いた。
髑髏の眼窩にあらわれた、巨大な眼玉のような。
……ナ、ナ、ミィィィィイイイイイ、
不意に、ほとんど単管パイプの音に掻き消されながら、掠れた声を聴いた。妻の声に違いなかったが、反面、とても人間の声とは思えない。単管パイプを狂おしく打ち鳴らしている何か。人間ではなくなった何かが、絞り出している声としか。
……ナ、ナ、ミィィィィイイイイイ、
きん……、きん、
……オ、カァァァァァアアアアアアア、サ、ン、ノォォォオオ、ト、
……ト、コ、ロ、ェェェェエエエエエ、
きん……、
私はみずから受話器を叩きつけた。
それを両手で押しつけたまま、肩で荒い息をついた。何分間かわからない。再び電話が鳴るのを阻止しようとするかのように、しばらくその姿勢を保っている間じゅう、手の甲に汗がしたたり落ちた。
耳の中には、どす黒い粘液のようにこびりついた声の残響が、どうしても離れずにいた。
……オイデ、ェェエエエエエエ!
夏奈未が行方不明になったのは、その翌日だった。