38.さよならへのカウントダウン(side:玄田 紺)
楽しみにしていた夏休みがついにやってきた。
久しぶりの日本は、猛暑真っ只中みたい。機内アナウンスが告げる現地の天候と気温に、なんだかワクワクしてくる。
ウィーンより10度近く高いのね。
海水浴に行きたいな。小学生の頃、みんなで出かけたあの別荘に出かけるのはどうかな?
楽しい想像を巡らせながら空港へ降り立ち、水沢を伴った紅の出迎えを受ける。建物の中は当然だけど冷房が効いていて、まだ暑さを実感することは出来なかった。
「おかえり、紺」
「ただいま、紅」
顔を見合わせ挨拶を交わし、一拍おくれて、二人で微笑んだ。
兄と会うのは冬休み以来だ。
「フライトは快適だった?」
「ええ、とっても。ただ映画はあまり好みじゃなかったわ」
「それは残念。でもよく眠れたみたいだな。すっきりした顔してる」
以前会った時は、随分心配をかけてしまった。
かなり体重を減らし、目の下にドス黒いクマを作った私を見て、兄は絶句していた。
入学式の日、あの男に『バッドエンドは確定している』と囁かれてからというもの、眠りは私の味方ではなくなった。
私の目の前で暗い穴に吸い込まれていく里香の夢を、繰り返し見るようになった。
自分の悲鳴で目を覚ますたび、全身をチューブに繋がれたあの子の無残な姿が何度でも脳裏に蘇ってくる。トイレに駆け込み空っぽの胃をひっくり返しても、悪夢が止まることはない。
起きている時はひたすらピアノに向かった。
通訳を通して教授陣から受ける注意点を楽譜に書き込み、玄田の父が借りてくれたアパートへ戻る。どこにいても、一人ぼっちだと感じた。
薄い膜越しの世界は、ひどく遠くて、現実感に薄い。
通いの家政婦が用意してくれる服に機械的に袖を通す。ハンガーにコートがかかっているのを見て、ああ、冬になったのか、と思ったくらいだ。暑さ寒ささえ、自分では分からなくなっていた。
笑えなくなったし、泣かなくなった。
そんな私を、あの男は時々からかいにやってきた。
「ねえ、マシロはまた危機を回避したよ。今のところ、ことごとくフラグは折れてる。おめでとう!」
蒼くんルートの狂気エンドを思い出し、身震いする。
動揺を隠す為、短く頷いて視線を床に落とした。
蒼くんが彼女を酷い目に合わすはずがない、と自分に暗示をかけることで日々の不安を乗り切っているのが実情だ。
紅の一途さも、私の正気を保つよすがだった。
紅は、真白ちゃんを忘れていない。
もしかしたら一生、彼女だけを想い続けるのかもしれない。
それを可哀想だとは思わなかった。確かに苦しいかもしれないが、少なくとも空虚ではないはずだ。幼い頃から人生を諦めていた兄にとって、真白ちゃんへの恋は福音だった。新たな希望が見つかるまで、彼女は紅の中で燦然と輝き続けるだろう。
万が一蒼くんに危険な予兆が現れれば、兄がきっと動いてくれる。真白ちゃんを守ってくれる。
「話がそれだけなら、もう行って」
「はーい、今日もごちそうさま。また来るね! 今度はよく眠れる薬でも持ってきてあげようか? ヒドイ顔だよ」
「いらないわ。そのまま目覚めなかったら困るから」
金髪碧眼の大天使のような見た目の男は、自分の目の前で指を振ってみせた。
「チッチッチッ。キミはまだ分かってないの? ワタシが望んでいるのは『死』なんかじゃない。『絶望』だよ。キミが死んじゃったり、狂ったりしたら、骨折り損だ」
だから頑張って! といっそ親身に私を励まし、男はふつりと消えた。
体中を支配していた緊張と怒りが抜けると、それ以上立っていられなくなる。
二、三歩たたらを踏み、後ろにあったソファーに倒れ込んでしまった。
そのまま、ぼんやりクッションの縫い目を眺める。
焦燥と恐怖は、もはや私の親友だった。
上手に飼い慣らし、闘志へと変えていく。
「負けない。絶対に。……絶対に!」
口の中で繰り返し、自分を鼓舞しながら立ち上がり。
グランドピアノへと足を進め、背筋を伸ばして椅子に腰掛ける。
鍵盤に向かっている間だけ、私は正しいことをしている、と信じられた。
狂気と隣り合わせの孤独な日々に終止符を打ったのは、悔しいけれど、あの男だ。
その日はバレンタインだったらしく、男はどうやって手に入れたのかチョコレートを携えやってきた。
「ハッピーバレンタイン! 今日はワタシの大事なコンに、いい知らせがあるよ」
無理やり手に箱を握らせ、男はキラキラと輝く碧い瞳で私を覗き込んでくる。
「ということは、悪い知らせね?」
真白ちゃんに何かあったのかも、と思い当たり、声が掠れた。
息が上手く吸えなくなる。
短く呼吸を繰り返す私の前に立ち、男はにんまり笑いながら、その長い爪を私の胸に突き立てた。
心臓が絞り上げられるような鋭い痛みに身を折りそうになるが、髪の毛を掴まれ、まっすぐに立たされる。腰に回された手を振り払うことも出来ず、私はただ、男の腕の中でずぶずぶと貫かれた。
「ああああああああっ!!」
たまらず口から絶叫が漏れる。
「うーん。いい声。興奮しちゃうなぁ」
舌なめずりしながら、男はうっとりと目を閉じる。
こんな風な『食事』は、契約を交わした時以来だった。
何かあったのだろうか。
愉悦に浸っているようだが、明らかに普段とはちがう。怒りに似た炎が、彼の瞳の奥には灯っている。
脂汗をじっとりとかきながら、私は口角を持ち上げてみせた。
「どう、したの? やけに、機嫌が、わるいの、ね」
男はその言葉を聞くと、眉根を寄せた。
「姉妹揃って、ムカつくなぁ」と吐き捨てて胸から指を抜くと、私をゴミのように放り投げる。スプリングのきいたベッドの上で、私は人形のように跳ねた。
「まあ、いいや。今日は愛を囁く日らしいからね。キミにとっておきのプレゼントをあげる」
何事もなかったように真っさらなブラウスの胸元を握り締め、男を睨み返す。
警戒心を剥き出しにする私にむかって、男はにっこり微笑みかけた。
「賭けの質から、マシロが外れたよ。ワタシはあの子に完全に手出しが出来なくなった」
「――うそ」
「残念だけど、嘘はつけないんだ。ワタシは嘘とは相容れなくてね。つきたくてもつけないんだよ」
男は悲しげに瞳を伏せ、わざとらしく肩を落としてみせる。
「そうなの? 本当に?」
「言わないことはもちろん、あるよ。だけど嘘は今まで一度もついたことがない」
「契約に誓って、今の話は本当?」
「契約に誓って、本当だよ。マシロは、ワタシとキミの賭けから切り離された。ワタシはキミ一人で満足しなきゃいけなくなった。ものすごーく、損をした。だから、さっきはちょっとヒドくしちゃった。ごめんね?」
男の言葉と先ほどの振る舞いに齟齬はないように思える。
私はベッドから体を起こし、縋るように男を見つめた。
「真白ちゃんはどうなるの?」
「本人が望むままに。この世界で生きていってもいいし、向こうに帰ってもいい。ただ、向こうに帰るのなら条件がある。その条件については、今は言わない。どうしてこうなったかも、説明したくない」
聞きたいことは山ほどあったが、言わない、というのなら今は何を尋ねても無駄だろう。
じわじわと男の言葉が脳内に染み込んでくる。
真白ちゃんは、生きられるの?
私はあの子を、取り戻せたの?
里香――!!
この一年近く、ついぞ溢れなかった熱い涙が、次から次へと湧いてくる。
みっともなく嗚咽を漏らしながら泣き出した私を見て、男は呆れたように眉を上げた。
「……そんなに嬉しいの」
「うれしいよ。やった……やった!」
「キミの未来は、まだ不確定なのに? 学内コンクールで優勝できなければ、キミはワタシの餌になるんだよ? 簡単に死ねるとは思わないでね。キミの魂が磨り減っていくのを、ずっと愛でてあげる。絶望で消滅するその日まで」
「最初からそういう契約だもん。賭けに負けたら、玄田紺という存在はこの世界から消える。そういう約束だったよね?」
「ああ」
「みんなの記憶からも全部消える。私のことは、誰ひとり覚えていない。そうだよね?」
「そうだったね」
「ならいいの」
どうでもいいけど話し方が元に戻ってる、と男は不服げに指摘してきた。
それから「自己犠牲ってやつ? まあ、いいや。そっちの方がうんと面白くなるし」と独りごち、いつもと同じように突然姿をかき消した。
ベッドに仰向けに寝転び、私は目を閉じて、深い満足を隅から隅まで味わった。
自己犠牲なんてものじゃない。そんな綺麗な話じゃない。
これはただの自己満足。
最初から最後まで、私だけのエゴで完結してる話。
里香は、あのままひっそり逝きたかったかもしれない。間に合わなかった自分を、そして里香を奪う世界を、私が許せなかっただけだ。
あの子に生きて欲しかっただけだ。
その夜から、悪夢は見なくなった。
「お嬢様。荷物をお持ちします」
紅の少し後ろに控えていた水沢の申し出に甘え、カートを預ける。
「成田の家に寄ってくれるんだろう? 父さんがお前の顔を見るんだって、朝、張り切ってたぞ」
「ええ。夜は玄田の家に戻らなきゃいけないけど、父さんが帰ってくるまではいるわ」
気分が高揚するのを止められない。
家族に会うのも楽しみだし、真白ちゃんや美登里ちゃん、亜由美先生に会うのも待ちきれない。早くみんなに会いたい。
ネットに上がっていた真白ちゃんの協奏曲を聞き、確信した。
私に残された時間は、そう長くない。
だけど、それがなんだと言うのだろう。
最大の目的を果たした今となっては、全てが余生だ。




