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14.フラグ回避

 新入生歓迎会が終わって、変わったことは二つあった。

 まずは授業が本格化したこと。今までお客さん扱いされてたんだな、と遠い目になるくらいの濃縮した授業と実習が始まった。これから毎日のように行われるという小テストの不合格ラインは8割で、到達できなかった場合は通常の課題にプリントやらレポートやらが上乗せされる鬼畜仕様だ。

 

 「おはよ。あれ、美登里ちゃん、今日は早いね」

 「数Aの小テストに引っかかったの! プリント5枚の提出今日までなんだけど、意地悪な問題ばっかりでなかなか進まないのよ」

 「どれ?」


 彼女の手元を覗き込んで詰まってる部分を見てみると、分かりにくくしてあるものの公式を当てはめれば解ける問題だった。あー、でも確かに意地悪かも。


 「教科書の56ページの囲みのとこ見てみて。ほら、ここの公式」


 指さしながら簡単に説明すると、美登里ちゃんもすぐにピンときたようで表情が明るくなった。


 「マシロ、ありがと! ついでに音楽史のレポートも見せてくれるとありがたいな、なんて」

 「も~。調べ物面倒くさがるの、ダメだよ?」

 「ごーめーん。次はちゃんと間に合わせるから。……おねがい」


 美少女のおねだりってズルいよね。気づけばふらふらとバッグをさぐって自分のレポート渡してたよ。

 もし蒼がここにいたら、「甘えるな」って美登里ちゃんを窘めただろうな。ふとそんなことを思って、急に寂しくなった。

 一人で辿る音楽の小道は色褪せて見えるし、一人でとるお昼ご飯はすごく味気ない。ありがたいことに、美登里ちゃんや涼ちゃんが空いてる時は一緒にいてくれる。それはそれで楽しいんだけど、胸に空いた穴は塞がらないと気がついた。一人が嫌なんじゃないんだ。蒼の不在が寂しくてたまらない。たった数日離れただけで、こんなにも彼が恋しいなんて。

 それは私にとって、すごく大きな発見だった。


 変わったことはもう一つ。

 特待生ではなく学院の有名人そうの彼女、として見られていたのが無くなった。クラスメイトに名前を覚えてもらったし、見知らぬ上級生から「演奏、良かったよ」って話しかけられることも一度や二度じゃない。一人でお昼ご飯を食べてた時なんて、一緒にどうかと気遣ってくれる子まで現れて、びっくりしてしまった。

 わたし、もうべっちん相手に腹話術しなくてもいいのね!

 

 例の女の子も富永先輩が注意してくれたみたいで、態度がだいぶ柔らいでる。

 前みたいに、すれ違いざまに嫌味を言われたり、遠くから睨まれたりすることが無くなった。憧れの先輩の幼馴染だし、他のクラスメイトと談笑してる時はすごく可愛く笑う子なんですよ。出来れば私も彼女と、今よりほんの少しでいいから円満な関係を築きたい。いつかそうなれたらいいな、と遠目にこっそり見てます。こっちの視線に気づくと顔をしかめて逃げちゃうんだけどね。……泣いてないよ。


 紅の根回しも順調なんだろう。入学式で威圧的だった女子生徒達ですら、普通にクラスメイトとして接してくれるようになった。小学生時代に一度だけ会ったことのある宮路さん達はと云えば、あまりに平凡すぎた私は彼女らの記憶に残らなかったようです。特に目をつけられるでもなく、道端の石的に扱ってもらってる。宮路さん達に石っころ扱いされてるのは、何も私だけではない。紅様ファンクラブに加入してない子は、みんなそうだ。むしろ、そこまで揺るぎない信者を持ってる紅のカリスマ性がこわい。

 

 

 蒼の謹慎を聞きつけた紅からは、コンサートが終わってすぐにメールを貰っていた。

 

 ――『いい演奏だったよ、お疲れ。蒼から話は聞いた。お前は大丈夫か? 変な遠慮するなよ。困った時は頼ってこい』

 

 彼らしくない素直な文面に、危うく涙が出そうになりました。さすがは紅。普段は戦略的知らんぷりを貫き通してても、ここぞって時にはちゃんと手を差し伸べてくれる。

 

 ――『ありがとう。忙しいと思うけど、蒼の様子を見に行ってくれると嬉しいです。寮のご飯も部屋食に変わってるんだ。誰にも会えないの、寂しいと思うから』

 

 しばらく考えた末、私はそう返信した。

 いつもはすぐにくる返信がなかなか来なかったから、私はやきもきして何度も携帯を確かめた。図々しいお願いだったかな。蒼の保護者面しやがって、こいつ、何様だよ、って思われたかな。

  

 ――『了解』

 

 次の日送られてきたそっけないその二文字に、私は心から安堵した。紅が引き受けたからには、きちんとしてくれるってことだ。そういうところ、彼はすごく律儀だから。


 蒼が新歓コンサート前日、こっそり私の部屋に来たみたいに、私も忍んでいけたらいいんだけどね。その手はもう使えない。

 悪いことは出来ないもので、夜遅く山茶花寮インヴェルノホールへ帰っていく蒼を、戸締りの最終確認をしていた寮長さん達が目撃したらしい。それも、ちょうど私の部屋の窓からひょいっと飛び降りたところを。決定的瞬間ですよね。はい、言い逃れ出来ません。

 謹慎処分の話がなくたって、花桃寮に男子寮の生徒が入るのは御法度だ。コンサートが終わった次の日、私は寮長を務める三年の水谷先輩に呼び出された。

 

 「お付き合いしてるんだし、いつでも会いたいのは分かるけど、規律が乱れると寮の存続にも関わってくるの。皆に迷惑かけることになるし、気をつけて欲しいな」


 私よりも困った顔で、水谷先輩は私を優しく諭した。

 気軽な気持ちで蒼に「ピアノ聞きにくる?」なんて言ったけど、大変なことだったんだ。気持ちが浮ついてたとしか言いようがない。ああ、バカバカ。私だけならいいけど、これで蒼の処分がもっと重くなったらどうしよう。


 「すみません。でも、蒼は悪くないんです。私が考えなしでした。本当に申し訳ありません!」

 「あー、うん。今度から……って、やめてー。何するの、この子! やっぱりこういうの、私にはむりー」


 深々と頭を下げ、そのまま膝をつこうとした私に水谷先輩は急に慌てだし、隣にいた副寮長のミチ先輩に泣きついた。


 「ちょ、まさか土下座する気じゃないよね。ほら、立って、立って。真白ちゃん、運が悪かったね。その時、寮長と一緒にいたのが私だったら良かったんだけど、りっちゃん先輩だったから。まあ、どんまい」

 「え?」


 私の腕を掴んで引っ張り上げ、よしよし、と頭を撫でた後、ミチ先輩はあっけらかんと言い放った。意味が分かりません。みっともないと思う余裕もなく、ぽかんと口が開いてしまう。


 「リツも彼氏と別れたばっかで気が立ってるんだよ。いつもはそんな厳しくないもん。でも、一応規則はみんな守ってるって建前だから! うん、建前は大事だから!」


 自分に言い聞かせるように頷きながら宣言した水谷先輩は、その勢いのまま私の手を取った。


 「ああ、もう。震えちゃってるし~。ごめん、びっくりしたよね。島尾さんは真面目だもん、男引き込んで最後までとか、有り得ないって私は思ってるよ。しかも、コンサートの前日だよ? 腰にくるじゃん。そんなわけないってリツにも言ったんだけど、聞かなくて。一応、注意勧告したって体裁を整えなきゃいけなくなったの。そういうのに厳しい子は他にもいるから、今度から見つからないように十分気をつけてね」


 普段楚々としている水谷先輩のさくらんぼのような唇から、なにかとんでもなく不適切な言葉が飛び出た気がするけど、気のせいだよね、うん。……ええっ。そんなだってまだ私たち高校生……ええっ!?

 意味なく口を開け閉めした挙句、結果「はい」としか言えなかった私を見て、ミチ先輩はぶはっと噴き出した。


 「私は半信半疑だったけど、今ので確信したわ。いや~、真白ちゃん、ピュアっ子! っていうか城山くんの忍耐力、ハンパない~」


 ぶははは、と豪快に笑うミチ先輩につられて、水谷先輩も笑いはじめる。


 「でも、終わって良かった。こういうの、ホント苦手。寮長なんて引き受けるんじゃなかったよ」


 笑いすぎて滲んだ目尻の涙を細い指で拭い、水谷先輩はそう締めくくった。

 なんともいえない気持ちのまま、お辞儀をして部屋を出る。自分の部屋に辿りついてもまだ、腑に落ちないままでした。えっと、男子禁制は建前で、でも建前は大事って話で――結局、どういうこと? 

 思い切って美登里ちゃんにその話を打ち明けたら、彼女にも大笑いされた。


 「マシロはそのままでいいのよ。ほんと、融通きかないっていうか、堅物っていうか。うふふ」


 もういいよ!

 ぷりぷり怒ってはみたものの、美登里ちゃんの「褒めてるんだってば。そういうところが可愛いのよ、マシロは」って口説き文句に怒った表情は崩されてしまった。えへへ、とはにかむと、何がツボだったのか美登里ちゃんはまたクスクス笑った。

 蒼は注意されなかったみたい。水谷先輩が自分のところで話を止めてくれたんだろう。すごくホッとしたのと同時に、もう二度とすまい、と固く誓った。

 

 というわけで、蒼の顔をチラとも見られない生活が、もう5日も続いている。

 謹慎期間が明けるまで、あと2日。会いたくなるから、電話もメールもなしにしてと蒼が言うので、声も聞いてない。はっきり言って、すごく寂しい。

 亜由美先生の都合で、今週はレッスンがお休みになった。本当だったら、どこかへお出かけ出来たのにな。映画見に行ったり、臨海公園へ散歩しに行ったり。抜けるような青空が恨めしい。こんな憂鬱な土曜日は初めてだ。

 あんまり集中できないので、早々に勉強は切り上げた。ピアノ、練習しようかな。気は乗らないけど、日課はこなさなきゃ。

 溜息をつきながら続き部屋へ足を向けたものの、途中でカレンダーが目に止まった。

 日に何度も見てるそれを、もう一度眺めて日付を再確認してしまう。穴があくほど見つめても、数は減らない。残り2日だ。

 その時、突然電話が鳴り響き、私はびくんと飛び上がった。すみません、今、やろうと思ってました、亜由美先生!


 「はい!」


 着信元を見もせずに、慌てて携帯を耳に当てる。


 『おはよう。蒼じゃなくてごめんね』


 紅の笑みを含んだ低い声に、私は安堵の息を漏らした。良かった~、亜由美先生じゃなかった。


 「ううん、大丈夫。おはよ」

 『今日、亜由美のレッスン休みなんだって?』

 「うん、コンサートの打ち合わせが入っちゃったみたい。調整できなくてごめんねって言ってたよ」

 『亜由美も忙しいからな。じゃあ、今日は暇なわけだ』

 「……まあね」


 話の先が見えなくて、つい返答が鈍ってしまう。紅には何もかもお見通しみたいで、ハッと馬鹿にしたような声が聞こえた。今この人、鼻で笑いませんでしたか。


 『まさか警戒してるの? 俺がそんなに諦め悪い男に見えるのなら、心外だな』

 「ち、違うけど! 紅が持って回ったような言い方するから」

 『俺が悪いのか?』

 「違う……ごめんなさい」

 『まあ、いい。これから蒼のところへ気晴らしに行くつもりなんだ。お前も来いよ』


 いや、だから行けませんって。紅だって寮の規則は知ってるはず。ついでにこの間の話もしてみた。絶賛反省中なんですよ、わたし。

 顛末の一部始終を黙って聞いていた紅は、笑わなかった。その代わり、『要は上手くやれって話だろ。確かに建前は大事だよな』と余裕たっぷりに言い切った。そういう話なのか。でも上手くやれる自信なんてないんですが、それは。

 

 『いいから、俺に任せて。とにかく出ておいで』


 言いだしたらきかないのは、蒼も紅も同じだ。付き合いが長い分、よく知っている。私は諦めて、彼の指示通りに動くことにした。


 ――動くことにした自分を、小一時間ほど問い詰めたい。どうして無条件にこの赤い悪魔を信用したのか、と。


 


 「くくっ。いや、似合ってるよ。にあ……ぷっ」

 「笑うならちゃんと笑って!」


 寮の外門の前で待ち構えていた水沢さんに連れられてやってきたのは、とある美容院。貸切状態のそこで、私は着替えさせられ髪をまとめてくくられ、軽く化粧までされた。

 プロデューサーのように鷹揚に構えた紅の指示であれこれ試され、これならいい、というゴーサインが出るまで1時間もかかっていない。美容院のスタッフさん達は、満面の笑みで作品わたしの仕上がりをチェックしている。


 「パーカーのフードをこのくらいの角度で被って、はい、完成です」

 「や~ん、可愛いですよぉ」

 「うん、可愛い!」


 磨かれた大きな鏡には、確かに可愛い男の子が映っている。

 真っ白なTシャツに腰履きのゆるいジーンズ。無造作に散らした前髪に、スクエアな細めの伊達眼鏡をかけたその子が、自分じゃなかったら私もそう思えたよ!

 裸に剥かれ、さらしで胸をぐるぐる巻きにされただけでも羞恥で爆発しそうになったのに、なんなの、この仕打ち。


 「紅?」

 「はいはい、怒らない。こうすればパッと見、真白も男子高校生だろ?」


 一人掛けソファーから悠々と立ち上がり隣に並ぶと、紅は鏡の中の私に向かって微笑みかけてきた。

 身長差を埋めるため、腰をかがめて肩を抱いてくる。調子に乗った紅がこつん、と頭をぶつければ、鏡に映った2人の男の子が仲良く同じポーズを真似た。


 「写真とりたい! 紅くん、撮っちゃだめ?」

 「店長はすぐその写真をモデル事務所に売ろうとするから、ダメ」

 「ええ~。けち! 鬼! 抱いて!」

 「店長、それ条例違反」

 「違反じゃなくても勘弁して。でもまあ、今日はありがとう。また来るよ」


 身をくねらせながら私たちをうっとり見つめる壮年男性ほか2名を置いて、紅はさっさと歩き出した。

 こいつ、悔しいほど世慣れてやがるぜ。ハンカチをギリィと噛みたい気持ちで、精一杯足を速める。こうしないと、紅の脚が長いから置いていかれそうになるんです。ぎりぃ。

 車まで来ると、紅は私を助手席に押し込めた。自分は優雅な所作で広い後部座席に乗り込んでいる。今までと違う席に首をひねった私に、水沢さんがエンジンをかけながら小さな声で教えてくれた。


 「真白さまを諦めようと、紅様なりに努力されてるんですよ」

 「……すみません」

 

 何もかもお見通しなのは、水沢さんの方かも。優しい眼差しに胸が苦しくなる。だけど申し訳ない気持ちを抱くのは、蒼への裏切りのようで落ち着かなかった。


 「真白さまの幸せを、私も紅様も祈っております」

 

 謝らなくていい、と言わんばかりに、水沢さんはにっこり笑ってくれた。水沢さんも紅も、本当にいい人だ。


 「くくっ。それにしても、着替えてる時のお前の顔。傑作だったな。鳩が豆鉄砲くらうって言うけど、あれ比喩表現じゃなかったのかって。……くくっ。だめだ、思い出すと腹が痛い」


 おいおい、紅さんよ。いつまで笑ってんだよ。

 私を隣に乗せなかったのって、思う存分笑う為じゃないの。身贔屓という名の水沢さんフィルター発動を疑ってしまいます。紅の思い出し笑いをバックにじっと水沢さんを見つめると、サッと視線を避けられた。



 玄関ホールで偽名を使って受付を済ませ、「謹慎中だから面談は一時間まで」と寮母さんに釘をさされた後、山茶花寮インヴェルノホールへ通された。身バレするんじゃないかと終始冷や冷やしていたけど、嘘みたいに誰も私とは気づかなかった。


 「紅さまと一緒にいるの、誰?」

 「えー、可愛いじゃん」

 「うん、いい感じ。一年にあんな子いた?」


 玄関先で鉢合わせた女子寮の先輩たちの会話には、心底肝が冷えた。私ですよ、先輩。島尾真白です!

 ずっと俯き加減で移動したせいで、初めて入った男子寮のことは殆ど覚えていない。間取りが女子寮と対称なんだなってくらい。途中、2階から降りてきた男子生徒が作曲科の阪田先輩だと分かった時には、正直もうだめかと思いました。私が仲良くさせてもらってる数少ない先輩の一人なんです。


 「あれ? 成田だっけ。また会いに来たのか」

 「こんにちは。お邪魔してます」

 「あとちょっとだから頑張れって言っといて。それから、ちゃんと飯食えって」


 思わず声が出そうになった。

 蒼、ご飯食べてないの!?


 「そっちは?」

 「俺たちの幼馴染です。青鸞じゃないんですけど、会いたいっていうから一緒に来たんですが、まずかったですか」

 「いや、いーんじゃねーかな。黙ってりゃおっけーだって」


 とことん気楽な阪田先輩に、私はペコリと頭を下げた。


 「大人しいなぁ。小せぇし細ぇし。お前もちゃんと食えよ。じゃないと成田みたいに大きくなれねえぞ」

 

 わはは、と笑う先輩にひとつ肩を叩かれた。

 男の子同士の挨拶って、こんなに荒っぽいものなの!? 

 弾みでよろけた私を片手で支え、紅は笑いの発作を堪えようと拳で口元を押さえる。涙目になりながらペコリと頭を下げ、阪田先輩が見えなくなったところで私も拳をつくって、紅の腰をぐりぐりと抉ってやった。


 

 ようやく蒼の部屋にたどり着く。私に抉られた腰をさすりながら紅がノックすると、しばらく置いて億劫そうな声が返ってきた。


 「だれ?」

 「俺だよ。今日は連れも一緒」


 静かにドアノブが回り、Tシャツにジーパン姿の蒼が顔を覗かせる。

 こんな時だっていうのに、初めて目にしたラフな格好に心臓が暴れだした。格好つけてなくてもカッコいいんですね。どうしよう。久しぶりに逢えた興奮と相まって、鼻血がでそうだよ。


 「連れって誰? 悪いんだけど、ほっとい……」

 

 迷惑そうに眉をしかめた蒼の視線が、私に留まる。訝しげな色が驚愕のそれに変わるまで5秒もなかった。


 「……っ! 嘘だろ」

 「ここまできたのに、門前払いはないよな、蒼」


 言葉も出ないくらい驚いてる蒼を見て、紅は悪戯が成功した子供みたいに嬉しげだ。私と蒼を会わせてあげようって善意はもちろん、この顔が見たかったのもきっとあるんだろうな。


 「入って。――ましろも」


 蒼の声は、周りを憚ったのか小さく掠れていた。

 ましろ。私の名を呼ぶいつもの優しいトーンに、感極まってしまう。変装してても私だってすぐ分かってくれた! 久しぶりに声が聞けた、顔が見られらた。……すこし、痩せた?

 ドアが締まってすぐ、私は我慢しきれず蒼に飛びついた。

 

 「ちゃんとご飯食べてないって、どういうこと!?」


 涙声になってしまうのは、もう仕方ない。頭を胸にくっつけて両腕を掴み、身体を揺さぶる。甘ったれな私の振る舞いを、蒼は許してくれた。


 「ごめん、食欲わかなくて。もっとちゃんと食べるよ」

 

 ぐずぐずと鼻を鳴らす私を見て、紅はひどく驚いたようだった。


 「――えらく心配性になったもんだな」

 「俺が悪いんだよ」


 蒼は寂しそうな声でそう言って、まだくっついたままの私の背中を撫でてくれた。大きな骨ばった手が一定のリズムで上下する。その優しい振動に身を任せているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。

 冷静になると、途端に自分の子供っぽさが恥ずかしくなった。


 「ごめんね。取り乱しちゃって。もう大丈夫」


 照れ笑いを浮かべ、そっと身体を離す。蒼はかるく頭を振って、私の頬に手を当てた。


 「びっくりしたよ。まさか来てくれるとは思ってなくて。これ、紅にしてもらったの?」

 「紅の美容師さんがしてくれた。ね、ちゃんと男子高校生に見える?」


 一歩下がって、くるりと回って見せる。


 「うん。でも、やばいな。すごく可愛い」

 「えへへ」

 「真白が男でも、好きになったかもしれないのかな、俺」

 「それはないよ、ないない!」

 「そうかな。だって、こんなに可愛いのに」

 「――そろそろ、俺がいるって思い出して貰ってもいい?」


 勝手に蒼のベッドに腰掛け、雑誌をぺらぺらめくっていた紅が声をあげる。蒼の発言をリアルに想像して気持ち悪くなったのか、これみよがしに腕をさすり始めた。


 「あと、いちゃつき方が気持ち悪い!」


 あ、やっぱり。

 ごめんなさい。褒められたのが素直に嬉しかったんです。


 「紅だって、可愛いと思ったくせに」

 「思ってない。でも、最高に面白かった」

 「まだ言うか」


 3人でこうやって話すのは随分久しぶりだ。

 空白の時間なんてなかったみたいに、私たちは色んな話をして笑い合った。一時間じゃ全然足りない。時計を見て、がっくり肩を落としてしまう。そろそろ帰らなきゃ。まだ10分くらいしか経ってないと思ったのに。


 「そんなに嬉しかった?」


 帰り支度を始めた私たちをぼんやり眺めていた蒼が、どこか他人事みたいに聞いてきた。まじまじと顔を見つめ返してしまう。


 「当たり前じゃない。どうして?」

 「俺が真白の部屋に行った時は、そこまで寂しがらなかったから。紅と会うのも久しぶりだっただろ?」

 「それは……!」


 コンサート直前で気が立っていたというのもあるし、まさかこんなに蒼の不在が辛いものだとは思わなかったからだよ。たった一週間だと高をくくっていた。3年も離れてたんだし、今更一週間ぐらい別にって。

 

 だけどそれをそのまま口に出すのは、蒼に失礼な気がして私は一瞬、躊躇ってしまった。無言を肯定と取ったのか、蒼は侘しげに微笑んだ。


 「……ごめん、変なこと言った。忘れて」

 「なんだ、嫉妬か?」

 

 ピンと張り詰めた空気を冗談にしてしまおうと、紅がわざとからかってくる。普段の蒼なら、「そうだよ」って笑って返しただろうに、その時は違った。


 「真白の心を占めるもの全部、排除できるのならそうしたいよ。でもそんなの不可能だろ」

 「そんなことしなくたって、私は蒼が一番好きだよ」

 「ん。……分かってる」


 なにをどう分かってるのかハッキリさせたくて、私は蒼との距離を詰めた。

 ここで引いたらダメだ、と本能が警鐘を鳴らしている。


 「蒼。私のこと、ちゃんと見て」


 眼鏡を外し、じっと蒼の揺れる瞳を覗き込んだ。

 伝われ、伝われ。呪文みたいに心の中で念じながら、真摯に言葉を紡ぐ。


 「こんなに好きになってると、思わなかったの」

 「……え?」

 「会えない間、蒼のことばっかり考えてたよ。ピアノ弾かなきゃって思うのに、全然集中できなくて。声が聞きたいな。ちょっとでいいから、顔が見たいなって。蒼のことが心配だったのも本当だけど、それよりも何よりも、私が蒼に会いたかったの」


 驚いたように目を見開いた蒼に、恐る恐る問いかけてみる。


 「自分の気持ちばっかりで、ここに来たの。幻滅した?」

 

 蒼は混乱したように視線を落とし、それから勢いよく首を振った。ぶんぶんと首を振って、それから困ったように前髪をくしゃりと握る。

 途方にくれた子供みたいな仕草に、私の胸は切なく締め付けられた。今の蒼にとって、自分への好意を無条件に信じることは酷く難しいことなんだね。


 「大好き。蒼、好き。大好きだよ」

 「ましろっ」


 今度は蒼の方から私を抱きしめてくれた。

 紅は私が話し始めてすぐに部屋を出てくれたから、ようやく二人きりだ。


 「ピアノ、前よりもっと上手くなってて、怖かった」

 「うん」

 「部屋に呼んでくれたのも、俺のこと意識してないからだって分かって、寂しかった」

 「そんなことない」

 「ましろ」

 「うん」


 蒼は、こわごわその言葉を唇に乗せた。


 「俺も真白が好きだ。離したくない。ずっと、一緒にいたい」

 

 ようやく近くにいけた気がして、私は深々と息をついた。


 「うん。ずっと、一緒だよ」



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