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13.新入生歓迎会

 入学して初めての連休は、それこそ瞬きする間に過ぎていった。

 やるべきことが多すぎて、全然時間が足りていない。こんな調子で、あっという間に高校3年間は終わってしまうのかな。あれ? 青春ってこんなスポ根な感じでいいんだっけ? かつて描いた甘い幻想に思いを馳せる暇もなく、私は新入生歓迎会の最終リハーサルを迎えていた。

 桔梗館の大ホールの舞台は、今まで立ったことのあるコンサートホールにひけを取らない広さだった。それもそうか。フルオケが乗るんだもんね。

 

 「大丈夫? 緊張してる?」


 楽器の移動の手間暇を考慮したのか、私と富永先輩たちピアノ科の生徒の出番は一番最後だ。舞台袖で一人ポツンと立っている私を見かねたのか、富永先輩から声をかけてくれた。


 「お久しぶりです! 今日は……あ、明日もよろしくお願いします!」


 勢いよくお辞儀しながら挨拶すると、彼は「先輩扱いされるのって新鮮。ありがとう」なんて言って笑っている。

 本当は私の方から声を掛けたかったんだけど、先輩はご友人方に囲まれて談笑してたから近づけなかったんですよ。人望厚いんだろうな。彼に口々に話しかけてる人たちは皆笑顔で、それは嬉しそうだった。


 「島尾さんも氷見先生なんだってね、実習の受け持ち。僕もなんだ。僕たち兄妹弟子だね」


 きりっとした眉の下で切れ長の瞳が優しげに瞬く。一見硬派に見えるルックスなんだけど、富永先輩は初対面の時からずっと親切で紳士的だった。ピアノの腕前はもちろん、人格的にも尊敬できる人。

 そんな人に『妹弟子』と呼ばれたものだから、私はみっともないほど舞い上がってしまった。ああ、こんなお兄ちゃんが欲しかった! あ、でももちろん花香お姉ちゃんは誰にも譲らないよ。


 「えへへ。嬉しいです。先輩に恥をかかせないように、頑張りますね!」

 「……うわぁ」


 富永先輩は一瞬遠い目になり、それから大きなため息をつきつつ、私の頭を撫でてくれた。

 けっこう強めの撫で方なのに、髪の毛をぐちゃぐちゃにはしないところがすごい。手馴れてる。妹さんでもいるのかな。


 「そりゃ勝目ないわ。島尾さんの方が可愛げあるもんなぁ」

 「え?」

 「君につっかかってる同級生、いるでしょ。気の強い女の子。ごめんね、あれ、僕の遠縁で幼馴染なんだ」

 

 困ったように顔をしかめる先輩の、オレンジ色の髪に目がいく。

 ん? ……もしかして、あの蒼を好きな女の子のこと?! 言われてみれば、面差しが似ている気もする。美形なところしか共通点はないと言われればそれまでだけど。


 「城山くんに初等部からずっと片思いしてたんだよ。だからといって、君に当たっていいことにはならないって分かってるはずなんだけどな。僕からもきつく注意しとくから、大目にみてやって」

 「えっ。あ、はい」


 言葉は厳しめだけど、その柔らかな表情からあの女の子を悪く思ってるわけじゃないというのはすぐに伝わってきた。知らんぷりしててもいいのに、私に事情を説明して律儀に謝ってくれるところも富永先輩らしい。あの子にはこんなに親身になってくれる幼馴染がいるんだ。良かった、って思うのは傲慢なことかもしれないけど、少なくとも罪悪感は減る。だから正確には、私の為に良かった、だ。

 それにしても。

 ブランクがあるとはいえ蒼も生粋の青鸞生なんだな、としみじみ思った。たしか幼稚舎からあるんだっけ。学年の違いなんて関係なく、内部生が全員顔見知りだったとしても何の不思議もない。噂が回るのもさぞ早いんだろう。

 とはいえ、自分の色恋沙汰が憧れの先輩に知られている、というのはひどく面はゆいものだった。何と答えていいか分からず、ついもじもじしてしまう。

 

 「恋をすると音色が変わるってよく聞くから、楽しみだよ。島尾さんの演奏」


 何の曇りもない笑顔で「お互い頑張ろうね」とエールを送られ、私はこくこくと頷くことしか出来なかった。……天然って怖いな。ものすごいプレッシャーを感じる。

 お前のピアノでその恋の正当性を証明しろ、って言われたみたいだった。先輩にそんな意図はないに決まってるのに。自覚はなかったけど、演奏前で神経質になってるのかも。

 そうこうしているうちに、先輩の名前が呼ばれた。颯爽とした身のこなしでステージへと出て行く先輩の背中をもやんとした気持ちのまま見送る。


 「――僕も大概、意地悪いな。ごめんね」


 ピアノの前で先輩がそう呟いていたことも、例の彼女は先輩がずっと大切に見守ってきた女の子だってことも私は知らなかった。先輩がぶつけようのない悔しさを持て余してることも。

 

 だけど、その後の彼の演奏は、鮮烈な輝きをともなって私の耳に飛び込んできた。

 

 ブラームス作曲 6つの小品。

 その第三番から第五番までを選び、情熱的に弾きあげていく。ブラームスが晩年に作曲したこの小品集に目立った新しい試みはなく、かつて構築したブラームス独自の和声調和やメランコリックさをぎゅっと濃縮して詰め込んだ内容になっている。技巧的な難しさは言うまでもなく、求められるのは曲に込められた若き日々への回想、懐かしさ、哀愁を再現する力だ。

 鍵盤を叩きつけるような激しい和音の響きは、荒々しさに損なわれることなく、音楽的で胸を強く締め付ける叙情性に満ちていた。

 ミスタッチは殆どない。ううん、それだけじゃない。コンクール後の演奏会でもその片鱗を感じた、感情を音に乗せる技術がすごく高くなってる。――上手くなってる。

 きゅっと唇を引き結び、私は胸に抱えていた楽譜の上に指を走らせた。

 第三番の激情から一転、第五番はそのタイトル「ロマンス」が示すとおり、穏やかで甘い感傷に彩られている。一音一音を大切に、くっきりと際立たせながら、先輩は思い出に昇華された愛の歌を紡いでいった。


 「流石だな」

 「ああ、いい演奏だ」


 先輩を取り巻いていた人たちから感嘆の声があがって初めて、私は演奏が終わったことに気がついた。まだ頭がぼうっとしている。素敵だった。私もあんな風に弾いてみたいな。そう思ったら、無意識のうちに指が動いていた。先輩の音をなぞるように。


 「この後すぐって、可哀想くねえ? 入ったばっかなのにさ」

 「式の進行上仕方ないけど、弾きにくいわよね」


 周囲のひそひそ声が、私を気の毒がる声色に変わる。

 ですよね。私もそう思います。

 同じような曲調の作品を選ばなくて、本当に良かった。亜由美先生に心から感謝だ。


 「島尾さん、いい?」

 「大丈夫です」


 進行係の先生に声をかけられる。私はしっかり返事をしてスポットライトの中へと足を踏み出した。


 リスト作曲 ハンガリア狂詩曲 第2番。

 序盤はどこまでも挑発的に、かっこよく。そして不穏な予兆を知らせるように同じ音を連打する。場面を切り替え、甘やかな旋律が登場。レースのように繊細に編み上げたトリルを主旋律に付き従わせる。そしてまた、主題。

 練習どおりに、いや、それ以上に弾けたと思う。

 先輩の演奏に触発されたのか、自分でも気味が悪いほど集中力は高まっていた。ノーミスで難所を乗り切り、身体全体を使ってオクターブに波のようなクレッシェンドをかける。高音の煌きは砕いた宝石の粒。低音の楔は地底からの呼び声。一瞬にして場を支配し、従わせる、強烈でドラマティックな音楽性。それがリストの魅力だ。終盤、私は笑みすら浮かべていたらしい。

 氷見先生には「えらく楽しそうだったな」と苦笑された。

 富永先輩には「また上手くなったね。参ったな」と両手を挙げられた。

 さっきまで同情的だった周りの目は、驚きに見開かれ、それからゆっくりと強い意思の光を宿した。それ、知ってます。負けたくない、と思うときの人の眼の色だ。失望や哀れみより、うんと好きな色。


 当たり障りなく挨拶をして、放課後の桔梗館を後にする。

 今日は関係者しか立ち会うことが出来なかったから、ひとけは少ない。ホールを出たところで、待ってくれているはずの蒼を探す。先に帰ってていいよ、って言ったんだけど、聞かなかったんだよね。またそれが嬉しいものだから、私も人が悪い。

 ぐるりとエントランスを見渡せば、出入り口の近くで柔らかな空色が目に入る。

 足早に駆け寄り、蒼、と声をかける寸前で、私は彼の隣にいる人に気づき、盛大に眉をしかめた。


 「やあ。素晴らしい演奏だったよ、マシロ」

 

 ……貴方も元気そうでなによりです。


 「恐れ入ります」

 

 精一杯しゃちほこばって答え、蒼の方に身を寄せる。私がいない間に、碌でもないことを吹き込まれたんじゃないかと心配になったのだ。


 「そんな顔されると傷つくな。大きくなったね、って話をしてただけだよ。城山くんとは、ほら、成田邸でのクリスマスパーティ以来だったから」

 

 私の頭は誰にでも透け透けなのか、トビーは気障ったらしく肩をすくめてそんなことを言った。


 「そうでしたか」

 「うん。小さい頃はお母様似かと思っていたけど、城山くんはお父様そっくりに育ったね」

 「……両親を、ご存知で?」


 それまで黙っていた蒼が、視線をあげトビーにもっともな疑問を投げかける。

 私もそれ思った! 蒼パパ達とも面識があったなんて初耳だ。トビーと彼のお姉さんは松浦先生と交友関係にあって、その繋がりで成田家ともお付き合いがあるのは知ってたけど。

 

 「ふふっ。よく知ってるよ。いや、知ってた、というべきかな。リサが君を産んでからは会っていないから。お父上は再婚されたそうだね。家の為に体裁だけ取り繕って、あとは放置だなんていかにも彼らしい」


 あまりの言い様に蒼が気色ばむ。それも仕方ないと思えるほどの踏み込みかただった。リサ、と呼び捨てた甘ったるい口調にも鳥肌が立つ。

 だけど、蒼が不快になるのを見越して、トビーはわざとそう言ったのだと思った。このままだと彼の思う壺にはまりそうで怖い。悔しいけれど、私たちはまだ高校生で、トビーはこの学校の理事長だ。ほんっと大人げないったらない。


 「もう、行こう。蒼。――私たちはこれで失礼します」

 「君にもがっかりだよ、マシロ。てっきり成田くんを選ぶと思っていたのに、どうして?」


 私の声などまるで聞こえてないかのように、トビーはにっこり微笑んだ。

 小首をかしげた拍子に金絹のような髪がさらりと揺れる。エメラルドグリーンの瞳が、剣呑な光を帯びた。綺麗な瞳の人は心も澄んでいる、とかあれ嘘だね。お腹真っ黒なこの人だって、眼だけは綺麗だ。

 理由は分からないけど、トビーは私たちにご立腹みたい。

 毎回、毎回、なんなの、この人! と叫びたいのをグッとこらえる。


 「……プライベートな質問にはお返事しかねます。理事長の気にされることではないか、と」


 蒼を庇うように前に立とうとした私を、蒼は許さなかった。逆に腕を引っ張られる。そのまましっかりと私の身体を抱き寄せ、蒼はトビーを睥睨した。


 「さっきなら何なんですか。言いたいことがあるのなら、回りくどい真似はやめたらどうです」

 

 トビーは憎らしいほど余裕綽々だった。くすくす上品に笑い、拳を口元に当てる。


 「気に障ったのなら、失礼。――いや、成田くんがとっても気の毒だと思ってね。君がいない間、マシロを守ろうと苦心していたのに、蓋を開けてみればここでも君たちの後始末役だ。城山くんにとって親友という言葉は、どうやら従者と同義語らしい」

 「黙れよ」


 紅を揶揄されたことで我慢できなくなったのか、蒼は何とか保っていた良識をかなぐり捨ててしまった。私が止める間もなく、トビーの高そうなネクタイを掴みあげる。ああ~、もう収拾がつかない! こうなる前にここから走って逃げるべきだった。

 そりゃ、私だって腹が立つ。だけど私たちの関係は、私と蒼と、それから紅が納得していればそれでいいことだ。それにあれほどプライドの高い紅が、ただの従者に甘んじるわけないでしょ。お前のその綺麗な目は飾りか。本物のエメラルドか。


 「外野がごちゃごちゃ煩いんだよ。お前に何が分かる!」

 「蒼!」

 「理事長!」


 私と近くにいた警備員が同時に叫び、駆け寄ってきた彼らによって蒼は力づくで理事長から引き離された。かろうじて殴っては、ない。セーフだよね? セーフだと言って!


 「大丈夫ですか? お怪我は?」 

 「いや、なんともない。だけど目上の者に向かっての暴言は、教育者として見過ごせないな。しばらく反省してもらおうか」


 トビーは、誠に遺憾、といわんばかりの表情でため息をついた。

 

 結果、蒼は一週間の自室謹慎を言いつけられた。衆人環視の中での騒ぎだったことも加味されてしまった。何の罰もないのでは、他の生徒に示しがつかないというのは分かる。

 謹慎自体はどうとも思ってなさそうな蒼だったが、学院まで麗美さんを呼びつけられたのは、流石に堪えたみたいだった。


 「もっと賢い子だと思っていたわ。こんな迷惑は、これっきりにしてちょうだい」


 相変わらず隙のない格好で現れた麗美さんは、私と蒼を交互に見比べ、冷たく言い放った。

 ひやりとして思わず身を竦める。大人から頭ごなしに叱られた経験のない私は、彼女の前ではいつも借りてきた猫状態だ。

 

 「あなたが子供でいるうちは、私が責任を負わなきゃいけないの。そしてあなたの愚行は、島尾さんの評判にも直結するのよ。そんなことも分からないほどの、何を言われたの」

 

 麗美さんの最後の言葉に、ハッとする。蒼も麗美さんの真意に気づいたのか、まじまじと彼女を見つめ返した。何も原因がないのに蒼がそんな真似するはずない、と麗美さんは暗に言ったのだ。

 よくよく観察してみれば、彼女の冷たい視線は等しく理事長にも向けられている。


 「……言いたくない。迷惑かけてごめん」


 短いけど、確かに蒼は謝った。そして恥ずかしいのか、そのまま俯いてしまう。

 麗美さんは、よっぽど意外だったのか蒼を二度見した。凛とした大人な彼女に似つかわしくないその仕草に、私も二度見したくなった。麗美さんはしゅんと項垂れた蒼を眺め、小さく息を吐いた。


 「なら言わなくて結構。確かに彼の直情的な行動は反省すべきことですけれど、その前にどんなことがあったのかも気になりますわ。まさか、いい大人が私情を挟むとも思えませんしね」


 麗美さんの嫌味たっぷりの言い回しに、トビーは珍しく返答に詰まっている。

 胸がスッとした。いけいけ、麗美さん! 心の中で声援を飛ばしていると、彼女は最後に私に目を向けた。ぎく。


 「見ての通り、短絡的で考えなしの子よ。貴女にはもっと他にいい人がいるんじゃないかしら?」

 「わたしは! 私は蒼がいいんです。蒼と一緒に成長していきたいんです。それに蒼はいい子です!」


 憐れむようなその声音にカチンときた。とっさに訳の分からない言葉で言い返してしまう。

 しまった、と思った時にはもう遅かった。どうしようもない短絡的直情カップルだ。笑って下さい。


 「……かわいそうに」


 麗美さんのそれは、心からそう思ってる、というような言い方だった。私は驚いてしまった。一体、どういう意味? 

 彼女は悲しげに私を一瞥し、それから私たちを理事室から追い出した。いろいろと大人の話があるらしい。トビーは自分が呼び出した癖にひどく嫌そうな顔をしていた。

 しょうがなく、私と蒼はとぼとぼと学院を後にした。

 私たちは嫌になるくらい、子供で、無力だということを思い知らされた騒動だった。


 「早く大人になりたい」


 ボソッと蒼が呟き、それから私に「巻き込んでごめんな」と謝った。

 

 「ううん。いいよ、しょうがないよ。トビーってすごく嫌なやつだから、今度から絶対に避けようね」

 「次はちゃんと我慢する。ほんと馬鹿だった」

 「うん、でもしょうがないよ、トビー相手じゃ」


 私があんまりトビーのことを悪く言うものだから、蒼はとうとう笑い出してしまった。


 「なんか、逆にすげえな。真白にそこまで言わせる理事長って」

 「だって、30過ぎてるとは思えない大人げなさなんだよ? しかも権力持ち。太刀打ちできるわけないじゃん。天災てんさいだと思おうよ。あ、頭いい方じゃないよ」

 「わかってるよ」


 くつくつ笑いながら蒼は私の頭をこづいた。

 私も蒼の脇腹をつつきかえし、そのまま2人で競争するように走って寮へ帰った。


 謹慎処分のせいで明日の新入生歓迎コンサートを聞けなくなった、と蒼が気づいたのは、夕食のあとだった。

 これ以上ないほど落ち込み、トビーに復讐を誓いそうな勢いの蒼をなだめる為、私は彼を自分の部屋にこっそり招いてピアノを聴かせることになったのだけど、それがバレたら謹慎がさらに伸びただろうから、後から思えば危ない賭けだった。

 蒼のいない桔梗館の大ホール。

 私の演奏は滝のような拍手で讃えられた。


 

 

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