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小さな骨格標本だった。
珍しい点といえば、そんなものがデパートの玩具売り場に、ぽつんと置かれていたことくらい。一つだけ売れ残ったまま、久しく店ざらしになっていたとみえて、表面は黄変し、頭蓋骨には埃が薄く付着していた。
「あのお人形……」
無口な夏奈未が口を開いたことに、まず驚かされた。
反射的に周囲の棚を見渡したが、複葉機や恐竜の模型なんかが並んでいるばかり。女の子が喜びそうな玩具類は、反対側のコーナーにあるらしかった。
(あのお人形……)
欲しい。
という言葉が、かすかに聴きとれたような気がした。見下ろすと、幼い、頑なな視線が、棚の一角に注がれていた。心なしか、私と繋いだ手が、ぎゅっと握りしめられるのを感じた。
少女の視線の先では、例の骨格標本が、うつろな眼窩で宙を睨んでいた。
夏奈未がみずから何かをねだることは、極めて稀である。少なくとも、私の記憶にはまったくない。それほどまでに、私はこれまで娘を顧みようとしなかった。彼女の無口も、ほとんど笑わないことも、「性格」の一言で片付けて。やはり孤独癖の強い私に似たのだと、思い込んでいた。
思い込もうとしていた。
妻が夏奈未に犬の首輪をつけるところを、偶然見てしまうまでは。
平凡なサラリーマンという人種は、おそらく存在しない。極限状態までストレスを抱えて電車に詰めこまれる人間の群れは、化け物じみている。同様に、平凡な主婦という呼称もまた、薄っぺらなラベルに過ぎないのかもしれない。
私が妻の狂気に気づかなかったように。
七歳になった現在まで、夏奈未が妻に殺されなかったのは、奇跡に等しかった。
私は妻が夏奈未を、溺愛しているとばかり思い込んでいた。見事な手料理を前に、娘に親しげな言葉をかける彼女の姿が、いつも食卓にあった。とくに服装は、決して安物で妥協せず、美大出身であり、服飾コーディネーターの資格をもつ妻の目で、厳しく選び抜かれた。美容院へも、しょっちゅう同行していたのを知っている。
小学校側から、もう少しラフな恰好をさせてほしいと、再三注意されていたことは除いて。
今にして思えば、夏奈未は妻の「お人形」だったのかもしれない。荒涼とした、癒やしがたい孤独を慰めるための。
人形が自己主張することは許されない。ただ愛らしく着飾られ、目をぱっちりと見開いて座っていることしか。そうだ、妻が娘に話しかけるさまは、お人形遊びにほかならなかった。彼女は私に見えないところで夏奈未を人形として「躾」た。いや、人間ではない何ものかへ、調教したのだ。
妻と別居して、夏奈未を風呂に入れたのは、赤ん坊のとき以来だった。「虐待」の痕跡は、予想以上に歴然としていた。娘を痛めつけることと、華美な服を着せ、美食をふるまい、親しげに話しかけることは、妻にとって同義だった……
夏奈未はまだ、骨格標本を無言で見上げていた。
ほかの客は一人もいなかった。デパート自体、間もなく取り壊されるため、すでに地階から二階までは閉鎖されていた。三階のテナントもあらかた出払った中で、この店の華美な色彩と音だけが、周囲から異様に浮いていた。
レジカウンターの奥では、店主らしい白髪まじりの男が一人、競馬新聞を広げたまま居眠りしていた。
「あんなものが欲しいの?」
なるべく穏やかに訊いたつもりだったが、娘の目に、さっと怯えの色が走った。私の手を振りほどこうと、力が込められさえした。
「欲しいなら、買ってあげるよ」
慌てて彼女の目線まで身を屈め、そう付け足した。目の前の瞳がくるくると見開かれ、そうしてほんの一瞬であったけれど、唇に薄い笑みが浮かぶのを、たしかに見た。
理由のわからない戦慄が、私の背筋を何度も貫いた。