23.読み込みエラー
音楽劇は予想以上に本格的だった。リハーサルも見たことがなかった私は、ただただ口をポカンと開けて舞台袖からステージに見入った。
青鸞、すごい。
もう何度目になるか分からない感想を抱きつつ、見事な舞台装置、本格的な衣装、熱のこもった演技、そしてうっとりするほど息のあったアンサンブルに魂を奪われる。
終わった後なんて、感極まって泣いちゃったよ。ぼろぼろ溢れる涙を首にかけたタオルで拭いながら、撤収作業に入った。日暮れ後で助かった。周囲の度肝を抜きたくない。
劇を見に来た父さん達とは、パイプ椅子の撤去作業中にちらっと会えた。
「来年は真白も出られるの?」と瞳を輝かせながらまっさきに尋ねてきたお姉ちゃんは、相変わらず可愛かったです。
こうして寮祭は大盛況のうちに幕を閉じた。
9月に入ると、朝晩が過ごしやすくなってきた。
早くも秋休みを楽しみにする子が続出するほど、カリキュラムはみっちり組まれている。
課題、課題の確認テスト、実技、実技テストの繰り返しの中、私たちは音楽理論と実践を叩き込まれていってます。
それに加えて、一般科目もどんどん難しくなってるもんだから、予習復習は欠かせない。
私も毎晩ベッドに入る頃には、意識が朦朧としてる。
枕に頭をつけるでしょ。気づいたらもう朝なんだよ。ほんとビックリ。
再来年は、今のこの時期に学内コンクールがあるんだよね。うわー、きつそう。
三年に一度の開催っていうの、どうなんだろう。どうしても三年有利にならない? 音楽コンクールに歳は関係ないって言われたらそれまでなんだけど、学生のうちは、ねえ。
……なんて考えていたのが悪かったのか。
私は秋休み明けの11月、シロヤマが主催するピアノコンクールに出ることになった。
理事長命令ですよ、ええ。放課後理事長室に呼び出され、にこやかなトビーに『期待してます』とぶっとい五寸釘をさされた。エメラルドグリーンの瞳は全く笑っていなかった。『優勝してうちの学院に箔付けて来い』ってことですね。
出場資格は15歳から22歳までの学生で、予選は課題曲のデモテープ審査。地区予選からスタートする大規模な学生コンクールとは違い、実質音楽学校生を対象とした小規模なものだ。
それでも審査員には有名な音楽家が多数招聘されているし、優勝者への特典として海外短期留学が用意されてる。
氷見先生から渡された概要を見た瞬間、「ふわぁ!」という間抜けな声が喉から漏れてしまいました。お恥ずかしい。
よくよく見てみたら、有名な先生へ紹介してくれるという特典だったんだけどね。例として世界的に有名なピアニストの名前が挙げられている。コネがないと、とてもじゃないけど師事できないすごい人ばっかりだ。
でも渡航にかかる費用、向こうでの生活費は自分持ち。学費がかろうじて無料。
私には縁のない話だった。世の中金か。金なのか。
「クラシックの本場はヨーロッパだからな。向こうで一年しごかれて来るのは、島尾にとっていい経験になると思うぞ」
「優勝出来たらの話ですし、うちには金銭的な余裕がないので無理です」
氷見先生の言葉に、しょんぼり首を振る。
何に驚いたのか、氷見先生は私を凝視し、それから眉間を指で摘んで揉み始めた。
ん? 眼精疲労ですか?
「……本当に、よく似てる」
ぽつりとそれだけこぼした氷見先生は、すぐにいつものスパルタ先生に戻った。
――似てるって、誰に? どういう意味で?
言われた一言はお腹の中で、いつまでもムズムズと蠢いた。
コンクールへの出場が決まった為、亜由美先生の定期レッスンも厳しさを増した。出るからには優勝、というのがアユミ塾の信念だ。
「クリスマスコンサートの予定、入れなきゃ良かったわ」と悔しげに唇を噛む亜由美先生。変な汗が出てくる。
「そんなこと言わないで下さいよ。S饗との競演、ものすごく楽しみにしてるんですから」
「はぁ。愛弟子のコンクールに全力投球できないなんて……」
今でも十分全力投球だと思います。亜由美先生のスタミナは底なしか!
「予選は問題ないわね。セミファイナルはブラームス、シューベルト、ベートヴェンあたりかしら……うーん。氷見先生はなんて?」
うう。地味にきついです、そのプレッシャー。予選で落ちたらどうなるんだろう。
考えたくないけど、考えちゃう。破門も退学も嫌だ!
「氷見先生も、同じように仰ってました。他にも同じコンクールに出る生徒さんがいるみたいで、私だけに時間をかけられないから、亜由美先生と相談しなさいって」
「なるほどね。ファイナルの協奏曲はリストだし、ショパンとリストは外そうかな。どうする? 今日、もう決めておく?」
「はい!」
亜由美先生は壁際に設えられている大きな書架から数冊の楽譜を取り出し、ピアノの前に戻った。
選曲の時はいつも、先生自らざっと弾いて聞かせてくれるんですよ。
アユミ マツシマの演奏を独り占めできる、贅沢かつ至高の時間です。
「これが、ブラームスのパガニーニ変奏曲」
先生の脇に立ち、必死に音符を負いながら譜めくりをする。
あ、この曲聞いたことある。ヴァイオリン版だけど。
「それからこっちが、ベートーヴェンのピアノソナタ第三十一番」
この曲は初めて聞いた。シンプルな構造だけに弾き手の技量が大きく問われそう。
「田園もいいわね」
三曲目はベートーヴェンの有名なピアノソナタだ。
この曲は亜由美先生の十八番でもある。
ああ、この曲大好きだけど、先生の解釈が耳に焼き付いちゃってるから、ただの劣化コピーになりそうだな。
「シューベルトなら、十六番かしら」
最後に先生が弾いてくれた物悲しいピアノソナタに、私のハートは鷲掴みにされた。
譜面に書かれた音符が、鮮烈なイメージを伴って目に飛び込み、脳内で再構築される。
今のところ先生は強めに叩いたけど、私だったらもっと――。
「こんな感じね。どうかしら」
「シューベルトにします」
私が即答すると、亜由美先生は目を丸くした。
「真白ちゃんは明るい曲調が好きみたいだし、ベートヴェンを選ぶと思ったわ」
言われてみれば、そうだったかも。
練習曲も長調の明るい楽曲をよく選んでいた。
好みの変化の分かりやすさに、自分でも可笑しくなった。完全に蒼の影響だ。
蒼の音が、いつだって私の身体のどこかを震わせ、共鳴しているからだ。
楽譜の取り寄せをお願いして、その日のレッスンは終わった。
先生の家から出たところで、携帯の電源を入れ直す。蒼からのメールに目を細めながら、画面を開いた。
【お疲れ様。午後の予定がなかったらでいいんだけど、頼まれてくれないか?】
どうやら蒼にも週末課題が出てるみたい。伴奏かな? もちろんオッケー、っと。
高速で返事を打ち込み返信すると、すぐに折り返しの電話がかかってくる。
――『急にごめん。すっかり忘れてた。流石にちょっとは練習しとかないと、単位やばいかなって』
「いいよ、いいよ。寮の練習室取れたの?」
――『ああ、14時から一時間だけど、それくらいあれば多分いける』
「了解。じゃあ、直接練習室に行くね」
――『分かった。103号室だから』
通話を終え、雲ひとつない高い空を見上げる。
まだまだ日中は暑いけど、淡く透明度の高い空と頬をなぶる風の温度は確かな季節の移ろいを感じさせた。
ぽっかり時間が空くたび浮かんでくるのは、寮祭での美登里ちゃんの半べそ顔。
あれから彼女は、時々大和さんの話をするようになっている。
『マシロに甘えてもいい? 聞きたくないなら、正直に言ってくれていいから』
休憩時間、ひそひそ声で耳打ちされ、私は反射的に『大丈夫』と答えた。美登里ちゃんは強ばった頬を緩め、ふにゃりと顔をほころばせる。
そっか。今までずっと、誰かに言いたくてたまらなかったんだね。
『ソウには内緒にしといて……あと、2年だけだから』と美登里ちゃんは、どこまでも穏やかな表情で言った。
お付き合いは大和さんが二十歳を迎えるまで、と決めたらしい。
一方的に別れを告げるのか、驚愕の真実を打ち明けるのか、そこまでは聞けませんでした。
どちらに転んだって、大和さんの負う傷は計り知れない。
心の中で、二年後の大和さんに手を合わせる。
どうか美登里ちゃんを許してやってください。すぐじゃなくていいです。時間がかかってもいいから、どうかお願いします。
『奈良や平安時代なら良かったのにね』
やり切れなさの余り私の口をついて出た言葉を聞き、美登里ちゃんは一瞬唖然とした。それからプッと噴き出す。
昔の価値観って、今とは違っておおらかというか何というか。遺伝子学とかない時代だし。
種が同じでも腹が違えば他人。異母兄妹や叔父姪の間で婚姻を結ぶなんてのは、やんごとなき身分の方々が普通に行っていたことで、特に珍しくもない話だった。
その時代なら、何の気兼ねも遠慮もなく、美登里ちゃんは大和さんといられたのに。
『マシロと話してると、悩んでるのがバカらしくなるわね』というのが美登里ちゃんの返事でした。
ごめん。もっと気の利いたことを言ってあげたかったけど、これが限界みたい。
電車を乗り継いで、寮を目指す。
遠回りになるのは承知で、学院の正門から入り、音楽の小道を通って帰ることにした。
フィトンチッド、だっけ?
木の香りを胸いっぱいに吸えば、この行き場のない切なさが少しは薄れるかもしれない。
ところが森に入ってすぐ。
木立が太陽を遮り作った影に一息ついたところで、トビーを発見してしまいました。
視線の先に立ってる美青年は、間違いなく理事長その人だ。
土曜日に何やってんだろ。
あーあ。ついてない。
音楽の小道の道幅は狭いので、トビーに気づかれず追い抜くことは出来そうにない。
さっさと行くか戻るかしてくれたらいいのに、トビーはぼんやりと道の端に立ち、木立の隙間からのぞく青空を見上げてるみたいだった。
フィトンチッド摂取仲間かな……。
理事長職も大変なんだろうな。
少しの間立ち止まって待ってみたものの、トビーはぼーっと立ったまま。
仕方ない。嫌味のひとつやふたつ、貰っとくか。
大股で歩き始め、トビーに近づいていく。
私の気配にすぐに気づいたトビーは、ぎょっとしたように私を見つめ返した。
そこまで驚かなくたって。
「こんにちは、理事長」
「…………は? なんで?」
トビーは、幽霊でも見たかのような表情でこちらを凝視し、次に自分の体をペタペタと触り始めた。
白の麻スーツの下は濃いえんじ色のシャツで、シルバーグレーの細身ネクタイを締めている。いつもと同じ、隙のない装いだ。眩い金髪が、白いジャケットによく映えている。
「どこにも何もついてないですよ」
教えてあげると、トビーはぴたり、と動きを止め、今度は前に右腕を突き出した。
たじろぐ私をよそに、右手の親指と人差し指を合わせ、びよ~んと上下に離す。液晶画面を拡大するみたいな奇妙な動きだ。
――なんなの、この人
急に怖くなり、一歩後ずさる。
トビーは私の前の空間をじっと睨んだかと思うと「うわ、やられた」と呟いた。
「理事長?」
「とりあえず、今はまだダメ。ダメダメ、こんなのダメ!」
一体何がどうした!
いつも人を食ったような態度で、うすら笑いを浮かべてる時とは似てもにつかない悲痛な表情で、トビーは地団駄を踏む。
「理事長!?」
本格的に怖くなる。人気のない森。聞こえてくるのは季節外れの蝉の鳴き声だけ。
ホラー映画を思い出さずにいられない。
私はレッスンバッグを胸に抱え、「こ、これで失礼します!」と叫んで走り出した。
しばらく走ってから、立ち止まり、トビーが追ってきていないことを確認する。
……ホッ。
それにしても、何だったの、今の。
こわい。フィトンチッドの過剰摂取による錯乱とか聞いたことないけど、とにかく普通じゃなかった。ストレスの溜めすぎで、第二の人格が現れたのかな。
人を人とも思ってない腹黒トビーですら勝てない相手なんだ。私も気をつけなきゃ。
背筋を凍らせながら、音楽の小道を抜け抜ける。
再び照りつけてくる太陽の光に安堵しながら、寮の玄関までたどり着いた。
がちゃり。
私が手を伸ばす前に、玄関の両開き扉がギギィと音を立て、開いていく。
「おや。今、帰りかな?」
そこにいたのは、ついさっき見たはずのトビーで。
――わたしをおいぬいたひとはだれもいなかったのに
とうとう正気が振り切れ、絶叫してしまう。
突如響き渡った悲鳴を聞いて駆けつけてきた寮生たちが、胡乱なものでも見るような目つきでトビーを見る。
「そ、そこまで驚かなくてもいいだろう?」
トビーは珍しく慌ててたけど、構っちゃいられない。
テレポート? え? 超能力!? なんなの!!
錯乱気味にわめく私を、ロマンティック研究会の先輩が保護してくれる。
気づけば先輩の部屋で、冷たいアイスティーをご馳走になっていた。
「真白ちゃん、あんまりストレス溜めない方がいいよ。いっつも頑張りすぎなんだよ。ね?」
しまいには先輩に優しく諭されました。
それはトビーに言って!