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28.追憶(side:山吹 鳶)

 頬をリンゴのように紅潮させ、マシロは10分もしないうちに寮の玄関から飛び出してきた。

 いつも頭のてっぺんで丸く纏めている髪を下ろしてきたのは、後ろの席に配慮してのことだろう。

 そういう細かな気遣いは、リサにはなかった。彼女はもっと傲慢で、奔放で、多少の我が儘は許して貰えると知っていた。

 似ているのは髪と目の色。

 そしてピアノの腕と実家の貧しさだけ。

 たったそれだけなのに、寮から出てくる制服姿のマシロを見た瞬間、胸の奥に小石が投げ込まれた。滅多に揺らぐことのない静かな場所に、苦い波紋が広がってゆく。

 愚かで惨めな初恋が心のどこかに潜伏しているらしく、微かな縁を頼りに何度でもあの日々の思い出を反復リピートしようとする。あれからもう15年が経つというのに、女々しいことだと自分でも呆れた。


「お待たせ、しましたっ!」

「いや、それほど待っていない。外門に車を待たせてある。行こうか」


 身体に染み込んだ習慣でつい、右腕を差し出してしまった。

 マシロは頬を引きつらせ、「一人で歩けるので」とにべもなく断ってくる。

 モンスターでも見るかのような眼差しが可笑しかった。彼女は車のドアに張り付くように座り、僕の振る舞いを監視した。

 

 あからさまな警戒は、かえって男の嗜虐心を煽るだけだと教えてやりたくなる。

 ほつれた横髪を耳にかけてやろうとしただけで、マシロは獰猛な唸り声をあげ僕の手を振り払った。まるで躾のなっていない小型の猛獣だ。


 リサの振る舞いはエレガントだった。

 貧しく教養のない両親の元に生まれ落ちたとは思えないほどに。

 彼女は独学でピアノを学んだ。家にはアップライトすらなかったので、学校の音楽室がリサの居場所だったと教えてくれた。

 驚くべき才能だ。そんなでたらめな環境の中でも、彼女は聞きかじっただけのコンチェルトを奏でることが出来たのだから。

 そんなリサを見出し、青鸞へと招いたのが僕だったなら、きっとリサは今でもピアノを弾いていただろう。


 車がホールの車どめに滑り込む。

 マシロを車から下ろし、賑わうエントランスを抜け、正面扉から中へ入った。

 2階席を合わせると2000人を収容する、国内でも屈指のクラシック用コンサートホールだ。

 マシロは口を半開きにし、すでにセッティングされた舞台に視線を奪われながら、上の空で席に腰を下ろした。

 さっきまでの張り詰めた緊張感をどこへやったのか。

 すでにピアノのことしか頭になさそうな様子に、苦笑がわいてくる。


「今日のピアノはシロヤマの最新モデルみたいだね。協賛に入っていたから、そうじゃないかと思っていた。弾きなれたピアノメーカーにこだわる演者もいるけど、カレは違うのかな」

「ほんとだ! 新歓の時のピアノがそうでしたよね? これくらい大きなホール向けのピアノだったんだ……。響きが強すぎるの、実は困ったんですよ。学院のホールだと壁で反射されちゃうから、フォルテッシモを全力で鳴らすと、残響が濁る感じになって。こんな風に天井が高く抜けて、後ろまで広い場所で鳴らす為の子だったんだ。あの力強さが100%出たら、どんな響きになるのかな」


 夢中になって喋りながらステージを眺めていたかと思えば、今度は一転、パンフレットを慎重な手つきでめくり、押し黙る。

 指揮者やオケメンバーの紹介をじっくり読むことにしたらしい。

 マシロの瞳はキラキラと輝き、唇は弓なりに弧を描いている。全身から滲み出る期待と歓喜に、気圧されそうになった。

 その眩しすぎる純真さに、ほんの一瞬、見蕩れた。

 

 リサも一人でいる時は、心の鎧を解き、こんな表情を浮かべたのだろうか。

 彼女の瞳はいつも尖っていた。大きな野心に、己の不遇さに。常に飢えたような深い瞳は、覗き込む者をとりこにもしたし、不安にも陥れた。魔性、という言葉がぴたりと当てはまる。

 愚直なマシロとは正反対の美しい魔女。

 ピアノの音色があれほど似ていることが、不思議でならない。


 しばらくすると、ホールの照明が絞られ始めた。

 マシロは静かにパンフレットを閉じ、席に座りなおす。間をおかずにステージにはオケメンバーが揃い、指揮者が、そしてソリストが姿を見せた。

 

 そこからコンサートが終わるまで、マシロは一言も口をきかなかった。

 休憩時間に一度席を離れただけで、あとは無言のまま演奏に聞き入っている。コンサートが始まる前の無邪気な雰囲気はなりをひそめ、マシロを取り巻く空気は厳しく収斂していた。


 目に見えないバリアのようなものを感じ、ひとりほくそ笑む。

 そうだ。僕の知っているピアニストとはこういう生き物だ。ひとたび音楽が絡めば、自分だけの世界を構築し、他者を容赦なく締め出す。

 

 当代一のリスト弾きと謳われるだけあって、カレの演奏は文句なしに素晴らしかった。

 非の打ち所がない演奏、とはこのことだろう。ホールは海鳴りのような拍手で包まれた。マシロも涙目になりながら、懸命に手を叩いている。

 

 じっくり自分の心を検分してみた。

 ――なんの変化もなく安らいでいる。

 この音じゃない、ということが分かればもう十分だ。

 

 マシロを促して寮へとトンボ返りする。

 行きとは違い、帰りの車中のマシロはどこか夢見心地だった。ぼんやりと外を眺めながら、指を膝の上で動かしている。

 

 無言の多い外出だったが、不思議と気疲れは感じなかった。

 そのことに気づき、少々居心地が悪くなる。

 ちょうどいいタイミングで寮に到着したことで、安堵したのは僕の方だ。マシロはぼうっとしたまま、車を下り、そこでようやく我に返ったようだった。

 

 そんなマシロから、礼とともに「理事長に双子の兄弟っていないですよね?」と聞かれた時は、さすがに驚いた。


「は? ごめん、今、なんて――」

「すみません、いないならいいんです」

「キミの意図するところがよく分からないけど、いないよ」

「前に寮で会った時は、すみませんでした」


 唐突に話題は変わり、今度は、人の顔を見て盛大に悲鳴を上げた時のことを言い始める。

 他人との会話で主導権を握ることが出来ないのは、久しぶりだった。


「あ、ああ。あれは結局なんだったの?」

「理事長に、直前に会った気がしたんですよ。音楽の小道で」

「……キミ、大丈夫? ありえないよ。僕はあの時、一時間は寮にいたから」

「ですよね。分かってました」


 全く会話が噛み合わない。

 今時の子は、こういうものなのだろうか。

 僕の目を見て、マシロはにんまりとチェシャ猫のような笑みを浮かべた。


「怖がらないで下さい。私は、正気です」

「……そうであって欲しいね。せめてコンクールの結果を出すまでは」

「はい! 俄然やる気が出てきました。今、めちゃくちゃピアノを弾きたいです!」


 「本当にありがとうございました」背中が見えるほど深いお辞儀を披露し、マシロは玄関へと駆け込んでいった。

 気持ちが高ぶると走り出すのは、彼女の癖らしい。

 

 狐につままれたような気分で、ひとりそこに残される。

 自分でもよく分からないまま、勝手に足が動き、気づけば女子寮側の中庭へと出ていた。

 101号室の前。

 かつて何度も通ったその場所で、足をとめる。

 耳を澄ますと、部屋の中からほんの微かな音が流れてきた。

 音とも呼べないほどのくぐもった空気の振動。マシロだ。彼女が、たった今聴いてきたばかりのコンチェルトを弾いているのだ、となぜか確信できた。


 窓も花壇も壁の蔦も、何も変わっていないように見える。

 同じ筈がない。

 過ぎた年月が確かな老朽をもたらしているはずなのに、記憶とは都合のいいもので、胸を引き絞るほどの強い感傷を勝手に引き寄せてきた。


 『一番の理解者はあなたよ、鳶。私の小さな王子様』


 ――リサはいつも僕をそう呼んだ。


 世間知らずな少年をのぼせ上がらせるには十分すぎる魅力を、彼女は備えていた。

 その魅力を武器に『一番のパトロン』とも同時に付き合っていたのだから、リサは名女優でもあった。

 彼女の背を追い越し、リサの欲求全てを満たせるようになったのは十五の頃。

 時さえ重ねれば、年上の恋人が名実ともに自分のものになると、盲目的に信じていた。

 

 人を信じ、心を委ねることの愚かさを教えてくれた、僕のリサ。

 君が今も、出口のない暗闇に一人取り残されていることが、僕は嬉しくてたまらない。

 君の代わりはいくらでもいる。

 僕の心を満たす音は、リサ。もう君の奏でるものじゃなくていい。




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