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「お帰りなさい」

 口にこそ出さないが、夏奈未の目に、なぜそんなに早く帰ったのかという疑念が、ありありと浮かんだ。

 裁判所から会社に戻り、必要な手続きだけ済ませると、なるべく急いで帰宅したのだ。午後四時を、少し回っていた。

 固定電話が鳴り始め、神経に障るベルの音を執拗に響かせた。

「出なくていい。それより、冷えたお茶をくれないか」

 受話器を取ろうとした夏奈未を制して、電話機のモニターを確かめた。「公衆電話」と表示されていた。

「もしもし」

 返事はない。

 じっとりと、粘りつくような沈黙の中で、電話ボックスの外で鳴っているのか、かすかなノイズが聞こえた。きん、きん、という、足場用の鉄管どうしが、不規則に打ち合わされるような音。近くで工事でもやっているのだろうか。

 ノイズには、ざらざらとした息遣いが混じっていた。

「繭美、なのか」

 ぷつりと、通話が途切れた。止まない戦慄。振り返ると、結露したコップを持った夏奈未の、もの問いたげな視線とぶつかった。

「いたずら電話だよ。夏奈未、これからは家の電話に出ないほうがいい。携帯の番号は変えたから、そっちに変な電話は、かかってこないよね」

 彼女はうなずき、背伸びするような動作で、コップを差し出した。

 とても蒸す日で、夕方になっても暑気は去らず、私のシャツは背中に貼りついていた。夏奈未はけれど、エアコンも入れず、依然、かさばる衣装の中に収まっていた。鏡の国のアリスみたいな、膝の上まである靴下まできちんと履いて。

 私が買ってきたタンクトップとショートパンツは、一度も使われた形跡がなかった。

「それじゃ暑いだろう。もう、気にしなくていいんだよ。家の中でどんな恰好をしていようと、誰も叱ったりしないから」

 曖昧にうなずくばかりで、彼女は何も答えなかった。反論もしない代わりに、決して肯定しようとしない。おそらく、無理に着替えさせたりすれば、パニックに陥るだろうことは、わかりきっていた。

 母親の呪縛から、幼い少女はそう簡単に逃れられないだろう。たとえ鎖で繋がれていなくても。繭美が「お洋服」と言うときの、憑かれたような声の調子が、恐ろしい呪文のように、今も夏奈未の耳にこびりつき、彼女を縛りつけているはずだ。

――このお洋服、似合いそうね。

――お洋服に着替えなさい。

――お洋服を着せてあげるわ。

 耳を覆いたい気分で、コップの中身をひと息に飲みほした。軽い頭痛とともに、調査官の言葉が、唐突に思い返された。

(虐待の事実に対する感情的な反応が、まったくあらわれません)

 甲殻類のように、衣装という殻の中で彼女は「退化」したというのか。いつしか「お人形」ですらなくなり、衣装そのものと化してしまったのだろうか。

 いま、彼女はソファに浅くかけ、何もない空間へ視線を固定していた。印象派かラファエル前派の画家が、その前で絵筆を持っていないのが不思議なくらい。肉親の私でさえ胸を突かれるような、美しい作りものがそこにあった。

 この世にあってはならない類いの美しさが。

「お父さん」

 彼女の顔がこちらへ向けられていることに気づいて、危うくコップを落としかけた。その感情が恐怖にほかならないことを知ったとき、私は後ろめたさと同時に、逃げ出したい思いに駆られた。動くはずのない人形が、動いたときの恐怖。

 それに夏奈未が自分から話しかけるなんて、これまであったかどうかさえ疑わしい。ぱっちりと見開かれた目は色素が少し薄いせいで、鳶色のガラス玉のように澄んでいた。

「なんだい」優しい声を出すために、懸命な努力を要した。

「お洋服が欲しい。お人形に着せたいの」

 娘の言う「お人形」が何を指すのか。繭美は決して少女人形の類いを買い与えなかったので、この家にそれらしいものは一つもない。当然だ。人形に人形を買い与えるような意味の破壊行為を、彼女がするはずがなかった。

 さっき茶を飲みほしたばかりにもかかわらず、私の声はからからに乾いていた。

「骸骨人形のための……服を?」

 また電話が鳴り始めた。

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