37.二年目
紅と二人きりになったのは、結局バレンタインのあの日だけ。
千載一遇の機会を逃し落ち込んだ私を、蒼は容赦なく尋問してきた。
紅がどんな様子だったか、何を言われたか、何をされたか。
疲れた様子だった、蒼に悪いから帰るって言ってた、私が全く見えない位置に座り込み、いつの間にか帰ってた、と正直に答える。
蒼はじっと俯いて考え込み、それから「ほんっと、馬鹿だな」と言った。
その通りだったので「すみません」と謝っておいた。
蒼は何かを言いかけようとしたけど、一度口を噤み、再び私を見つめて「同情はするけど、俺は絶対に譲らないから」と宣言した。
本当に迂闊だった。反省してるので、追撃するのはやめてください。
紅から紺ちゃんに話はしてくれたみたいで、春休みに一度だけ彼女からメールが届いた。
『紅から聞いたよ。いろいろ心配させてごめんね。でも、もう大丈夫。最近、とてもいいニュースを耳にしました。嬉しくて嬉しくて、どうにかなってしまいそうなくらいです。シロヤマのコンクール優勝、おめでとう。今なら素直に祝福出来る。真白ちゃん、すごいね! 頑張ったんだね! 私も毎日頑張っています。ようやくピアノにまっすぐ向き合えるようになって、ちょっと変な感覚ですが、自分で思っていた以上に、私はピアノが好きみたい。学内コンクールで真白ちゃんと競えるのを、本当に楽しみにしています。夏休みには一度、日本に戻るつもりです。その時にまた、会えたらいいな』
何度もメールを読み返す。
紺ちゃんの浮き立った気持ちが直に伝わってくるような文章だった。あちこちにハートマークや音符マークが舞っている。
だけど私は、釈然としなかった。
とてもいいニュース、というのが気になって仕方ない。「今なら」「ようやく」という言葉にも引っ掛かる。
紅に電話をかけ、何か慶事があったのか聞いてみたけど「いや。家族関係では特になにも」という返事だった。
「紺ちゃんがすごくいいことあったって。今までと全然ちがう雰囲気のメールがきたし、ちょっと気になって」
明かせない部分は伏せ、正直な思いだけを打ち明ける。
――『一年経ったし、向こうで親しい友人でも出来たんじゃないか? 夏休みに帰省する話は聞いた?』
「うん。会えたらいいね、って」
――『会って直接聞いてみたらいい。それまでに何かあったら教える』
「……分かった。お休みの日にごめんね」
電話を切って、ベッドの上に仰向けに倒れこむ。しばらく天井を睨みつけた後、うつ伏せになってべっちんのちんまりとした両手を握った。ふわふわの手触りにも心は晴れない。
「紺ちゃん、急にどうしたんだろうね……どう思う? べっちん」
物言わぬべっちんの黒いつぶらなボタンを見上げる。
しばらく待ってみたけど、やっぱり前みたいな変な電波は受信できなかった。
「考えすぎかなぁ」
勢いよく跳ね起き、クローゼットに吊るしてある制服のポケットから紺ちゃんの手紙を取り出す。
もともとヨレヨレだった便箋は、何度も広げて読み返したせいで、折り目から破けそうになっている。
そこに綴られた文字からは、鬼気迫るような決心が伝わってきた。決して「競うのを楽しみに」なんていう明るいものじゃない。学内コンクールで勝つのは私だ、と紺ちゃんは勝利宣言さえしていた。
契約の条件が、変わった?
……近い気がするのに、契約内容を知らないから、それ以上の推察が出来ない。
トビオのことさえなければ、私だって純粋に「良かったね。いいニュースって何?」って紺ちゃんに直接聞けたのに。
迂闊なことを聞いて、紺ちゃんを危険にさらすことは出来ない。かといって、紺ちゃんのいきなりの変貌を素直に喜ぶことも出来ない。
「ああ、もうっ。わっかんないよ!」
手紙を握り締めると、とうとう真ん中からちぎれてしまった。慌てて手を広げる。
私の手の中からヒラリこぼれた白い便箋は、二つに分かれ、無残に落ちた。
蒼は進路を見据え、塾の春期講習に通っている。
学院のカリキュラムはどうしても音楽に偏っているから、自主的に勉強しないと一般の大学を受けるのが難しくなってしまうのだ。
すっかり精神的にも安定し、迷わず自分の道を行こうと頑張っている蒼の邪魔をするのは嫌だった。
夏休みに紺ちゃんが帰国することだけ伝えておこう。
どっちにしろ、蒼は私に学内コンクールに出て欲しいと望んでるはず。蒼パパの出した条件をクリアする為にも、奨学生としての義務を果たす為にも、紺ちゃんとの直接対決は避けられない。
そうだ。
今更、どうにも出来ないんだ。
ようやく気持ちの整理がつき、『私も紺ちゃんと一緒のコンクールに出られるの、すごく楽しみです。夏休みはできるだけ沢山遊ぼうね!』とメールを打った。
送信ボタンを押したあと、携帯を握り締め、カレンダーの前に立つ。
学内コンクールまで、残り一年半。
信じていいんだよね? 紺ちゃん。
私たちの未来は拓けてるって。
胸の底にひっそりと沈んだ疑惑を振り払おうと、続き部屋のドアを開ける。
練習しよう。
ピアノに向かい、鍵盤と楽譜に没頭している間だけは、どんな柵からも思惑からも、私は自由だった。
二年に進級し、私にも後輩が出来た。
寮に入ってきた初々しい一年生たちには、なぜか名前を知られてて「ファンです! これからも頑張ってください」と挨拶してくる子までいた。
コンクールに出たからかな? なんだか面映ゆいけど、悪い気はしない。
私が先輩たちにしてもらったみたいに、色んな面でサポートしてあげたいな。とりあえず、リラックスグッズは買い置きしとこう。定期テストの過去問も整理しとかなきゃ。
蒼については、下級生から人気が出て大変だろうな……嫌だな……とうじうじ考えていたけど、彼のモテ歴の長さを正直舐めていた。
蒼は外部入学組に与える自分の印象を正しく予想し、更に先手を打った。
新入生が真新しい制服を着てやってきた初日の食堂で、蒼は甲斐甲斐しく私の世話を焼き、「かわいい」「好き」を連発したのだ。
正直、やり過ぎなくらいの過剰な愛情表現に、私は逃げ出したくてたまらなくなった。
「蒼、もうやめて」
「泣きそうな顔もたまんない。さっきから俺は、本当のことしか言ってないよ」
「そういうのも駄目!」
「今はってこと? 二人きりの時は、もっと素直だし大胆なのに」
「うわああああ!!」
これ以上は勘弁してください!
テーブルに突っ伏す私を、同級生や先輩は気の毒そうに見つめ、新入生はとにかく唖然としていた。
「おいおい、そこまでにしとかねーと彼女に逃げられんぞ」
苦笑を浮かべたタクミ先輩がやってきて、空っぽのトレイで蒼の頭を叩こうとする。
蒼は難なくその手を振り払い、聞えよがしに言い放った。
「加減はしてます。いちいち相手にするのは面倒なんですよ。真白に何かされてからじゃ遅いし」
「――だって、聞こえた? この鬼畜野郎に一目惚れした可哀想な一年は、俺に乗り換えるように!」
タクミ先輩が周りに聞こえるような大きな声で言うと、みんながドッと笑った。だけど中にはそれに加わらず、泣きそうな顔になった女の子も何人かはいて、胸の奥がズキンと痛んだ。
タクミ先輩が言ったみたいに「可哀想」と思ったわけじゃない。
また一年分大人へと近づいた蒼は、惚れた欲目抜きに観察しても、ものすごく魅力的な男の子だ。
整った顔の造作や、すらりと伸びた手足を誇る抜群のスタイルなんかももちろんだけど、それだけじゃない。
蒼にはどこか投げやりなところがある。自分をそこまで重視してない、大事にしてない感じ。そんな危うい空気が、女の子の持つ母性本能を絶妙に刺激する。
普段は無表情に近い蒼が時折みせる、あどけない笑みや人懐っこい仕草に、ハートを射抜かれてしまう子は沢山いるんじゃないだろうか。
嫌だ。誰も、蒼を好きにならないで。
抑えようとしても顔を出す、醜い独占欲が鬱陶しい。
たまらず再びテーブルに突っ伏す私の頭を、蒼は優しく撫でた。




