15.サポートキャラ探偵を雇う
蒼の謹慎が明けると、ようやく元の日常が戻ってきた。
だけど物事は常に流動的で、同じ一瞬なんて一秒もない。
たった一週間の不在がガラリと私を取り巻く環境を変えたのだと、すぐに蒼も気づいたみたいだった。彼と一緒にいても色んな人が気さくに声をかけてくる。寮でも、学院でも。
新歓コンサートで演奏を披露したことと、常に護衛のように付き従っていた蒼がしばらくいなかったこと。その相乗効果で、私たちが二人ひと組でまとめて扱われることはなくなった。
蒼はとても分かりやすい態度で拗ねている。
朝食を二人きりで取れなかったり、登下校中も誰かしら一緒になったり、と今までの静かすぎるくらい静かなふたりぼっち状態から抜け出せたことがどうやらお気に召さないみたい。
私は賑やかなのが好きだけど、蒼は違うもんね。
そういえば彼は昔から落ち着いた空間を好んでいた。ふと脳裏に浮かんだのは、自宅のリビングだ。ソファーの上にちょこんと膝をかかえて座り、折り紙を手にした小さな蒼がふと目をあげる。私は直接カーペットにぺたんと座って、ローテーブルの上に参考書を広げてたんだっけ。彼の視線に気づいて顔をあげ、へへ、と意味なく笑う。蒼もホッとしたように頬を緩め、また折り紙に熱中し始める。会話なんてなくても、私たちはあの頃とても満たされていた。
放課後、美登里ちゃんが苦笑を浮かべながら蒼に声をかけた。
「なんて顔してるの、ソウ」
「ほっとけよ」
「よかったじゃない。マシロが孤立してるの、私は見てられなかったわ。ソウだけのマシロじゃなくなったのがそんなに気に入らないの?」
「……うるさいって言ってんの、分かんない?」
彼女なりに心配してくれてるって分かってるはずなのに、そっけなく言い返してぷいとそっぽを向く蒼の幼ささえ微笑ましい。窘めなきゃいけないのに、どんな蒼だって愛しいんだから私も末期だ。
こんなにあなたに夢中なんだって、上手く伝わる日がいつか来ればいい。
そう、いつか。
だって私たちはまだ十六歳で、この先想像もつかないくらいの長い年月を過ごすはずだった。きちんと向き合って想いを伝えあって、時々喧嘩したりしながら。
自分の特殊な立ち位置についての不安は、この時の私の頭には微塵も存在しなかった。青鸞に無事入学できたわけだし、好きになった相手は城山 蒼だ。
世界の枠組みの中に収まってしまったのは癪だけど、少なくともバッドエンドは回避できたはず。そんな風に軽く考えていた。
「ふぅん。そういう態度取るんだ。ふーん」
美登里ちゃんはカチンときたのか、言うなり蒼に飛びつき、目を見張るほどの素早さで彼の制服の内ポケットを探った。あまりに大胆な行動に、私も蒼も硬直したままだ。
「は?……つか、ふざけんな。返せ!」
美登里ちゃんは、右手に携帯を持ちニンマリと唇を弓なりに持ち上げた。蒼がいつも使ってるスマホとは違う、古い型の携帯だ。
「私は言いましたよね、ソウ。今後一切、ムカつく態度を取らないって約束するなら、このデータをあげてもいい、と。まさか忘れたとは言わせないわよ」
「ばか、返せって!」
蒼は真っ赤になって、美登里ちゃんを捕まえようとするけれど、彼女はするりとその腕をかわして私の背中に隠れた。そしてふたつ折りの携帯を開き、「無用心ね~。ロックくらいかかってると思ったのに」と呟きながら、ごそごそと操作し始めた。
「美登里!」
蒼の必死の制止にも関わらず、美登里ちゃんは私の耳元に携帯を近づけ、カチリ、とボタンを押した。
――『おはよう』
『もう朝だよ』
『早く起きて』
『今日も1日頑張ってね』
……え?
これってもしかしなくても、私の声?
蒼は私の表情を見ると、がっくりとうな垂れそのままドカリと自分の席に倒れ込んだ。
「ふふーんだ。ね、覚えてる? これ昔、私がマシロに頼んだやつだよ」
「今、思い出した。……もしかして、ずっと持ってたの?」
美登里ちゃんの悪戯を咎めるより先に、気になって仕方ないことを聞いてみる。蒼は机に突っ伏したまま、微かに首を縦に振った。
「こ、こんなの、もういらないでしょ。今は一緒にいるんだもん」
とりあえず、これは処分してほしい。自分の声をきちんと聞いたのは初めてだったけど、日頃耳にしてるのとはまた違うんだね。何だかとてつもなく恥ずかしい。
しゃがみこんで小声で蒼に話しかけると、今度はさらさらと艶やかな水色の髪が横に揺れた。
「……返して」
「え、だってこんなのまだいる?」
「すごく大事なんだ」
蒼は突っ伏したまま、微かに身じろぎし切れ長の瞳を前髪の下から覗かせた。彼も恥ずかしいのか、目のふちがほんのり赤く色づき、しかも潤んでいた。
ただでさえ目に毒な美少年なのに、更にうるうるの上目遣いとは! 威力は計り知れない。計測不能! もうひとりの私は叫んでドウと倒れ伏した。
「俺は中学の時のましろを知らないから。だから、たったそれっぽっちの声でも、俺には大事なんだ。変なことには使わないから。持ってるだけだから」
なりふり構わず懇願してくるの、ずるい。そんな風に言われたら抗えないよ。
しぶしぶ携帯を渡すと、蒼は体を起こしてそそくさと内ポケットにしまい込み、ついでに美登里ちゃんを睨みつけた。
「お前なぁ」
「ソウが悪いんでしょ。約束破りは最低よ」
美登里ちゃんは顎をくいとあげ、腰に手をあてた。高飛車なお嬢様ポーズが非常に似合ってます。
「だからって、ここまでやるか?」
「今度また私に嫌な態度とったら、もっとひどいこと考えついてやるから」
美登里ちゃんがやるといったらやるだろう。短い付き合いの私ですらそう思ったのだから、蒼は言うまでもない。彼は深々と溜息をつきながら美登里ちゃんに向き直った。
「ごめん、悪かった」
「うん。それでよし」
機嫌を治した美登里ちゃんは、「あ、そうだ」と何かを思いついたように大きな瞳をしばたたかせた。
「ソウの謹慎中、理事長のこと調べさせたの。あなた達に当たりがキツい理由が気になって。そしたら――」
そこまで言いかけて美登里ちゃんは、きょろきょろと辺りを見回した。教室内にはまだ数名残って、雑談している。調べさせた、ってさらっと言えるのすごいな。彼女、まだ高校生ですよね? しかもトビー絡み。嫌な予感しかしない。だけど聞いておかなきゃいけない気がした。
「大丈夫だとは思うけど、外で話してもいい? 甘いもの食べたくなってきちゃったし、お茶しに行きましょうよ」
「いいよ。じゃあ、露草館に寄ってく?」
「それも悪くないけど、たまには場所を変えて気分転換したいわ」
いこう、いこうと腕を組まれ、美登里ちゃんに引っ張られるように外門へと向かう。蒼は怪訝な顔をしながらも大人しくついてきてる。途中すれ違った寮の先輩に「ちょっと出てきます!」と声をかけた。
「遅くなりそうだったら連絡いれてー。夕食キャンセルしとくから」
あっさり頷き手を振ってくる先輩に「了解です! お土産買ってきますねー」と私が手を振り返すのを見て、蒼は面白くなさそうに唇を引き結んだ。
「すっかり馴染んでるじゃない、マシロ。今の人は?」
迎えの車を呼ぶ為の電話を切ったあと、美登里ちゃんは瞳を輝かせて尋ねてきた。
「寮の先輩だよ。ロマンチック研究会の人」
「ロマンティック? なに、それ!?」
「私もまだ参加したことないんだけどね。涼ちゃんに紹介して貰ったんだ」
喜々として食いついてきた彼女に説明すると、「面白そう! いいなぁ。私も寮に入ろうかしら」などと言い出した。私が口を開く前に蒼が「勘弁しろ」と即答したので、美登里ちゃんは頬をふくらませた。
「いいじゃない。自分だって散々叔母さまにゴネて入寮した癖に」
「俺はいいの」
「私もいいの」
「よくない」
「いい」
このしょうもない言い合い、いつまで続くんでしょうか。いいか悪いかでいえば、二人共良くないよね。
間に挟まった私を味方につけようと、そのうち彼らは腕を引っ張り出した。ぐらんぐらんと両側から揺さぶられ、さっきから視点が定まらない。
「ああ、もうっ! 私、帰るよ!?」
耐えかねた私が一喝すると、二人は慌てて手を離し、そっくりな表情でしょぼくれた。似たもの同士、そして同族嫌悪という言葉が頭をよぎる。
あんまり仲良くされちゃうのも心穏やかじゃないけど、喧嘩はしないで欲しい。絶妙な距離感で……って、私も大概わがままだな。
「ましろ、ごめん」
「そんなに怒らないで。大人しくするから。ね?」
眉尻を下げたままの二人が口々に謝ってくる。……くっ。可愛い。こんなのすぐ許しちゃうよ!
生まれてこの方どころか前世でも次女ポジションでのうのうと過ごしてきた私は、不器用な彼らが甘えてきてるだけだと気づかなかった。蒼だけじゃなく、美登里ちゃんも私をすごく好きでいてくれたことにも気づけなかった。
迎えの車に乗り込んだ後も、私は二人に挟まれたままだった。
広い車内が嘘のようにぴったりと圧迫される。連行される犯人もここまでがっちりはホールドされるまい。半ば引き摺られるように素敵なティーサロンへと連れていかれ、私はそこで衝撃的な話を聞かされる羽目になった。
「理事長の昔の恋人が、森川理沙!?」
個室を予約してもらっておいて良かった。
驚愕のあまり素っ頓狂な声をあげてしまい、慌てて口を押さえる。反射的に隣を窺えば、すとんと表情の抜け落ちた顔で蒼は平べったい声を出した。
「へえ。まあ、そんなことだろうと思ってた」
「ええっ!? だ、だって、理事長ってまだ三十かそこらだよね。理沙さんとはかなり年が離れてるよね」
一番気になった点を思わずツッコんでしまう。
自分を捨てた母親の過去話なんて聞いて楽しいはずもないのに、しまった、と口にした後で青ざめた。
「そんな顔するなよ。俺は大丈夫だから」
「……無神経でごめん」
「全然。これからも何かと見張られそうだし、向こうの事情は俺も知っときたい。美登里、続けて」
冷静な蒼の声に、自分が恥ずかしくなる。
いい薫りの紅茶に手を伸ばし、コクンと飲み下して気持ちを落ち着かせた。もう驚かない。蒼が実は理事長の子供だって言われても……いや無理だ。めちゃくちゃ驚くわ。
「すごく、って言っても十は離れてないはずよ。これが当時の理事長の写真。十五歳の時ね。できれば二人で写ってるものが欲しかったけれど、そこまでは無理だったみたい」
美登里ちゃんがスッとテーブルに滑らせてきた写真を見て、口に含んでいた紅茶を噴きそうになった。
だって写真の理事長ってば、どう見ても成人してるんだもん! 背も高いし顔つきだって少年のそれじゃない。……実は老け顔だったのね、トビー。
「問題は、付き合ってる当時、理沙さんは結婚してることを隠してたってことね」
負けない。負けないぞ。
驚かないって決めたんだからな。
「まぁ、理事長の方も自分の素性を明かしてなかったんじゃないかと思うのよ。リサさんだって、相手が未成年だと分かってたら危ない橋は渡らなかったでしょうし」
「俺は? はっきり言ってくれていい」
「あなたは正真正銘、城山の子よ。DNA鑑定だって済んでるわ」
鑑定? それって――。
「依頼はどっちが?」
「……城山恭司よ」
「ははっ。そりゃいい。父は二人の関係を知ってたってことか。じゃあ、俺を産んだ後のあの人の入院は、体のいい監禁だったのかもな」
「どうなのかしら。その辺の事情は分からない」
自嘲を含んだ蒼の嘲りの言葉に、胸が突き刺されたかのように痛む。流石の美登里ちゃんもしかめっ面で答えた。
「真相はどうあれ、理事長があの人たちを今でも恨んでいる可能性はあるってこと。だから、気をつけて」
「ああ、そうする。助かったよ……胸糞悪い話を調べさせて悪かった」
「なにそれ、嫌味? うちのゴタゴタを知ってるあなたには言われたくないわね」
「そんなつもりないよ。素直にありがたいと思ってる。……出ようか。ここは奢る」
蒼は一度も私の方を見ないまま、伝票ホルダーを掴んで立ち上がり部屋を出て行ってしまった。
まだ半分チェリーパイが残ったままの皿を見て、悲しくなる。動揺してないはずがない。普段の蒼なら食べ終わるまで待ってくれるのに、そんな余裕もないってことだ。私もすっかり食欲は消え失せていたから、胸の中で作ってくれた人に手を合わせ、静かに席を立った。
「マシロ」
美登里ちゃんのひんやりした細い指が、何かを訴えるようにぎゅっと私の手を握ってくる。
「大丈夫だよ。面倒だなんて思ってない」
「……どうしてそういうとこだけは鋭いのよ」
口元は笑っているのに、眼差しは暗く翳っている。そんな顔されたらすぐに分かっちゃうよ。
美登里ちゃんは、なんだかんだ言っても蒼を心配してる。これ以上傷ついて欲しくないと願ってる。
「私も美登里ちゃんと同じ気持ちだから」
「マシロは優しいね。……ソウが羨ましいわ」
今にも泣きそうな声でぽつりと美登里ちゃんは言って、それから綺麗に微笑んだ。思わずこぼしてしまったけれど、これ以上は立ち入るなのサインかな。
「美登里ちゃんのことも大好きだよ」
「そういう言葉をさらっと言えちゃうの、マシロの強みね」
強みなんだろうか。
ただ知ってるだけだ。伝えたいと思った時に伝えないとダメなんだって。
「頼りないし、聞くだけになる可能性大だけど、いつでも言ってね。誰かに聞いてもらうだけで気持ちが楽になるってあるし」
「これ以上お荷物を抱え込むつもり? 本当にお人よしね」
美登里ちゃんは笑って拙い申し出をかわすと、私を促して店の外に出た。出てすぐのところで待ってくれていた蒼を一瞥し、「頑張ってね」と耳打ちしてくる。
それから、彼女は明るく蒼に声をかけた。
「私はこのまま家に戻るわ。送らなくても平気でしょ?」
「ああ」
蒼は美登里ちゃんに頷くと、ようやく私に視線を向けた。むすっとして見えるけど、それは違う。緊張してるだけだとすぐに分かった。
「また明日ね、美登里ちゃん。蒼、電車で帰らない? 今の時間ならまだそんなに混んでないだろうし」
こくりと頭を揺らしたものの、その場から動けないでいる蒼に近づき、そっと手を取る。油の切れたロボットのようなぎこちなさで、蒼も私の手を握った。
「買い物に行った時以来だね、一緒に電車に乗るの。ドイツではよく乗ってた?」
「いや。車の移動が多かったかな。……ましろは?」
「学校近かったから、自転車だよ。蒼は覚えてないかな。絵里ちゃんっていう近所に住んでる子が毎朝迎えに来てくれてさ」
駅までの道はあっと言う間だった。電車に乗り込んでからはひそひそ声で、離れていた間の話をし合う。最初は戸惑っていた蒼も、次第に普段通りになってきた。
「夏休み、中学の仲良しみんなで集まろうって話が出てるみたい。蒼も一緒に行く?」
「え、いいの?」
「だって、もうみんな彼氏持ちで連れてくるっていうんだもん。蒼が気後れするなら無理にとは言わないけど、私にも見栄を張らせてよ」
「嬉しい。行きたい!」
「うん、じゃあ一緒に行こうね。お休み楽しみだね~。前期試験終わったら、遊園地にも行きたいな」
指折りながら未来の話をする私に、蒼はようやく強ばっていた表情をほどいた。
「――真白のご両親にも会いたいな。お姉さんにも」
「そうだね。じゃあ、うちにもおいでよ」
「真白は気持ち悪くないの? 俺、すげえビッチな女の子供だったみたいだよ」
それは本当に突然だった。
危うく普通に相槌を打ちそうになり、すんでのところで踏みとどまる。
森川理沙さんがどんな気持ちだったのか想像もつかない第三者が、うかつに返事をしてはいけないと思った。かといってなんて答えればいいのかもわからず、膝の上で拳を握る。
「真白んちのご両親とは全然違う。俺が生まれたせいで壊れたのかと思ってたのに、その前からボロボロだったんだな、うちって」
「蒼のせいじゃない」
「遺伝してるかも。血をひいてる」
蒼はぼそぼそとそんな馬鹿げたことを呟き、きつく目を閉じた。長い睫毛が微かに震えてる。
「自分が気持ち悪い」
人目がなければ、思いっきり抱きしめたのに。
少なくとも私はそう思わないって証明できたのに、いかんせんここは電車の中だった。
「……蒼は綺麗だよ」
覗き込もうと首を傾け、俯き加減の蒼を見上げる。
恐る恐る開いた瞼から見えた彼の瞳は、本当に綺麗だった。