41.クリスマスコンサート
秋休みが明けて、しばらく経つ。
Aクラスの子だけが受けられる特別実習が終わったと思ったら、次はクリスマスコンサートだ。コンサートの出演者並びに演目が発表されると、途端に校内は楽器の音で満たされるようになった。
練習室を取れなかった生徒たちが休み時間、教室や廊下で練習し始めるから。
こういう時、持ち運べる小さな楽器の子はいいな~と羨ましく思いながら、隣の席の蒼を見ると、彼は上着のポケットから耳栓を取り出し耳に装着していた。
あらら。
蒼はそのまま鞄に手をかけ、世界史の年代暗記本を取り出した。長い指で赤いシートをずらしながら、マーカー部分をチェックし始める。
そういえば、もうすぐ塾で統一模試があるって言ってたっけ。頑張ってるんだなぁ。
真剣な横顔に胸が甘く疼いた。
キュンとしてる場合じゃない。私も勉強しようっと。
参考書を取り出し明日の分の予習を始めると、トイレから戻ってきた美登里ちゃんが私たちを見て、「げ」という顔をした。
クリスマスコンサートの出演者には、私も選ばれた。
ベートーヴェン三大ソナタの競演というお題目で、悲愴を富永先輩が、熱情を私が、月光を一年の男の子が弾くことになっている。
熱情は亜由美先生の十八番なので、亜由美先生の解釈に引っ張られすぎるのを防ぐため、氷見先生が全面的に見てくれている。
特に第三楽章の弾き方には、何度もダメ出しをくらってます。
氷見先生には「耳がいいのも考えものだな」と渋い顔をされた。自分では気付かなかったけど、まんま亜由美先生のコピー版になってるみたい。クレッシェンドをかけてからの溜め方とか、スタッカートの切り方とか。
亜由美先生の熱情って、ものすごく格好良いんだよ。何回CDを聴いたことか。真似でもいいじゃん、という気持ちも正直あったけど、氷見先生は妥協を許さなかった。
最近ようやく注意される箇所が減り、自分なりの熱情が弾けるようになってきている。低音部の和音が大げさすぎるきらいはあるけど、まあそれも味だろう、と氷見先生は眉間の皺をほどいてくれた。
蒼も、紅と一緒に協奏曲をやる予定。
ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲ですよ! そうブラームスの!
長いチェロの独奏が印象的なあの第一楽章の冒頭を思い出すだけで、テンションがあがってくる。あれを蒼が弾くんだよ。すごくない!?
合わせるのは、今回初めて学外から招くことになったヴェルデ・フレスコ・オーケストラだ。
メンバーは皆、錚錚たる経歴の持ち主ばかり。普段はそれぞれのオケでお仕事してるんだけど、時々有志で集まって好きな曲を演奏している。メンバーの多くが若手ということで話題性も高く、メディアにも出てるみたい。
指揮者の向井健太郎さんは、私が合わせたことのある野上さんと一緒に、世界的に有名な指揮者に師事してたことがあるんだって。コンクールの優勝経歴も同じだし、野上さんのライバルなのかも。
蒼は「好きに弾かせてくれるからやりやすい」と言っていた。
紅にも激励メールを送ったんだけど、「最初のとこ、ボーッと待ってなきゃいけないのが嫌だ」という返事が返ってきて、笑ってしまった。
格好つけな紅には辛い2分弱なんだろうなぁ。
どんな顔して座ってるか、当日じっくり見てやろうっと。
忙しいながらも充実した毎日を送っていたある日の放課後。
私は氷見先生と共に、理事長室へ呼び出された。
トビーは私と氷見先生を応接ソファーに座らせると、手づから紅茶を淹れてくれた。
じっとカップを睨んでたら先生に「遠慮しないで頂きなさい」と促される。遠慮じゃなくて警戒です。氷見先生がいなかったら、絶対に手をつけなかった。
異物混入の気配は、今のところない。ダージリンのオータムナルかな。ほのかな甘味にホッとする。
「ちょうどミルクを切らしててね。ストレートで良かった?」
「あ、はい。ありがとうございます」
今日の理事長は、サキソニー生地の二つボタンスーツを着ていた。袖口からちらりと覗くシャツのカフスボタンはネクタイと同系色の淡いブルー。それがまた、小憎らしいほど似合っている。
紅茶とスーツに気を取られちゃったけど、本題はここからだ。
何を言われてもいいように、軽く息を吸ってトビーの言葉に備えた。
「それで、わざわざ私まで呼んで、何の話ですか?」
「実は、今度のクリスマスコンサートなんですが」
氷見先生の問いかけに、トビーは薄く微笑んだ。
「曲目を変えて頂こうと思いまして」
「へっ!?」
黙ってようと思ったのに、素っ頓狂な声が口から飛び出てしまう。
叫んだ拍子に飲みかけの紅茶が気管に入り、盛大に咽た。すかさず氷見先生が背中をトントン叩いてくれました。うう……すみません。
「今になって? コンサートに照準を合わせ、このひと月、島尾はずっと同じ曲を練習してきてるんですよ。無茶を言わないで頂きたい!」
まだ咳き込んでいる私の代わりに怒ってくれたのは、氷見先生だ。
「僕に怒らないで下さい。向井さんが是非に、と仰って下さってるんです」
「というと、コンチェルトですか? 演目は?」
「チャイコフスキーの一番」
「こんな短期間で仕上げられる曲じゃない!」
「第一楽章だけでいいそうです」
何とか撤回させようとする氷見先生を見るトビーの眼差しは、いっそ冷ややかだった。
この目つきには見覚えがある。今回の曲目変更の裏には、何か、あるんだ。
「……もう決まったことなんですね?」
静かに口を開くと、氷見先生は驚愕の表情で私を振り返った。
「何を言って――」
「さすがはマシロ。僕をよく理解してくれていて嬉しいよ。そうだ、決定は覆らない。君の選択肢は二つ」
トビーは氷見先生の言葉を遮ると美しい手を持ち上げ、これみよがしに指を折る。
「一つ。みんなの前で無様なチャコフスキーを披露する。二つ。みんなの前で完璧なチャイコフスキーを披露する」
トビーの言動に我慢できなくなったのか、とうとう氷見先生は立ち上がった。
「あなたは島尾を潰す気ですか!?」
「いいえ、まさか」
いきりたった氷見先生に応じる様にトビーも席を立つ。
そして氷見先生に向かって「特待生である彼女に、大いに期待してるだけですよ。もちろん、氷見先生のご指導にも」と言い放った。
これ以上話すつもりはない、と言いたげにトビーは腕時計を確認し「次の予定がありますので」と私たちを部屋から追い出してしまう。
分厚い樫の両扉はかたく閉じられ、広い廊下にポツンと2人取り残された。
「……あんな子じゃなかったのに」
氷見先生がため息混じりに溢した言葉を、私は聞き逃さなかった。
「先生は理事長と、以前に面識が?」
「ああ。私が講師になったばかりの年、彼もここに入学してきたんだ。私は当時、音楽理論を受け持っていてね。素直で優しい生徒だったよ。ヴァイオリンの音も柔らかくて、私たちは皆、彼の将来を楽しみにしていた」
それはトビーではない別の人では? とちょっと思った。
ほら、随分昔の話だし、氷見先生の記憶違いとか。
「愚痴っててもしょうがないな。どうする、島尾。演目をソナタに戻すのは無理でも、コンサートを辞退する形でなら、なんとか手助け出来ると思うぞ」
「今日から、死ぬ気でやってみます。どうしても駄目だったら、一緒に恥をかいて下さい」
「お、男らしいな。そうか……、分かった。どうしても駄目そうなら、私が代わりに弾く。コンサートに穴をあけるよりマシだろう」
男らしいのは氷見先生の方ですよ! それに氷見先生のコンチェルトも聴いてみたい!
一瞬、キラリと瞳を輝かせた私を見て、氷見先生は眉を寄せた。
「最悪の場合、だぞ?……はぁ。無理難題を押し付けてくる理事長も、リスク覚悟で受けて立とうとする島尾も、私には理解不能だ」
トビーとひとまとめにされるなんて。
金づちで奥歯を叩かれたみたいな衝撃だ。
「私はあんなに性格悪くありません」
理事長室に入ってからというもの、ずっとこわい顔をしていた氷見先生は「いや、かなり似てると思う」とようやく笑顔を見せてくれた。そんな笑顔はいらない。
結果からいえば、私はなんとか間に合った。
でも本当にギリギリで、ヴェルデ・フレスコ・オケと合わせられたのは、前日の一回だけだった。
コンサートで、これはない。顔合わせすら、今日のリハが初めてだ。
指揮者の向井さんは、非常に機嫌が悪かった。
先に挨拶しておこうと控え室まで行ってみたものの、かすかに開いた扉の向こうから、向井さんの怒鳴り声が聞こえてきたので、持ち上げた右手は引っ込めた。さすがにこのタイミングでノックは出来ない。
「なんだよ、それ! じゃあ、あの子も被害者じゃねーか。ふざけやがって。こんな横槍、今回限りだって理事長さんによーく言っとけ!」
「多額の寄付をもらってる手前、一度は飲むしかなかったの。二度はないわ、約束する」
「……もういい。決めたのは俺だ。八つ当たりして、ごめん。ちょっと出てて、立て直すから」
「分かった」
中から出てきたのは、地味なパンツスーツにひっつめ髪の女の人だった。
細いフレームの眼鏡が印象的なお姉さんは私の顔を見ると、目を見開き、拝むように両手を合わせてきた。
「ごめんなさいね、今、ちょっと立て込んでて」
控え室から少し離れたところまで連れてこられ、小声で謝られる。
「いいえ。あの、挨拶しようと思っただけなんで、だいじょうぶです」
「島尾さん、よね?」
「はい」
こくりと頷くと、女性は名刺をくれた。
三輪さんっていうんだ。オケのマネージャーさんだったのか。
「オケの、っていうより向井のね。便利屋みたいなものよ」
まだ何も言っていないのに、先回りされた。
私の顔芸は、初対面の人にも有効らしい。
「今回のこれって、向井さんからの提案じゃなかったんですね」
「……山吹さんはあなたには、そう言ったの?」
更に目を丸くした三輪さんに「はい。しかもその話自体、聞かされたのは二週間前でした」と説明する。
さっきの向井さんの言葉と、三輪さんの表情で大体のことは分かった。
トビーが無理やり演目を変えたんだ。あのクソ狸め!
「あのクソ狸……」
びっくりした。
私の心の声が漏れたのかと思った。
三輪さんは銀縁の眼鏡のつるを押し上げ「やだ。あははは。――今のは聞かなかったことに」と再び拝む仕草をした。
「いえ、お気持ちお察しします」
私もペコリと頭を下げる。
「それにしても、二週間って。私は楽器を弾いたことがないから分からないけど、そんな簡単に弾けるようになるものじゃないわよね?」
「ええ……指が取れるかと思いました」
「取れちゃうんだ……」
三輪さんは痛ましげな表情で私を見つめた。
「頑張ってね。向井の態度が悪くても、大目に見てあげて下さい。先に野上さんからあなたの話を聞いていたからこそ、受けた部分も大きかったの。あなたがどうしても一緒に演りたいって言ってるって、山吹さんからは聞かされてて。それなのに、リハの予定がなかなか決まらないものだから、向井も苛々し始めて。ついさっき、あなたの先生から理由を聞かされて、私も驚いたわ。合わせたくても、合わせられる状態じゃなかったって」
そりゃ向井さんも怒るよね。
自分から無理やり頼んできた癖に、リハはやりたがらないって何様!? って感じだもん。
トビーめ! 一回、痛い目みればいいのに!
「あの、でも一生懸命がんばります。もしかしたら、昨日殆ど寝てないので、途中意識が飛ぶかもですけど、栄養ドリンクの一番高いやつ奮発して飲んできたので、大丈夫だと思います」
私なりに熱意と意気込みを伝えると、三輪さんはますます悲しげな顔になった。
いやいやいや。栄養ドリンクの効果を舐めたらいかんよ。ものすごく、効くよ?
「前言撤回。頑張らなくていいわ。無理しないで」
しまいには、そっと背中を撫でられてしまった。解せぬ。
声の印象からして、どんな暴君が出てくるのかと冷や冷やしたけど、舞台袖から姿をみせた向井さんは気さくそうな、ぼさぼさ髪のおじさんだった。
どことなく、ノボル先生に似ている。……身なりを構わないところとか。
「ひでぇ顔! おいおい、大丈夫か?」
よろしくお願いします、と頭をさげ、顔を上げると、向井さんは私の顔を見て真っ先にそう言った。
椅子に座っていたコンマスの水嶋さんが無言で立ち上がり、すたすたと歩いてくる。それから手にしていた進行表を丸め、スパーンと向井さんの頭をはたいた。
「向井さん? 挨拶は?」
「すんません。島尾さん、よろしくね」
気の置けない仲間同士で楽しくやってる日常風景が垣間見えて、思わずクスッと笑ってしまう。
「そうそう。リラーックス、だよ。島尾さん。一緒に楽しもうね」
「はい!」
元気よく返事をすると、場の雰囲気がふわりと緩むのが伝わってきた。
やがて聞こえてきた高らかなホルンの音色に、背筋がぞくぞくする。
やっぱり私は、この場所にいるのが好きだ。
トビーの挑戦を受けてたったのは、負けたくなかったから。だけどそれだけじゃない。再びコンチェルトを演奏できるチャンスを、心のどこかで歓迎していたからだと改めて認識した。
向井さんは最初の通し練習を終えると、しばらく黙り込み、それから言葉少なに練習番号を告げた。何度か入りの練習を繰り返したあと、「今日はもう終わり。ゆっくり休んで」と指揮棒を置く。
「あの、何か気になる部分があれば、言って下さい」
予定より短い時間で終わりそうなリハーサルに、私は不安を覚えた。
細かい部分でミスタッチがあったから?
それとも、ディナーミクのつけ方がおかしかった?
向井さんは私をじっとみつめ、不意に口元を緩めた。
そんな風に笑うと一気に若くなる。ぼさぼさ頭が勿体無い。あと、不精髭も。
「ぐっすり寝て、そのクマどうにかしてこいよ。そしたら、もっと良くなる。分かった?」
「……はい」
集中力が足りてなかったってことだろうか。
自分の中では渾身の出来だっただけに、しょんぼり感が増してしまう。
のろのろと楽譜を片付け、楽団の皆さんにペコリと一礼して舞台をはけた。
舞台袖で待ち構えていた氷見先生には「私の出番はないな」と言われた。氷見先生の隣に立っていた三輪さんは、なぜかボロ泣きしていた。泣くほど酷かったのかな……へこむ。
クリスマスコンサート当日は生憎の空模様だった。
学院を出発したマイクロバスは開場一時間前に芸術会館に到着。
クラス毎に分かれて乗り込んだそのバスから一歩外に出た途端、ツンと鼻が痛くなる。指先が痺れるほどの寒さに顔をしかめ、分厚い雲に目を向けた。今にも雪がちらつきそうだ。
後藤先生の引率でロビーに足を踏み入れると、一般の来場客から一斉に視線が注がれた。
「見て、青鸞の子たちよ」
「やっぱり素敵ねぇ。入学するの、すごく難しい学校なんでしょう?」
「高等部からは特に、って話よ」
ひそひそ話がくすぐったい。
羨望の眼差しの中、出演者は楽屋へ、それ以外の生徒はあらかじめ指定された座席エリアへと散っていく。学院生たちは授業の一環ということで、全員参加が義務なんです。
音響チェックやリハーサルは昨日のうちに終わっている。私たちはこれからステージ衣装に着替えるだけだ。控え室は基本、相部屋なんだけど、氷見先生が理事長にねじ込んでくれたおかげで、私には個室が与えられていた。
「真白。大丈夫?」
控え室の前までついてきてくれた蒼に、顔を覗き込まれる。
「うん、平気。昨日は久しぶりにぐっすり寝ちゃった。ここまで来たら、体調管理が最優先かなって」
「それで正解だと思う。真白の演奏、客席で聴いてるから」
蒼の励ましに、私はむう、と唇を引き結んだ。
「いいよね、蒼は聴けて。私も聴きたかったよ、蒼のコンチェルト。演奏順にもトビーが噛んでる気がする! そう思わない!?」
言ってるうちに段々腹がたってきた。
すっごく楽しみにしてたのに。これだけは許せない。
もっと私に余裕があれば、舞台袖で待機して聴くことも出来たけど、どこぞの狸のせいで時間ギリギリまで練習室にこもらないとヤバイんですよ。
亜由美先生がちょうどヨーロッパ遠征に行ってて良かった。じゃなきゃ「ミスタッチはもうしょうがない」なんて言う氷見先生と真っ向勝負になっていたはずだ。
「しょうがないよ。真白の演奏が、俺らのすぐ後なんだから。俺も着替えは後回しで客席行かなきゃ、間に合わない」
「うん……クリスマスコンサートって、録画されるんだよね?」
「ああ。学院のライブラリで見られるはず」
「じゃあ、それで我慢する」
自分に言い聞かせるように言うと、蒼は「下手な演奏できないな」と顔をしかめた。
うん、お互い恥ずかしくない演奏を頑張ろうね!
係りの人が呼びにくるまで、私は音を外しがちなフレーズばかりを繰り返し練習した。
体力を温存するため、通しで弾くことはしない。
集中していたので、自分の番がきた時には「え? もう?」と間抜けな声が出てしまったくらいだ。
傍についていてくれた氷見先生は、私の手のひらと指、そして肩を軽くマッサージし、最後にひとつ背中を叩いた。
「よし、行ってこい!」
「はい!」
ドレスの裾をたくし上げ、勢いをつけてステージへ乗り込んでいく。
ホールは満席だった。
コンサートなので、曲目はコールされない。蒼たちの演奏は素晴らしかったんだろう。客席にはまだ熱気が残っていて、暖かい拍手で迎えられた。
せっかくのクリスマスイブの予定を、このコンサートで埋めてくれたお客様への感謝の気持ちが湧いてきた。どうか楽しんで貰えますように。
水嶋さんに会釈し、昨日とは別人のように、きっちり髪を整えてきた向井さんと握手を交わす。
ああ、おしい。髭! 髭がちょっと残ってます! 私の残念そうな視線に気づくと、向井さんは自分の顎を片手で撫で、にやりと笑った。
どうだ、この髭、格好良いだろう、と目で自慢してくる。
向井さんのやんちゃな笑顔を見た途端、私までつられて笑ってしまい、いい感じに緊張が抜けた。全然似合ってないのも、また可笑しかった。
椅子に腰掛け、いつもの調整の儀式。
それから、大きく深呼吸して、向井さんに合図を送る。
チャイコフスキー作曲 ピアノ協奏曲第一番
体重を乗せて、最初の和音を叩き鳴らした。
それはまるで祝福の鐘のよう。軽やかに舞う指から生まれるピアノの音は、どこまでも甘美に立ちのぼっていく。負けじと響くオーケストラの音色と混じり合い、溶け合い、主題が浮かび上がってくる。
ドラマティックな和音、繊細なアルペジオ。
小学生の頃、そういえば、亜由美先生のチャイコフスキーを家族みんなで聴きにいったことがあった。
あの頃、ただただ遠かった光輝く場所に、今、私は立っている。
そのことが無性に誇らしく、疲れは一切感じなかった。
夢のような20分が終わってしまう。
まだ。
まだ、終わりたくない。
最後のカデンツァを優しく、囁くように奏でると、そこへ再びオーケストラが加わり第三主題が提示された。オクターブを刻むように乗せていき、最後の和音をしっかり押し込む。
腕をあげ、消えていく余韻を、目を瞑って味わった。
海鳴りみたいな音の正体は、沸き起こった盛大な拍手だった。安堵のあまり、全身の力が抜けていく。
亜由美先生が乗り移ってくれたのかも。だってこの曲をノーミスで弾けたのは、これが初めてだ。
満面の笑みを浮かべた向井さんに、恭しく手を取られ、力強く握られる。
「すっごく気持ちよかったよ。ありがとう」
「いえ……お礼を言うのは、私の方です。合わせて下さって、ありがとうございました」
舞台からちゃんと下がれたかどうかも、正直記憶にない。
意識は朦朧としていた。
昨日しっかり寝たはずなのに、二週間の不摂生がここにきて、一気に噴き出したみたい。
気づけば、控え室のソファーに寝転がっていた。
飛び起き、壁にかかった時計を見上げると、一時間が経過している。
うわぁ。一時間も、寝てたのか。
仮眠のお陰で頭重感が消え、だいぶ楽になった。
とりあえず、着替えなきゃ。
絨毯に足を下ろしたところで、扉をノックされる。
氷見先生か、蒼だろう。
「どうぞー」
呑気な声をあげ、立ち上がろうとした私の視界に飛び込んできたのは、ピンク色の髪をした綺麗な女の人だった。




