34.幸せの始まり
ふわりと意識が浮上し、無意識のうちに瞼を擦る。
まだ薄暗い部屋の見慣れない天井に、あ、と気づいた。
寮の自室じゃない。昨日は、蒼の家にお泊りしたんだった。
体のすぐ脇に感じる温もりに視線を向けると、そこにはすやすやと眠り込んでいる蒼がいた。横向きになって、私を抱え込んでいる。
体勢を変えて蒼の方を向き、目元にかかっているサラサラの髪をそっとかき分け、あらわになった顔をじっくり眺めてみた。
睫毛長いな。眉の形も綺麗だし。無駄毛とか生えてこないのかな。
涼しげに整った完璧な造作が、ほんの少しだけ開いた唇であどけなく崩され、母性本能を激しく刺激してくる。
生殖に結びつかない身体の繋がりに何の意味があるんだろう、なんてどこかで思っていた頭でっかちの私を、蒼は粉々に砕いた。ひたむきに必死に、ただ私を求めてきた蒼を思い出すと、鼻の奥がツンと痛くなる。
不安なことは沢山ある。
あれから一度も遭遇していないトビオ(仮)。
実はとっくに壊れているかもしれない私が見た幻覚なのか。それとも蒼が言うように紺ちゃんの取引相手なのか。正体不明なままのトビオは、いつも心のどこかに居座っている。
それに、紺ちゃん。
学内コンクールでの優勝にこだわっている彼女の意図は分からないままだ。
手紙はまた、私からの一方通行になっている。紅から近況を聞き出そうにも、彼は今、うかつに近づけない人になっちゃっている。
八方塞がりの現状で、自分に出来ることなんて限られていた。奨学生としての責務を果たし、ピアノの腕を磨くしかない。
そう自分に言い聞かせる毎日だけど、それでも時々本当にこれでいいのか分からなくなった。
迷って立ち止まり、座り込みそうになる私の腕を、掴んで立たせてくれる人。
それが蒼だった。
愛を口にし、心も体も隙間なく重ねることで、今まで誰にも明け渡したことのない特別な場所に、蒼はすっぽり収まってしまった。恋情の上限は解放されてしまった。
震えるほどの多幸感と同時に、言い知れない恐怖が襲ってくる。
終わりがきたら、どうしたらいいんだろう。
蒼がいなくなったら、私の心はどうなってしまうんだろう。違う誰かをまた好きになれると信じていた自分は、口を噤んで私から目を逸らした。
きつく目を閉じ、蒼の硬い身体に抱きつく。
寝ぼけながらも、蒼は私の背中をよしよし、と撫でてくれた。
そのまま私のパジャマの裾をきゅっと掴み、深々と息を漏らす。何度か目を開けようと頑張ったみたいだけど、睡魔には勝てず、そのまま再び眠り込んでしまう。
――ずっと一緒にいたい。どんなことがあっても、離れたくない。
馬鹿みたいな感傷が波のように私を翻弄した。
「どこもかしこも柔らかくて気持ち良かったから、寝過ごした」というのが、蒼の寝坊の言い訳でした。
人をふかふかの抱き枕みたいに言わないで欲しい。
美恵さんは夕方になるまで出勤してこないし、他のお手伝いさんたちも同じというので、遅い朝食は私が作ることにした。
「ハムエッグとコンソメスープでいい? スクランブルエッグにしてもいいし。あ、もしかして和食の方が良かったりする?」
セーターとジーンズに着替え、ピカピカのキッチンに立った私を見て、蒼は目元を片手で押さえながら天を仰いだ。
「蒼? 大丈夫?」
「全然、大丈夫じゃない。どうしよう。なに、これ夢? ぎゅってしていい?」
「先にご飯食べてからでお願いします」
大げさな蒼の反応に満更でもない気持ちになりながら、冷蔵庫からハムとソーセージ、それからキャベツを取り出す。
寮での朝食はパンを選ぶことが多い蒼だ。さっきのメニューでいいよね。
「勝手に食材使っちゃうの、美恵さんに謝っといてね。使ったもの、メモして残しておいた方がいいかな」
「いや、いいと思う。っていうか、俺がやらなきゃいけないのに」
「一応聞くけど、蒼って料理できるの?」
「……パンを焼いたことはある」
「じゃあ、パンを焼いてください。あと、飲み物お願いしていい?」
「うん!」
タートルネックのセーターに大きめのパーカーを羽織り、コーデュロイのカーゴパンツを履いた蒼のくつろぎお家スタイルを横目でチラ見しながら、具材を刻む。
どんな格好でも似合うなぁ。これ、毎回言ってるっけ。
顔を洗った時にちょっと前髪が濡れたみたいで、それを無造作にかきあげる仕草にもキュンとくる。
お休みの朝を一緒に過ごせるなんて、蒼じゃないけど夢みたいだ。
「もう出来たの? 手馴れてるんだな。お菓子作りが上手いのは知ってたけど、すごい」
「これくらい、誰でもできるよ。家にいる時は台所の手伝いも結構してたし」
ハムエッグ。レタスとトマトのサラダ。キャベツとソーセージのコンソメスープ。
ものすごく簡単な朝食になったけど、蒼は大げさなくらい褒めてくれた。
蒼の淹れてくれたカフェオレと、ちょうどいい焦げ目のついたパンを居間のテーブルに並べ、顔を見合わせる。いただきますを同時に言って、お互いに照れ笑い。
蒼の口の端についたパンくずを取って、ぱくっと食べると、しかめっ面になった蒼から「煽るの禁止」と注意された。
たわいもない話で盛り上がりながら完食し、一緒に洗い物をした。
立派すぎるくらい立派な食器洗い機の使い方が、二人共分からなかったからだ。
「もう11時になるし、お昼ご飯はパスして、どこかでお茶してから寮に帰ろっか。運転手さんに待っててもらうのも悪いし、バスと電車で帰らない?」
「真白がそれでいいなら。……あー、でも帰りたくない。っていうか、帰したくない」
洗い物が終わった後、台所で蒼に優しく抱きしめられる。
背中に手を回し、胸元に頬をくっつけて「こんなに一緒にいると、離れるのが寂しくなっちゃうね」と同意した。
「真白も?」
どうしてそんなに驚いた顔をするんだろう。
わりと当たり前な感情だと思うんだけど。
きょとんと首をかしげた私の両耳に骨ばった手を当て、耳を塞ぎながら蒼は触れるだけのキスをしてくる。
「 」
唇のすぐ近くで蒼が何かを囁いた気がしたけど、何を言ったかまでは聞き取れなかった。
荷物をまとめ、昨夜蒼から貰ったイヤリングを耳につける。
ハートモチーフでアクセントにキラキラ輝く透明な石がついたやつ。……ジルコニアだよね? 誰か私を安心させて下さい。
ちなみに箱はブランド名のないシンプルなもので、包装紙はなく手触りのいい高そうなリボンが巻いてあっただけ。証拠隠滅しようとした結果こうなったんじゃないのかな、って疑ってる。
高かったんじゃないの? って直接蒼を問い詰めてみたんだけど、キスで言葉の先を遮られてしまったんです。
攻略キャラの看板は伊達じゃない。やることなすこと、日本の男子高校生の規格からは大きくかけ離れてると思う。
そこからうやむやになだれ込んでしまったので、結局私が準備したプレゼントは渡せなかった。
玄関を出るところで、ボストンバッグから少しよれてしまった紙袋を取り出し、「遅くなりましたが」と手渡す。
「え……もしかして」
「うん、私からのクリスマスプレゼントだよ。ホントは昨日渡したかったんだけどね」
蒼は無言で袋を開け、中からマフラーを取り出した。
ソフトメリノで編んだカノコ編みのボーダーマフラーです。ベージュと水色、濃紺の三色を幅違いで編んである。もっと時間があったら、手袋とか、それこそセーターとかね。挑戦してみたかったなぁ。
「これ、真白が編んでくれたの?」
「うん。簡単なやつで悪いけど、心だけは込めたから。あと網目もばっちり揃えたから」
売り物並みのクオリティになったと自負しております。
得意げな私の顔を見て、蒼は眉間に皺を寄せた。
……あれ?
気に入らなかったの、かな。
確かに蒼がくれたイヤリングに比べたら、安い贈り物かも。
「ごめ――」
謝ろうと口を開いた途端、蒼に引き寄せられた。
コートの上から息苦しいほどの強さで抱きしめられる。
こんな風に力いっぱい抱き締められたのは初めてで、私は浅く呼吸を繰り返しながら目を丸くした。腰がサバ折りされそう。ボキっといきそう。
「蒼……く、苦しいよ」
「ましろ」
ようやく蒼の腕の力が緩む。
顔を見られたくないのか、私の肩におでこをくっつけたまま、蒼は何度も私の名前を呼んだ。
えーと。
これは喜んでる、でいいんだよね?
何とか宥めようと、まっすぐな髪を撫でてみる。
「ありがとう。真白が俺にしてくれたこと全部、絶対忘れないから」
ようやく顔をあげた蒼は瞳を潤ませ、掠れた声で約束してくれた。
まるでさよならが決まってるみたいなその言い方に、熾火になっていた不安が再びかきたてられた。
「そんな言い方しないで。淋しくなるよ」
「うん、もう言わない」
蒼は紙袋を丁寧に畳んで玄関に置き、さっそくマフラーを広げた。
首にぐるっと巻きつけ、茶目っ気たっぷりな言い方で似合うかどうか聞いてくる。鏡も見ずに、無造作に巻いただけなのに、雑誌のモデルさんみたいに決まっていた。
「すっごく似合ってる!」
「大事に使うよ。本当にありがとう」
行こう、と手を差し出される。
飛びつくように蒼の手を握り、玄関の扉が開くのを待つ。
差し込んできた眩しい陽の光に目を細め、このまま何もかもきっと上手くいくと自分に強く暗示をかけた。




