32.シロヤマピアノコンクール(後編)
心機一転して練習を重ね、そして迎えたリハーサル。
初めてのオーケストラとの共演。ピアノを習ってる子なら誰でも一度は憧れる協奏曲ですよ!
顔合わせの段階から心臓はバクバクでした。
指揮者の野上さんは、35歳になったばかりだという男性だった。
一昨年、世界的に有名な指揮者のコンクールで優勝し、その後ドイツの名門管弦楽団を指揮してヨーロッパデビューを飾ったという経歴の持ち主で、今年度からこのオケの正指揮者に就任したんだって。
すっきりと整った目鼻立ちに細い糸目が印象的な人で、とにかく賢そう。あと、モテそう。
「僕もこのオケでは、まだ半年ちょっとの新人だからね。一緒にコンマスにしごかれようか」
第一ヴァイオリンのトップが務めるコンサートマスターは、オーケストラの要だ。
細かな指示出しやボーイング決めはもちろん、曲中にあるヴァイオリン・ソロはコンマスが弾くし、何よりオケメンバーを纏めるという役割がある。普段の練習はコンマスが見ることが多いんだって。
実力とコミニュケーション能力の両方を兼ね備えた選ばれし人ですよ。
「私を悪者にするのはやめて下さいよ、野上さん」
コンマスの長谷川さんがわざと不服げな声をあげると、周りの団員さんたちの空気が一気に和む。
「島尾さんでしたね。一緒に音楽を楽しみましょう」
父さんより少し年上くらいに見える長谷川さんの出した右手をおずおずと握り、握手を交わす。
黙っている時は怖そうに見えたけど、ニッと笑った顔は人懐っこく少年っぽさを感じさせた。
やだ、素敵。……ときめいてる場合じゃないけど、長谷川さんの笑顔のおかげで、胃を圧迫していた緊張感がゆるりと解けた。
背の高いスツールに腰掛け、譜面台を前に置いた野上さんに「練習番号は書き込んである?」と尋ねられる。
「はい。早めに着いたので確認済みです」
ピアノ譜とオケのパート譜との突き合わせはバッチリだ。
ずっとCDに合わせて練習してきたから、休みと待ちのタイミングも大丈夫だと思う。
「オッケー。とりあえず出だし確認しようかな」
「お願いします」
ペコリと頭を下げ、野上さんの説明を待った。
「本番は、島尾さんの準備が整い次第、合図を頂戴ね。焦らなくていいから、ペダルの位置とか椅子の高さとかしっかり調整して、それから僕を見てくれる?」
「はい」
「うん。じゃあ、いこうか」
野上さんが両手を上げると、オケ全員の空気がピリッと引き締まる。
力強い第一主題が奏でられたあとすぐに、ピアノとオケの掛け合いが始まった。
ここがしっかり決まると、めちゃくちゃカッコいいんですよ。グランディオーソ(堂々と)という指示通り、全身を使って両手のオクターブを跳ねさせる。練習を始めた時は、5回に一回しかノーミスで弾けなかったこの部分。もはや私の敵ではない。
野上さんの合図を目視できる余裕もあった。
ピアノの休みのところで一旦止められるかと思ったけど、野上さんは指揮を続けた。
木管楽器やチェロなど、ピアノから遠くに配置されてる楽器の音は聞こえにくい。全体的に遅れてぶわんと響いてくる感じ。オーケストラの生の音をここまで近くで聴いたのは初めてだったので、その迫力と立体的な音の厚みに鳥肌が立った。
すごい! なにこれ、すごい!
CDに合わせるのとは、全然違う。音を耳で聴いて合わせるのじゃ遅い。あ、くるなって空気を掴んでピアノを鳴らさないとずれてしまう。
五感は研ぎ澄まされ、末端神経が空気を震わせる音の振動を過敏に捉える。
自分の指から生まれる音が、オーケストラの音と混じり合い、美しい世界を描いていく。今まで感じたことの快感で、全身が痺れた。
第一楽章を通し、野上さんが両手を下ろす。
それから椅子に座ったままくるりと私の方を向き、がしがしと頭をかきむしった。
「えーと。……ほんとに、高校生?」
冗談かと思って笑ったんだけど、オケの団員さんたちも何故か私を凝視している。
あれ? ここ、笑うとこじゃないの、かな?
「初めてのコンチェルトでこれかー。下手したら僕たちの方が食われるな。長谷川さーん。どうしよう」
「どうするもこうするも、最高の演奏をするだけですよ。学生コンクールだと思って舐めてた野上さんが悪い」
「うん……そうなんだけど。そうなんだけど!」
野上さんはぶつぶつ呟き、「島尾さんの方で、何か気になったことはない?」と尋ねてきた。……どうしよう。言っちゃっていいのかな。
亜由美先生のアドバイスを思い出し、意を決して口を開く。
「全体的に、もう少しテンポを上げてもらった方が弾きやすい、です」
「あー、そんな感じした。何の音源と合わせてきたの?」
私が合わせてきたCDの名前を告げると、野上さんは目を見開いた。
「うわー、あれか! うんうん、なるほど、了解」
一人納得したように頷き、「もっかい頭からね。今度は止めずに最後までいくから。その後、ピアノパートの入りの部分練習します」と教えてくれる。
野上さんは、ガラリと指揮を変えてきた。
キレのいい挑むような弦の響きに、知らずと口角があがる。
やっぱり、手加減してくれてたんだ。
テンポが上がれば、それだけピアノに要求される技巧も難しくなる。音数の多いリストなら、尚のこと。
ああ、なんて楽しいんだろう。
積み重ねてきた練習が、私の指をどこまでも軽やかに舞わせる。今まで固く閉じていた蕾が、オーケストラの音の洪水で、一気に開花していく。
二時間のリハーサルは、あっという間に終わってしまった。
早く本番が来ないかな、なんて思ったのは、これが初めてかもしれない。
またあの快感を味わいたい。うずうずしながらコートを羽織り、控え室を飛び出す。
エントランスで待っていてくれた蒼は、出てきた私の顔を見て、ホッとしたように頬を緩めた。
本番は、無理やり予定を空けたとどこか得意げな亜由美先生が付き添ってくれた。……先生のクリスマスコンサート、来週のはずだけど大丈夫かな。
父さん達が奮発してくれたコンサートドレスに着替え、鏡の前で確認した。
華奢な肩紐と胸元のレースがとっても可愛いロングドレス。
ウエストで切り替えられたスカート部分はオーガンジーが重ねてあって、ちょっとしたお姫様気分を味わえる。
寮の自室でこのドレスに着替えた後、べっちん相手に姫様ごっこしたことも、実はある。
ちなみに、夏休み以降、変な電波を発信しなくなったべっちんとは和解済みだ。
メイクとヘアアレンジは、お姉ちゃんがしてくれた。
演奏前に邪魔しちゃダメだから、とお姉ちゃんもすぐに出ていき、今頃は客席で父さんたちと私が出てくるのを待っている。
セミファイナルを一位で通過した私の演奏順は、一番最後だ。
ライバルの演奏が気になったけど、控え室からは出なかった。いい感じに高まっているテンションを乱したくない。
「真白ちゃん。楽しんできてね」
舞台袖まで一緒についてきてくれた亜由美先生を振り返り、にっこり笑ってみせた。
「はい。いってきます!」
私よりよっぽど緊張した面持ちの亜由美先生は、ハンカチでサッと口元を抑え、何度も瞬きを繰り返した。うっすらと滲んだ涙に気づき、胸が熱くなる。
大好きな先生に誇って貰えるような演奏をしたい。
これまでの恩に少しでもいいから報いたい。
係りの人に促され、ドレスの裾を持ち上げ、眩しく照らされた舞台へと向かう。
足を踏み出した瞬間、温かな拍手が聞こえてきた。父さん達や、蒼もきっと手を叩いてくれてる。
客席に向かって一礼。椅子に腰掛ける前に、長谷川さんにも会釈する。
長谷川さんをはじめ、団員さんたちは皆、励ますような笑顔で私を迎えてくれた。
ハンカチをピアノにちょんと乗せ、椅子を調整する。ペダルの位置も、うん。これでよし。ドレスが体の動きの邪魔をしないようにお尻をずらして、っと。
指揮棒を持ち上げた野上さんの視線を感じる。
こくり、と頷いて、息を吸う。
途端、鼓膜を震わせた音の連なりに、身体中が歓喜した。
落とした指は正確に鍵盤を捉え、ズシンと重たいオクターブを鳴り響かせる。
リスト作曲 ピアノ協奏曲第一番 変ホ長調
フォルテッシモの音が割れないよう、響きを深くする。尖った音ではなく、お腹の底にぐっと響くような低音で。ピアニッシモは囁くように。煌く細かな雪片を振りまくように。
木管との掛け合い部分は、印象的で切ないメロディが主役だ。この後の迫力ある弦の大波を引き立たせるように、甘く歌う。高音に向かって駆け上がる部分は、ペダルを思い切り踏んでドラマティックに盛り上げた。そして再び現れる第一主題。最後は速さを意識させないよう軽やかな羽のようにふわりと鳴らす。
今度はアダージョ(遅いテンポ)の第二楽章へ。
歌うような美しいピアノが第二楽章の聞かせどころだ。
音の終わりがスッと溶けて消えるよう、指を離し、再び鍵盤に沈ませる。
うっとりとするほど柔らかく繊細なトリルでオーケストラに寄り添う。幻聴に聴こえるくらいでちょうどいい。
そしてトライアングルの響きで始まる第三楽章。
軽妙な掛け合いを楽しんだ後、オーケストラは次第に盛り上がり、重厚なカデンツァへ。ここからはピアノもオケの音量に負けないよう華麗に鳴り響かせた。
第一楽章の冒頭で出てきたダイナミックな第一主題に再び挑む。
オクターブが濁らないよう、かといって平板にならないように深く響かせ、音の濃淡を描き出した。
指の疲れは感じない。弾けば弾くほど軽くなるようで、心ゆくまでリストの作り上げた世界で遊ぶことが出来た。
次第に速度を増しながら、全身を使って鍵盤を鳴らし、怒涛のクライマックスへ。
最後の一音を響かせ、腕を上げる。締めはオーケストラが。
野上さんが指揮棒を下ろすと、静まり返った客席から嵐のような拍手が巻き起こった。
聴いてくれた人たちの興奮が直に伝わってくるような賞賛の音に、胸をはずませながら立ち上がって一礼する。
満面の笑みを浮かべた野上さん、そして長谷川さんと握手をし、オケメンバーの足踏みの音を背に舞台袖へと下がった。
ステージから薄暗い舞台袖に入ってすぐ、涙目の亜由美先生に抱きしめられた。
「頑張った! よく頑張ったね!」
滅多に感情を昂ぶらせない亜由美先生の掠れた声に、体中の力が抜ける。
思うようにならなくて泣いた日々が一瞬にして蘇り、熱い塊となって喉を塞いだ。
「すごく、楽しかったです」
ハンカチで目頭を押さえながら捻り出せたのは、そんな凡庸な一言。
だけど、亜由美先生はにっこり微笑んでくれた。
「うん、伝わってきた。真白ちゃんらしい演奏だったよ。……音も外さなかったしね」
最後の一言を茶目っ気たっぷりに言った亜由美先生に、プッと噴き出す。
私の完璧主義は師匠譲りなんだと実感しました。
結果発表を待って表彰式に移る段取りなんだけど、控え室が一種のお祭り騒ぎみたいになってたせいで、緊張はどこかへ飛んでいってしまった。
父さんも母さんも、お姉ちゃんも「真白が一番すごかった」と言い張って譲らないし、蒼は蒼で「最高の演奏だった」とか言って、また激甘信者に戻ってるし。
トビーまでやってきて、控え室に入ってくるやいなや、私をハグした。
怒った蒼がトビーの膝裏を蹴ろうとするのを、慌てて美登里ちゃんが引き止める。ん? 美登里ちゃんも来てくれてたのか! 嬉しいなぁ。
演奏後でハイになっていたので、何でも可笑しく感じられてずっと笑ってたけど、よく考えたら笑ってる場合じゃなかった。
どさくさに紛れて、なにしてるんですか、理事長さん。ロリコンもいい加減にしとかないと捕まるよ?
やがて結果が張り出されたとの知らせが入り、皆でぞろぞろと移動する。
優勝者の欄に「島尾 真白」と書かれてあるのを見て、心の底からホッとした。
奨学生としての役目は果たせたし、蒼パパとの約束もクリア出来た。良かった!
蒼パパといえば――。
表彰式でトロフィーを授与してくれたのが、なんとそのご本人でした。
ステージに出てきたその人が蒼パパだって、舞台下から一目見ただけで分かった。
シロヤマの現社長である城山恭司は、蒼をそのまま大人にしたような美中年だったから。
美中年なんて言葉はないって知ってるけど、そうとしか言いようがないんですよ。
怜悧で硬質な美しさに、いろいろと納得してしまった。そりゃ、あのトビーも負けちゃうはずだわ。
「優勝、おめでとう」
蒼とよく似た甘いアルトの声に、ほんの一瞬聞き惚れてしまったのは、ここだけの話。時間を早送りして、未来の蒼に祝福してもらった気分になる。
ペコリと頭を下げ、蒼パパからトロフィーを受け取った。
値踏みされるような目で見られると覚悟していたのに、蒼パパの眼差しは何故か柔らかい。懐かしむように目を細め、私に薄く微笑みかけると、次の人の名前を呼んだ。
まるで、二十年後の蒼がそこにいるみたいで、目で追わずにはいられなかった。
その日の夕食。
蒼は、不機嫌ってものじゃなかった。
ものすごく。ものすごーく不機嫌で、彼の周りには誰もいない。
食堂の扉を開け、蒼を視界に入れた途端、涼ちゃんは「今日は一緒に食べられない!」と悲鳴を上げた。
仕方ないので、一人で列に並び、鮭のムニエルとクラムチャウダー、ゆり根のチーズ焼きのセットを受け取る。パンかご飯か迷った末に、パンを選んだ。
蒼の隣にトレイを置き、いつもと同じ調子で腰掛ける。
遠く離れたところに座っている寮生たちの、「お前、正気か!?」な視線を痛いほど感じた。
「今日は聴きにきてくれてありがとう」
「……俺が行かなくても良かったみたいだけどな」
蒼はそっけなく吐き捨て、フンとそっぽを向く。とても分かりやすく拗ねていらっしゃる。
心当たりはありすぎて、困ってしまった。
亜由美先生に送ってもらったことかな?
だって「初めての協奏曲の記念に、二人でお祝いしましょう」って言われたら、断れないよ。
有名ホテルのケーキセットと亜由美先生の初コンチェルトの話に、すごく興味があったし。蒼とは毎日会えるけど、コンサートを控えた亜由美先生とはしばらく会えないし。
それともトビーに抱きしめられたこと?
あれは不可抗力だった。後できちんと「二度としないで下さい」って釘を刺したよ。蒼も聞いてたはず。
お姉ちゃんも「外国育ちなのか何なのか知りませんけど、うちの妹に気安く触らないで下さい」って一緒になって怒ってたっけ。
「せっかく来てくれたのに一緒に帰れなかったのは、本当に悪かったと思ってます。理事長のも、次はないと思うけど、あったらちゃんと避けるから」
「そうじゃない」
蒼はむう、とふくれたまま、私を見下ろした。
可愛い。非常に、可愛い。
「じゃあ、なに?」
お姉ちゃんに教えてごらん? と言いたくなる可愛さだ。
これで本人は無自覚なんだから恐いよね。
「親父に見とれてただろ」
そっちか!
ドキリとしたのと、予想外だったので、舌が上手く回らなくなる。
「み、みとれてないよ、な、なに言ってんの!」
「絶対見とれてた。あいつも真白のことベタ褒めしてたし、はぁ!? ふざけんな! って感じ」
「それは――!」
勢いで本当のことを言いそうになり、慌てて口を噤む。
「なに? 言い訳くらい、聞いてやるよ」
あ、今のちょっと俺様っぽい。
俺様な蒼もカッコいいな~と思いながら、私はクラムチャウダーをすくって飲み込む。
熱いうちに食べたいし、こんな衆人環視の中で痴話喧嘩したくない。
「……あとで話す」
「今、聞きたい」
珍しく蒼が折れない。
イラっときた私は、腰を浮かせて蒼の耳を引っ張り、形のいい耳を両手で囲った。
「大人になった蒼を見てるみたいで、ドキドキしたの。蒼は今もかっこいいけど、これからもっと素敵になるんだろうなって想像してただけ」
声量を絞り、早口で囁きかけ、再び食事に戻る。
蒼は左耳を押さえ、真っ赤な顔で押し黙った。
刺々しい雰囲気が、嘘みたいに掻き消える。
「ごめん。つまんないヤキモチやいて」
照れくさそうな表情で、蒼が謝ってきた。
あー、可愛い! もう『可愛い』しか出てこないよ。類語辞典買ってこなきゃ。
嫉妬くらい幾らでもしていいよ。むしろ、嬉しい。
首を振り、「私もごめんね。皆がいるところで言うの、恥ずかしくて」と小声で返す。
仲直りした私たちはぴったりくっついて、今日のコンクールの感想を言い合った。
蒼の張った不機嫌結界のすぐ外にいた寮生たちが、一斉にコーヒーを取りに席を立ったのすごかった、と後で涼ちゃんは教えてくれた。




