33.クリスマスデート
12月に入ったくらいから、コートなしでの登下校が厳しくなってきた。
お昼ご飯を食べに行く時もいったん外に出なきゃいけないし、建物の中の暖かさとの格差がつらい。
青鸞学院では、生徒の持つスクールバッグから靴下に至るまで、学院指定のものを購入する決まり。
コートも例に漏れず、学院指定のデパートに行って誂えなきゃいけなかった。
コンクールが終わってすぐの放課後、母さんと待ち合わせて買いに行きましたよ。
蒼や美登里ちゃんが「見てて寒い!」ってわあわあ言うんだもん。下校中、蒼のコートを着せられたこともある。袖はぶかぶかだわ、裾は長すぎるわで、すぐ返したけど。
蒼ってば、いつの間にこんなに大きくなったんだろう。
このままマフラーとカーディガンで乗り切ろうかと思ってたんだけど、母さんにも「早く買いに行こう」と急かされた。
私が買い渋るのには理由があって、制服は奨学生制度から無料で貰えたけど、コートは別枠だったんです。
オープンカラーの濃紺ロングコートのデザイン自体は、すごく格好良い。蒼が初めてコートを羽織ってきた日の朝なんて、寮の玄関先でぼうっと見蕩れちゃったし。
男物のシルエットはストレートで、女物は絞ったウエストから若干フレア気味になっている。そういう細かな仕立ての違いも粋だと思う。
ただ値段が可愛くない。思わず値札を二度見した。カシミア100%である必要ある? 学生が着るのに?
電車通学の子はいないし、教室にはコート掛けのついた個人ロッカーがあるし、傷む心配はないってことなのかなぁ。一万かそこらでも可愛いコートいっぱいあるのに。お手入れ用ブラシも一緒に勧められたけど、そっちもかなり高かった。
「母さん、ごめんね。散財させて」
「気にしない、気にしない。必要なものなんだから」
母さんは笑って言ってくれたけど、父さんのボーナスの三分の一は飛んだはず。
こんな時、分不相応な学校に通ってるんだなって心の端っこがぎゅっと縮まる。
コンクールが終わった後、例の留学話でトビーに呼び出されたことを思い出した。
「副賞を辞退するのは勿体無い。本場で研鑽を積むのは云々」というお説教に、ほっといてよと言いたいのを堪え、精一杯神妙な表情をこしらえた。
両親にこれ以上の負担をかけたくない。留学は大学に入ってから狙っても遅くない、と亜由美先生も言っていたし、語学をもっと磨いてからにしようと決めている。
辞退する理由を話すと、向かい側のソファーに腰掛けたトビーは、ゆったりと長い足を組み替えた。
「費用のことを気にしてるのなら、僕が持つよ」
「……学院ではなく、理事長の私費で、ということですか?」
「それだけ期待してるってこと。未来のピアニストに投資するのは、別におかしなことじゃないだろう?」
「結構です。お気持ちだけ有り難く受け取っておきます」
トビーの魂胆が読めなくて、同じ空間に二人きりでいるのが何となく怖かった。礼を述べ、そそくさと理事長室を出ようとした私に、トビーはうっすらと微笑みかけた。
どこからどう見ても貴公子然としたその完璧な笑みに、背筋が粟立つ。
彼の仄暗い眼差しは、私を通り越し違う誰かに向けられているような気がした。
「留学も行かせてあげたかったな。本当によかったの?」
母さんのすまなそうな声に、ハッと我に返った。慌てて首を振る。
「全然! もっとドイツ語ペラペラになってから挑戦したいし、私にはまだ早いって」
「そうなの? 父さんは反対してたけど、あれは真白が外国で一人暮らすのを心配しただけだし、気にしなくて良かったんだよ?」
「ううん、私も不安だったもん。母さんこそ、もう気にしないでね」
明るく答え、母さんの腕に自分の腕を絡める。
彼女の着ている古いコートのくたびれた手触りに、言いようのないやるせなさを覚えた。
テストが終わり、いよいよ冬休みに突入。
終業式当日が亜由美先生のクリスマスコンサートだったので、式が終わってすぐ、急ぎ足で寮へと戻った。
蒼と約束したクリスマスのお泊りもあるし、よそ行きのワンピースに着替えて、お泊りセットを確認して、と色々やることがあるんです。
寮母さんに外泊届けを出す時は、かなり緊張した。
外泊先の欄には実家と書き込んである。とんでもない不良になった気がした。
寮母さんは用紙を確認すると「いってらっしゃい」と爽やかな笑顔で許可のハンコを押してくれました。嘘つくのって、心臓に良くないよね。罪悪感でズキズキ痛む胸を押さえながら、俯きがちに玄関へ向かった。
玄関ホールには、すでに蒼が来ていた。
私の手にある荷物に視線をとめ、嬉しそうに瞳を輝かせる。
「良かった。やっぱ止めるって言われたらどうしようかと思った」
「言わないよ。約束だもん」
「うん。貸して、持つよ」
自分で持てるけど、レディファーストが染み込んでいる蒼はきっと嫌なんだろうなと思ったので、素直に厚意に甘えることにした。
「ありがとう」
蒼はボストンバッグを右手で受け取り、左手を伸ばして私の空いた手を握ってきた。指を絡めるように優しく握り直し、えへへ、と笑う。蒼の幼い笑顔に、つられて笑ってしまった。
こんな顔されちゃ、しょうがないよね。
罪悪感を無理やり心の奥に押し込め、二人並んで玄関を出た。
外門出てすぐのところで待っていた城山家の車に乗り込み、後部座席に落ち着く。車がゆるやかに動き出すと、蒼は感嘆の眼差しで私を見つめた。
「今日みたいな格好もいいな。よく似合ってる」
ローウエストに切り替えがある黒のワンピースは、お姉ちゃんからのクリスマスプレゼントです。上がベロアで、スカート部分はやわらかなジョーゼット。切り替え部分のリボンがアクセントになっている。
フォーマルな服装に負けないよう薄くお化粧し、髪はアイロンを当ててまっすぐ下ろしてきたんだけど、おかしくないなら良かった。
蒼は二つボタンの細身のジャケットに白いシャツ、黒のパンツに革靴を合わせていた。コンサート鑑賞にぴったりの装いだ。
ワックスで髪を流しているのも普段と違って、新鮮だった。
「ありがとう。ちょっと頑張ってみたんだ。蒼も素敵。いつもより大人っぽくてドキドキする」
「それは、俺の台詞」
繋いだままの手をぎゅっと握り、はにかむように微笑んだ蒼にときめきは加速した。
私、もう悪い子でいいです。
開場したばかりだというのに、コンサートホールは沢山の人で賑わっていた。
亜由美先生への花輪も数え切れないほど飾られていて、誇らしい気持ちでいっぱいになる。
今日の演目はラフマニノフのピアノ協奏曲。
楽しみ過ぎて、昨日の夜はずっと亜由美先生のCDを聞いてたんだよね。あの素晴らしいラフマを、生で聴けるなんて至福過ぎる!
途中花屋さんに寄って貰って買ったお祝いの花束を受付に預け、美登里ちゃんにメールを送った。
亜由美先生からチケットを貰ってたから、彼女もきっと来てるはず。
「美登里ちゃん、席のところにいるって。蒼、いこ!」
「わざわざ会わなくてもよくない? 午前中、学院で会ったとこじゃん」
「だって、美登里ちゃんに新しいワンピ見せるって約束したし……」
「はいはい。じゃあ、行きますか」
せっかくのデートなんだから、挨拶だけで一緒に行動するのはなし、と釘をさされ、入口の分厚い扉を開けてもらう。
蒼のエスコートは完璧だった。私を先に通した後、きちんと後ろを気遣ってから扉にかけた手を離す。
これって、エスコートされる側にもある程度の知識が必要みたい。
行きなんて、蒼が背後に回った理由に気づかず、そのまま車に乗り込もうとして失敗した。コートを脱がせてくれようとしてた蒼は、びっくりしてたっけ。着たまま乗るのはダメなんだね……帰りは気をつけよう。
美登里ちゃんは、淡いクリーム色の上品なワンピースを着ていた。
隣には、例の若すぎる叔父さんがいる。ジーンズにニット生地のカジュアルなジャケットを羽織った大和さんは、私たちを見ると困ったように眉を下げた。
再会の軽い挨拶とお互いの格好を褒め合うお決まりの儀式の後、大和さんが「もっとちゃんとした格好してきた方が良かったのかな」とぼやいた。
あ、そっちを気にしての浮かない表情だったのね。
「そんなことないですよ。普段通りの格好でいいと思います。ドレスコードとか特にないですもん」
「そっか。なら良かった。島尾さんも城山くんもばっちり決まってるから、場違いかなって焦ったよ」
わぁい、褒められた!
嬉しくなって隣に立った蒼を見上げた私は、冷めた視線とぶつかってヒヤリとした。だけどそれはほんの一瞬で、蒼はにこやかな表情で大和さんと話し始める。
「――っと、そろそろ時間ですね。俺たちはこれで。良いクリスマスを」
当たり障りのない世間話を如才なくこなした蒼は、スマートに話を切り上げ、私の背中に軽く手を当てた。
話の間中、美登里ちゃんは蒼の視線を避け続けていた。
席におさまり、蒼をじっと見つめる。
無言の尋問視線に根負けしたらしく、蒼はため息をついた。
「あの二人は血縁だって、真白も知ってるだろ。深入りするな。どうせ先はないんだ」
「深入りなんてしてないよ。普通にしてたでしょう?」
「言い方変える。気持ち的に肩入れするな」
「……分かった」
蒼の指摘通り、仲睦まじげな二人を見て嬉しくなったのは本当のことだ。
大和さんの素朴さを好ましいと思った。幸せそうな美登里ちゃんの笑顔が、ずっと続けばいいのにと思ってしまった。あと二年もしないうちに終わりはくるのに。
「言い方キツかったなら、ごめん。でも、真白は人がいいから心配で。他人なんてどうでもいい俺でさえ、何も感じないわけじゃない。真白は余計だろ?」
「蒼も?」
「ああ。自分勝手な美登里にはムカついてるけど、何も知らない大和さんは気の毒でたまんないよ」
「うん……。そうだね」
蒼だってもう肩入れしてるじゃない。
大和さんに丁寧に接しているわけが分かって、悲しくなった。
努力だけじゃどうにもできないことって、確かにある。ただ遠くから緩やかな終焉を見守るしかできないんだって、ちゃんと分かってるよ。
蒼はこわばっていた表情を緩め、私の右手をぽん、ぽんとあやすように叩いた。
直前に感傷的になったせいもあり、亜由美先生の渾身のコンチェルトにあやうく泣かされそうになった。
ハンカチを口元に強く押し当て、目を閉じる。
聴く人の感情を鷲掴みにして、強く揺さぶってくるパッショネイトな演奏は、初めて聴いた日から変わっていない。さらに円熟味を増した亜由美先生のピアノは、眩く光り輝いていた。
ああ、なんて遠いんだろう。
切なさ、哀しみ、残る希望。
全身をつかって歌い上げる亜由美先生のピアノと、オーケストラとの完璧な調和にじっと聞き入る。
こんな凄いピアニストに師事している我が身の幸運に感謝しながら、いつか追いつきたい、と強く願った。
コンサートが終わって外に出ると、すっかり暗くなっていた。
着いてすぐに、近くのカフェでサンドイッチを食べただけだったから、お腹がぐぅと空腹を訴えてくる。
「せっかくだから、どっかで食べて帰ろうって言いたいとこだけど、美恵さんが準備してくれてるみたいだから、まっすぐ帰るのでいい?」
「うん、いいよ。……美恵さん、私が泊まっていくの知ってるの?」
うわー。なんかめちゃくちゃ恥ずかしい。
尋ねる声も小さくなってしまった。
「いや、今日は家に帰してる。でも真白が来るのは知ってるから、どうかな」
それってどういう意味……いや、もう深く考えるのはやめよう。
添い寝で終わる可能性の方が高いんだし。
「そっか。じゃあ、二人でお家ご飯だね。楽しみ!」
「俺も」
無邪気な笑顔で繋いだ手をぶんぶん振る蒼が、実は可愛いワンコなんかじゃなくて狼だったことを、私はその夜、身を持って知ることになった。




