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 あの日、破局は一瞬でおとずれた。

 忘れ物を取りに戻る。ただそれだけのことだが、前日に準備を済ませなければ気が済まない私には、めったに起こらない。玄関は開いていたので、チャイムを鳴らす必要もなかった。几帳面に揃えられた夏奈未の靴がまだあるを見て、思わず笑みがこぼれた。

 娘に話しかけているであろう、繭美の声が低く洩れていた。平穏な、朝のひととき。

「よく似合ってるわ。でもちょっと、襟もとがさびしいかしら」

 足音を忍ばせたつもりはない。リビングのドアは半ば開いていたので、寝室へ戻るついでに覗きこむのも、自然な成り行きだと言える。

 姿勢よく立っている、夏奈未の背中が姿見に映っていた。えんじ色ののコートの下に、白いスカートの裾がふんわりと広がり、靴下のレース飾りが、愛らしく覗いた。

 鏡に向かって、ひざまずいた恰好の繭美は、白いセーターとデニムのスカートの上に、安っぽいエプロンをつけたまま。夏奈未が生まれる前までは、私が苦言を呈するほど、家の中でも「お洒落」の手を抜かなかったが。この頃ではその情熱が、娘の上にすっかり移行した感があった。

 彼女が手にしている深紅の首輪には、ロシアン・ボルゾイにも引きちぎれないほど太い、金属の鎖がつけられていた。

 私は息を呑み、彼女は振り向いた。その青みがかった銀色の、狂気に満ちた眼差しを、私は忘れないだろう。その日のうちに、繭美はマンションを出た。問い詰める私に対して、ひたすら無言で押し通し、手荷物だけをまとめて。

 私同様、彼女もまた大学進学と同時に、他県から越してきたので、この界隈に親戚はいない。身を寄せる友人もいないようだが、彼女名義の貯金がだいぶあったので、隣町にアパートを借りたようだ。

 彼女はそこを根城に徹底抗戦の構えをみせ、離婚調停は難航を極めた。

 離婚には同意する。独身時代のツテから、服飾デザインの仕事ももらえるので、費用面で負担をかけるつもりはない。ただ、親権だけは、何としてでも譲らないと主張した。

 事情が事情なだけに、まず児童相談所の職員があらわれ、次に家庭裁判所の調査官が訪ねてきた。調査官は私と同い年くらいの女性で、表情は穏やかだが、時おり、細い眼鏡の奥から、刺すような眼差しを送ってきた。

「夏奈未ちゃんが虐待されていたという、決定的な証拠がないのです」

 娘の痣はとくに治療しなくても、一晩でほとんど癒えた。大事な人形に疵が残るような打擲を、繭美は慎重に避けていたのだろう。即座に病院へ駆け込まなかったことを、私は後悔することになる。

 彼女は続けた。

「学校で聞き取りを行っても、何もわからず仕舞いです。たしかに、異様なまでにおとなしい子だったのは、だれもが認めております。でも、成績は抜群によいし、健康状態も良好」

「それと、これとは」

「わかっております。ですが教師に対しても、クラスメイトに対しても、本人の口から、虐待をにおわせる訴えがなされたことは、まったくなかったようなのです」

「繭美には何もされなかったと、娘は言ってるのですか」

 調査官は首を振った。いつも隙のないグレーのスーツを着て、自信があるのか、脚をわざと何度も組み替えた。

「何も申しません。イエスとも、ノーとも。その質問にだけは、貝のように口を閉ざしてしまいます」

「それは私に対しても同じなんです。おそらく、もの心ついた頃から、娘は口を閉ざすよう、繭美に強要されてきたものと思われます。そういった心理については、あなたのようなプロの方が、詳しいんじゃないですか」

 彼女は無言で書類から顔を上げた。最初は同情的だった彼女の態度が、近頃微妙に変化しつつあることに、私は気づいていた。

「DVやPTSDの被害については、悲しい事例をたくさん見てまいりました。ただ、夏奈未ちゃんの場合、虐待の事実に対する感情的な反応が、まったくあらわれません」

「感情、ですか?」

「怖いとか、悲しいとか、いやだとか。それらは感情の中でもとくに大きなもので、あんな小さな子が、みずからの意志で隠し通せるとは思えないのですよ。お父さま」

 眼鏡越しに鋭く見つめられた。私が返答に詰まるのを見届けてから、調査官は続けた。

「奥さまが、夏奈未ちゃんに首輪をつけようとしたのは、事実なのですか」

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