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27.秋休み

 蒼に秘密を打ち明けてから、ひと月。

 トビオどころか、トビーすら見かけていません。

 よく考えたら、学院の理事長にそうホイホイ会えるわけがない。お昼休みや下校中、教室移動の時には2人して辺りを見回してるもんだから、美登里ちゃんには「スナイパーにでも狙われてるの?」と笑われた。

 あんな突拍子もない話を聞かされたというのに、蒼は前よりうんと落ち着いた。

 私が他の人と話す時にピリピリしなくなったし、紅を警戒しなくなった。

 蒼の言動から子供じみた執着心が薄れるつれ、元々彼が持っていたんだろう落ち着きや冷静さが表に出てきている。余裕が備わった蒼は日に日に大人びていき、眩しいほどだ。

 


 学院は、もうじきやってくる秋休みの話題でもちきりだ。

 特に内部生かな。混雑する夏休みを避け、この期間に海外旅行に出かける子が多いんだって。

 美登里ちゃんもイギリスのホストファミリーに会いに行くと言っていた。

 お金持ちの子が多い学校だな~と、こんな時しみじみ思う。

 しかも、休み中の課題はゼロ。そりゃ皆、早く来ないかなってそわそわしちゃうよね。

 コンクールを目前に控えている私にも、大変ありがたい措置です。

 

 蒼はドイツへ行くことになった。

 婚約破棄の確約を今度こそもぎ取ってくる、とえらく意気込んでいる。

 前にその話が出た時は「麗美さんに許可を貰え」って言われてた気がするんだけど、やっぱりもう一度お父さんと直接話し合うことになったのかな。

 放課後、練習室に向かう途中でその話になり、私が問うと、蒼は苦々しい顔つきになった。


「麗美さんと一緒に行って、3人で話すことになったんだ」

「わあ……それは」 


 思わず絶句してしまう。

 恭司さんって人には会ったことがないから分からないけど、麗美さんと、蒼と、蒼パパの会合か。

 家族団らんとは程遠いんだろうな。想像するだけで胃が痛い。


「気は進まないけど、これ以上いい加減にしたくない。真白との付き合いをちゃんと認めてもらいたいんだ。……前は、最悪家を捨てればいいなんて馬鹿なこと考えてたけど、そんなことしたら真白の受け皿になれなくなるから」

「私の、受け皿?」


 意味がわからず首をかしげた私を、蒼は優しい眼差しで包んだ。


「目指すんだろ? ピアニスト。音楽で食っていけるのなんて、ほんのひと握りの選ばれた人間だけだ。真白はそれも承知の上で、修羅の道を行くんだろ?」


 それは今までにも何度も考えたことのある問題だった。

 一体、今まで何万の人が夢を諦め、青春の全てを費やした音楽を捨て去る羽目になっただろう。たとえ国内コンクールでそこそこまで行けても、そこからの道はさらに狭く、厳しくなる。

 亜由美先生の大学の同期で、プロになったのはほんの数人。全く音楽に関係のない道を選んだ友人も沢山いる、と先生は寂しげに口にした。

 

「目指すよ」


 きっとなれる、と自分に言い聞かせなければ、とてもじゃないけどここに立っていられない。

 逃げ出したい不安も、駄目だったらどうしようという怯えも、他の上手い演者への嫉妬も。

 何もかもを糧にして、私は上を目指すと決めたんだ。


「うん。だから全力で頑張れ。俺は応援する。でも、事故や病気で弾けなくなることだってあるかもしれないから。その時は、次にやりたいことが見つかるまで、俺が支えるよ」


 蒼の真摯な口調に、胸が発火したように熱くなる。

 とっさに歯を食いしばったけど、刺激された涙腺はあっけなく涙を許してしまった。


「……プロポーズみたい」


 制服のポケットからハンカチを取り出し、目元を乱暴に拭う。

 蒼の前で泣いてばかりな気がして、悔しかった。

 弱い私じゃなく、強い真白を好きでいてほしい。じゃないと、際限なく甘えてしまいそうでこわいんですよ。


「プロポーズだよ。つまんない意地張ってないで、恵まれた境遇を利用する。そんでちゃんと一人前になって、真白を食わせてくって話」


 ボロボロ泣きながら、それでも歩くのを止めない私の頭を優しく撫で、蒼は「こんな渡り廊下でする話じゃなかった。しまった」と笑った。

 たった十六やそこらで将来の話をする蒼を誰が笑っても、私は笑わない。

 目眩がしそうなほどの多幸感を抱え、私たちは歩幅を揃えて練習室へ向かった。



 そしてついに、秋休みに突入。

 十日も蒼に会えないのはものすごく寂しいけど、休み明けすぐの土曜日がセミファイナルだ。感傷に浸ってる余裕はない。

 予選は無事通り、12名の選考枠に入ることが出来ました。

 そこからファイナルに進めるのは3名だけ。優勝出来るのは、そこからさらに1名だ。

 富永先輩も去年出て、しかも優勝している。それを知ったせいで、プレッシャーは更に重みを増した。サディアフランチェスカコンクールの価値を、私が落とすわけにはいかない。


「真白ちゃん、手、貸して」


 お風呂で一緒になった涼ちゃんが、湯船の中で両手をマッサージしてくれた。

 寮に残ってる子はかなりいて、賑やかな食堂も何もかも通常通りだ。


「ずっと練習してるよね。休憩も大事だよ」

「うん。ありがとう」

「大丈夫。だいじょうぶ。真白ちゃんは勝てる」

「わたしはかてる」

「うん。絶対勝てる!」

「ぜったいかてる」


 適度な刺激と柔らかな感触の心地よさに、眠ってしまいそう。

 懸命に瞬きしながら部屋へ戻り、買い置きしておいた栄養ドリンクを一気飲み。

 それからナハトの前に座り、納得のいかないフレージングを目をつぶっても弾けるようになるまで反復する。


 亜由美先生との週に一回のレッスンは、秋休み中、隔日に増やしてもらっていた。

 前回のレッスンで注意された部分を重点的にやり直し、てくてく歩いてバスと電車を乗り継いて行く。

 すっかり冷たくなった秋風が髪をなぶり、スカートの裾を翻した。

 その日は生憎の曇り空で、それだけで何だか気持ちが暗くなる。

 レッスン自体は上手くいった。課題曲のメリカントがね。リピートなしのコンクールバージョンだから、進行を間違わないようにしないと。

 亜由美先生からは「あとはしっかり体調を整えて。楽しみにしてるからね」と激励を受けた。


 再びトボトボと帰途に着く。本当に大丈夫かなぁ。序盤の休止符のとこ。音の余韻が微妙に残ってた気がする。あそこはもっとハッキリ区切って、次のピアニッシモを際立たせないと。

 頭の中はコンクールのことでいっぱいで、改札をそのまま通りそうになり、自動改札の扉に行く手を阻まれました。あ、切符買わなきゃだった。


 そんな風だったから、寮の敷地に入ってすぐトビーに声をかけられた時も、「こんにちはー」で素通りしそうになった。

 ん……んん!? 

 ちょっと待って、トビー!?


「アユミのレッスンの帰りかな?」

「あ、はい。そうです」


 今日のトビーは、深みのある濃紺の二つボタンスーツをお召しでした。細身のパンツはシングルで、ジャケットも身体のラインに綺麗に添っている。海外ブランドのオーダーものかな。

 鮮やかな薄紫のネクタイはトビーにしか似合わない気がする。


「理事長もどこかへお出かけですか?」


 普段より気合の入った格好だから、ついそんなことを尋ねてしまった。

 和気あいあいと世間話してる場合じゃないのに。

 和を尊ぶ日本人精神が染み込んでるせいだ、きっと。


「ああ。これから、君とね」

「なるほど……って、ええっ!?」


 キミと、って私?

 なにそれ、聞いてない。


「セミファイナルは通るとして、最後のファイナルは協奏曲だろう? 確か、リストのピアノ協奏曲第一番だったかな」

「……そうですけど」


 渋々答えると、トビーはジャケットの内ポケットから高そうな革製のチケットホルダーを出してきた。悠々とした手つきで、中のチケットを取り出し、私の目の前に差し出す。

 そこに印字された海外ピアニストの名前に、思わず息を飲んだ。

 リスト弾きとして有名な男性ピアニストで、卓越した演奏技術から今世紀最高のピアニストとまで謳われている人だ。

 ちょうどコンサートで来日しているとは知っていたけど、とてもじゃないけど手が出せる値段じゃなかった。席を取ることすら難しいって話だったし。

 しかも席番号から見るに、中央前方、すこし左寄り。

 ピアノの鍵盤がよく見える絶好のSS席じゃないですか。


「今日の演目がちょうど、リストのピアノ協奏曲なんだよね。どうする?」


 くっそー。

 聴きたいに決まってるじゃないか。

 

 完全に足元を見られている。

 私はしばらくトビーとチケットを交互に見比べ、「見たいです」と声を絞り出した。


「良かった、君が賢くて。ここで待っているから、制服に着替えておいで。演奏会向きのスーツを持っているならそれでもいいけど、あまり時間はないからね」

「はい」


 ペコリと一礼し、足早に寮の玄関を目指す。

 蒼がいたら止められたかもしれない。

 一瞬、どうしようか本気で迷ったけど、自分が弾くかもしれない曲を、最高のピアニストの生演奏で聴けるチャンスをふいにしたくなかった。

 ごめんね、蒼!

 心の中で両手を合わせ、私は玄関に飛び込んだ。



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