幕間:竹下 里香のゾクっとした話
本命はダメだったが何とか第二志望の大学に合格することが出来たので、里香はこの上もなく幸福だった。第二志望のその大学だって、確実な安全圏判定は出ていなかったのだ。
深い達成感に、里香の心はひらひらと舞い上がった。
ただ不思議なのは、初めての大きな成功体験だというのに、そうは思わなかったことだ。頑張れば頑張っただけの結果が出る、と自分が確信していることに気づき、里香は首をかしげた。
そうだったっけ? ずっとそう信じたかったけど、結果なんて残せなかったんじゃなかったっけ?
そして迎えた卒業式。
「恋も勉強も頑張ろうね」と笑顔のクラスメイトに肩を叩かれた。叩かれた弾みでたたらを踏んで、拍子にポンと思い出したのは、あの日の歪んだ姉の泣き顔だ。舞い上がっていた気持ちは、ひゅんと音を立て冷たく固まった。
そうだった。
どうして今まで忘れていたんだろう。そっちを解決しなきゃ、私は前に進めない。
初めて好きになった人の連絡先は、まだ携帯に残している。
消すのは、友衣と花香が仲直りしてから、と勝手に決めていた。花香は情が深く、一途なたちだ。嫌いになったわけでもないのに、あっさり別れてハイ次の恋、なんて器用な真似が出来るとは思えない。最悪、ずるずるといつまでも引き摺ってしまうだろう。
卒業式のあと、里香は花香と友衣を近所の公園に呼び出した。
「卒業おめでとう」
友衣は里香を見つけるとぎこちない笑みを浮かべ、まずは里香を祝った。今日が卒業式だと覚えてくれていた。律儀な彼らしい、と里香はほっこり心を温めた。それから、友衣の視線は花香へと移った。口元の笑みが侘びしげなそれに変わるのを目撃し、花香は息苦しさを覚えた。
「……久しぶり」
「うん。久しぶり」
花香は傍から見ても可哀想になるくらい狼狽えていた。固い決意を持って友衣からの連絡を断っていた彼女には、予想不可の出来事だったのだろう。
「私のせいでこのまま自然消滅とか、絶対イヤだからね。後味悪いし、罪悪感すごいんだから。別れるなら、お姉ちゃんと友衣くんだけの問題で別れてよ」
里香はわざと傲慢に聞こえるよう、腕組みをして言い放った。
友衣は初めて目にする里香の様子に驚いたようだったが、花香は断罪を待つ罪人のような表情を浮かべた。ついにきた、とその顔にはでかでかと書かれている。
昼間の公園は、ひとけがなかった。もう少し経てば、学校帰りの子供たちで賑やかになるはずのブランコ脇に、ポツンと3人きりの影が落ちる。
「違うよ、里香のせいじゃない。友衣も悪くない。私が全部悪いの。もう、それで話は終わってるんだよ」
「そうなの? 友衣くん」
「――少なくとも、俺は終わってないな」
「友衣!」
懇願するような花香の声に、友衣はわずかに顔をしかめた。辛そうな彼女を見ていたくはない。だが、ここで引いてしまえば本当に終わってしまう。それだけはどうしても嫌だった。
「お姉ちゃんは自分勝手なんだよ。確かに、なんで教えてくれなかったの? って思ったよ。騙された気がしたし、裏切られたと思った。影で二人して私のことを笑ってるんじゃないかって」
「そんなわけない!」
「うん、ないよね」
真っ青になった花香は、両手を握り締めぶるぶると震えている。
「そんなわけない。ただ、言い出せなかっただけなんでしょ? 私が勝手に盛り上がってたから、傷つけちゃうんじゃないかって心配だったんでしょ? ――ねえ、お姉ちゃん。私、何年お姉ちゃんの妹やってきたと思ってるの。それくらい、分かるよ。だから私には、嘘つかないで欲しかった」
それだけだよ、と里香が繰り返すと、花香は両の眦からハラハラと涙を零した。
「……ごめんなさい。里香を信じなくて、ごめんなさい」
「ううん。私も。私も、途中で気づいてたのに、意地悪してごめんね」
どう動くべきか躊躇っていた友衣が、里香の方を見る。
目が合った瞬間、もっと胸が痛むかと身構えたのに、驚くほど里香の心は凪いでいた。鼻に皺を寄せ、ニッと里香は笑ってみせる。友衣は安堵したように強ばっていた表情をほどくと、泣いている花香に近づきそっとその肩を抱き寄せた。
「ほら、お姉ちゃん。友衣くんにもごめんなさいは? 私たちに振り回されて、一番の被害者は友衣くんだよ。いつまでも意地張って愛想つかされても、それは自業自得だからね」
「ご、ごめんなさい」
「いいよ、大丈夫だから。そんなに目を擦るな。赤くなるだろ」
泣きながら友衣くんに謝る花香を見て、里香はふぅと息をついた。
上手くいって良かった。たったこれだけのことなら、もっと早く行動すれば良かった。どうなるか不安で怖かったのが嘘のようだ。
「里香ちゃん、変わったね。強くなった」
お邪魔虫は退散するね、と茶目っ気たっぷりに言い残しその場を立ち去ろうとした里香に、友衣は声をかけずにいられなかった。
要領が悪いなりに一生懸命頑張る里香を、友衣だって大切な妹分として可愛がってきたのだ。久しぶりに再会した彼女は、見違えるように大人になっていた。
「そうかな。そうだといいな」
里香は嬉しそうににっこり微笑み、弾むような足取りで去っていった。
友衣に片思いをしていた頃のどこか寂しげな里香の面影は、もうどこにも見当たらない。花香もそれに気づき、驚くと同時に心の底から安堵した。
かねてからの懸案事項を上手く片付けることが出来た里香は、晴れ晴れとした気分だった。
思い切り春休みを楽しもう、と心に決める。高校時代の仲良しグループと一泊旅行に出かけたり、いつもは行かないようなちょっと高いお店を奮発してくれた両親と共に外食をしたり、と里香の毎日は充実していた。
それでもふと時間が空くと、どこか物足りない気持ちになる。
なにか大事なことを忘れているような、そんな不安にも似た原因不明の焦りに、里香は時折襲われた。自室にいる時が一番ひどい、と気づき、里香は手慰みになるものを探そうとした。
ふと、受験帰りに見たポスターを思い出す。
友衣に失恋した後、しばらく夢中になっていたあのゲーム。そういえば、続編が出ていたはずだ。
思いついてしまえば、いてもたってもいられなくなった。
無性に『ボクメロ』が懐かしい。大好きだった紅様にまた会える。それに蒼にも。――蒼にも、だって。攻略キャラのもう片方は、パッケージとファンブックで見たことがあるだけだ。ゲーム中で会ったこともない癖に、呼び方馴れ馴れしいな。
里香はじりじりと夜が明けるのを待った。
朝一番で近くのゲームショップに飛び込み、運良く一本残っていた目当てのゲームソフトを手に入れる。いそいそと家へ戻り、受験の間しまいこんであった携帯ゲーム機を引っ張りだした。
前作のセーブデータを引き継げるらしい。が、里香はあいにくクリア出来ていない。どうやら特典は受け取れないようだ。じっくり説明書を読んだあと、里香は『ボクメロ2』攻略に取り掛かることにした。
以前と同じ轍は踏まない。今度こそ、クリアしてみせる。
何度も挑戦しては退学処分となったかつての自分を思い出し、負けるものか、と闘志を燃やした。もはや恋愛シミュレーションゲームに挑む心持ちではない。何といっても、あの理事長がむかつくんだよね。……ん? 理事長って名前だけで顔は出てなかったはず。モブキャラに八つ当たりするなんて良くない。里香はほんのちょっぴり反省した。
母に頼んでパソコンを使わせてもらい、先に攻略掲示板を見つけておいた。ゲーム好きな人から言わせれば、一周目から攻略サイトや攻略本に頼るのは邪道だそうだが、そんな甘いことは言っていられない。正道じゃなくていい。自力ではとてもじゃないが、ノーマル友情エンドすら迎えられない仕様なのだ。
プリントアウトした攻略チャートと作曲スコアを手元に揃え、里香はわくわくしながらゲームを起動させた。
ひょこんと主人公のチビキャラが画面に現れる。
ピンク色の髪をお団子にした、なかなか愛らしいキャラクターだ。名前入力画面に案内されたので、里香は迷わずデフォルト名の『島尾 真白』を選択した。
――【前作ヒロインの設定を選んでください】
きたきた。ここはもちろん、紅様の妹だよね。
カーソルを『森川 紺』ではなく『玄田 紺』の方に合わせ、ぽちっと決定ボタンを押す。
攻略サイトのおかげで、里香はすんなりと紅様ルートを攻略することが出来た。達成感とときめきの両方をじっくり味わい、さて、と攻略サイトを覗きに行く。次はどうしよう。作曲評価がぎりぎりC判定なので、スペシャルなおまけは開放されていない。だが、そこを追求し出すとまた泥沼だ。
暇さえあればゲーム機かパソコンを触っている里香を見て、花香は悪夢再来とばかりにガックリしていた。
「もう、そのゲームやめたんじゃなかったの? りか~。現実に目を向けよう? トモだけが男じゃないって」
「それ言っちゃう?!」
吹き出しながらも、里香は思わず突っ込んでしまう。
「いつまでもグジグジしてるの、嫌いなんでしょ?」
花香は憑き物が落ちたようなサッパリした顔で笑った。
「うん、だってお姉ちゃんは笑顔が似合うからね!」
里香が満面の笑みでそう言うと、花香はぐずっと鼻を鳴らした。
また泣かれてはたまらない。里香は『ボクメロ2』の入ったゲーム機を引っつかみ、慌てて自室へと退散した。
念願だった紅様ルートを攻略した里香が次に選んだのは、三角関係モードだった。
好感度と音楽パラメーターをうまく調節すれば、『素敵な2人のイケメンに取り合われ、揺れ動く乙女心』を体験できるらしい。
そこで【最初から】を選べば良かったのだ。
だが里香は、うっかり【引き続きプレイする】を選択してしまった。前作ヒロインが『玄田 紺』のまま、ゲームは始まってしまう。
二周目特典だか何だか知らないが、なんと物語は小学生編からスタートしたので、里香は目を丸くした。
ショタ属性はないんだけどな……。若干渋りつつも、話を進めていくうちに、里香はもう一人の攻略キャラである城山 蒼にすっかり魅了された。
不幸な生い立ちを持つ彼を、何とか幸せに出来ないものか。攻略チャートには載っていない方の選択肢を、ついつい選んでしまう。
これは良くない、という気はしていた。
案の定、蒼の好感度を上げすぎてしまった為、三角関係モードから個別ルートへの分岐で、紅様攻略は不可になった。
ああ、しまった。
肩を落としながら攻略サイトを確認する。やはり、前作ヒロインが妹の方のキャラクターとしかハッピーエンドは迎えられないようだ。
諦めて最初からプレイし直そうとした里香だったが、ゲームはまだ終わっていない。どうやら、蒼ルートのおまけがあるようだ。
バッドエンドは確定しているが、どんなものか、と話を進めることにした。好奇心、猫をも殺すということわざが、里香の脳裏にありありと浮かぶ。まさか実際にそうだとは思いもしなかった。
結論から言えば、『島尾 真白』は何度も殺された。
殺されない場合は監禁された。城山蒼が発狂するエンドもあった。ヒロインの友人が皆殺しにされるエンドまであった。もちろんその場合紅様はまっさきに消された。
特に二人きりになるとまずい。愛する人に捨てられたくない、その一心で、蒼は常軌を逸してしまうのだ。
どの台詞を選んでも、無慈悲な終わりが早いか遅いかだけの違いしか生まない。もっと他に適切な受け答えがあるだろう! 里香が声をあげてしまうほど、ヒロインは鈍感で、そして難聴だった。
蒼の発する大事な台詞をことごとく聞き逃す。蒼はますます病んでいき、声はどんどん小さくなる。ヒロイン聞き逃す。すさまじいまでの負のスパイラルがそこにあった。
青鸞学院へ入学してどれだけも経たないうちに、城山蒼の立ち絵が恐ろしい表情へと変わった時には、本気で泣きそうになった。恋愛ゲームでホラー体験をさせられるとは……。里香はかのゲームの果敢なチャレンジ精神に震えた。
あまりの残酷さに、パッケージの裏面をもう一度確認する。そこに燦然と輝くR15指定の文字に、里香は深々とため息をついた。
流石、ボクメロ。
一作目で、11種類のフレンドエンドを誇っただけのことはある。
どうりで『一途攻略、ガチで推奨』『よそ見、ダメ、絶対』などのコメントを、攻略サイトで見かけたはずだ。
ツンデレからヤンデレへと華麗にジョブチェンジした蒼に心の中で手を合わせ、里香は静かにゲーム機の電源を落とした。