2.告白
お姉ちゃんが帰りに寄ったのは、小洒落た和食屋さんだった。
オフィス街の地下にひっそりと店を構えてる隠れ家的なお店。私も初めて連れてきてもらいました。おそらく三井さん経由だろうな。こういうお店沢山知ってそう。
お酒の品揃えもいいんだよ、真白たちが成人したら改めて来ようね、と彼女は得意げだ。
「静かで落ち着くでしょ、ここ。久しぶりの日本だし、まずは和食かなと思って」
メニュー表をこちらに渡してきたその顔は、褒めてと言わんばかり。私のお姉ちゃんがこんなにも可愛い。蒼も微笑ましげに顔をほころばせている。
「何でも好きなものを頼んでいいからね! 母さんに電話入れてくるわ。ましろ、私の分も適当に注文しといて」
「分かった」
スマホを片手に席を外したお姉ちゃん。
私と蒼は顔を寄せ合って一つのメニュー表を覗き込み、和風シーザーサラダにひつまぶし、明太子入りの出し巻オムレツなど、美味しそうなものを片っ端から頼むことにした。
「お腹、空いてる?」「うん、実は朝から殆ど食べてない」「それなら、ほんとに遠慮しないでどんどん食べたいもの言ってね」
お助けアイテムのお蔭で、思ったよりスムーズに会話が進む。やっと変な緊張から解放されてきたよ、良かったあ。
注文を取りにきた店員さんの視線は、伝票ではなく蒼に釘づけになった。分かる、分かる。こんな綺麗な男の子いたら、つい見ちゃうよね。……でもちょっと見すぎじゃないかな。お腹の底がむずむずする。
注文をし終えると、必然二人だけになった。
さっきの会話が嘘のように、何とも言えない沈黙が私たちの間に落ちる。
「――元気そうで良かった。大きくなったね、って言うのも変か。えーと」
先に耐え切れなくなったのは私。
またもやぎこちない喋り方になった私を一瞥し、蒼は参ったな、と呟いた。
「ましろは緊張しすぎだよ。なんで? 電話では普通だったのに」
「うん……」
昔はどうやって話してたんだろう。何故だか元のようには話せない。遅ればせながら自覚した恋心が邪魔してるとも気づかず、私は途方に暮れてしまった。
「大丈夫。変わってないよ、なにも」
「え?」
こちらを見ないまま、蒼は柔らかな声で続けた。平素を装ってるけど、テーブルの上に置かれた手はきつく握り締められ、白くなっている。
「俺はましろが好きだけど、見返りを求めたりしない。だから、そんなに怯えなくても大丈夫」
蒼の無自覚口説きモードも久しぶりだ。
小学生の頃は「はいはい、ありがとうね」で済んでたけど、今のビジュアルでやられると洒落にならない。何より、私の気持ちがあの頃とは全く違う。
「す、好きっていうのは、それは友達として」
「違うよ」
「じゃあ、家族愛みたいな感じで」
「まさか」
臆病な選択肢を提示しながら、浮き足立つ気持ちを落ち着かせようと試みる。好きって……それは、私と同じ好き? 違ったら困るんだよ、すごく。だって今ならまだ、引き返せる。
蒼への愛しさと過去への後悔がないまぜになって、胸を圧迫してきた。切ない片思いの経験は、一度だけ。だけど想いが叶ったその先を、私は知らない。どう振舞っていいのか分からない。
真っ赤になった私を目前にし、蒼は信じられない、というように何度も瞬きした。
「――紅からメールがきたんだ」
突然紅の話を持ち出され、あっけに取られた。スッと現実に引き戻されて、頭の中がクリアになる。選べなかった、もう一人の大事な幼馴染。
「今度こそ逃がすなよって。正直、意味が分からなかった」
「紅が?」
わざわざそんなメールを送ったの?
馬鹿だなあ、と真っ先に思い、それから泣きたくなった。
距離を埋められず不器用に戸惑うだろう私たちを予想し、先回りしてくれたに違いない。振られた相手の為に行動できちゃうなんて、どこまで格好いいんですか。ほんと敵わないよ。
私もあの時、花ちゃんと友衣くんにそう出来たらどんなに良かったか。完敗だ。もう一生ボンコ呼びでいいです。
「あいつも気持ちを伝えたんだろ? 俺じゃ駄目だったって。敗北宣言なんて初めてされたよ」
耳の奥で鳴り響き始めた『愛の悲しみ』。
あんなにまっすぐ求めてくれたのに、紅の欲しがっている感情を返すことはどうしても出来なかった。嫌いなわけじゃ、もちろんない。いがみ合ってたはずなのに、いつの間にか紅は、私にとってもかけがえのない人になっていた。だけど――。
「何も言われなかったよ。ただ一緒に合奏をしただけ」
「そっか。……紅は変なとこで臆病だから」
蒼はひとつ小さな溜息を落とし、私の右手を取った。
「俺も卑怯だった、さっきみたいな聞き方。本当はもっと落ち着いてからの方がいいんだろうけど、やっぱこれ以上我慢出来そうにない」
蒼の真剣な眼差しに、息が止まりそうになる。
「好きだ。俺の気持ちはずっと変わってない。電話もらって、めちゃくちゃ嬉しかった。でもましろの顔見るまで、不安でしょうがなくて。ああは言ってくれたけど、来ないかもしれないって思ったら、食欲も湧かなくて。……情けないだろ?」
蒼も怖いんだ、とようやくその時気がついた。一生懸命に私を見つめ、胸の内を明かそうとする蒼の手は、少し震えている。
ごめんね。花ちゃん、友衣くん。
私、どうしてもこの人が欲しい。
一緒にいたい、笑った顔がみたい、いつだって幸せであって欲しい。できれば私の隣で、ずっと。
「幻滅なんてするわけないよ。私も好き。蒼が、好き」
「――――やっと、手が届いた」
蒼は泣きそうに瞳を歪め、それからパッと私の手を離すと、テーブルに肘をつき両手で顔を覆ってしまった。
「ごめん……ちょっと落ち着くまでこっち見ないで」
な、なんて可愛いんですか!
グハッと喀血しそうになってしまう。
こんなに魅力的に成長したっていうのに、彼の素直な部分は全然変わってない。もしも尻尾が生えてたら、私の方こそパタパタと千切れんばかりに振ってたことだろう。
蒼はこっちを見るなっていうし、メニュー表はもう回収されちゃったし、目のやり場がない。
かっかと火照る頬を手のひらで押さえながら視線を彷徨わすと、入り口付近の格子の影からこっちを窺っているお姉ちゃんと目が合ってしまった。
やばい! というその表情で、母さんへの電話はとっくに終わってたんだと分かってしまう。
お姉ちゃんなりの気遣いが嬉しくて、私は笑いを堪えながら「おいでおいで」と手招きした。
花香お姉ちゃんがばつの悪そうな顔で席に戻るのと、最初の料理が運ばれてきたのは同時だった。
家族で外食する時に、小皿に取り分けるのはいつも私の役目。お姉ちゃんに任せると取りこぼすことが多いからなんだけど、今日はなんともくすぐったい。
「どうぞ」
蒼の前にも置くと、嬉しくて堪らないといった声で「ありがとう」と返された。……照れる。これは照れます。
「あのー。非常に甘酸っぱい空気なんですけど、そういうことでいいの?」
出し巻卵をぱくり、と一口食べたお姉ちゃんは、前置きなしの剛速球をいきなり投げつけてきた。驚き過ぎて、箸先のマグロを落としそうになったよ。
ええ~!? 今、ここでそれを聞いちゃう?
家に帰った後でこっそりつついてくるパターンだとばかり思ってました!
蒼はといえば、動揺しまくりの私をちらりと横目で見た後、お姉ちゃんに向かってそれはそれは綺麗な笑みを浮かべた。
「真白さんとお付き合いさせて頂くことになりました。これからも、よろしくお願いします」
「うわ~、ストレートだね! それはご丁寧にどうも」
自分のことを棚に上げ、お姉ちゃんは驚いたように何度か瞬きを繰り返した。それから居住まいを正し、急に真面目な顔つきになる。
「大事にしてあげてね。融通きかないところあるし、あり得ないくらい真面目だし、頑固だし、ピアノ馬鹿だけど、すっごくいい子だから。私達にとっては、世界一可愛い女の子だから」
「俺にとっても同じです」
お姉ちゃんの台詞の前半に突っ込めばいいのか、蒼の揺るぎない返事に突っ込めばいいのか、正直もう分かりません。
ただ、ぐっと喉が詰まった。
「ましろ、泣かないでよ。私、今日ウォータープルーフのマスカラじゃないんだから」
随分前にも、お姉ちゃんは同じことを言ったっけ。あの頃は、まさか将来蒼とこんな風になるなんて思ってもみなかった。
花ちゃんと同じ顔で、お姉ちゃんはふんわり笑った。
泣きそうになると出来るえくぼも、遠い記憶の中のまま。
里香のやったことが許されたわけじゃないって頭では分かってるのに、どうしても駄目だった。
気づけば目尻からじわり、と涙が零れていく。
「ましろ、こっち向いて」
蒼は囁くと、固い親指でそっと涙を拭ってくれた。
されるがままに大人しくしている私を見て、はあ、と熱いため息を零す。
「――ぎゅってしたい。可愛すぎ」
ぎりぎりこっちの耳に届くか届かないか、といった甘い囁き声。私の涙はしゅんっと音を立てる勢いで蒸発した。
もらい泣きしそうになっていたお姉ちゃんは、一瞬で茹で蛸状態になった私を見て目を丸くした。
帰りの車の中。
青鸞学院に進むことになったいきさつを詳しく尋ねられ、隠すようなことでもないかな、と軽く考えて全部喋ってしまった私は、蒼の表情が硬く強張るのを見てすぐさま後悔した。
うわ、まずい。そういえば、お姉ちゃんにとっても初耳だったはず。
「はあ!? 演奏直前にそんなこと言うなんて、信じらんないっ!」
案の定、運転席でプンスカ怒り始めてる。
「なんか気に入らないと思ってたんだよね、あの金髪野郎。次に会った時は、きっちりお礼しないと。ふふ、楽しみだわ~」
ハンドルを握りながら不穏なことを口走る花香お姉ちゃんに「私は大丈夫だから、父さん達には言わないで」と釘を刺した。
トビーが実際に八百長まがいの根回しをしてたことまで、ポロリしなくて本当に良かった。蒼との再会に浮かれ過ぎてるみたい。気を付けなきゃ。
「青鸞に入学するのは私の希望だし、今更余計な心配かけたくないの。それに、山吹さんとは和解が成立してるから」と説明し、渋るお姉ちゃんを説き伏せる。
「ふぅん……そういう奴だったんだ。胸糞悪い」
それまで黙って聞いていた蒼も、苛立たしげに短く吐き捨てた。声に込められた怒りに、違和感を覚える。私側の話しか聞いてないのに言い分を鵜呑みにしちゃうのって、危なくない?
お姉ちゃんは身内バカだから仕方ないとして……、とそこまで考え、ハタと気づいた。
――蒼も同じか。
彼は否定するけど、私に理沙さんを重ねてる部分は絶対にあると思う。身内を傷つけられて怒るのは、ある意味当然だ。
「でも、そういう人だって知ってたのに、私もガードが甘かったから。次からはちゃんと気をつけるね」
「ましろは何も悪くないだろ。……その時、傍にいたかったよ。きつい時に、何もしてやれなくてごめんな」
蒼の悔しそうな口調に、再び小さなひっかかりを覚えた。
私のピアノは、私だけのものだ。
そこには、誰も介入できない。
たとえ本番直前にダメージを食らったとしても、何とか自分で立て直して演奏に臨むしか方法はないのだ。蒼も同じ演奏家として、それは知ってるはずなのに。
「どうして。ちゃんと向こうで聴いてくれたでしょ? それで十分だし、それ以上は誰にも何も望んでないよ?」
大切な人だからこそ、本心を話したつもりだった。
蒼は一瞬、微かな苦痛の色を滲ませたものの、気を取り直したように表情を取り繕った。
「じゃあ、少しは役に立てたってこと?」
「ちょっとどころか! 蒼が聴いてるのに、みっともない演奏は出来ないって思ったもん」
転生者といったって、恋愛経験はゼロに等しい私には分からなかった。
どんなに一緒にいたいと思っても、それだけでは埋められない穴があるなんてこと。
全く異なるバックボーンをもつ別々の人間の距離をゼロにすることは不可能で、それでも共に歩きたいなら、ある程度の『優しい嘘』が必要なこと。
蒼は、母親に無残に捨てられた5歳の雪の日からずっと、膝をかかえて蹲まり、自分を無条件に抱きしめてくれる誰かを待っていた。傷ついたままの幼い自分を心の奥に封じ込め、何でもないような顔をして圧倒的な孤独の中、一人立ってきた人。
頭では分かってるつもりだったのに、結局本当には理解していなかったんだろう。
彼の傍に居続ける為に払わなきゃいけない代償について。
私は考えようともしなかった。