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19.初めてのキス

 あれから蒼はちょくちょく家にやってくるようになった。

 礼儀正しい蒼に父さんのガードも緩んだのか「なんだ、今日は夕食食べていかないのか?」なんて聞くこともしばしば。

 あらかじめ約束していない時、蒼は「また今度是非」とやんわり辞退する。

 家族が誰もいない時は絶対に来ないし、そういう真面目なところがまた父さんのお気に入りたる所以なんだけど、母さんは首を捻った。


「すごく遠慮がちな子だね。頭も容姿も良くてお家もすごいのに、驕ったところが全然ないの、不思議なくらい。まだ高校生なのに」

「悪いことじゃないよね?」

「もちろんよ! でも、時々すごく寂しそうな顔するから母さん、気になっちゃって」


 しばらく躊躇した後、私は蒼の事情について軽く触れることにした。

 これからも付き合いが続いていくのなら、いつかは母さん達にもバレてしまうことだ。


「蒼を生んだお母さん、森川理沙さんっていう有名なピアニストだったんだけど、蒼が五歳の時に家を出たんだ。今のお母さんは義理のお母さんで、私と蒼が付き合うのは反対だって。城山家に何のメリットもない縁組はしたくないって直接言われてる。ほら、蒼は一人息子だから。そういうのもあって、何ていうか、蒼はちょっと複雑な子なの」


 改めて話そうと思うと、上手く言葉が出てこない。

 困りきって口を噤んだ私の頭を、母さんはぽんぽんと撫でてくれた。


「五歳ってまた、可愛いさかりに。……でもまあ、いろいろあるわよね」

「うん」

「私と父さんは真白と蒼くんの味方だよ、って言ってあげたいけど、よそ様の家の問題に簡単に立ち入ることなんて出来ないし、難しいね」

「うん。でも、今までどおりにして欲しい。同情とかそんなのはいらないから、普通にしてて。蒼はうちに来るとホッとするって言ってたから」

「分かった。いつでもおいでって言っといて」


 深く追求したりせずに、母さんは優しく微笑んでくれた。それだけで胸の重石がすこし軽くなる。

 これからどうなるか私にも分からない。ずっと蒼と一緒にいたいけど、蒼の婚約者は美登里ちゃんで、それは今も変わっていない。傍からみたら、私はとんだ泥棒猫なんだろう。

 だけどそれでもいい、と決めてしまった。絶対に私から蒼の手を放したりしない。



 夏休みも残りわずか。寮に戻る前の最後の日曜日、私は城山邸を訪れた。

 

「いらっしゃい。外、暑かったろ?」

「ううん。お迎えの車の中、冷房すごくきいてたし。一枚羽織ってきて良かった」


 蒼は近づいて来るとそっと私の背中に手を当て、ひんやりした感触に眉をひそめた。


「大丈夫か? 今度から温度下げすぎるなって言っとく」

「いい、いい! 言わないで!」


 運転手さんは一年中スーツ姿だ。いくら夏物のスーツとはいえ、きっちり上着を着てネクタイ締めて、じゃ暑いに決まってる。こっちがノースリーブの膝丈ワンピースに薄手の七分袖カーディガンを羽織った軽装だから、寒く感じたってだけ。

 それに、運転手さんはちゃんと聞いてくれた。「寒かったり暑かったりしませんか?」って。私が「ちょうどいいです。ありがとうございます」っていい顔したんだよ。


「真白は優しすぎ。麗美さんなら、容赦なくエアコン切らせてる」

「お迎えに来てもらってる分際で、そんな図々しい真似できないよ。麗美さんは雇い主なんだし、要望を伝えるのは当然」


 蒼は目元を和ませ、私の冷えた背中を撫でた。


「あの人のことまで庇うんだもんな。散々嫌な思いさせられてるのに、どこまで人がいいんだか」

「蒼は私を買いかぶりすぎ! 自分が楽な方を選んでるだけですー」

「はいはい。そういうことにしとく」

「本当なのに。蒼の目って絶対曇ってるよね」


 ぶつぶつ言いながら、はい、と紙袋を手渡す。


「休憩の時に一緒に食べよ。この間、うちに来た時に美味しいって言ってたわらび餅だよ」


 この手作りお菓子もあったから、車内の冷房は強めで良かったんだ。保冷剤は入れてきたけど、念の為。


「やった! ありがと。わざわざ手間かけてくれて」


 紙袋の中に二つタッパーを発見し、「沢山作ってきてくれたんだな」と目を細める蒼に「一つは美恵さんの分だからね」と念を押す。


「美恵さんだもん、自分で作る方がきっと美味しいと思うけど、ほんの気持ち。口に合わなかったら捨てて下さいって言っておいてね」


 美恵さんは買い物に出掛けてて、戻ってくるのは夕方なんだって。すれ違いで会えない可能性が高いから、伝言を頼んでおこうっと。


「先に冷蔵庫に入れてきて――」


 くれる? まで言うことは出来なかった。

 蒼が私をぎゅうぎゅうに抱きしめてきたから。


「あー、やばい。だめだ。真白が可愛くてたまんない」


 今の会話のどこに萌えたのか謎すぎるけど、大好きな人にそんなこと言われたら私だって感激してしまう。溢れ出すトキメキに胸がきゅうと音を立てた。

 ようやく解放された頃には、全力疾走した後みたいに息が苦しかった。

 いやだって、いつもより長かったし、誰もいないし、ドキドキするじゃないですか。

 蒼は平気なのかな? 歩き出した蒼の隣に並び、そうっと様子を伺ってみる。

 蒼は私の視線に気づくと、おもむろに頬をつねってきた。


「にゃにすんのっ」

「そういうおねだり顔、禁止。マジでやばいから」

「してにゃいっ」



 蒼に案内されたのは、コンサートピアノが置いてあるショールームじゃなくて、小学生の時に来たことがある練習室だった。

 懐かしさに胸を満たされながら部屋に足を踏み入れてすぐ、私はあの美しいピアノが無くなっていることに気がついた。

 蒼のお父さんが森川理沙さんの為に作らせたという、世界に一台だけの特注品。あのピアノの代わりに、シロヤマのSXアルファが置かれている。


「普段あんまり触ってないけど、調律は欠かしてないから大丈夫だと思う。先に指慣らししてて。これ、冷蔵庫に入れてくる」


 そう言い残すと、蒼はすぐに部屋を出てしまった。

 SXアルファもいいピアノだけど、あの特注のピアノはどこへ行ったんだろう。聞かない方がいいのかな。何となくしょんぼりとした気持ちで、私はグランドピアノへ近づいた。

 レッスンバッグから楽譜を取り出し、譜面台に置く。椅子の高さを調節し、グーパーを繰り返して手指をほぐす。いつもと同じ手順で、気持ちを高めていく。

 鍵盤に指を乗せ、ふと窓辺に目をやった。

 前に来た時は、私のあげた折り紙が出窓を飾っていたんだっけ。今は、赤く愛らしい花を咲かせたサボテンの鉢植えが置いてある。

 時の流れを感じずにはいられない。

 諸行無常の鐘の音。平家物語の一節が頭に浮かぶ。胸の奥で侘しい音色の鐘がひとつ、鳴った。


 今日、蒼の家に来たのは二人で音を合わせる為。

 後期からは本格的にアンサンブルの授業が始まるし、その前に感覚を掴んでおきたいっていうのは建前です。本音は単に私が、チェロを弾いてる蒼を見たいから。彼の奏でる音を聴きたいから。

 三年間の空白を惜しんでいるのは、何も蒼だけじゃない。

 オーストリアのグラーツでの蒼の演奏だって、結局DVDには映っていなかったからね。丸々三年も、蒼のチェロを聴いていないことになるんですよ。そろそろ禁断症状が!


「お待たせ」


 軽く息を切らせて蒼が戻ってきた。どこにも行ったりしないのに、急いで走ってこなくたって。風にあおられ前髪がひょこんと立っている。

 おいで、と手招きすると、蒼は素直に私の前まで来た。


「ここ、座って」


 お尻をずらしてスペースを作る。蒼は不思議そうに目を瞬かせながらも、理由を聞かずにちょこんと椅子の端に腰掛けた。

 乱れた前髪を、手櫛で整えてあげる。

 サラサラと指の間を通り過ぎていく髪の感触にうっとりした。私の髪より綺麗な気がする。どこのメーカーのシャンプー使ってるんだろ。……いや、聞くまい。きっとものすごく高いやつだ。


「はい、出来た」


 おしまい、と笑った私を見て、蒼はやれやれと言わんばかりのため息をついた。


「ねえ、真白」

「ん?」

「俺さ、向こうにいる間、ずっと思ってた」


 蒼の綺麗な瞳が熱を帯びて私を捉える。

 そこでようやく、距離が近すぎるくらい近いことを認識し、私の頭は昔のお姉さんモードから一気に現実へと引き戻された。


「真白が誰を選んでもいい。ただ傍にいて、幸せそうな真白を見ていられたらそれでいいって。本気で思ってたんだよ」

「うん」


 手紙からも一歩引いた蒼の気持ちは伝わってきていた。彼の想いは家族愛にシフトしたんじゃないか、と思ったこともあった。


「でも真白は俺を選んでくれただろ? それだけじゃない。いびつな俺でもいいって受け入れてくれた。俺、どんどん欲張りになってる。自分でも怖いくらい」

「――欲張りになったら、ダメなの?」


 話がどこへ行き着くのか分からず、不安になって思わず尋ねてしまう。

 蒼はほろ苦い笑みを浮かべ、私の右手を取った。


「全部だよ。真白の全部が欲しいんだ」


 私ももう高校生。彼の言っている意味が分からないほど子供じゃない。

 身体をつなげれば、蒼は安心するのかな。私の心はもう全部まるごと、蒼のものだって分かってくれるのかな。


「今すぐには無理だけど、あの、ほら、心の準備とかいろいろあるし、最初は痛いって話だから怖いし」


 色々。それはもう色々あるよね。生々しい話だけど、無駄毛の処理とか勝負下着とか、ほら。

 ……うわぁーーーー!! ちらっと想像しただけで、鼻血でそう! 出血多量で倒れそう!


「でも、気持ちは一緒だよ。私も、その、蒼の全部が欲しいもん」


 とてもじゃないけど、まっすぐ目を見て伝えることは出来ませんでした。ごにょごにょと語尾が丸まって溶けて消える。

 蒼は、それはそれは驚いたようだった。

 すぐに顎を掴まれ、彼の方を向かされる。蒼は信じられないというように、大きく目を見開いていた。


「それ、本気で言ってる?」

「冗談で言えないよ、こんな恥ずかしいこと!」


 真っ赤な顔で逆上した私を見て、蒼はようやく納得したようだった。彼の視線に含まれていた剣呑な光が薄れ、代わりに歓喜の色が浮かぶ。


「……夢、じゃないよな。ここにいるの、真白だよな」

「うん。私だよ」

「きっといつか後悔する。取り消すなら、今のうちだよ。今なら、俺もまだ止まれる。解放してやれる」


 理沙さんに捨てられた小さな蒼が叫んでる気がした。簡単に信じるな。信じたところでまた捨てられて、死ぬほど辛い目に遭うぞ、って。

 

 でもね、蒼。

 私だって伊達に幸せな家庭で育ってきてないんですよ。前世でも今世でも、私は沢山の愛情に包まれて育ってきたんです。人の善性を信じて生きてきたんです。絶対、なんてこの世には存在しないのだとしても。

 それでも私は、蒼を裏切ったりしない。最後までずっと好きでいる。そう決めたんだ。

 努力しないうちから諦めるなんて、許さない。

 私を好きになったこと、後悔するなら蒼の方だよ。


 首を振って蒼の手を外し、両手を伸ばして彼の頬をはさむ。突然のことにきょとんとしてる蒼は、普段よりあどけなく見えた。

 立っている時は背伸びをしてもまだ届かない唇が、座っているお陰ですぐ近くにある。

 首を傾け、そうっと蒼に口づけた。

 昔見た映画の一シーンを思い浮かべ、確かこんな感じだったなって。

 ぶっつけ本番の頼りないキスは、予想以上に上手くいき、すこしひんやりした蒼の唇を感じることが出来ました。

 口と口がくっついた。ただそれだけのことなのに、全身の細胞が一斉に目覚めたみたいな衝動を覚える。

 もっと味わいたくて、もう一度キス。うん、やっぱりすごく気持ちいい。

 三度目のキスは、ようやく我に返った蒼からだった。

 両手首を掴まれ、蒼の腰に手を回される。その間も唇はくっついたままで、私たちは夢中になって幼いキスを繰り返した。


 どのくらい経っただろう。気が済んだ私と、全然足りないって顔の蒼の目が合う。

 蒼は耳まで赤くなっていた。


「初めてのキスが真白からって、どうなの」


 ぼそり、と蒼が呟いたので「悪くないでしょ?」と聞き返してやった。


「悪くないよ。最高だよ。だけど、俺も男だから、ちょっとくらい見栄はりたいっていうか」

「じゃあ、この続きは、蒼がリードしてね」


 ごくり、と蒼の喉が鳴る。


「えと……それは大体いつくらいになりますか」


 なぜに敬語。おかしくなってクスクス笑いながら、うーんと考えた。

 今のキスでも私はすごく満たされたんだけど、蒼はまた違うのかな。その表情から察するに、違うんだろうな。


「定番でいくと、クリスマスとか誕生日とかかな。漫画とかゲームだとそういう展開が多いよね」


 初めてのキスに浮かれた私の気は、すっかり緩んでいた。


「漫画やゲーム?」


 蒼が訝しげに眉をひそめる。

 その怪訝な声色に、ハッと目が覚めた。そうだ。今の私にはそんな暇はないんだった。

 恋愛ゲームに夢中になったのは、竹下里香であって、島尾真白じゃない。


「皆から聞いたことあって」


 苦し紛れに絵里ちゃんたちを引き合いに出すと、蒼はなんだ、という顔になった。


「じゃあ、クリスマス。うちに泊まれる?」

「冬休みはお正月以外は寮に残るつもりだったから、外泊届け出せる、と思う」


 こんな事務的に話が進んでもいいものだろうか。

 練習の打ち合わせのようなやり取りを経て、クリスマスのお泊りが決まってしまった。


「約束な、真白」


 無邪気な様子で小指を出してくる蒼に、脱力しながら私も指を絡めた。


「ゆーびーきーりげーんまーん。クリスマスに真白は泊まりにくる! ゆーびきった!」


 この調子で蒼は大丈夫なんだろうか。

 二人でくっついて寝るだけで終わりそうな気もしたけど、それならそれでいっか、と私も笑いながら指を振った。


 

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