7.埋まらない距離
講堂が開くまでちょっとしたトラブルはあったものの、入学式は本当に素晴らしかった。
上級生達によるニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲が高らかに奏でられる中、しずしずと入場していく新入生。歓迎の大きな拍手に誇らしい気持ちになる。見事に揃ったトゥッティ(全奏者による合奏)にも惚れ惚れした。レベル高すぎて、とても高校生の演奏とは思えない! これが音楽学校の本気か。
隣に座った蒼にこっそり「すごいね」と目配せすると、蒼もコクンと頷き微笑み返してくれた。ハリネズミみたいに刺々しかった威圧感が消えててホッとする。良かった。いつもの蒼だ。
ファンの子達にやっかまれるのは想定済みだったし、今更あの程度の悪口でダメージを受けたりはしないのにな。
怖いくらいに冷たいあの目を見た瞬間、背筋がぞくりと震えたのを思い出す。大げさだと笑われそうだけど、殺気さえ感じた。
元々が整った綺麗な顔立ちだから、怒ると余計に凄みが増すんだよね。麗美さんと会った時もだったけど、はっきり言って心臓に悪い。
初めて知った彼の一面に、私は正直戸惑っていた。
昔はもっと大らかで明るくて、無邪気で可愛かったのになぁ。怒ったり悲しんだりも、分かりやすくてさ。小さかったから?
――それとも、私まで彼を突き放したせい?
ここに紅がいたら違う答えをくれたのかもしれないけど、彼に頼ることはもう出来ない。
熱狂的なファンの子達の関心を自分一人に集めてまで、蒼と私の平和な学院生活を守ろうとしてくれてるんだもん。ちゃんと協力しなきゃ。寂しいけどしょうがない。紅が決めたことだ。それより。
――どうしたら、元の蒼に戻ってくれるんだろう。
自分以外の誰かを変えるなんてこと出来るわけないのに、その時の私は、蒼に感じた違和感をせめて平坦に均したくて必死だったんだと思う。自分の知っている蒼に、今の彼を近づけたかった。
変わったんじゃなくて、もともと蒼は執着の対象以外には興味を持てない人で、愛されたことがないから人を愛する方法が分からなくて、ようやく手に入れた私を繋ぎとめようとただ必死だなんて、考えもしなかった。
トビーのもっともらしい理事長挨拶も、学院長の心のこもった歓迎の言葉も、ふわふわと私の心を上滑りしていく。
蒼の見せたあの冷たい眼差しが、どうしても頭から離れなかった。
入学初日は、式と教科書一式の配布だけで終了。
最初の一週間のうちに、五科目の実力テストと希望授業を決めるオリエンテーションがある、と担任の先生は教室へ移動する前に説明してくれた。
ちなみに、うちのクラスの担任は数学科教師の後藤先生。育ちの良さがにじみ出ている清楚な雰囲気の女性教師です。
クラス担は、一般科目の先生が受け持つ決まりなんだって。音楽科目の先生は大学の方でも授業を受け持っていることが多いから、って理由らしい。
公立学校にしか通ったことのない私は、まず教室の席順に驚いた。
出席番号順に座るものだとばかり思って机を数えていたら、蒼が不思議そうに見つめてきたのだ。
「そんなに気になる? 机の数」
「え?」
しばらく噛み合わない会話が続き、私は真っ赤になった。
だって、どこでも好きな場所に座っていいとか知らなかったんだもん!
蒼は笑いながら私を窓際の一番前の席に座らせ、自分はその隣に腰を下ろした。美登里ちゃんは私の後ろに座る。
「なぁ、これどこでも好きに座っていいん?」
「みたいやな」
同じ寮からきた関西弁の二人組も、戸惑ってるみたいだ。
自分以外にも同じような人がいることに安心した。外部生と一目で分かる、赤いリボンと聞きなれない言葉。人懐っこそうな雰囲気を漂わせた栗色ヘアの背の高い女の子が、賢そうな眼鏡の男の子を引っ張って近くの席に座った。
話しかけたいな。あなた達も寮生だよね? って。
朝食の時にも食堂で見かけたんだけど、蒼が一緒にいたからタイミングを掴みそこねてしまったんです。
私がチラチラと視線を送っていたからか、栗色の髪の少女がふと目をあげた。
「あの――」
「真白」
立ち上がって話しかけようとした瞬間、蒼に声をかけられる。その間に、女の子も隣の連れの子と何か話し始めてしまった。
「ん? どうしたの、蒼」
蒼は私の視線が自分の方に向くと、ほっとしたように表情を和らげた。
後ろで美登里ちゃんが大きな溜息をつく。
「今日、早く終わるだろ。そのあと、どうするのかと思って」
「まだ部屋の荷物が全部片付いてないんだよね。まずは片付け終らせて、それからピアノを触って、あとは貰った教科書で軽く予習しようかなって」
「No way!(嘘でしょ) せっかく午前中で終わるんだもの、どこかにお茶しに行きましょうよ」
つんつん、と私の袖を引っ張り、美登里ちゃんが顔をしかめる。変な顔してみせても愛らしさが増すだけなんて、美少女ってこわい。
「うーん。誘って貰えるのは嬉しいけど、どうしよう」
「俺も出かけるのに賛成。そんなに遅くならないようにするから、一緒に行こうぜ、真白」
蒼までそんなことを言って、私の決意を揺らしてくる。
この二人にタッグを組まれておねだりされちゃ、抗えません。頷くと、蒼はパァッと瞳を輝かせた。
こういうところは変わってないのになぁ。
やがて後藤先生が現れ、必要書類や教科書やらを配布した後、教室をぐるりと見回した。
「さっそく明日からテストですので、皆さん頑張って下さいね。今日配布した書類は、今週中に提出すること。それから専攻の担当講師だけど、希望者数が多い場合はこちらでの選考を経た割り振りになるから了承してね。質問があれば、オリエンテーションの時に受け付けます。では、成田くん。悪いんだけど、今年の級長をお願いできるかしら?」
「分かりました」
「では、号令を」
紅が「起立。礼」の号令をかけると、全員が一斉に立ち上がり軽く頭を下げた。学級委員決めとか、いちいちやらないんだ。指名制なのね。
新たなカルチャーショックに目を瞬かせつつ、私も慌てて腰を上げる。
美登里ちゃんがぼやくように呟いた「What’s all this?(なに、これ)」が、妙にツボに入った。ずっと外国にいたから、びっくりしたんだろうな。
ずっしり重い鞄をとりあえず寮に置いてから、改めて出かけることになりました。明日からテストだというのに、皆あちこちで「どこでご飯食べる?」なんて話してる。すごいな。余裕だなぁ。
紅はHRが終わるとすぐ、こちらを一瞥もせずに、取り巻きの子たちを引き連れ教室を出て行った。
栗色の髪の女の子と眼鏡の男の子も、いつの間にかいなくなってる。
しまった。何とかお近づきになりたかったのに、帰る準備に時間がかかり過ぎた。新しい教科書で指を切りたくなかったから、ゆっくり一冊ずつしまってたんだよね。
結局、話しかけられなかったな。残念。今度また頑張ろう。
友達作ろう計画を心の中で練り直しながら立ち上がると、蒼が私の手を遠慮がちに握ってきた。
「――ごめんな」
「ん?」
今出てくと、下足室で紅にまた会っちゃうかもしれないから、タイミングずらさないと。
そんなことを考えながら、扉を見てただけなんですけど。
何か聞き逃したのかな。
驚いて蒼を見上げると、何故だかしょんぼり肩を落としてる。え? なんで?
「どうしたの、急に」
「俺が、心狭いから」
「そうなの?」
蒼が狭量だなんて思ったこともない。
それに、どうして急にそんな事を言い出したんだろう。
「良かったわね、ソウ。真白には気づかれなくて」
美登里ちゃんは私たちを順に眺め、呆れた声で謎の言葉を吐き出した。それから、すたすたと教室の扉に向かって歩いていく。あっけに取られた私は、動くことが出来なかった。
「うるさいな。ほっとけよ」
蒼の拗ねた声が、美登里ちゃんの背中を追いかける。
「いつかしっぺ返しがきて、泣く羽目になっても知らないから」
くるりと振り返った美登里ちゃんは、しょうがない人と言わんばかりの顔つきで肩をすくめた。
一人蚊帳の外に押し出されたような、そんな疎外感を覚えて、自分でも驚いてしまう。どうしてこんなに気持ちが沈むのか考えてみて、あっさり原因に思い当たった。
蒼の態度が、すごく自然なんだ。
私に対しての振る舞いとは明らかに違う、くだけた表情と口調。
美登里ちゃん相手だと、安心できるのかな。蒼の言ってることが私にはいまいち分からないけど、美登里ちゃんには分かるみたいだし。昔は私にもあんな風に気安かったのに。
私が知ったばかりの非情な蒼も、彼女は知っていたのかな。
ずきずきとこめかみが痛み始める。
「――真白、疲れた?」
黙り込んだ私を気遣い、蒼が慌てて荷物を持つと言い出した。
「大丈夫だよ、これくらい自分で持てる」
にっこり笑って鞄を持ち替え、ついでに蒼の手をそっと外す。理由は自分でもわからないけど、今はどうしても繋いでいたくなかった。心に渦巻き始めた黒い感情を振り払いたくて、足早に歩き出す。
学院の外を一周……といわず十周くらいジョギングしてみるのはどうだろう。体を動かせばすっきりするかも。
「お腹すいたね。早く行こう?」
この時の蒼がどんな顔をしていたか、見届ける余裕は私にはなかった。
寮に戻って私服に着替え、のろのろと共有棟に向かう。
蒼と約束してるのに気が進まないと思ったのは、初めてのことだった。一人になって、気持ちを立て直したい。でも約束をすっぽかすなんて出来ないから、このモヤモヤを今のうちに消しとかなくちゃ。
……嫉妬なのかな、やっぱり。あー、やだやだ。こんな自分は大嫌いだ。ちょっとはましになったと思ってたのに、全く成長してない自分に何より腹が立つ。
さっさと向かわなかったせいで、私がラウンジに着いた時には、もう二人とも揃っていた。
どの店にしようか、相談してるのだろう。蒼のスマホを美登里ちゃんが隣から覗き込んでいる。彼女が何かを言ったらしく、蒼の表情が変わった。目元を和ませ笑う蒼を見て、美登里ちゃんが頬をふくらませる。
『――ねえ、真白さん。城山の後継者にあなたは何を提供できるのか、考えてみたことはあって?』
麗美さんの言葉が鮮やかに蘇ってくる。いつの間にか詰めていた息を、私は深く吐き出した。
――何もないかもしれません。
知らない人が見たら、仲睦まじい婚約者同士のじゃれ合いだろうな。それこそ本当に美男美女で、釣り合いが取れてて、親も公認で。
「真白!」
私に気づいた蒼がソファーから立ち上がる。醜い感傷を打ち消し、慌てて口角を引き上げた。こんなみっともないこと考えてたなんて、絶対に知られたくない。
「ごめんね、待たせて」
「俺達も今きたとこだよ。食べたいもののリクエストはある?」
蒼はスマホをパーカーのポケットにつっこみ、私に優しく微笑みかけた。
一緒に探そうとは言わないんだ。ふーん。美登里ちゃんとは仲良く一緒に見てたのにね。
私の中の悪真白が、意地悪な口調でそんなことをあげつらってくる。
「だから、今日は中華の気分だって言ってるじゃない」
「美登里には聞いてないって言っただろ」
「なによ、それ。私が先にマシロを誘ったのよ。おまけで着いてきてもいいって言ってあげてるのに」
ね、マシロ?
美登里ちゃんにぴょこんとくっつかれ、腕を組まれる。
無邪気な彼女には、意地悪真白は発動しない。どうやら、対象は蒼だけみたいだ。
「こら、くっつくなって」
私から引き剥がそうと美登里ちゃんの華奢な肩をつかんだ蒼に、またもやセンサーが激しく反応した。
もみ合ってる彼らが、イチャついてるようにしか見えないんですが。
なんなの、これ。もう、やだ。
こんな気持ち、持ちたくないのに。
「せっかくなんだから、仲良くしてよ。喧嘩するなら行かないからね」
追い詰められると、思ってるのとは正反対の言葉が口から飛び出すんだって、その時私は初めて知った。
頬が痛くなるくらいニコニコ笑って、二人を促す。
「いつもとやっぱり違う。真白、具合悪い?」
帰り際、不安げに瞳を細めた蒼にそっと耳打ちされた時も「全然大丈夫だよ」と虚勢を張ってしまいました。自室に帰ってから、家から連れてきたべっちんに泣きついたのは誰にも内緒だ。
「蒼のバカ! バーカ!」
絶対に外では口に出来ない台詞をべっちんにぶつけ、溜飲を下げる。柔らかなぬいぐるみを思い切り抱きしめ、ベッドの上を気が済むまで転がった。
「……うそ。大好き」
べっちんの手を持って、自分の頭を撫でてみる。
「オレモ、スキダヨ」
今の私を見た奴は、消す。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
両思いになればそれで終わり。好き合っていればそれで幸せになるんだと思ってた。違うんだね。人の心って本当に難しい。