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幕間:竹下 里香のひやっとした話

 終わった。ついに終わった。

 

 受験会場を出てしばらくは解放感でいっぱいだった里香の胸に、後悔にも似た不安が遅れて降ってくる。帰路を辿る一歩一歩がだんだんと重くなった。

 手応えがなかったわけではないが、完璧だという自信もない。思い返してみれば、今まで一度だって満足のいく結果を残せたことはない。

 自分ではもうどうにも出来ないほど、里香は要領の悪い子供だった。


 『こつこつ頑張ってるのにねぇ』

 『理解するまでに時間がかかるタイプかな』

 『努力はしてるのに、なんだろうね』


 他人からの評価はいつもこんな感じ。自己評価も同じく。

 周りが一、二回試せば簡単に出来てしまうことも、里香は何度も失敗した後でようやく出来るようになるのだ。劣等感を抱かないわけではなかったが、家族からの惜しみない愛情のおかげで卑屈な性格にならずに済んでいる。


 終わったことを、いつまでもくよくよしてたってしょうがないよね。


 里香は気を取り直し、軽く首を振った。

 全力は尽くした。あとは天命を待つのみ。

 心の中で何度か唱え、ようやく頭をあげる。じきに地下鉄の入口が見えてくるはずだ。まっすぐ家に帰るつもりだったが、せっかく街まで出てきたのだから、家族に何かお土産を買って帰ってもいいかもしれない。たとえば、美味しいパンとか。姉はくるみの入った香ばしいパンに目がないのだ。

 どこかに手頃な店がないかと見回したところで、自分が大きなゲームショップの前に差し掛かっていることに気づいた。


 二年前、とあるゲームを購入して以来、そういえば何も買っていない。しばらく勉強ばかりだったから、受験が終わったら新作ソフトを見繕うのもいいかもしれない。

 

 また女性向けの恋愛シミュレーションゲームにしようかな。ボクメロ、面白かったし。

 紅さまとハッピーエンドを迎えられないまま次にいくなんてすっごく残念だけど、弦楽四重奏の作曲課題をクリア出来る日なんて永遠にこない気がするんだもん。


 再び沈みそうになった里香の気持ちに刺激を与えたのは、一枚の告知ポスターだった。

 遠目にも、彼女の大好きなキャラクターの立ち絵が描かれているのが分かる。

 

 紅さまだ! 何のお知らせだろう。もしかして、ファンディスクの発売とか?


 ポスターに視線を奪われたまま、ショーウィンドウへ近づこうとしたその時。



 里香は駆け寄ってきた一人の男性に、強く肩を押された。


 あまりに突然のことだったので、彼女はなすすべもなく弾き飛ばされた。里香を突き飛ばした犯人が更にこちらへと手を伸ばそうとするのが見え、息が止まりそうになる。

 すれ違いざまにぶつかったとか、慌てていて結果ぶつかったとか、そういう類の接触ではなかった。明らかに自分を狙ってきた。

 受身も取れないまま倒れこみそうになったところで、男が里香の肘をつかむ。細長い指がふわりと里香を引き戻した。時間にすればほんの数秒の出来事だったに違いないが、里香にはコマ送りのように長く感じられた。


 なに、なんなのこの人。こわい。こわいよ!


 反射的に男の腕を振り払い、里香は身を縮こまらせた。パニックのあまり喉は塞がってしまい、悲鳴すら出てこない。

 男はそのまま手を引っ込め、ぐっと拳を握りこむ。


 終始無言なのがまた、薄気味悪い。


 「…………」


 いつから櫛を通していないのか分からないボサボサの髪。

 饐えた匂いのする薄汚れた服。

 いわゆるホームレスと呼ばれる人なのだろうか。サッと男の外見に視線を走らせ、里香はごくりと唾を飲み込んだ。


 物盗り? 通り魔?


 物騒な単語が次々と脳内に浮かんでくる。慌ててスクールバックを盾がわりに持ち替え、次の攻撃に備えようとした里香に向かって、男はなぜかうっすらと笑みを浮かべた。


 それは無邪気な喜びにも似た、あどけない笑みだった。


 さっきまでの警戒心も嫌悪感も一瞬忘れ、ぽかんとしてしまった里香に、男は地面を指差してみせた。口がきけないのかもしれない、と思い当たる。里香は自分が恥ずかしくなった。

 

 まさに、つい先ほど里香が進もうとしていた方向に、蓋を閉め忘れたマンホールが見える。

 通行人たちは「危ないなぁ」「こういうの、どこに通報すればいいの?」などと眉をひそめながら、大回りしてマンホールを避けている。


 「あ……」


 ようやく里香は気がついた。

 目の前のこの男性が、自分を助けてくれようとしたことに。


 「里香!!」


 大通りを挟んだ向かい側の歩道から、大きな声がした。

 聞き覚えのありすぎるその声は、姉のものだった。ガードレールから身を乗り出さんばかりにしてこちらに手を振っているのは、やはり花香だ。ひどく心配性な彼女のことだから、途中まで迎えにきてくれたのだろう。なかなか変わらない信号に腹を立て、歩行者ボタンを連打し始めている。


 男も、振り返って姉を見た。

 それからペコリと里香に向かって会釈をし、そのまま立ち去っていこうとする。


 向けられた背中に、何故か急に胸がざわついた。

 

 ――――このままいかせては、ダメ。


 ところが焦りに焦った里香の口から出たのは、「ありがとうございました」の一言だけ。

 少し震えた彼女の言葉に、男は立ち止まり俯いてしまった。Tシャツの胸元をぎゅっと掴み、何かを堪えるかのように背中を丸める。真冬だというのに、彼はひどく薄着だった。

 その一瞬だけ足をとめたものの、まるで逃げるように男は走り出してしまう。


 「あ、待って!」


 里香が後を追おうとした瞬間、ようやく横断歩道を渡ってきた姉が背中から飛びついてきた。


 「なに、今の人! 里香、だいじょうぶ? 何もされてない!?」


 どこから見ていたのか、姉の唇は真っ青だった。ひくひくと痙攣するまぶたが、彼女の動揺を伝えてくる。


 「うん、だいじょうぶ。ほら、あのマンホールに落ちそうになってたのを、助けてくれたの」


 ぽっかりと開いた暗い穴を指をさし、先ほどの男を捜す。

 だがもう、どこにもその姿はなかった。



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