39.二年目の夏休み
進級して変わったことは、授業のカリキュラムが増えたことと後輩が出来たことくらいだった。
というのも、クラスや担当教諭はそのまま持ち上がりだから。
他の専攻の子はアンサンブルクラスで後輩と組むこともあるみたいだけど、独奏に特化してるピアノ科にはあんまり関係がない。選抜生徒で結成されている学内オーケストラと協奏曲を演奏することはあるみたいだけど、呼ばれるのは三年生が殆どらしい。
だけど尽くしで、一年目とさほど代わり映えしない私の日常は形成されている。
三年か。
「楽しみだな~、早く三年生になりたいな~」という前向きな気持ちに水を差すのは、やっぱり紺ちゃんと学内コンクールの存在だ。
時間を早送りできるのなら、えいっとリモコンのボタンを押したい。
そして学コンで起こることを全部、先に知りたい。
それから安心して現在に戻って、青春を謳歌したい。
「真白」
あれからトビオには一度も会ってないし、何だろう、この手詰まり感。
昨夜もらった紺ちゃんのメールは、夏休みの計画のことばかりで占められていた。私だって久しぶりに会えるの楽しみだし、一緒に遊びたいよ?
だけど、なんていうか……ああ、うまく言えない!
「真白!」
もうすぐ夏休み、という今のこの時期も悪いのかもしれない。
張り切って臨んだテストも全部終わって、燃え尽き症候群にかかっちゃってるのかもしれない。
放課後、帰り支度もそこそこに、まだ明るい窓の外をぼんやり眺めながら物思いに耽っていた私の鼻を、誰かがぎゅむ、とつまんできた。
「ふぁっ!?」
びくんと椅子から飛び上がりそうになる。
つままれた鼻を押さえて隣を見上げると、こわい顔の蒼が立っていた。
「また考えてただろ」
「な、なにを?」
「考えない、って俺と約束したこと」
「……ごめん」
改めて周りを見渡せば、教室に残っているのは私と蒼だけ。
美登里ちゃんは、フルート専攻の子達とテスト終了の打ち上げに行ったらしい。
「真白も、今日は早く帰らないと例の研究会があるんじゃなかった?」
「あ、そうだった!」
今日は水曜日。ロマンティック研究会の上映会のある日ですよ。
持ち回りの当番が私にも回ってきたので、先週の亜由美先生のレッスン帰り、レンタルビデオ屋さんに寄って借りてきた。
古典映画という縛りがなかなか難しい。有名どころは殆ど出尽くしちゃってるので、最近では80年代まで可という暗黙の了解が出来ている。
迷いに迷った挙句、海軍士官学校生と町工場で働く娘が恋をする映画に決めた。キャッチコピーにすれ違い系ロマンティックの匂いを察知したんです。
帰ったら、預かってる会費からジュースとお菓子を買いに行って、寮の多目的室を上映会用にセッティングしなきゃ。
「涼ちゃんとスーパーに行く約束してたんだった。蒼、ありがと」
「いいよ。結局、何を借りてきたの?」
「愛と青春の旅立ち。蒼は見たことある?」
「ないな。名前は聞いたことある」
「古い映画だもんね。私も初めて見るんだ。ちゃんとロマンティックだといいけど……」
映画を見終わった後は、みんなで感想を言い合う決まり。そこで重視されるのは、完成度の高さなんかじゃなくて『いかにロマンティックだったか』なので、有名な映画だからといって油断は出来ないんです。
映画に興味はあるけど見る機会自体ないという蒼と、次のデートは映画にしようか、なんて話をしながら外に出た。
冷房の効いた建物から一歩踏み出すと、日中の熱気の名残が一気に押し寄せてくる。
うるさいくらい鳴り響いていた蝉の声はやみ、夜に聞こえてくるクビキリギスの鳴き声はまだ聞こえない。夕暮れ時に訪れるほんのひとときの静寂に、黄昏色の空が映えている。
紫がかったグラデーションが夕焼けと入り混じり、なんとも言えない感傷を誘ってきた。
映画の内容は、一言でいっちゃうと『生い立ちのトラウマを克服する青年の成長物語』でした。
蒼とはまた違う屈折の仕方をしたヒーローに、見返りを求めないヒロインの一途な愛に、私はすっかり泣かされてしまった。
――俺には帰る場所なんてないんだ、かぁ。
安心できる居場所のない辛さは、私には分からない。
前世も今も、父さんと母さんががっちり私を守り育ててくれた。それが当たり前だと思ってた。だけど、悲しい話は世間には星の数ほどあって、私にはどうすることも出来ない。映画みたいに、現実も全部、ハッピーエンドになればいいのに。
成長ものということで星はひとつマイナスされたけど、私の借りてきた映画は無事「ロマンティック映画」に認定されました。正直ホッとした。
それにしても何かにつけ、蒼を連想するこの癖、どうにかしたい。
こんな感じで代わり映えのしない日常を、それでもそれなりに楽しんでいるうちに、夏休みに突入した。
ほとんどの三年生は、寮に残るみたい。
8月の最後に開催される寮祭の下準備で、6月くらいから忙しそうだった。ちなみに私と蒼は、音楽隊のメンバーになった。
今年の音楽劇は『カルメン』
ハバネラとか闘牛士の歌とか、劇中曲もすごく素敵なんだよね。
ピアノ譜もかなり大胆にアレンジされていて、作曲科の先輩方の意気込みが伝わってくる。
カルメンといえば、闘牛士と軍人さんですよ。
ほんのチョイ役でいいから、蒼にも参加して欲しかったな。蒼の軍服姿、見たかった! この間の映画からずっと、頭の中は蒼のコスプレ姿でいっぱいだ。
煩悩に溢れた要望を口にしてみたものの、蒼にはあっさり「やだよ」と断られた……うう。蒼のケチ!
「それを言うなら、俺だって真白のドレス姿見たかった」
「ジプシーのあの衣装、すっごい人気で倍率高かったんだよ。むりむり」
「そっか。でも今年の演目で良かった」
「どうして?」
「真白がカルメン役をするのは嫌だから」
なぜ私が主役になるの前提?
主役級は三年生が務める習わしだから、来年チャンスがないとは言えないけど、でも主役はないと思うな。
私の華のなさには定評がある。どこがどうだめなのか、紅に詳しく解説してもらったらいいのに。蒼の身びいきの強さは相変わらずだ。
「真白が男二人に取り合われる魔性の女の役するの、洒落になんないでしょ」
「……ここ、笑うとこ?」
「うん」
「じゃあ、遠慮なく」
魔性の女? ないわ~と噴き出した私の腰に右手を回し、蒼はグッと自分の方へ引き寄せた。流れる様に自然な仕草だったので、抵抗する暇もない。気づけば蒼の腕の中に囲われていた。
「俺がドン・ホセなら、エスカミーリョを先に殺す。覚えててね」
不穏すぎる台詞を耳元で囁き、蒼はついでとばかりに私の耳朶をはむっと噛んだ。
甘い痛みにぼうっとしたのも一瞬。
自分の置かれている状況を思い出し、真っ赤になった。
ここは、寮の外門前。
父さんのお迎えを待ってる私に、蒼が付き合っているという状況です。
「蒼!」
慌てて身をよじって蒼の腕から逃れ、念のため大きく距離を取った。
蒼は悠々とした手つきでジーンズの後ろポケットからスマホを取り出し、私に時計を見せると、「まだ大丈夫なのに」とイタズラっ子ような笑みを浮かべる。
父さんに目撃されなきゃセーフって話じゃないの! もう、ほんとに。
口ではぶつぶつ文句を言いながらも、頬を緩むのを止められないんだから、私も大概バカになっちゃってる。
蒼が好きで、蒼も私を好きで。
それだけで満たされてしまうほど、私たちはお互いしか見えていなかった。
いくら恋に夢中になってるとは言え、長年の習慣は抜けない。
綿密に立てた計画通りの夏休みを、私は粛々と送っている。
課題はもちろん、自主学習も欠かさない。ドイツ語の勉強も同時進行で、ピアノは言うまでもない。
遊ぶのは週末だけ、と頑なにスケジュールを守っている私を見て、お姉ちゃんは「真白はぶれないな~」としみじみ言った。
父さんは「今年は来ないのか?」としきりに蒼を気にしている。
「塾の夏期講習に通ってるから、平日は忙しいみたいだよ」と教えてあげると、ほほう、と感心したみたいに瞳をまたたかせた。
父さんは思ってることが全部顔に出る性分みたい。
小さい頃は気づかなかったけど、大きくなるにつれ、私は父似なんだなと思うことが増えた。
「また時間が出来たらお邪魔したいって、言ってた。いい?」
「父さんは別にいいよ。来たかったら来ていいし、別にどっちでもいいよ」
典型的ツンデレっ子みたいなことを言いながら、父さんは「いつ来れそうか」と更にそわそわ聞いてくる。
その場で蒼にメールすると、すぐに返事があって来週の金曜日の夕方ってことになった。
父さんは、新聞に視線を落としたまま「そうか」と言っただけだったけど、次の日の朝カレンダーを見てみると、蒼の来る日に赤い丸が書き込んであった。
去年まで蒼はうちにくる時はいつも、本当に礼儀正しく感じ良く、ほんの少しよそよそしかったのに、今年は少し慣れたのか、私以外にも人懐っこい笑顔をみせるようになっている。
父さんはそれが嬉しかったみたいで、夕食の後、「みんなでトランプしよう」と言い出した。
蒼が帰ってしまうのが、どうやら寂しいらしい。
「うちには、ほら、男の子がいないから」と台所でこっそり母さんは私に耳打ちした。
「はい。また俺の勝ちですね」
「蒼くん、ずるい!」
後半の台詞は、私のものではなく父のものだ。
ババ抜き、七並べ、ポーカーと、何をやってもことごとく蒼が勝ってしまう。
母さんとお姉ちゃんは「蒼くんは強いわね~」と呑気に構えているけど、私と父さんは悔しくてたまらず、何度も再戦を挑んだ。
あっという間に夜は更けていき、お姉ちゃんは抜けてお風呂に入りに行った。
「そろそろ送っていくわね」
母さんがよいしょ、と立ち上がると、カードを切っていた父さんが「ええ~」を顔をしかめる。
よくよく見てみれば、あぐらをかいた父さんの横には発泡酒の空き缶が3本、ちょこんと並んでいた。
「もう遅いし、泊まっていったらいいのに」
「そんなだらしないこと、蒼くんの親御さんに申し訳ないでしょ」
蒼は笑いながら「また今度ぜひ」と優しく父さんを宥めてくれた。
母さんの出してくれた車の後部座席に、二人並んでおさまる。移動中は、主に母さんと蒼が喋っていた。
夏期講習はどうか、とかそんな感じの話。
「父さんがごめんね。酔ってたんだよ」
車が城山邸の前に近づいてきたので、小さな声で蒼に謝ると、蒼は大きく息を吸って、「ううん」と首を振った。
「すごく嬉しかった。ましろのうちに行くと、めちゃくちゃ楽しくて、あっという間に時間が過ぎてくから」
そこまで言いかけ、車の窓の外へチラ、と視線を向ける。
「ここに帰るのが嫌になる」
苦笑とともに「おやすみ、真白」と言い残し、運転席の母さんに「ありがとうございました」と礼を述べて、蒼は車から降りた。
玄関の明かりだけを侘びしく灯らせた大きな邸宅が、蒼を飲み込んでいくのを、私はじっと見送った。




