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20.春冬祭(前編)

 初キスの余韻は蒼の無邪気な指切りによって吹っ飛んでいき、そこからは音楽の時間になりました。

 私がAの音を鳴らし、蒼が調弦を始める。この待ち時間、結構好き。

 

「軽く指慣らししてもいい?」


 調弦が済んだ蒼に断りを入れ、スケール練習を数回、ショパンの練習曲を一曲弾くことに。

 蒼とのやり取りでテンションが上がったからか、全身ぽっぽと火照っている。指もいい感じに温まってるし、エチュードOp.10-4を選ぶことにした。

 オクターブ、指を広げての高速アルペジオ、スタッカート、連打などピアノを弾くのに必要なテクニックがぎゅっと詰まってる名曲です。

 「いきなりトップギアだな」なんて蒼は目を丸くしてる。


「だって、めちゃくちゃ久しぶりの蒼とのデュオだよ。楽しみで楽しみで、昨日はなかなか寝付けなかったんだから」

「そこは俺に会えるから、って言って欲しかったなー」

「ぐ……だってしょっちゅう会ってるし、それに蒼とのデュオだからって言った」


 珍しく軽口を叩いて言い返してくる蒼に、顔をしかめてみせる。


「はいはい。じゃあ、期待に応えよっか」


 蒼は言葉とは裏腹にご機嫌な様子でくるりと弓を持ち直し、チェロを構えた。

 今日合わせるのは、蒼のリクエスト曲だ。

 シシリエンヌのピアノ譜を貰った時、「ああ、城山 蒼っぽいな」と思ったのはここだけの話。

 『ボクメロ』では、紅が長調、蒼が短調を担当してたんだよね。それぞれ好みの曲調は、こっちの現実世界でも同じなんだなって、不思議な気分になった。


 フォーレ作曲のシシリエンヌは、元はチェロとピアノの為に書かれた合奏曲。

 哀愁に満ちた美しいメロディは一度聴いたら忘れられない。モーレス・メーテルリンクの戯曲「ペアレスとメリザンヌ」の付随音楽としても有名な曲です。そっちはフルートとチェロの二重奏になってる。

 主人公二人が泉のほとりで愛を語り合う場面の前奏曲なんだよね。そんな曲を選ぶなんて、蒼ってばロマンティックイケメン! 

 

 んー。でも確か「ペアレスとメリザンヌ」自体は、暗い話だったような……。

 泥沼の三角関係の果てに悲恋エンドを迎える話。

 兄王子の妻であるメリザンヌに弟王子のペアレスが横恋慕して、次第に二人は愛を深めていって、最後はそれが兄にばれ、ペリアスは兄に殺され、メリザンヌも結局どちらの子か分からない赤ん坊を産み落として死亡……いやいやいや。

 深く考えるのはやめよう。たとえこれがボクメロ進行イベントだったとしても、今の私に確かめる術はない。


「ましろ?」


 どうしたの? と首をかしげる蒼を見て、ハッと現実に引き戻された。

 考えすぎ、考えすぎ。

 紺ちゃんだって言ってたもんね。もう私の知ってるボクメロじゃないって。

 選曲の理由は単なる蒼の好みであって、バッドエンドへの示唆では断じてないはず!


「ごめん。集中する」


 楽譜自体はそう難しくない。譜面台の方は見ずに、蒼の呼吸に意識を集中させた。

 まずはピアノから。

 ゆったりとした上行音型のアルペジオに、深いチェロの響きが乗ってくる。主旋律の歌いだし部分、たっぷりと間を取って揺らして弾くか、それともサラリと弾いて余韻を残すかは弾き手の自由だ。

 蒼はサラリと弾くことに決めたみたい。となればピアノは主旋律を邪魔しないよう控えめに、と同時に高音の副旋律は印象深く。音を同時に重ねる部分は難しく、一回目ということもあってなかなかピッタリ合わなかった。

 それでもまずまずの演奏になったのは、蒼が上手いから。

 ピアノを優しくリードしつつも、こう弾きたいという主張はしっかりしてくる。

 アンサンブル技術の高さもさることながら、そのチェロの響きの豊かさといったら! 

 雑味のない透明感は小学校時代からの蒼の武器だけど、それに深みが加わってる。

 体が大きくなり、チェロを扱いやすくなったこともあるんだろうけど、それでも血の滲むような努力が垣間見える演奏だった。


 弾き終わり、鍵盤から手を離すのと同時に、私は感嘆の溜息を漏らした。


「どうだった?」

「痺れた。最高。大好き」


 恍惚の表情を浮かべた私をちらりと見遣り、蒼は不満げに唇を引き結ぶ。


「さっきのキスでもそんな顔しなかった癖に。……真白の音楽バカ」

「なんとでも。それより、細かい部分詰める前に、蒼のソロ聴きたい!」


 すっくと立ち上がり、壁にもたれかけさせてあったパイプ椅子を運んで、蒼の正面に回り込む。

 返事を聞く前に椅子を広げて腰を下ろし、期待に満ちた目でじっと蒼を見つめた。

 根負けしたのか、蒼は眉間の皺を解き、ふはっと笑った。


「分かったよ」

「さっきの本当に凄かった。いいな~、弦楽器科の子たち。しょっちゅう蒼の音聴けて」

「どうだろ。いつもはもっと適当に弾いてるし」


 喉元まで出かけた言葉を、ぐっと飲み込む。

 音楽は高校までで、大学では経営学を学ばなきゃいけないと決められているからかな。蒼のやる気には昔からムラがある。

 でも将来の選択は、誰も踏み入ることの出来ない彼だけの問題だ。いくら恋人でも簡単に「もったいない」なんて言ったらダメだろう。


「練習はすごくしてるよね。音で分かるよ」

「チェロは嫌いじゃないから。もっかい、シシリエンヌでいい?」

 

 蒼は何故か恥ずかしげな表情で、早口に言ってきた。

 この話題はどうにも居心地が悪いみたい。


「あ、待って。ピアノ譜取ってくる!」


 蒼がどんなイメージを持って弾くのか、気づいた部分をピアノ譜に書き込んでおけば、合わせる時確認しやすいもんね。

 浮き浮きしながらグランドピアノに戻っていく私を見て、蒼は眩しそうに目を細めた。

 結局、短い休憩を一度挟んだだけで、シシリエンヌをひたすら合奏することになった。

 主に私の完璧主義のせいです、はい。

 

「ごめんね、蒼」


 帰り際、ようやく我に返った私が謝ると、蒼は微笑みながら頭を撫でてくれました。


「言ったろ。どんな真白も俺は好きだって」


 ありがたいお言葉だけど、次からはもっとデートっぽくなるように気をつけなきゃ。

 「もう一回、四小節前から!」とか「そこ、ピアノがもっと目立ってもよくない?」とか、そんな事ばっかり言ってた気がする。……ブートキャンプ?


 

 

 

 あっという間に寮へ戻る日はやってきた。

 「次はお正月に帰ってくるね」と家族に手を振り、迎えに来てくれた蒼の車に乗り込む。


「やっぱ寮に入って良かった」

「ん?」

「こうやって一緒に行けるから」


 隣に座った蒼がきゅっと左手を握ってくる。

 シシリエンヌを合わせた日から、私たちの距離はぐっと縮まった。

 蒼の遠慮は薄れ、昔みたいな無邪気さが戻ってきてる。


「うん、私も嬉しい。寮祭の自由時間は、一緒に回ろうね」


 意外と広い肩に頬をくっつけると、蒼は身をかがめ、蕩けるような甘い眼差し付きのキスをくれた。


 

 花桃寮プリマヴェーラホール山茶花寮インヴェルノホールも、活気に満ち満ちている。

 寮祭の準備期間は卒業生達がやってきて準備を手伝ってくれると、話には聞いていた。だけど、こんなにおおごとだなんて思ってもみなかった。


「はい、じゃあトラックが到着次第、中庭に機材を運ぶの始めるよ」

「でっかいビニールシートも必須だぞ。天気予報、確認してある?」

「むこう一週間は快晴!」

「屋台用のテントの手配、終わってる?」

「終わってる。今のうちに射的の景品の買出し、誰か行ってきて!」


 今日も朝から、沢山の人の声が飛び交っている。

 かつての寮生であることを証明するID入りカードホルダーを胸から下げたOBの皆さまは特に、ものすごく張り切ってます。

 二十代から三十代の方が多いかな。中にはどっかのお偉いさんじゃないの? って雰囲気のおじさままで混じっている。春冬祭の実行委員メンバーは、なんと半分がOBらしい。残りの半分が三年生。


 私の午前中は、飾りつけ用の造花作りとマナー案内のポスター作成で潰れた。

 造花ですね! 任せて下さいよ!

 張り切って見本をいくつかミチ先輩に作って見せたんだけど「そんなハイレベルなのはいらない。他の子の分と差がつきすぎるし、普通のヤツでお願いします」と断られてしまいました。残念!

 蓮の花をモチーフにした折り紙造花で、かなりの自信作だったのにな。

 何とかノルマ分を仕上げ、昼食を取りに食堂へと向かう。


「まっしろー。お疲れ!」


 混み合っている食堂には、すでに涼ちゃんが来ていた。こっち、こっち、と手を振ってくれる。一緒に座っているのは、ロマンティック研究会の先輩たちだ。


「席、取っててくれたんだ。ありがとう! すみません、私もご一緒していいですか?」

「もちろん。ほら、早くご飯取っておいで」


 快く承諾してもらえたので、急いでカウンターに並びに行く。

 普段と違って人の出入りが多いからか、ランチは無くなり次第終了なんだよね。間に合って良かった! 暑い中、コンビニまで買いに行かなきゃいけないのはかなり辛い。

 蒼はまだ外で作業中みたいで、一緒には食べられないとメールがきていた。


「お待たせしました!」

「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。じゃ、いただきます」

「いただきまーす!」


 三年の先輩の音頭で、一斉に手を合わせる。


「真白ちゃんの造花、レベル高すぎて使えなかったんだってね。ミチが惜しがってたよー」

「えへへ。張り切りすぎました。先輩たちの音合わせはどうでした?」


 今年の劇は『ロミオとジュリエット』に決定した。

 ロマンティック研究会の先輩方が「これしかない。理由はロマンティックだからだ!」とゴリ押ししたとかしないとか。

 毎週水曜日の上映会には私も時々参加して、先輩たちが厳選した古い映画を見ている。

 あ、そうそう。合奏の時心の中で叫んだロマンティックイケメンとは、映画に出てくるヒーローへの研究会最大の賛辞です。

 

 寮生の殆どは、音楽隊のメンバーになるのが恒例だけど、ピアノパートは三年生優先で選ばれてる。当日は裏方で頑張るぞ!


「それが、なかなか厳しくて。プロコフィエフのバレエ版をジローが管と弦のバランス考えてアレンジしてくれたんだけど、なにあれ。もうちょっと簡単に出来たよね? って問い詰めたいくらいよ」

「ジローは凝り性だからねえ」


 ジロー先輩は作曲科。ここぞとばかりに張り切ってアレンジしたみたい。

 聴き手としては楽しみが増えたな、とか思っちゃってすみません。


「ジュリエット役は明日香先輩ですよね? 衣装着たら、もっと綺麗なんだろうなあ。すっごく楽しみ!」


 一人がうっとりとした声を上げると、次々に賛同の声が上がる。

 アスカ先輩っていうのは、ヴィオラ専攻の艶やかな美人さん。同性にも人気が高く、私たち下級生にもとっても気さくで優しい人です。

 見た目も性格も申し分ないとかね。次元が違いすぎて、羨む気にもなれない。


「ロミオ役のぶんちゃん先輩も悪くないんだけど、明日香先輩の隣に並ぶにはイケメン度が足りないんだよね。城山くん見ちゃうと余計に」


 突然ノリコ先輩がそんなことを言い出したものだから、私の口からは食べかけの冷麺が飛び出しそうになった。ツンと鼻が痛い。

 周りの視線は、一人むせてる私に集まる。

 まずい流れだ。吊るし上げくらうかな、と一瞬身構えたんだけど、杞憂に終わった。


「ジュリエットが真白ちゃんじゃない時点で、ナイですよ」


 涼ちゃんの確信に満ちた声に、全員が深々と頷く。


「でも、あの一途さがまた素敵だよね。ちょっと怖いけど、やっぱ理想だよ」

「明日香も『声をかけるだけ無駄。それに私まだ自分の人生終わらせたくない』って言ってたっけ」


 嬉しいような、むず痒いような。

 それに、ところどころ不穏なワードが混じっていたような……。

 複雑な気分でとりあえず笑顔を浮かべると、隣に座った先輩によしよしと頭を撫でられた。


「そんな不安そうな顔しないの! うちらが粛清されちゃうでしょ」


 あえて誰に、とは聞きますまい。

 蒼の本性は、すっかり寮中に知れ渡っているようです。




 そうこうしているうちに、夏休みは終了。

 いよいよ新学期の始まりだ。

 提出物のチェックが終わったら、早速実力テスト。

 寮生は、春冬祭の準備とテスト勉強が重なって瀕死状態だったみたい。日頃の積み重ねが大事なんだよな~としみじみしちゃうよ。付け焼刃はポロリの危険性がね。

 私の結果はもちろん一位。ふははは。休み期間、気を抜かずに勉強した甲斐あったぜ。


 テストも終わり、休み明けの浮き足立った雰囲気が落ち着いてきた頃。

 とうとう春冬祭の前日がやってきた。

 前夜祭なんて云うお楽しみイベントはなく、私たちはお揃いのスタッフTシャツを着て、最終チェックに走り回る羽目になった。

 蒼は音楽隊のメンバーだから、リハーサルで別行動。

 途中見かけた涼ちゃんは「もう腕が上がらないよう」と半べそをかいてました。

 頑張れ! と全身を使ったジャスチャーで励まし、パイプ椅子の運搬を手伝いに行く。

 私たち裏方は、分厚い軍手の下に更にぴっちりしたゴム手袋をはめさせられてる。これが暑いのなんのって!


「先輩~。手が燃えてるんすけど、軍手外していいっすか?」


 泣きそうな声が遠くで上がったものの「燃やしとけ! 指に怪我したらぶっ殺すぞ!」という野太い返事が返ってきてます。

 近くで長机を持ち上げたていた上代くんが「今ので寒なったわ」とぼやき、私も深くそれに頷いた。とめどなく流れ落ちる汗を首にかけたタオルで拭いながら、日が傾くまで私たちは寮中を駆けずり回った。


 ようやく全ての設営と劇のリハーサルが終了。中庭に全員が集められる。

 蒼は私を目ざとく見つけ出し、隣に並んできた。


「お疲れ、真白。顔、真っ赤になってる」

「暑かったもん~。汗がすごくて、日焼け止め落ちゃったよ。蒼もお疲れ様。楽器運ぶだけでも一苦労だったでしょ?」

「まあ、でも真白に比べたら。あとでラウンジ行こ。ジュース奢る」

「やった!」


 二人で肩を寄せ合い、周りの迷惑にならないように小声で話してたんだけど、通りかかったジロー先輩には「爆発しろ!」と怒られました。解せぬ。


 春冬祭実行委員長の草野先輩が、当日のタイムテーブルを全員に配布する。

 それから、注意事項をメガホンで叫ぶように説明し始めた。

 喉が嗄れちゃって、叫ばないと声が出ないんだな、きっと。先輩が声楽科じゃないことを祈るばかりです。


「くれぐれも怪我のないよーにっ! 一年に一度の伝統あるこの祭りを、寮生全員で成功させましょう!」

「おー!」


 委員長に応える雄叫びが周りから上がる。私も拳を突き上げた。蒼は苦笑しながら静観の構えでした。

 えー。こうやって汗まみれになりながら、一つのことをみんなで頑張るのってすっごく楽しいのにな。

 

 寮へ戻ろうとしたところで、ちょうど私の部屋の外にあたる場所に誰かが立っているのに気がついた。蒼も同時に気づいたらしく、怪訝そうな目つきになる。

 何かあったのかな?

 近づいてみると、三十歳後半くらいの女性だった。首から下げたIDカードが真っ先に目に入り、私は肩の力を抜いた。


「こんばんは。何か気になることがありましたか?」


 19時近くになっているけど、まだ8月の空は薄明るい。

 懐かしそうに目を細め、プリマヴェーラを見上げている女性の表情はよく見えた。


「あら、こんばんは。設営お疲れ様」

「いえ。こちらこそお手伝い、ありがとうございました!」


 勢いよくペコリとお辞儀をした私を眺め、女性はふふ、と口元に手を当てた。


「まだまだ元気ねえ。私にもそんな時代があったのかと思うと、不思議な気分だわ」


 そして、視線を再び女子寮へ向け、「ねえ」と言葉を続ける。


「今、スタインウェイの置いてある101号室に入ってる生徒さんがどんな方か、ご存知?」


 どうしてそんなことを聞くんだろう。

 私です、って正直に答えてもいいけど、ここは様子をみるべきかな。

 蒼を見上げると、軽く頷き「なぜそんなことを?」と聞き返してる。

 訝しげな私達の表情を見て取り、女性は慌てて両手を振った。


「いやね、これじゃ探偵みたいよね。違うの」


 彼女は目元を和ませ、遠くに視線を放つ。


「私の憧れのピアニストがね、101号室に住んでいたの。大変な努力家でね。本当に素晴らしい演奏家だった。彼女が世界的なコンクールで優勝する前からずっと、輝かしい音楽家の道を進んでいくに違いないって私は信じてたの」


 ひとつため息をつき、女性は肩をすくめた。


「人生はままならないものね。彼女の足元にも及ばなかった私がプロになれたのに、彼女は音楽を失った。ここに来ると思い出さずにいられないわ。あの音色も、彼女のことも」


 ――――音楽を失った――――


 心臓が早鐘を打ち始める。

 蒼の表情は変わらない。前を向いたまま微動だにしない彼の手をそっと掴むと、予想以上の力強さで握り返された。

 乾いた唇を舐め、短く息を吸ってから、口を開く。


「もしかして、森川 理沙さんですか?」

「あら! お若いのに、よくご存知ね」


 女性は嬉しそうに両手を打ち、満面の笑みを浮かべた。


「私が立ってるこの辺りにね。中学生くらいかしら。休みになるとそれは綺麗な男の子がやってきて、ヴァイオリンを弾くの。するとすぐに101号室の窓が開いてね、森川先輩が顔を出すのよ」


 ――綺麗な、中学生くらいに見える男の子

 

 心臓はますます煩くなり、蒼と繋いだ手を、滲んだ汗が汚していく。


「春も、夏も、秋も冬も。晴れの休日、男の子は欠かさず通ってきてた。天使みたいに綺麗で、おそろしくヴァイオリンが上手くて。森川先輩の親戚ですか? って友達が一度聞いたことがあったの。そしたら先輩が笑って『いいえ。私の最愛の人よ』って。歳下の恋人だったのかしらね」


 蒼がひゅっと息を飲む。

 自分がどんなに大きな爆弾を投げつけたのか知るはずもない女性は、「何もかも、本当に懐かしいわ」と話を締めくくり、軽く会釈をして去っていった。


 ――私の最愛の人


 蒼も私も、しばらくそこから動けず、ただ101号室の締め切られた窓を見つめた。


 

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