16.前期試験
寮と学院をつなぐ音楽の小道が、蝉の大合唱で包まれ始めた7月。
いよいよ一般教科と音楽科目の試験が始まる。前期を締めくくる最後の難関です。
三日間に渡って行われる学科試験全てで評価A以上を取らなければならない私は、梅雨明けくらいからピリピリし始め、蒼や美登里ちゃんを心配させた。
気分転換に三人での勉強会を提案したのは美登里ちゃんだ。
蒼は「ええ~。……俺は真白と二人がいい」とこぼしたけど、私が渋い顔をするものだから「三人でもいいよ」と妥協した。
いや、二人きりになるのが嫌なわけじゃなくてですね。一人でやらないと集中出来ないんじゃないかと心配なんです。
美登里ちゃんの勢いに押し切られ、放課後やることになった勉強会。これが意外と良かった。
周囲がノートにペンを走らせる音をBGMに、私も持参した問題集に挑んでいく。おしゃべりで集中力を切られることもなく黙々と勉強しているうちに、妙な連帯感さえ覚えた。
当たり前だけど、大変なのは自分だけじゃないんだなって。
疲れて手を止め目頭を揉み出せば、無言で美登里ちゃんが目薬を滑らせてくる。
パッケージをひっくり返して見ると、赤字で効用が記されていた。どれどれ。『40代からの疲れ目に効く』か。あれ、変だな。視界がますます滲むんですが。
美登里ちゃんが行き詰って学習室の広い机に突っ伏すと、気づいた蒼が教科書でポスンと彼女の頭を叩いた。
……今の、ちょっと羨ましい。
期待を込めて蒼を凝視すると、不思議そうに首をこてと傾げ見つめ返してくる。それからニコと笑って自分の勉強に戻ってしまった。くぅ。このかわいい鈍感さんめ!
ため息をつきながら体を起こす美登里ちゃんに、私はこっそり飴を渡してあげた。
目薬の仕返しをしようにも、あいにく唐辛子入り飴の手持ちはない。美登里ちゃんは嬉しそうに受け取って、参考書で隠しながら口の中に放り込んでる。
時々分からないところを聞かれたりもしたけど、元々頭がいい彼女はすぐに飲み込んでしまった。一を聞いて十を知るって感じ。生まれ持った才能の差という理不尽を、間近で見せつけられましたよ、ええ。
夏の昼は長い。
学習室の開放時間が終わっても、外はまだ明るかった。
露草館を出れば途端に、ムッとした外気に取り囲まれる。クーラーで心地よく冷やされてた身体が、何メートルも歩かないうちに汗ばんできた。
外門へと向かう美登里ちゃんに手を振り、蒼と二人になるとすぐ、彼の方から遠慮がちに手を繋いでくるのが常だった。
「あんまりくっつくと、真白が暑がるから」という理由で、指先だけをちょんと絡めた拙い触れ合い。だけど、蒼。私の頬が赤くなるのは、暑いからじゃないんだよ。
半袖から伸びる引き締まった腕や、緩めに結んだネクタイの隙間から覗く喉仏が眩しくてしょうがない。日毎に大人びていく蒼に、内心そわそわしっぱなしだ。
蒼の方も思うところがあるのか、二人きりになるといつもにまして無口になった。不機嫌なわけじゃないのは、指先から伝わってくる。
「あのさ」
「うん」
蒼が立ち止まったので、必然私の足も止まった。
蒼の空いてる方の手が、ゆっくりこちらに伸びてくる。……こ、これはもしかして。
心臓が口から飛び出さないようにきゅっと唇を引き結ぶと、蒼は私の首に張り付いていた後れ毛をそうっと剥がして、困ったように笑った。
「そんな警戒しなくても、真白が嫌がるうちは何もしないよ」
「いや、そういうわけじゃなくて」
もしかしてキスされちゃうのかな、って勝手に想像して身構えてたことなんて、お見通しなんだろうか。
あまりの恥ずかしさに穴を掘りたくなった。すんごい深いやつ。
「ぜんっぜん、平気だよ。付き合ってるんだもん、ふつーだよね。ははは」
もはや自分が何を口走ってるのか分からない。
競歩のようなスピードで歩き出した私にすぐに追いつき、隣に並ぶと蒼はくすくす笑った。こっちは必死で足を動かしてるっていうのに、彼は平然としてる。足の長さの差か。そうなのか。
「なんでそんな可愛いこと言うかな。ふつーならいいよね?って俺が無茶したら、どうするの?」
「ど、どうもしませんよ」
「へえ」
「ほんとだってば!」
「じゃあ、キスしてもいい?」
「いいよ、どうぞ!?」
なぜか逆ギレして立ち止まった私に、蒼が素早くかがみ込む。
唇のすぐ横に、温かくて柔らかなものがほんの一瞬押し当てられた。目をつぶってたから分からないけど、今のって――。
「とりあえず、予約。もっといい雰囲気の時に、初めてはとっとくね」
はにかむような笑みと共に、優しい声が降ってくる。そんなカッコいいことを言う蒼の耳も赤かった。
うわあああ!と叫んでその場から逃げ出さなかった私を誰か褒めて下さい。
甘酸っぱいテスト準備期間を経て、ようやくペーパーが終了。
まともに問題が解けたのは奇跡に近かった。だって、ちょっと気を抜くと蒼の声が脳内で忠実に再現されるんだもん。……もっといい雰囲気ってどうしたら作れるんだろう。
ぼんやり唇を押さえた後、ハッと我に返ってこれじゃいかんと首を振る、の繰り返し。涼ちゃんには「毎日暑いもんね」と可哀想なものを見るような目で労われた。
だけどこれで終わりじゃない。そう、ラスボスは実技試験だ。
「そういえば、皆の課題曲って何なの?」
お昼休み、露草館で食後のコーヒーを飲みながら二人に尋ねてみた。
「うちは、カザルスの鳥の歌。美登里は?」
「フルート専攻は、モーツァルトのフルート協奏曲だよ。二番一楽章の独奏部分」
私でもピンとくる有名どころがチョイスされてる。いいなぁ。聞きにいけたらいいのに。残念ながら、瞬間移動でもしない限り二人の演奏に立ち会うのは無理だけど。
「伴奏はピアノ科の先生がするの? 人数多いし、大変だね」
「いや。毎年OBに頼んでるらしい。付属大学の生徒が殆どだって。本番直前に一回合わせるだけだけど、すぐに呼吸を掴んでくるって聞いた」
「え、一回だけで?」
蒼の説明に目を丸くする私を見て、美登里ちゃんが補足してくれた。
「採点基準はアンサンブル能力じゃなくて、あくまでテクニックと表現力にあるわけだから、少々合わなくても気にしないんじゃないかしら」
そっか。コンサート用に完璧に一曲を仕上げる、っていうのとは確かに違うかもね。それにしたって伴奏の人たちすごいな。
「ピアノ科は何を弾かされるんだ?」
「ショパンとバッハだよ」
「なんだ。楽勝じゃん」
蒼がにこりと微笑む。
楽勝だなんてとんでもない! 苦手じゃないってだけ。
特待生として実技ではA+を取らなきゃってプレッシャーもあるし、かなり緊張している。
ピアノ科は個人レッスンが中心だし、普段ほかの子の演奏を聴く機会がないというのも大きい。みんなどんな演奏をしてくるんだろう。
「が、がんばるよ」
「そんなにガチガチにならなくても平気よ。流れ作業みたいなものだし、すぐ終わっちゃうって」
美登里ちゃんは明るく笑って励ましてくれたけど、肩に力が入るのには他にも理由があった。
少し前に、紅経由で届いた紺ちゃんの手紙。
最初はようやく連絡が取れたことに、ただ喜んだ。私からの手紙はちゃんと届いてるみたいで、ホッと胸を撫で下ろす。雨にでも濡れてしまったのか、ところどころ文字が滲んで読めない部分もあったけど、久しぶりの紺ちゃんの筆跡を食い入るように見つめた。
『連絡がなかなか取れなくてごめんね。元気でやってるから、私のことは心配しないで』
心配しちゃうよ。だってこんなに長い間離れてたこと、今までないんだよ?
『次は学内コンクールで会いましょう』
また手紙を書くね、という文字は何度探しても見当たらない。あっさりした結びの一行を、私は何度もなぞって、そして理解した。
紺ちゃんは、学内コンクールまで日本に帰るつもりはないんだ。それだけ真剣にピアノに取り組んでるんだ。
――このままだと置いていかれる。
激しい焦燥に襲われ、私はくしゃりと一枚きりの便箋を握り締めた。
紺ちゃんは本気でプロのピアニストを目指してる。……私は? ううん、私だって。
たとえほんの5分ほどのテストだろうと、ステージ上で行われるものならば、それは観客に向けた一度きりの演奏だ。全力で当たらないと、きっと駄目なやつ。
ハッと我に返ったあと、丁寧に手紙の皺を伸ばし、小さく折りたたんで花香お姉ちゃんがくれた学業成就のお守りの中にしまいこんだ。
離れていても、紺ちゃんのことを思い出さない日はない。連絡が取れなくて不安だったけど、今はピアノに集中したいってことなんだね。
それからというもの練習に行き詰った時は、制服のポケットに忍ばせたお守りをそっと撫でるのが癖になった。
そして迎えたテスト当日。
私達一年の課題曲は、バッハの平均律(一巻の22番)とショパンの練習曲8番です。
2曲連続で弾くことを指示され、流れ作業の用に順にステージに上がっては速やかに去る。一人5分くらいで、一年生全員でざっと一時間ってとこ。
同じ曲ばかり聞かなきゃいけないんだから、採点する先生方は大変だ。
私はなんとトップバッターでした。
これどうやって順番決めてるんだろう。出来れば、真ん中あたりが良かったなあ。
緊張をほぐそうと深呼吸を繰り返しつつステージ中央に進み、手早く椅子の高さを調節して鍵盤に手を置く。
まずはバッハの平均律クラヴィーアから。
半音階での全ての長調と短調での前奏曲とフーガからなるこの曲集で、J.Sバッハは対位法だけでなく、演奏技術、音楽的な奥行きなどあらゆる面でそれまでになかった作曲方法を確立し提示したと言われている。バロック技法の粋を集めたこの曲を、私は出来るだけ丁寧になぞっていった。
大げさなアーティキュレーション(音と音の繋がりに強弱や表情をつけること)をつけず、異なるメロディが重なった時の美しさを際立たせることに神経を注ぐ。静謐な響きが、ゆったりとホールに立ち昇っていくように。
緻密で複雑な折り紙を折る作業に、それはよく似ていた。
続けて、ショパンのエチュードへ。
8番はなんといっても、右手のパッセージが肝。
手首を柔らかく用い、指を思い切り回して速いテンポで駆け抜ける。さざめくアルペジオを歌う上声部を軽快なリズムを刻む低音部が支えながらも追いかけていくイメージ。
右手を鍵盤の中央から右端まで大胆に舞わせ、最後は両手をクロスさせて左手で最後の音を叩く。
よし! と思わずガッツポーズを決めたいくらい完璧に弾くことが出来た。
集中力が欠けてる時なんて、結構ボロボロ音を外しちゃうんだよね。
軽く一礼して、足早に舞台を降りた。
開放感と、練習通りに弾けた喜びで胸が弾む。客席に戻るまで、やけに多くの視線を感じた。スカートがめくれてるのかと焦って、何度も裾を引っ張ってしまったではないですか。
Aクラスから順番に演奏するみたいで、クラスメイトの大半は舞台袖に行っている。ぽっかりと空いた客席に座って、残りの皆の演奏を聴くことにした。
印象に残ったのは、同じクラスの上代くんの演奏だ。
特にショパン。艶やかな右手の鮮烈さは言うまでもなく、低音の響きがビシっと決まってカッコいい。テンポを揺らしてるわけじゃないし、楽譜に忠実な演奏なのに、華やかな見せ場を作ってくるというか何というか。拍手出来ないのがつらい。
試験中のカリキュラムは、お昼まで。
露草館の大食堂もしばらくお休みだから、寮生は購買でパンを買うか、カフェテリアで軽食を取るしかないんだよね。
蒼と美登里ちゃんからも今終わったというメールがきたので、先にカフェテリアへ向かうことにした。
外が暑い分、建物の中に入った時の爽快感ったらない。露草館の大きな扉を押し開け、ロビーに入ってふうと大きく息をついたところで、脇から声をかけられた。
「島尾さん」
この声は、富永先輩だ!
パッと声の方を向くと、先輩は一人ではなかった。隣に例の女の子を連れている。
「テストお疲れさま。ごめんね、急いでた?」
「いえ、大丈夫です」
入口付近から離れ、人通りの邪魔にならないところまできて、改めて私は先輩と女の子に向き直った。そういえば、名前も知らないんだ。
「あの、私、島尾真白です」
「知ってます。……立花 百合です」
先輩は何かいいたそうだったけど、幼馴染を信じることに決めたみたい。一歩下がって私たちの会話を見守る体勢になった。
「あの。……すごく上手かった。新歓の時もびっくりしたけど、今回のはみんな同じ曲だったから、違いがすぐに分かった。私も自分では一生懸命やってきたつもりだけど、あなたのは全然違った。比べ物にならないくらい、真剣なんだって分かった」
立花さんは、真っ赤な顔で両手を握り締め、必死に言葉を続けた。彼女の迫力に押され、相槌を打つことさえできない。
「蒼くんと付き合ってるから、ずっと彼と一緒にいる為に、私たちに見せびらかす為に、途中から入学してきたんじゃないかと思ってたの。そうじゃないってはっきり分かって、自分が恥ずかしくなった。パッとしない平凡な子だと思ってたけど、ピアノ弾いてる時の島尾さんは、すごく綺麗だったよ。……今までごめんなさい!」
「いえ……あの」
ごめんなさい、と私が謝るのは違う気がして、ちょっと考えた後ペコリと頭を下げた。
「ありがとう。演奏聞いてくれたのも、こうやって言いに来てくれたのも、すごく嬉しいです」
「……怒ってないの? いっぱい酷いこと言ったのに」
「いや、そんな酷くもなかったような」
「酷かったじゃない!」
「そうかなぁ」
パッとしない平凡な子っていうのは、本当のことだしね。もっとパンチの効いた言い方を私は他に知ってるんですよ。ええ。
私達の会話がかみ合わないのを見て、富永先輩がまあまあ、と仲介に入ってくれた。
「島尾さんは心底そう思ってるんだから、百合も意地張らないの。ごめんね、引き止めて。どうしても謝りたいけど、一人で行く勇気がないっていうから着いてきたんだ。良かったら、仲良くしてやって」
「かける! それは内緒にしてって言ったのに!」
立花さんが真っ赤な顔のまま、怒って富永先輩に飛びつく。口を塞ごうとぴょんぴょん飛び跳ねてるけど、先輩の方がうんと背が高いのでまったく効果はない。
「こちらこそ、よろしくね。学校のこととかまた色々教えてくれると嬉しいな」
「それくらい、別にいいけど」
立花さんはバツが悪いのか「そ、それだけだから! じゃあね!」と言い捨て、苦笑を浮かべてる富永先輩の腕を引きずるようにして立ち去っていった。
タイミングよく、入れ替わりに美登里ちゃんが近づいてきた。ちら、と後ろを振り返り眉をひそめる。
「さっきの、よくマシロに絡んできてる子だよね。何かあった?」
「ううん、なんにも。自己紹介して、友達になったの」
「は?」
きょとんと大きな瞳を見開く美登里ちゃんの背後から、蒼も走ってやってきた。
そんなに急がなくても、メニューは売り切れたりしないのに。大丈夫だよ、と私が声をかけるより早く、蒼は軽く息をきらせながら扉の方を指差した。
「さっき外で立花とすれ違ったんだけど、もしかして何か言われた?」
「なんで?」
「でっかい声で馬鹿って言われて、見たら露草館から出てきたところだったみたいだし、真白と鉢合わせて何かあったんじゃないかって」
「今までごめんね、って謝ってくれて、それから友達になったよ」
「は?」
さっきの美登里ちゃんと同じ口調で蒼は聞き返し、それから「なんだよそれ」と呻いてその場にしゃがみこんだ。
「じゃあ、なんで俺、馬鹿って言われたんだろ」
「蒼って案外にぶいよね」
そんなの、立花さんの精一杯の強がりに決まってる。
さよならの代わりにそう言って、彼女は長年の片思いに終止符を打ったんだろう。
私が呆れたように蒼を見下ろすと、美登里ちゃんはため息をつきながら私たちを見比べた。
「鈍いのはマシロも同じだから、似たもの同士でいいんじゃない?」
「ええ~。蒼よりはマシ」
「真白にだけは言われたくない」
むすっとした顔でこちらを見上げ、蒼は「ん」と片手を伸ばしてくる。
引き上げろと? もう、可愛いな!
スクールバッグを腕にかけ、両手で蒼の手を掴んで引っ張ろうとした瞬間。ふわりと体が浮いた。
軽々と立ち上がった蒼に逆に引っ張られ、気づけば彼の腕の中にいる。そしてそのままぎゅっと抱きしめられた。
「ちょ、ちょっと! ここ、外!」
ぴったり身体が密着して、薄着だから彼の骨格まで分かりそうだ。やっぱり男の子なんだな、どこもかしこも硬くて……って、ちょっと待て。私がこれだけ分かるんだから、向こうだって……。うわあああ。
にぶいと言われたのがよっぽど気に入らなかったのか、蒼はわざと声を低めて私の耳の近くで囁いてきた。
「こんなの誰もいないとこでやったら、洒落になんないだろ」
甘く艶っぽい声が腰を直撃し、私はその場に崩れ落ちそうになりました。
教訓。蒼に「にぶい」は禁句。わたし、覚えた。
「なんでもいいから、早くカフェに行きましょ。喉かわいちゃった」
そして、友人二人のラブシーンを目の当たりにしても、平然とそんなことが言える美登里ちゃんは最強だと思いました。