48.さよなら
一体何が起こっているのか、全く分かってないのは私だけみたいだ。
それが一番の衝撃だった。
ステージ上のトビオからのろのろと視線を後ろへ向け、紺ちゃんは棒立ちになっている。私たちがここにいることが、心底信じられないといわんばかりの顔だった。
蒼は椅子から立ち上がり、私の腕を強く掴んで引き寄せた。そして何故か紺ちゃんを睨みつけ、挑むように口を開く。
「どういうつもりだよ。あんた、真白の味方じゃなかったのかよ」
「……なんで? 蒼くんも真白ちゃんも、なんでここにいるの?」
「……は?」
紺ちゃんは激しく首を振ったかと思うと、くるりと私たちに背を向け、ステージの上のトビオに叫んだ。
「真白ちゃん達は巻き込まない約束だったでしょ!? 私を連れて行くなら、早くして……っ! 2人を元の場所に戻して!」
ここまで取り乱した紺ちゃんを見たのは、これが初めてだった。両手を拳の形に握り込み、全身を震わせ、早く、早くとトビオを急かす。
蒼は大きく目を見開くと、苦しげに眉根を寄せた。
「そういうことか……くそっ!」
蒼は短く毒づき、私の肩を抱く手に力を込める。
このまま外に連れ出されてしまいそうで、怖かった。両足を踏ん張って、わめく紺ちゃんを食い入るように見つめる。
どうしよう。
みんなが何を言っているのか、本当に分からない。
巻き込まない約束って、なに?
蒼は、何を知ってるの?
それまで黙っていたトビオは、悠々とした身振りで唇の前に右手の人差し指を立てた。
「静かに」
それから、左手の指をパチンと鳴らす。
ステージの上のグランドピアノが、勝手にショパンの別れの曲を奏で始めた。それはゾッとするほど穏やかで美しい別れの曲だった。
「そう怒鳴られたら、せっかくの食事タイムが台無しじゃないか。マシロもほら。一人だけ置いてきぼりで、馬鹿みたいにキョトンとしてる」
「黙れ!」
怒鳴り声をあげ、私を背中に隠そうとする蒼の腕を振り払い、よろめきながら座席をすり抜ける。
「真白!」「真白ちゃん!?」
蒼と紺ちゃんの制止する声が、やけに遠くから聞こえる。
全身が燃えるように熱かった。
状況を掴めない間抜けな自分に、怒りを覚えていた。
「私にも分かるように説明して」
ステージの下まで来て、まっすぐにトビオを見上げる。
彼は嬉しそうに頷き、右手を軽く振った。
「いいよ。でもその前に、コンクールの結果を見てみようか」
その途端、無人の審査員席から採点用紙が舞い上がり、トビオの手元に飛んでくる。用紙をペラペラとめくり、彼は芝居がかった仕草で顎に手を当てた。
「マシロの評点は……25点中21点だって。4人の審査員が満点をつけたけど、理事長の評価点は1。ずいぶんあの子に恨まれてるね、マシロ。まあ、それでもギリギリ優勝だ。おめでとう!」
「紺ちゃんは?」
「分かってる癖に。『規定を満たしたエントリー曲を演奏しなかった場合、失格とみなす』って条項があるでしょ。もちろん、失格だよ。なかなか良い演奏だったけど、これはコンクールだからねぇ」
「……紺ちゃんは、どうなるの?」
これは前にも尋ねたことがある質問だ。
あの時は教えて貰えなかったけど、トビオは顔いっぱいに喜色を浮かべ、舌なめずりした。その表情で、最悪の答えが先に分かってしまう。
「ワタシとの賭けに勝つ為には、コンはこのコンクールで優勝しなきゃいけなかった。ブラームスさえ弾いていれば、トビーの根回しのお陰でコンの優勝は確定してたのに。そのことを、コンも知ってたのに。それなのに、わざと負けたんだよ」
体中の力が、抜けていく。
やっぱり学コンでの優勝が、紺ちゃんの命綱だったのか。
【学内コンクールで真白ちゃんと競えるのを、本当に楽しみにしています】
じゃあ、あの文面は?
あれは何だったの?
――私は、騙された?
紺ちゃんが普段通りに弾いていれば、勝てたんだ。
無意識のうちに右手が動き、ポケットの中のお守りに触れていた。
ちりめん生地のざらついた表面を撫でると、中に入れてある紺ちゃんからの手紙の文面がまざまざと蘇ってくる。
必ず、勝つと。学コンは私が勝つんだと。
あの時まではずっと、そう言ってたのに。
「紺ちゃんの受け取った嬉しい知らせというのは何? 途中で紺ちゃんは変わった。学コンでの勝ちにこだわらなくなった。それはどうして?」
「もうやめて! 里香、もうやめて!」
泣き叫ぶ紺ちゃんの声を無視して、トビオに更に問いかける。
どうしても本当のことが知りたかった。
「うんうん、それもいい質問だ」
トビオはもっともらしく頷き、にっこり微笑む。
「キミが、自由になったからだよ」
「……え?」
「最初の契約では、マシロ。キミの命も賭けの対象だった。命っていうのも、変か。一応は生きてたんだから。植物人間状態の向こうの世界のキミを助ける為に、コンはワタシとゲームを始めたんだ。その賭けからマシロが外れて自由になったと教えてあげたから、当初の目的は果たせたと思ったんじゃないのかな?」
蒼の推理は殆ど合っていた。
紺ちゃんは私を取り戻す為に、ボクメロ世界に転生してきた。
違うのは、向こうの私が死んでなかったこと。
いっそ死んでいれば良かったのかな。
下手に体だけ残ってしまったから、花ちゃんをここまで追い詰めたのかな。
「紺ちゃん。……私、こんなの嫌だよ。私のせいで紺ちゃんが死ぬなんて、そんなの嫌だよっ。身代わりになってなんて頼んでない! 頼んでないでしょ!?」
気づけば紺ちゃんに駆け寄り、彼女の肩を掴んで揺さぶっていた。
あまりにも頼りない、すっかり痩せこけた肩の感触が、私を激しく打ちのめした。
どうして紺ちゃんが勝ちを放棄したのか、分かった気がした。
この世界で一人きり、不安や孤独と戦っているうちに、紺ちゃんはどんどん疲れていったんだ。
長い間ピンと張られっぱなしの神経は、本人も気づかないうちに細く、細くなっていく。
花ちゃんは元々、そんなに強い人じゃなかった。嫌なこと、怖いことはつい後回しにしちゃうような、人なら当たり前の弱さを持っていた。
だけどこの世界では、どこまでも強く気を引き締め、揺るがず立ち続けなきゃいけなかった。
私の命が賭かっていたから。
私を救えたと確信した時、紺ちゃんの心はとうとう折れてしまったんだろう。
だけど――。
「花ちゃん、嫌だ……こんなの、嫌だよ。花ちゃんと同じくらい、私だって花ちゃんが大事なんだって、どうして思い出してくれなかったの? 私だって、花ちゃんを失いたくないよっ!」
このまま、諦めて見送るなんて出来ない。
泣きながら訴える私をぼんやり見ていた紺ちゃんは、虚ろな眼差しを空に向けて独り言のように呟いた。
「ごめんね。こんなの、おかしいよね。残される方がどんなに辛いか、私は知ってるのに。里香、泣かないで……こんな、こんな筈じゃ……」
ふらふらと後ずさりながら「こんな筈じゃなかった」とうわごとのように繰り返す紺ちゃんに、トビオは明るく声をかけた。
「そうだね。コンは致命的なミスを犯した。消えちゃうキミを見送らなきゃいけないマシロは、どうなると思う? 狂っちゃうかもしれないね! そうなったら、最高に楽しいよね~」
「あああああああっ!!」
紺ちゃんは苦しげに身を折り、獣のように吠えた。
喉が裂けそうなその声に、ビリビリと肌の表面が泡立つ。リピートで流れ続けている別れの曲を、紺ちゃんの常軌を逸した叫び声がかき消した。
「騙しやがって……っ!! 賭けに負けたら、私の存在は皆の記憶から消えるって言ったじゃないかっ!!」
「やめろ、玄田!!」
蒼が走り出し、紺ちゃんに手を伸ばそうとする。だけどその手は、間に合わなかった。
紺ちゃんは大声で叫ぶと、そのあとは聞くに耐えない汚い言葉でトビーを罵りながら、私たちを置いてステージへと駆け上がる。止める暇もなかった。
トビオはすっかり正気を失った紺ちゃんを眺め、哄笑した。
「アハハハ。これはいい! こんなに美味しい絶望は久しぶりだ。でも、ワタシへの憎悪が邪魔かな」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに汚した紺ちゃんが、両腕をしゃにむに振り回しながらトビオに向かっていく。ひょいひょいと拙い攻撃を軽やかなステップで躱していたトビオは、私と蒼をチラリと横目で見ると、紺ちゃんの胸元に手を伸ばした。
ズブリ。
ズブリ、ズブリ、と。
トビオの指先が紺ちゃんの胸に刺さっていく。
ゆっくりと、確実に、トビオの手が紺ちゃんの胸に飲み込まれていく。
金縛りにあったように立ち竦んだまま、私はその猟奇的な映像を視界におさめた。
脳が痺れたように重い。
どうしてそんなことするの?
そんなひどいことしないでよ。
だって、血が。こんちゃんの血が。
胸から、どんどん溢れて――。
「真白、見るな!」
蒼が叫んで、私の両目をその手で覆ってしまう。
私は蒼の手の甲に爪を立て、なんとか引き離そうともがいた。
「だめだ、真白!」
「やだ、離して! 花ちゃん……っ! 花ちゃんっ!!」
あんまり激しくもがいたせいで、自分の顔も引っ掻いてしまう。ぬるり、と指先が濡れ、眉の上辺りが熱くなった。
「真白!?」
出血に怯んだ蒼が、手を緩める。
激しく頭を振って、暗闇から抜け出した。
「ワタシは前にも言ったでしょ。嘘はつけないんだって。ねえ、コン。よく思い出して。キミとの会話で、さっきと同じことを聞かれた時、ワタシはこう言ったんだ。『そうだったね』って――。条件は変わったんだよ。マシロにはもう手出しが出来ない、とも教えてあげたのに。あ~あ。マシロは、全部覚えてるよ。キミが払った犠牲も、みじめな最期も全部。キミの最愛の妹がどこまで耐えられるか、見ものだなぁ」
やめて!!
大声で叫びながら、ステージにあがろうとする私を、蒼が羽交い締めにする。
紺ちゃんが、死んじゃうのに。
私のせいで、紺ちゃんが死んじゃうのに。
わたしが鈍くさかったせいで、花ちゃんはころされるのに。
「ねえ、コン。分かったでしょ? マシロが泣いてるのも、苦しんでるのも、ワタシのせいじゃない。それは他でもないキミ自身のせいなんだよ? ああ、なんて可哀想なんだろう! せっかく救えたと思ったのにねぇ。キミが消えたら、マシロもきっと死んじゃうねぇ」
「ああ……ああ……」
胸に穴を開けられても、諦めずトビーに殴りかかろうと動いていた紺ちゃんの手が、パタリ、と下に落ちる。
瞬間、ごふり、と嫌な音がして、紺ちゃんは赤黒い血の塊を口から吐き出した。
「くくっ……クハハハハハ……ああ、たまらない!! こんなにも甘いなんて! 待った甲斐があったよ、コン!!」
ピアノの自動演奏は、いつの間にかショパンの革命に変わっていた。
トビオは歓喜の雄叫びをあげ、グッと右腕に力を込めた。
彼女の痩せた背中が、じわじわとドス黒く染まり、制服の上着から赤い液体が滴り落ちる。
紺ちゃんはモズの早贄のような格好で、トビオの腕の先に、ぶらり、とぶら下がった。
――『やったあああ~! 会えた! 会えちゃったっ!!』
出会った頃の幼い紺ちゃん。
いつも私を気にかけてくれた紺ちゃん。
私に学コンで勝つために、一人ぼっちでウィーンへ留学した紺ちゃん。
去年の夏休み、私の腕に飛びついてきた紺ちゃん。
――『今、すごく幸せ』
心底満足そうに微笑んだ紺ちゃん。
幸せって、なんだ。
そんなのが、紺ちゃんの幸せなわけないだろう。
もっと、もっと色んな良い事がないと、おかしい。おかしい。
こんな風に踏みにじられていいわけがない。
こんな、こんな惨たらしい終わり方、私は、絶対に、認めない。
空間を切り裂くような甲高い叫び声が聞こえた。
その声は頭蓋骨の中を乱反射し、鼓膜を内側から殴打する。
ああ、うるさい。
じりじりと炙られる喉から、言葉にならない何かが漏れていく。
とめどない憎悪と呪詛が轟々と燃え盛り、全身を焼いた。
わたしの大事な紺ちゃんを。
花ちゃんをいじめる奴は、やっつけないと。
あいつをやっつけて、あの穴を塞ごう。
ちゃんと塞いで、包帯巻いて。
保健室。そうだよ、保健室に連れて行けばいい。
紺ちゃんを助けに行かなきゃいけないのに、何かに縛られたみたいに、身体がうまくうごかない。
「……しろっ。ましろ、しっかりしろ!」
水色の髪が揺れている。
この落ちてくる水滴は、涙?
この縛りつけてくるものは、腕?
「ダメだ、まだ諦めるな! 真白!」
蒼が泣きながら私を押さえつけていた。
あちこちが痛い。
どうしてこんなに痛いんだろう。ぼんやり思いを巡らし、首を持ち上げる。目の焦点は、近くにあった蒼の瞳と勝手に合った。
蒼の頬には、いくつもの引っかき傷が出来ている。
ゆら、と視線をずらすと、自分が床に這いつくばっていることが分かった。転んだ時に打ったのか、膝もお腹も、頬もジンジンする。
「真白、真白!!」
そんな必死な顔、初めて見たかも。
ぼんやりと自分がどこにいるのか思い出し、ついで紺ちゃんのことを思い出した。
肺が激しく痛み、息を吸うのが苦しい。
自分の胸にも穴が空いているんじゃないかと見下ろせば、ぐしゃぐしゃなだけで、綺麗なものだった。
守られていたからだ。
私だけずっと守られていたからだ。
「……うん」
「ああ、良かった……俺が分かる?」
「だいじょうぶ……分かるよ」
喉から血の味がして、うまく声が出ない。
蒼の手を借り立ち上がると、ステージにいたトビオが大きく手を叩いた。
「おお~、すごい! よく持ち直したね」
蒼は私の埃だらけの髪を撫で、ホッとしたように目元を和ませた。
真っ赤に腫れた眦がふにゃりと下がる。トビオの声なんてまるで耳に入ってないみたい。
「真白。聞いて」
「うん」
「まだチャンスはある。前にアイツは言った。自分の相手は真白だって。悔しいけど、俺は取引できない。真白だけが、出来ることなんだ」
トビオが現れる前、蒼が何に怯えたのかようやく分かった。
大丈夫。もう、大丈夫だよ。
目の前にいるのは、涙の跡も痛々しい、傷だらけでよれよれの男の人だ。
だけど眼差しは凛々しく、瞳には紛れもない希望が宿っている。もう震えてもいない。ただまっすぐ私だけを見つめている。
温かな炎が、私の胸の奥にも灯った。
蒼がくれた希望の灯り。
その炎はどこまでも明るく私の心を照らしていく。
つい今しがたまで胸を食い荒らしていた狂おしい程の憎しみと自責の念を、まだやれることがあると押しのけていく。
そうだよ。まだ、終わってない。
今度は私が、花ちゃんを守る番。取り返す番だ。
――絶対に、このまま死なせない。花ちゃんは、友衣くんのところに帰らなきゃ
「蒼、ありがとう」
「それは俺の台詞。ちゃんと戻ってきてくれて、ありがとう」
コクリと頷き、トビオへと向き直る。
「内緒話は終わった?」
トビオに悪びれる様子はない。
紺ちゃんの姿は、もうどこにもなかった。滴り落ちていた血も何もかも、痕跡全てが綺麗に消されている。ピアノももう、鳴ってない。
「コンの体は消滅しちゃった。あんまり美味しくて、がっつき過ぎたみたい」
トビオは恥ずかしげに頬を染め、それからトントン、と胸を親指で叩く。
「でもね。コンの魂はここにあるよ。あと何回か転生させて遊ぼうと思ってるんだぁ。もちろん、ワタシのシナリオ通りの人生にね。華麗に踊らせて、最後は全部取り上げる。天然ものより味は落ちるけど、養殖でもまあまあイケるし」
目の前はチカチカするし、膝はガクガクして蒼の支えがないとまっすぐに立てないし、頭は酸素不足なのか重く詰まって痛いくらいだけど、自分がやらなきゃいけないことだけはハッキリと見えていた。
「紺ちゃんを返して」
ざらついた声で、それでもはっきりと言い切る。
トビオは、待ち構えていたかのようにニンマリと口角を引き上げた。
「それは、取引?」
一度大きく深呼吸し、「うん。取引」と答える。
隣に立った蒼が私の右手を取り、励ますように握りこんだ。
「いいね。マシロの絶望も美味しそうだ。賭けの対象は?」
「竹下花香を元の世界に戻すこと。二度と彼女に関わらないこと」
「なるほど。対価は?」
「私の命も蒼の命も賭けない。それ以外なら、何でもいい」
正直、それじゃダメだと突っぱねられるだろうと思っていた。
ところがトビオは顔色ひとつ変えず、「ふぅん。本当にそれでいい?」と確認してくる。
急に不安になった。
だけど他に絶対取られたくないものを、とっさに思いつけない。
「待って、言い換える。誰の命も魂も、賭けない」
「それでいいよ。じゃあ、ワタシと新しいゲームをしようか、マシロ。今度のゲームには、ソウも特別に参加させてあげる」
トビオは両手を摺りあわせて、満面の笑みを浮かべた。
「キミたちのこれからの10年間を賭けてのゲームだよ。賭けに勝てば、マシロが代償を払ってハナカを取り戻せるし、その先どうするか決められる。負けたら、ハナカは取り戻せない。この世界に戻ってマシロが代償だけ払う。どう?」
「……10年が、代償なの?」
「そうとも言える。代償について明らかにはしない。でも、よく考えれば分かると思うな。10年たったら消えてるもの。その中で一番マシロが大切にしてるもの。消えたらソウも傷つくもの」
蒼の手に、力が篭る。
「面白いでしょ? ナゾナゾみたいで」
「もっと具体的に教えて貰わないと、契約できない」
必死に考えながら慎重に答えると、トビオは指を振って拒否してきた。
「代償は命や魂じゃない。キミの出した条件に合致してるから、これ以上は言わない。賭けの内容について説明するね。ルールはいたって簡単だ。キミたちには、断然有利なゲームじゃないかな?」
トビオの提示したゲームは、私たちの恋を試すものだった。
私と花ちゃんは、私がマンホールに落ちる前の元の世界へ戻される。
蒼はこの世界に残る。
別々の世界へ引き離されたまま、お互いへの想いに殉じて10年を凌げば、私たちの勝ちだという。
トビオの説明を聞き終え、私は真っ先に蒼を見上げた。
とてもじゃないけど、即決できなかった。
蒼への気持ちに自信がないからじゃない。
私の記憶は一旦封じられる、とトビオが言ったからだ。
つまり、10年もの長い時間、蒼だけが全てを覚えたまま、別離に耐えなければならない。
蒼は私の視線を受け止め、首を振った。
「それじゃこっちの分が悪すぎる。真白の記憶を封じるのなら、花香さんの安全は保証して貰わないと。当事者である真白が気づかないうちに賭けに負けて花香さんを失う、っていうのはフェアじゃないだろう? あんたが楽しみたいのは、俺たちの心変わりとその結果だ。花香さんは関係ない」
私が口を開く前に、トビオが「それもそうだね。取引は公平でなくちゃ」と答えてしまう。
「蒼、本当にいいの? 蒼だけに負荷がかかるって、分かってる?」
「かまわない」
蒼は一切の迷いを見せなかった。
トビオに向かって「賭けに乗った時点で、花香さんはあんたともこの賭けとも無関係になる。それでいい?」と念を押す。
「いいよ。さっきのご馳走に免じて、ハナカは完全に解放してあげる。……ねえ、マシロ。ワタシの機嫌がいいうちに、決断した方がいいよ。別のニンゲンと遊んでもいいのに、まだここにいてあげてるんだから」
さっきまではなかった苛立ちが、トビオの瞳を彩り始めている。「やっぱりやーめた」と突然言い出してもおかしくない雰囲気だ。
焦燥に急かされ、私は慌てて頷いた。
「待って! 分かった、私もそれでいい」
「そうこなくっちゃ」
トビオが嬉しそうに叫んだ瞬間、周りの空気が収縮し、歪な共鳴音を立てて現実が戻ってきた。
ハッと辺りを見回せば、同じ制服姿の生徒たちが思い思いに雑談している。
そうっと手を持ち上げる。
指先から柔らかく光り、粒子に変わっていく途中だった。
私の異変に気づいているのは、蒼だけだ。
蒼以外の誰の目にも、今の私は映っていない。
声を出そうとして、それも出来ないことに遅れて気づく。
蒼は、泣いていた。
大粒の涙をこぼしながら、それでも静かな眼差しで私が消えていくのを見守っていた。
蒼がこんなに強い人だと、私は思っていなかった。
苦しいのも淋しいのも、不安なのも罪悪感を感じるのも、蒼ひとりという酷い条件を、蒼が飲んでくれなければ、花ちゃんは取り戻せなかった。
ありがとう、は今は言わない。
10年後の私がきっと言うから。
だから、それまで――




