11.エラー
新歓コンサート用に亜由美先生がピックアップしてくれた曲は全部で3曲あった。
まずはショパンのバラード第一番。叙情的で印象深い主題や大胆なクレッシェンド、華やかなパッセージと聴かせどころの多い曲だ。切なく情熱的に弾きあげたらカッコイイだろうなぁと思うけど、新入生歓迎会というお祝い目的のコンサートにはどうかな? という気もする。
あとは、同じくショパンのスケルッツオ第二番。出だしの低音をズーンと響かせてからのさざめくようなトレモロとか、極端なくらいの音量のコントラストの鮮やかさとか、変ロ短調というシリアスな曲調にも関わらずどこかユーモラスな明るさがあるところとか、かなり気に入ってる曲でこちらも捨てがたい。
もう一つは、リストのハンガリア狂詩曲第二番。うーん、これもすごく迫力あるかっこいい曲なんだよね。そんな調子で、迷ってしまってなかなか決められない。とりあえず三曲とも譜読みを済ませて、ザッと弾けるようにはなっておこう。
ゴールデンウィークに入って最初の休日。
寮の小ホールはすでに、新歓コンサートに出る上級生の予約でいっぱいだった。
午前中だけ学院の練習室が開放されるというので、私は美登里ちゃんと蒼と一緒に登校してきている。
せっかくの休みを潰してしまうのは悪いと思ったんだけど、二人とも「実際に演奏を聴いてから意見を言いたい」って快諾してくれたんです。持つべきものは友! 本当に感謝してもしきれない。
学院の練習室は基本的に個人用だから、そんなに広くない。息苦しかったらごめんね。
美登里ちゃんは「私は大丈夫よ。それより開き直った獣にマシロが食べられちゃわないように、見張っとかなきゃ」と意味深に微笑み、蒼は「美登里まで来るのが気に入らないけど、ちゃんと我慢できるよ」となぜか得意げだった。
うん……色々つっこみたいけど、もういいや。
教室のある中央棟から渡り廊下を通って実習棟へ入る。
休みに入った学院はいつもの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。誰もいない学校って、どうしてこう胸が弾むんだろう。夜なら全力で遠慮したいところだけど、明るいから怖くないし。一人じゃないし。大きなガラス窓からは暖かい陽光がまっすぐに差し込んできている。
「どうしたの、そんな嬉しそうな顔しちゃって」
「休日の学院に入るの初めてだから新鮮で。何だかワクワクしてこない?」
「そう?」
「見慣れてるはずの景色が、違ってみえるっていうのかな。探検したくなるというか」
「探検、ね」
美登里ちゃんはぐるりと辺りを見回し、それからこの子大丈夫かしらと言わんばかりの訝しげな視線を向けてきた。この容赦ない感じ、慣れてくると結構癖になる。新たな属性に目覚めそうです。
「俺たちの足音と話し声しかしないなんて、普通だったら有り得ないもんな」
私の言うことには何でも賛成する病にかかってる蒼なら、まあこう言うよね。
「でしょ? ふふっ」
楽譜の入ったレッスンバッグを抱えなおし、私は足を止めた。
隣を歩いていた蒼も何事かと立ち止まる。彼に向き直って背筋を伸ばし、ピンと張った右手を眉上に勢いよくかざした。
「隊長! 今のところ異常なしであります!」
高校一年生が取るにはあまりにも寒すぎるリアクションで、蒼の様子を窺ってみた。
どう? 痛いでしょ? 可哀想でしょ?
ぶっと噴き出した美登里ちゃんは想定内。
蒼はというと、無言のままその場にしゃがみこんでしまった。……かなりダメージが大きかったみたい。いいんだ、これで。めちゃくちゃ恥ずかしいけど計算通り。
蒼が私に抱いている信仰心もどきを、これからだってどんどん打ち砕いていっちゃうもんね。
私は聖母なんかじゃない。欠点だらけの普通の人間で、ただ蒼と一緒に歩いていきたいだけなんだって、嫌でも分かってもらおう作戦だ。度が過ぎて嫌われるリスクについては、あえて考えないことにしました。
「――殺す気?」
「ええっ!?」
そこまで酷かった!?
よろよろと立ち上がった蒼は、よほどショックが大きかったのかしばらくこっちを向いてくれなかった。顔を覗き込もうとしてもフイとそっぽを向いてしまう。耳がすごく赤いような……。美登里ちゃんは何がツボに入ったのかしばらく肩を震わせていた。
グランドピアノが置いてある練習室は三人で入っても十分な広さがあった。
良かった。胸をなで下ろしながらピアノの前に座り、いそいそと楽譜を取り出す。
「譜めくりはどうするの? マシロ」
「いらない。ほとんど暗譜してるから」
「じゃあ、こっちで聴かせてもらうわね」
美登里ちゃんも蒼も手馴れた様子でパイプ椅子を引っ張り出し、広げ始めた。二人が座ってしまうと、室内はシン、と静まり返り雑音が消える。集中力が穏やかな波のように高まってくるのを感じた。
両手を軽くマッサージした後、軽く息を吸って鍵盤に指を乗せる。さあ、いこう。
「――っと。こんな感じ」
3曲続けて弾くのはまだきつい。きちんと自分のものに出来てない証拠だ。
深く息を吐きながらハンカチで手のひらを拭い、二人の方に体を向けると、そっくりな表情で目を見開いていた。
「その楽譜貰ったのって、先週の土曜だよな?」
「信じられない。毎日どれくらい練習してるの、マシロ」
これは褒められていると受け取ってもいいのかな。楽譜上の音をただトレースしただけの、味気ない演奏だったと思うんだけど。
「ミスタッチもあったし曲想も練れてないし、雑な演奏で申し訳ないんだけど、今日中に決めて詰めていきたいんだ。どの曲が良いと思った?」
「そうね」
美登里ちゃんは、顎に手をあてしばらくうーんと考え込む。
「候補自体がえらく偏ってるなぁと思ったわ。氷見先生だったかしら。実習の先生はなんて?」
「松島らしいな、だって。亜由美先生がテクニック重視の曲ばかり選んだのは、最初に舐められないようにする為みたいなことも言ってた」
「なるほど。マシロの演奏を初めて聞く生徒用ってことね」
トビーじきじきに推薦した特待生という肩書きが、常に私にはついてまわる。松島亜由美の弟子という肩書きも。環境に恵まれた分だけ、いかなる期待にも応えなければならない立場だと重々承知していた。
それまで黙っていた蒼が組んでいた足をほどき、「俺はリストかな」と言った。美登里ちゃんも頷く。
「この3曲なら、最後のハンガリー狂詩曲だと私も思うわ」
「真白の思い切りの良さが上手く出ると思う。緩急の付け方とかカデンツァ部分とか、ある程度自由に出来る曲だしな。大ホールのピアノは、うちのだっけ?」
「ええ。シロヤマのGCシリーズの最新モデルが入ってたはずよ」
「それならあるな。真白がよければ、明日は外出届けを出して家に来ないか?」
トントンと話が進んでいくので、私は相槌を打つのが精一杯だった。目を白黒させている私を見て、蒼が苦笑する。
「ごめん、勝手に。真白がどうしたいかが一番重要だから」
「いえ、あのお邪魔じゃなければ、是非」
当日使うピアノと同じモデルで練習させてもらえるなんて、有難い話だ。
ピアノによって鍵盤の重さ、打弦の癖、響きなどは異なってくる。それに合わせてタッチを微調整していくのも大事な作業のひとつだった。
「お前は来ないよな」
「当たり前でしょ。そこまで暇じゃないわよ」
「どうだか」
蒼が「絶対に来るなよ」と美登里ちゃんに釘をさす。また喧嘩になりそうだったので、仲裁に入ろうと腰をあげた。
「美登里ちゃんが来たっていいじゃない」
「やだ。ただでさえピアノに取られるのに、一緒にいられる時間が減る」
あ、そうですか。
直球すぎる言い方に、頬が熱くなる。私の顔を見て、蒼は驚いたようだった。
「困らないの?」
「困ってるよ!」
蒼は嬉しそうに「でも嫌がってない」と言い募る。
どこまで我が儘が許されるか、試されているのは私の方かもしれません。甘えてくる蒼が可愛くてしょうがない。このままじゃ、どんな無茶なおねだりも聞いてしまいそう。
――露草館って、お休みの日も開いてたよね?
小悪魔な恋人への対策を立てる為、図書館でなにか探して借りて帰った方がいいかもしれない。
曲も決まったことだし、予約時間いっぱいまで一人で練習したいと申し出た。
せっかく学院まで足を運んでもらったのに、申し訳ない。申し訳ないんだけど、譲れない。
美登里ちゃんはそれは愛らしく唇をとがらせて文句を言っていた。もっと聞きたかったみたいだけど、私の執拗で偏執的な反復練習を知っている蒼は、すんなり引き下がった。
その上、「気にするなよ、真白。俺達が来たくて着いてきたんだから」と優しい。
「本当にごめんね。このお礼はあとで必ず!」
ホッとしながら練習室の扉を開けて手を振ったところで、蒼だけがつ、と立ち止まった。
ん? 忘れ物?
「――じゃあ、先に貰っとこうかな」
気づかず先へ行く美登里ちゃんの後ろ姿を一瞥した後、蒼は膝をかがめた。一拍遅れて、頬をやわらかな感触がかすめる。
「っ!?」
今、き、キスされた!?
驚きのあまり叫びそうになっちゃったんだけど、蒼はすかさず自分の口元に人差し指をあてた。男性らしく骨ばった長い指に、目が吸い寄せられる。
「ないしょ。あいつ、煩いから」
ふわりといたずらっぽい笑みが浮かび、蒼の端正な顔立ちを眩く縁取った。冷たい印象を与えがちな完璧な造作に、甘さと包容力が増し加えられる。
「頑張ってね、ましろ」
名残惜しげな眼差しでたっぷり3秒は私を釘付けにしたあと、蒼は身を翻した。
電池の切れた人形のようにしばらく使い物にならなったのは、私の責任ではない。
その後さらったハンガリー狂詩曲のオクターブ部分が楽譜の指示以上に大きく炸裂してしまったのも、私のせいじゃない。と思いたい。なんなんですか、あの人。
帰り際、私は図書室に立ち寄って一冊の本を借りてきた。
愛着障害に関する本。蒼が幼少期に受けた仕打ちは、一種のネグレクトだと思う。一番必要とする時期に、十分な愛情を保護者から受けることが出来なったんだから。
虐待を受けて育った子供が大人になった時に抱えがちなトラブルや悩みについて、その本は具体的に述べていた。
私の目を特に引いたのは『愛着障害の場合、人を信用することが出来ず、外部を遮断しがち』という一文だった。
――当たってる気がする。
専門のカウンセラーとかに見てもらった方がいい気がしてきた。もし本当にそうなら、こんな付け焼刃の知識でどうにかなるものじゃない。
今はとりあえず、心がけだけでも覚えておこう。
ページを繰って、『周りの人へのアドバイス』という項目を開くことにした。
スキンシップが苦手な人が多いんだって。蒼は真逆な感じするけどな。こちらからスキンシップを取る際は、幼い子供にするようにしましょう、と書いてある。
瞬時に頭に浮かんだのは、子供の両脇を掴んでもちあげる「たかい、たかーい」だった。
あのすっかり成長してしまった蒼を、私が? たかーい、たかい? 心も腕も折れるに違いないよ。もちろん蒼の自尊心も。必要以上にリアルに想像してしまい、膝から力が抜けた。
えー、あとは。
コミニュケーションを取る時間をしっかり作る、ね。これはちゃんと心に刻まなきゃ。やらなきゃいけないことが目の前にぶら下がると、ついつい周りが見えなくなるのが私の悪い癖だ。
規則正しい生活を送ることも重要なんだって。いつもと同じ、という安心感、安定感が大切みたい。
重要だと思う部分を手帳に記していると、『なんでこうなるかなぁ』という声がすぐ近くで聞こえた。
それは、あまりにもくっきりとした声だった。金縛りにあったみたいに、全身がガチガチに固まってしまう。
『ん?……もしかして聞こえてる?』
間違いない。若い男の人の声だ。
ふんっ! と気力で金縛りを解き、まずは部屋の扉を確認する。――開いてない。窓も全部閉まってる。この部屋にいるのは、正真正銘私だけ。
「こういうの、無理なんですけど」
知らないうちに漏れ出た声は、みっともないほど震えていた。
手帳と本とボールペンを机に戻す間も、私は辺りを警戒しまくった。それから、恐る恐るベッドの下を覗いたり、クローゼットを開けてみたりする。――やっぱり誰もいない。
「ええ~? やだ。やだやだ!」
半ばパニックになりながら、部屋の外に飛び出した。
寮母さんに言いに行かなきゃ。部屋に若い男がいるっぽいんですって……だめだ。そんなはずない。自分でもまだ信じられないもん。
泣きそうになりながら部屋の前の廊下を右往左往していると、隣の部屋の子が共有棟と繋がっている外廊の扉を開けて戻ってきた。
「高野さん!」
きょとんと私を見たその顔が、女神みたいに輝いて見える。同じ一年でBクラスの女子生徒だ。専攻はヴァイオリンだったはず。
「あれ? 島尾さん、だっけ。どうしたの?」
「あの、部屋に、部屋に」
なんて言おう。なんて言えばいい?
あわあわと身振りだけが先行する私を眺め、高野さんははっはーんという顔をした。
「もしかして、黒い悪魔が出た?」
「え、なにそれ!? ゆ、有名なの?」
「違うの? ジーでしょ?」
お互いに疑問符ばかりを投げつけ合うので、話が噛み合わない。これはだめだと見切りをつけたのか、高野さんは私を置いて自分の部屋に入っていってしまった。――なんてことだ。見捨てられた。
初めてまともに顔を合わせたというのに「部屋に、部屋に」としか言わない半泣きの女なんて、怖いですよね。しょうがないですよね。
これはいよいよ、最後の手段かな。精神状態を疑われたとしても、寮母さんに自分の体験を打ち明けるしかない。
ほんのすぐ近く。耳のそばで聞こえたのだ。べっちんしかいないベッドの脇で。
……え? まさか、べっちんが?
腹話術の一人遊びが過ぎたせいで、とうとうぬいぐるみに魂が――。
「お待たせー。ごめん、入るよ」
スピリチュアルな別世界へ勢いよく飛び込もうとした私を、高野さんの明るい声が引き戻した。
左手にスプレー缶、右手にハエ叩きを持った勇ましい姿で、私の部屋に入っていく。
「あ、待って!」
万が一、実体を伴う侵入者が潜んでたら危ない!
……と思ったのだけど。
結局、男も黒い悪魔もいなかった。
高野さんは部屋を這いつくばるようにして隅々まで探索した。ここで逃した黒い悪魔が自分の部屋にくるのは絶対に阻止したいと仰る。その鬼気迫る表情に、私は黙るしかなかった。
「大丈夫。いないみたい。後でホウ酸団子分けてあげるから、水回りとか部屋のすみに置いといて。念には念を入れないと」
「あ、はい」
「それにしても、ひどい顔色だよ。大丈夫?」
同じ寮の同級生とずっとこんな風に気さくに話したかった、という気持ちと。
よりによって、それがこんな情けない場面だという事実と。
べっちんが喋ったのか、それとも空耳だったのか分からない恐怖とで。
私の涙腺はついに壊れてしまった。
しくしく泣きだしたぼっちの特待生を哀れに思ったのか、高野さんは私を自分の部屋に連れて行き、温かいカフォオレをご馳走してくれました。
「めちゃくちゃ美形の彼氏がいつも一緒にいるから、話しかけにくかったんだ。あの人、近くに座っただけで、ゴミでも見るような目で見てくるんだもん。まぁ、私のね。コンプレックス混じりの被害妄想だろうけど。それに花桃寮にいる時は、島尾さんずっと部屋に篭ってたでしょ? 人付き合いが苦手なのかと思ってた」
いや、それは被害妄想ではない。
蒼め。あとで注意しとかなきゃ。
「ううん、そんなことないよ。どうすればいいか分からなかっただけ」
「女子寮にも談話室があるの、知ってる? ご飯の後とか、みんなそこでお喋りしたりしてるの」
「そうなの!?」
自分の部屋と大浴場がある一階から、実は移動したことがないんです。
正直に打ち明けると、高野さんはブハハハと豪快に笑った。
パッと見、真面目な文学少女って感じの子なんだけどね。笑うと下町の食堂で働いてる子みたいになったので、一気に親近感が湧いた。
「談話室は2階にあるし、視聴覚資料鑑賞室は3階だよ。そっちでは毎週水曜日だったかな、ロマンチック研究会が映画鑑賞してるんだって。『週の半ばに潤いカンフルを!』が合言葉みたい。私もいっぺん行ってみたいんだ。今度、一緒に行かない?」
ロマンチック研究会ってなんぞ。いや、待って。それより、待って。今、わたし、誘われた?
「い、いきたい! いってもいいですか?」
「いいよ、もちろん」
なんで敬語? 島尾さんって面白いね、と高野さんはまた笑った。
正直舞い上がりすぎて、他にどんなことを話したかなんて覚えていない。ふわふわと雲を踏むような足取りで自室に戻り、べっちんを抱え上げようとしたところで我に返った。そっとベッドの上に戻す。心持ち、枕から離して。
これ以上は、私たち戻れなくなるのよ、べっちん。
ごめんね。
それから気分を切り替え、今日の予定消化にとりかかった。
怪我の功名とはよく言ったもので、その日、私には初めての友達が出来た。