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咲き誇る華の名は

作者: 宇野 肇

 鏡の中に自分が映るはずのその位置に他人が居る恐怖を、味わったことがあるだろうか。




 目を開けると知らない天井が見えた。匂いも知らないもの。

 ここはどこだ、と思ったところで、体が動かないことに気づいた。金縛りかと思って、一度力を抜く。それからゆっくり、指の一本から丁寧に動かすように意識すると、今度はちゃんと思うように動いてくれた。

 むくり、どうにかこうにか起き上がると、まず、覚えのない艶やかな髪が視界に垂れ下がってきた。

「ぅ、ひゃ!」

 ぎょっとして引きつった声を漏らしたものの、……声も、よく知る自分のものではなくて。


 どうしよう、なんだこれ、どうなってるの、なんなの


 混乱する頭で、あちこち身体を触って確認する。と、明らかに『私』でない感触に、背筋が凍った。

 指通りのいい長い髪は緩く巻かれている。スラリとした手足は美しく、立てばきっと身長が高いだろうこともわかった。そして、豊かな胸。くびれた腰。どれも、私の持たないものだ。


 なんだ、これ


 改めて疑問が浮かび上がる。それと同時に記憶を遡るけれど、思い当たる節はなかった。さてこれから寝ようと、そう、思って。急に立ちくらみみたいな感覚があって、それから……それから、なにか、視界が暗い緑のフィルターで覆われたようになって、見ているものが揺れ始めて、黒いブツブツがそれを塗り潰すように増え始めて、それから、それから――

「なーに変な顔してんの」

「っ」

 そこで記憶が切れたのだ、と記憶の再生が済んだところで、男性の声がした。

 自分でも情けないほど身体が跳ねて、そろり、そろりとそちらを見やる。そこには眠そうな顔をした、否、タレ目ののんびりしてそうな雰囲気をまとった男の人が立っていた。

 部屋の入り口だろうか。そこで始めて辺りを見渡してみる。……室内だけれど、窓は一つもなく、なんて言うんだろう、道場みたいな雰囲気の場所だ。その真ん中に、私は倒れていたようだった。

「……おい、ボタン?」

 きょろきょろと辺りを見渡す私を訝ったのか、男性がこちらへ言葉を投げかける。ボタンとはなんだろう。いや、この場合誰だろうと言うべきなのか?

 戸惑っていると、男性の目が細められた。

「お前、誰だ」

 のんびししてそうだ、と思った雰囲気は霧散して、鋭く尖った声に身がすくむ。

「あ、わたし、は」

 険しい顔に身体は距離をおこうとしてなんとか後ずさるも、素早く、そう、あり得ないほどの速さで距離を詰めてきた男性は、その勢いの死なない内から抜いた白銀の剣を、私の首元に突きつけたのだ。

「ひっ」

 声にならない音が漏れた。鋭いのであろう剣は、首筋に触れるかどうかという絶妙な距離で止められていた。

「……答えろ」

 いっそ気さくなほどだった空気はもうない。男性の声は低く唸るようで、私はそれに対して心に壁を作る暇もなく彼に飲まれ、また気圧されていた。

 怖かった。怒気を孕んだ男性の姿も、剣そのものも。

 だから答えたのだ。私の、名前を。




 拘束され、連れて行かれた先は消毒液の匂いが立ち込めた建物の中だった。多分病院。その一室はなかなか居心地の良さそうな調度品で整えられていたけれど、それだけに不釣り合いな太い鉄格子が異様に映った。

 私は、ここへ入れられた。

 何がどうなっているのだろう、と思いながら、鉄格子を挟んでたたずむ男性に、聞かれたことをひたすら馬鹿正直に答えた。嘘を考える余裕はなかった。

「俺、キリトって言うんだ」

「……皐月(サツキ)、です」

「うん」

 再び名乗りを終えて一通り私の覚束ない話を聴き終えた後キリトと名乗った男性はここで待つように言って、くれぐれも妙な気は起こさないようにと釘を刺すと、二人ほどやって来た……見張り、だろうか、軍服みたいな衣装をまとった人たちと交代するように出て行ってしまった。

 代わりにやって来た二人は直立不動で部屋の中の唯一の出入り口を固めた。私の方を見るわけでもなく、かといって全く見向きもしない感じではなくて、居心地が悪い。心細くて、柔らかなソファに座って、目を伏せた。

 そこでかなり長い時間、じっとしていた。飲み物は用意されていたけれど怖くて口にできなかった。

 見張りらしい人たちが余りに微動だにしないから、緊張していつしか息を殺していた。それに気づいたのは扉が開かれてキリトさんが戻ってきた時だったけれど。……トイレに行かなくて済んだのは緊張していたのも大きいかもしれない。

「すまないな、混乱してる中一人にさせてしまって」

「……いえ、」

 これからどうなるのかと思いながら、キリトさんは鉄格子の外にある椅子に腰かけた。

「犯罪者じゃないからな。そういうのと同じ場所に入れる訳にはいかない。かと言って、仲間の皮を被った身元不明の不審者を歓迎するわけにもいかない。それで取り敢えずここに入ってもらっていた」

 そう言って、彼は何か書状のようなものを私に見せた。

「取り敢えず君の話を聞いた結論としては、君は我々魔法騎士の一人の術に巻き込まれた、いわば被害者だと断定した」

「はあ……」

「我々は新しい術の開発も行っていてね。今回、今の君の身体の本来の持ち主が新術の実験をするってことで俺が立ち会っていたことも、君が我々にとって害あるものではないと判断する一因になった。彼女の術式は発動していた。因果関係を見てもそう考えるのが妥当だし、何より……彼女の新術というのは、時空に穴をあけて別の場所へ移動する類のものだったから」

 なにかとても理解しがたい単語が数多くあったけれど、酷く真剣なキリトさんや、その後ろで無表情でたたずみ続ける兵士さんらしき男性二人を見ているととても話を遮ることなどできず、私は彼の言い分をひとまずまるっと受け入れた。

「彼女……その身体の元の持ち主はボタンと言うんだけどね、あいつは気も強いしプライドも高いから、こんなことで死ぬような奴じゃないというのが我々の見解だ。魔法の熟練度も相当高いエースだから、さほど心配はしていない。だが……君の身体の中に入ってしまった可能性が高い。本当に申し訳ないが、君にはここで、彼女が再び戻ってくるまでを過ごしてもらわねばならない。その身体は我々の大切な同僚のものだから」

「はい」

「迷惑をかけたのはこちらの方だ。出来る限りのことはさせてもらうが、……ボタンの心証を悪くするようなことがあれば幽閉もありうると、それは心してほしい」

「はい」

 制服を着た人の素行が悪ければその制服を纏う他の人全員の印象が低くなる、それと同じことだ。

 キリトさんの言い分は理解できたから、私は素直にうなずいた。多分、よっぽどあくどい事をしなければ大丈夫だろう。私は所詮小市民だから。

 従順な私の様子をどう思ったのか、キリトさんは少しだけ表情を崩した。

「……何か、聞きたいこととかあるかな」

 その言葉に、私は真っ先に言いたかったことを口にした。

「魔法騎士とか術って、そもそもなんなんですか?」

 その時の彼の表情と言ったら。後ろの兵士さんたちも心なしか目を丸くしていて、私は曖昧に笑うしかできなかった。




 聞けばどうやら、魔法が存在する世界から引っ張りこまれたようだった。キリトさんたちは魔法の扱いがとても上手で騎士団に所属している。魔法騎士の地位は結構高いらしい。その頂点に立つのは騎士団長で、その下に隊長、上級騎士、下級騎士、騎士見習いと下がっていく。キリトさんの立場は上級騎士だそうだ。魔法使いの間では有名らしく、私が魔法を使ってボタンさんの身体を乗っ取ったと言うには彼を知らないことが逆に不自然で、だから私は安全だろうと思われていたことも教えてもらった。けど、興味は特には無かった。

 いつになるかはわからないけれど、私のこの身体……ボタンさんは必ず戻ってくると、半ば確信を持ってキリトさんは断言した。どこからそんな自信が、とは思ったけれど、私には分からない根拠か、絆のようなものがあるようだった。

 それならそれでよかった。とにかくいつか帰れるのだ。だから、私はここで大人しくしていればいい。幸い身体は彼らの仲間のものだ。痛めつけられることもない。身の保障のみならず、生活も不自由のないよう配慮してくれるというのだから私はそれに甘えればよかった。

 混乱が解けたのはその日の夜だ。どうにか自分の身に起きたことを把握して、疲れ切った私はボタンさんの家で寝泊まりするように言われ、それに従った。家の中に入り戸締りを確認すると、早々にベッドに潜り込み意識を手放した。


 思えば、その頃が一番気持ちが安定していたのかもしれない。その安定も、無知からくる程度のものだ。だから、足場が崩れるのも早かった。


 次の日から、私は見も知らぬ『ボタン』を無理やり背負うことになった。

 行動をいくらか制限されることはあったけれど、それは特に気にならなかった。少し散歩や買い物で外を歩くと、皆私を『魔法騎士のボタン』として接してきた。会ったこともない初対面の人間だ。その殆どが同じ魔法騎士だという。

 ボタンさんは慕われていて、その分彼らの視線が怖かった。私は『サツキ』だ。『ボタン』じゃ、ない。

 けれどボタンさんの立場上、その人格()の不在が知られることは秘匿された。エースの不在は騎士団内はおろか、一般人にまで動揺させてしまうからと。それだけならまだしも、彼女が帰って来られないようにと、他国の隠密がこの身体を傷つけに来ないとも限らない。その時痛みを感じるのは『私』だ。それにそのことによって元の身体に戻れるかというと、それも不確か。……それは、御免こうむりたい。

 幸いキリトさんが護衛と監視を兼ねて側に居てくれたから、一応ボタンさんは術の関係で一時的に『記憶を封印してある』という体で話が進められた。あくまでもボタンさんの新術の実験の結果であり、事故ではなく意図的にそうしたのだと、そういう意味合いを持たせて。敵にやられたとなると、ではどこの誰にという話になり要らぬ火種を呼び起こしてしまうからだと、キリトさんは言った。

 私はひたすら彼の言うことに従った。また敵意を向けられるのはごめんだったし、それに、彼の側は居心地が良かった。

 彼もまた次代を担うエースで元々ボタンさんとは懇意にしていたらしく、一緒に居ても怪しまれないし、何より彼がボタンさんの()を案じているのは明白で。飽くまで心配しているのはボタンさんの肉体であって私ではなくて。

 何気ない折にそれを感じる時、私は疎外感よりも喜びを覚えたのだ。ボタンさんの身体にいるこの私は確かにここにいて、『サツキ』なのだと。それは残酷なようでいて、酷く甘い優しさのようにも思えた。


 けれどそれにも限度があった。一週間を過ぎる頃、生活サイクルそのものには慣れた。そうしたら次は『ボタン』への視線が私を蝕んだ。彼らの中に私はいない。私は『ボタン』じゃないのに。

 そのちぐはぐさと、徐々に『サツキ』が消えてしまいそうだと、『ボタン』じゃないのにここにいる私は一体なんなのかと心が重くなり始めたころ、私はついに見てしまった。

 ボタンさんの家の中には鏡があった。綺麗な鏡だ。

 それまでは外を歩く時、特に何かに映るボタンさんの身体(自分の姿)を意識したことは無かった……ように、思う。多分、キリトさんが上手く隠してくれていたのかもしれない。何も知らない同僚たちからの視線と同様に。

 ボタンさんの家の中は綺麗に整理されていて、研究内容が置かれているらしい場所は厳重に鍵がかかっていてそもそもどうこう出来なかったけれど、その他の調度品についても必要なこと以外であれやこれやと触れることは憚られた。だから閉じられた三面鏡も開かなかった。

 鏡を開こうと思ったのは肌の調子を確認する為、だった。流石に他人の身体だ。それも見える分だけでも美しさが分かるほどの、上質な。

 人々の『ボタンさんの顔』を見る表情はほとんど好意的で、中には彼女に思いを寄せているように思えるほどの男性も居た。どんな人なのかは分からないけれど、きっと中身も顔も良い人なのだろうとそれくらいは感じていたから、出来ることだけでもしておこうと思った。だから私はその鏡を開き、中を覗いたのだ。覗いてしまった。


 そこには、似ても似つかない、美しい女性が居た。


 ぱっちりとした二重のツリ目は気の強そうな印象。けれど肌や髪の美しさや、ツリ目の他に特に癖のない顔立ちは目に優しく綺麗で、意識を持って行かれるような素敵な造形だった。


 だれだろう、これ


 ぱちぱちと瞬きする私と、鏡の女性。

 手を伸ばせばあちらも伸ばす。もしそのまま鏡に触れたらその中に引きずり込まれそうな気がして、慌てて引っ込めた。

 ボタンさんの身体で動くことそのものはもうあまり違和感は無かった。初めは厚底のハイヒールでも履いてるのかと思うほど視界が高くなって戸惑ったけれど、少し歩いてれば直ぐに馴染んだ。

 けれど、これはだめだ。目に映る彼女の身体が、『私』を覆い隠す。

 視線の定まらない目。どこか顔色が悪い鏡の中の人はそれでも美しかった。


 これは、だれ?

 わたし、どこ?


 不意に押し寄せたのは不安だったのか、恐怖だったのか、両方か。

 心臓が縮みきって尚縮もうとしているように苦しい。

 私は、私は、この身体は、

「っ……いやぁあああああああああああああああああっ!!!!!!」

 鏡の中の女性の顔が歪む。気づけば私は数歩後ろに下がり、両手で顔を覆って、力の限り叫んでいた。

 ガラスが割れるような音と共に、腕に痛みが走った。それでも顔を覆う手を外せなかった。

「っ大丈夫か!」

 バン、と扉が開く音と同時にキリトさんの声が聞こえた。それも何処か遠い。

「鏡? まさか魔法が……っ おい、腕に怪我を、」

「わたしは! 『ボタン』じゃない!!!」

 私の身体に触れかけた熱を掃うように身体をひねり、頭を振った。

 叫んだ直後、心臓を縮こまらせた不安や恐怖は競うように喉元をせり上がり溢れだした。その流れは止めがたく、声を出そうとしても阻まれて上手く出ない。

「私は、私なのに、ボタンじゃ、ないのに」

 しゃくりあげながらそれだけを吐き出すと、暫くしてそっと、頭を撫でられた。

 そのまま頭を滑り落ちて行った手が、今度は背中を優しく叩く。それを感じているのは私のはずなのに身体は違う人のものなんて、なんて理不尽なんだろう、と思った。

「サツキ」

「……はい」

「サツキ」

「は、い」

「サツキ」

「……」

「君は、サツキだ」

 柔らかな声が何度も私の名前を呼ぶ。触れられるのは他人の身体だけれど、その声は確かに、そしてはっきりと『私』に向けられていて、私は堰を切ったように泣き崩れた。

 キリトさんは彼女の身体を抱きしめながらずっと私の名前を呼び、大丈夫だよ、悪かった、と声を掛け続けてくれた。その後私が少し落ち着くと直ぐに「ボタンの身体を大切にしてくれ」と言われてしまったけれど、それは『私』に呼びかけるもので、酷いと思うと同時に『サツキ』を認識してくれることに喜びを隠せなかった。

 この世界で目を覚まして、一ヶ月が経っていた。




 それからは鏡のない生活をした。長期任務と称して私はキリトさんと二人、静かな療養地で過ごすことになった。どこか和風なそこは隠れ里としてどこにも属さない中立で特異な秘境の中にあった。温泉や食事も和風で、私は直ぐにそこが気に入った。


 壊してしまった鏡だけれど、私が魔法を使ってやったことらしい。ボタンさんの身体は魔法を行使するのに適するように訓練されているから使えてしまったようだ。

 本来は然るべき学び舎で修練を詰むべきことだけれど、肉体と中身に差が出来てしまったが故の事故。偶発的なものだしその時の私の状態も不安定だったということで処分は無かった。

 鏡はキリトさんが直してくれたようだ。ほっとすると同時に、深々と反省し、頭を下げた。ボタンさんの身体を意図的でなかったにせよ傷つけてしまったこともそうだし、彼女の持ち物を壊してしまった事実が変わるわけじゃない。

 謝罪した私に、キリトさんは苦々しく首を振った。精神面での配慮が足りなかったのは我々の落ち度だと、そっと頭を撫でてくれた。彼の手は大きくて暖かで、触れているのが彼女の身体だったとしても、感じる暖かさに頬が緩んだ。この頃から、彼は良く触れてくるようになった。


 秘境での生活は穏やかなものだった。彼女の身体をだらしないものに変えるわけにはいかなかったので食べるものには気を付けた。それでも抗い難い甘味の誘惑に完敗し、それをキリトさんに笑われつつ、散歩程度でも出来る限り運動はするようにした。

 ふとガラスや金属類に映り込む『ボタン』からまでは逃れられなかった。けれど、その度に私はこれはボタンさんの身体であって、私ではない、と言い聞かせた。私が彼女の身体の中(ここ)に居ることは、私と、そしてキリトさんと、ごく一部の人が知っている。そして彼は『サツキ』と、私の名前を呼んでくれる。

 だから、大丈夫。

 私がいることを知っている人がいて、私の名前を呼んでくれる人がいる。私がここにいることを受け止め、肯定してくれる。それがどんなにか心強いか、彼は知っているだろうか。

「サツキ、今日は何を食べるんだ?」

 くすくすと楽しそうに目を細めるキリトさんは穏やかで、鏡を割ってしまってから私を気にかけつつも、飽くまで私のペースを尊重してくれる彼と並んで歩く隠れ里の空気は優しくて、私は、楽しくて。『ボタン』を見る視線のない穏やかな日々に私はなんとか、私でいることが出来た。

 だから、……だから、私がキリトさんに惹かれるのは、自然な流れだった。




 彼に惹かれたのが他に居場所がなかったからなのかは分からない。見知らぬ土地で、『私』を知っていて、ずっと側に居てくれて、気にかけてくれて、優しくて、穏やかで、それがたとえボタンさんの身体のためだと分かっていても、気持ちと言うのは傾いてゆくものだ。彼のそんな姿をボタンさんの身体の中から見て、感じているのだから余計に。そして私は、それをせき止めてコントロールするほどの体力も気力も持ち合わせてはいなかった。

 ころころと、転がり落ちるまま彼を好きになった。そのこと自体は悪いことじゃない。誰かを好きになることそのものが悪なんて、そんなことは無い。好きだという感情を振りかざして誰かを害するわけではないのだから。

 私が彼を見る目が親切な男性から好きな異性へ変わったところで、私たちの関係は変わらなかった。彼は保護者だし、私は被保護者だ。厳密には、保護したい対象と言うのはボタンさんの身体なのだけど。

 こんなことが無ければ会うはずのなかった私達。好きになった今、出会わなければよかったというにはこの気持ちは暖かくて苦しくて、嬉しくて切なくて、自分を認めてもらえない孤独に比べれば遥かにマシだった。

 それでも、キリトさんが触れているのは私じゃなくてボタンさんの身体なのだと思うと、チクリと嫉妬が込み上げてくる。もし私が別の女性の身体に入っていたら、彼はこんな風に柔らかい表情や優しさを見せてくれていただろうか。そう思うとボタンさんの綺麗な身体と顔立ちが憎いのに、彼女だったからこんな彼の姿を見られるのかと思うとありがたいような気もして。

 相反する揺れる気持ちを持てあました私は、けれど何をするでもなく、生ぬるいとも言える日々を享受していた。

 本来であれば彼にも騎士としての仕事や研究がある。

 第一発見者と言うことやボタンさんと親しかったことと絡めてこうして私の監視兼護衛をしてくれているわけだけれど、遅かれ早かれ事態が収束すれば、彼とはもう一生会えない。


 終わるなら、何もしなくてもいいじゃない


 そう囁く私自身の声に、反発する理由はどこにもなかった。ただボタンさんの身体で、彼の優しさを感じていればいい。どんなに苦しくても、間違っても私から好きだとは言えなかった。私は『ボタン』でもあるのだ。私の行動は彼女の行動になる。そんな状況で、私が言えることなんてない。

「サツキはよく笑うね」

「え?」

「あいつの笑い方ってさ、いつも自信たっぷりで……それが悪いわけじゃないけど、サツキみたいになんていうか、無防備には笑わないから」

 彼が見せてくれるもの、彼が教えてくれること、仕草、表情、その一つ一つを感じていると、時々彼と恋人にでもなったかのような錯覚をした。彼が私を『サツキ』と呼ぶから。そんな時、ふと映り込むボタンさんの顔は、私の頭を冷やすのに一役買ってくれた。

「サツキの笑顔は可愛いよね」

「……そう、ですか?」

「うん」

 勘違いをしてはいけない。

 わきまえなければならない。

 彼が見ているのは私かも知れない。けれど、その奥にはボタンさんがいる。それを忘れてはいけない。

 ふとした拍子に感じる、彼が向けてくる意味深な視線。彼の瞳に映る彼女の身体と、その中に居る私。どちらに向けたものなのか、なんて自惚れてはいけない。

 これはボタンさんの身体。

 仮に、百歩譲って彼が私を好きだと言ったって、それはボタンさんの身体に入った私にすぎない。私がボタンさんの身体で笑って泣いて、動かしているだけだ。

 きっと彼はそれを間違えたりする人じゃないだろう。まさか『私』が彼女の身体に入っている時に、事に及んだりしないだろう。ボタンさんの意志のないところで、身体を手に入れるような卑怯な真似はしないはずだ。それは彼が一定の距離を保っていることからも窺えた。

 頭や背中は撫でてもらえても、それ以上は絶対になかった。抱きしめるだとか、耳元で囁くとか、そういう距離の近いことは何一つなかった。必ず私と彼は一歩分、離れていた。

 だから、どこかで安心していたのだ。

 自分の恋心の手綱を握るのに、あるいはそれを味わうのに必死で、私は結局自分のことで精一杯で。

 彼を、キリトという人を恋慕の色眼鏡なしに見ることが出来なかった。


 三ヶ月ほど経とうかと言うころ、彼はいつもの適切な距離を保ったまま、口にした。

 愛の、言葉を。




 ――あんまりだと、思った。


「俺は、君が好きだよ」

 普段と変わらない穏やかな顔で告げられたそれは、私が焦がれて、そして同時になんとしても聞きたくなかった言葉だった。

 何か言葉を返すより先に涙が溢れ、顔がくしゃりとゆがむ。

 そして、彼の姿は見えなくなった。くらりと視界が揺れ、一気に闇に閉ざされる。身体の奥に引きずり込まれるような感覚。

 時間が来たのだ。私が、本来いるべき場所へ戻る時が。


 始まりが唐突なら、終わりも唐突だった。喉につかえたなにかが私の気持ちが溢れ出し飛び出して行くより先に、私は一人、見知った私の部屋で立ち尽くしていた。


 どうして、好きになったりしたのかなあ。好きになったって、どうせ実らないに決まってたのにさ。

 あーあ、上手くいかないなあ。


 分かりきったことが頭を過ぎる。

 何度も何度も悔しい思いをした。好きなのは私だけで、彼は優しいけれどそれだけで。彼から好きだと言われた時は、きっと私は壊れてしまうとさえ思った。それを期待しながら、それに泣いた夜もあった。

 壊れた方が、マシだった。

 壊れることもできないまま私は私になり、もがき苦しみ耐えた分だけ放り出された私の心は空虚だった。


 戻ったんだから、いいでしょう?

 あれほど求めていた自分の体だ。それに戻ることができたのだから、これ以上幸せなことはない。だって、私は私で居ていいんだ。私は、私だから。誰かじゃなくて、いいから。


 だというのに泣き続けているのは、それだけ私が彼を好きだったからだ。好きになってしまった。優しくしてくれた。私は私で居ていいと言ってくれた。私を名乗ることを肯定してくれた。何も言わずに側に居てくれた。

 誰も知る人のない、それどころか知りもしない場所で、全てが私を否定する中で、彼だけがそっと、居場所を作ってくれたのだ。それが例え私の器(ボタンさんの身体)を守るためだったとしても、私は嬉しかった。張り裂けそうだった。


 それはマジックミラーのようだった。

 私から向ける彼への気持ちは私のものなのに、彼から向けられるのは私ではなくてボタンさんへのもので。それを喜んでいたのは最初だけだ。

 私を見て、なんて口が裂けても言えなかった。心を開いて、彼に見せることができたらどんなにいいだろうと思った。


 最初から、終わりのある日々だった。そうでなければ耐えられなかっただろう。けれど今はその終わりに心を潰されそうだった。なんてわがままなのか。自嘲しても悲しみは軽くはならず、後から後から湧いて出てくる。嗚咽と涙をひたすら垂れ流すことで、私はなんとか許容を超えた思いをやり過ごそうと試みるしかなかった。

 両思いなのに片思いで、告白を受けると同時に失恋で。逃げたいと思ったら私は自分の部屋に、自分の身体で立っていて。比喩なんかじゃない、本当に本当のもう絶対に手の届かない、違う世界の人。

 最後の最後でトドメを刺してくるなんて、やっぱり酷い人だ。

 思い浮かべた彼の表情は穏やかに目を細めて笑っている。それが、救いだと思った。






 見知った身体が急に崩れ落ち、キリトは慌てて彼女の身体を支えた。

「っサツキ!」

 咄嗟に呼んだ名は、三ヶ月を共にした女性のものだ。魔法のない世界から同僚(ボタン)の新術の所為でやってきてしまった一般人。

 くるくるとよく変わる表情と隙だらけの姿。身体こそ間違えようもないボタンのものだったが、サツキの持つ雰囲気は独特だった。ゆえに、キリトがボタンの姿の中にサツキを見出すのも早かった。

 ボタンとの違いからサツキを見る時、キリトは彼女の中に好意を見た。立場上依存されているのかも知れなかったが、キリトが手を伸ばした分だけ柔らかみを増していくサツキの感情は好ましく、彼は頼りないサツキの様子を目にする毎に、サツキ自身を守りたいと思うようになっていた。

 心は目に見えない。傷ついても、身体に出てこない分を見抜くのは至難の業だ。サツキは隠すのが上手な方ではないのが幸いした。

 彼女を守るために心を砕くことは、訓練に明け暮れ、戦争も経験したキリトには新鮮で楽しいことだった。キリトが何かサツキのために動く度、彼女が嬉しそうにするのも彼が止まらない一因でもあった。

 気づけば、キリトもサツキに惹かれていた。流石に安易に口にするほどの青さは無かったものの、それでも心は確実にサツキへ傾いている自覚はあった。

 その果てが、これだ。

 身体と心がちぐはぐなことをサツキが気にしてるのはキリトにも分かったが、堪えきれず好きだと告げた際の彼女の苦しそうな表情に判断を間違えたかと焦った。直後の、気絶。

「おい、サツキ! サツキ?」

「ん……キリト?」

 薄く目を開けた彼女の様子とその口から発せられた名を聞いて、キリトは即座に『終わり』が来たことを理解した。

「ボタンか……遅いぞ」

「悪かったわね。……サツキというのは私の中に居た子ね?」

「……帰った、のか」

「間違いなく。あの子の身体は魔法を使うのに適してなかったから、術を発動させるのに時間が掛かってしまったのよ。……あの子には悪いことをしたわ。あっちとこっちじゃ随分勝手が違ったの。ご両親にはなんだかすごく心配されてしまって、病院にまで連れて行かれたし。仕事も私には全くわからなくて……あと通信機らしきものも咄嗟に壊してしまったし。……いえ、最後にはちゃんと直したわよ! でも使えなくなってて」

 バツが悪そうに話すボタンに、キリトは眉を寄せる。

「事情が事情だから仕方がないだろ。世界が違っては謝罪も出来ないしな……。遅いなら、もうあとほんの少しくらい遅れてたってよかったんだが」

「あら、随分な言い草じゃない。アンタの都合なんて知らないわよ。なに、惚れた?」

「……」

 図星を指されてぐうの音も出ないキリトを見て、ボタンは目を丸くした後破顔した。

「あっはっは! ばっかじゃないの! 何やってんだか!」

「うっ……るさい! 丁度告白した直後だったんだよ!」

「ほんとアンタって間が悪いわねえ!」

「お前の所為だろ!」

 キリトが半ば自棄になってそう叫ぶと、ボタンはにんまりと口角を釣り上げた。キリトのよく知る、自信たっぷりの悪巧みをしたような顔。

「じゃあ責任とってあげるわよ。彼女にもね」

「は?」

「あっちじゃできないことでも、彼女がこっちに居れば出来るでしょうが。それこそ償いでもなんでも。……アンタが惚れて告白までしたんだから、相手もまんざらじゃあなかったんでしょ?」

 何でもお見通しだという風に言い切ったボタンに、キリトは二の句が継げなかった。その間にも、ボタンは楽しそうに笑う。その表情はどこか意地悪く、恩を売るようで。


 ――こんなのがサツキと似てるなんてとんでもない!


 改めて力強く思った直後、彼は妙な浮遊感に襲われる。

「この三ヶ月、殆ど魔法使ってないみたいね。魔力が有り余ってる。……まあ、十分程度なら持つでしょう。穴をあけるから行ってらっしゃい。……カノジョ、ちゃんと紹介しなさいよ? アタシだって謝りたいんだから」

「……っ! くそっ! 礼は言わないからな!」

 ボタンの声が次第に遠くなる。キリトの視界が暗転すると同時に、彼の身体はその場から消え失せた。

「……これも縁結びの内に入るのかしら?」

 繋げたのは時空であって、縁じゃなかったのだけど。

 ボタンの呟きはそのまま宙に散った。






「サツキ」

 泣き続けていると、急にぐい、と腕を掴まれた。

 聞き覚えのある声。耳に優しい、大好きな。

 そんなわけない、と思いながらも期待に溢れる胸はどうしようもなくて、だから、そっと、手を引かれた方を見た。

「あ……」

「初めまして、って言った方がいい? 俺としては初めから仕切り直すつもりはないんだけどね」

 そこには、間違いなく彼がいた。その後ろに、なにか、黒い……ブラックホールのような穴を背負って。

「おーい、サツキ? 聞いてる? っていうか、俺の声聞こえてる?」

「あ……ええと」

 なんて言ったらいいかわからなかった。涙は引っ込んで、あれだけ痛かった胸は、今はひたすらドクドクと慌てふためき脈打つだけで。

 軽く混乱している私を見て、彼はくすっと笑った。あ、私の好きな顔。

「泣かないで」

 そっと頬の涙を指先で拭われながら、私は惚けたように彼を見上げるしかできなかった。

「ど、して」

「だって返事もらえなかったし」

 疑問を口にすると、彼は何でもないことのように首を傾げながら答える。あっさりとした態度は変わらなくて、ただ私を見る目は、表情は、ひどく、やさしく、て かわらない、ねつが

「ちが、なんで」

「分かるって。だってカオ、一緒」

 愚図る子どもを見るような、やれやれとも、しょうがないな、とも言える顔だった。あるいは出来の悪い生徒を見る教師か。困ったように下がった眉尻に、けれど伺えるのは、そこには深い情があるということ。

「言ったでしょ。俺が好きなのは君だ、サツキ。好きな子を間違えるわけない」

「でも、私はっ」

「あのねえ、ボタンってのはホント気の強い女なんだ。プライドが高くて、まあいい奴には違いないんだけどさ。だから、サツキとは似ても似つかないよ。似てたらやだ」

 どこか自慢げな彼は、やっぱりボタンさんを大事にしていると思う。

「ボタンは簡単に不安そうな顔はしない。取り乱したり、ましてや泣いたりなんかはね。きっと、仲間の誰も知らないだろう」

「……それは、でも、」

 溢れ出た気持ちは、まだせき止められないほどに勢いがあった。そんな私は会話をしようとして、でも全然上手く言えなくて。なのに彼はそんな私の全てを見透かしたように、的確に答えた。

「だからね? わかるんだ。だって俺はずっとサツキのことを見てたんだから。やっとボタンの顔じゃなくなって、ようやくしっくりきたくらいなんだけど」

 くすくすと、彼は笑う。一緒にいた時に見せてくれていた表情のままで。

「さて、サツキ。悪いけど時間がない。後ろのコレは直に閉じる。……サツキの答えが欲しい。俺と同じ気持ちなら、このまま攫っていく」

「あ、わ、……私、は」

 どうして彼は私が欲しい言葉を全てくれるんだろう。

 嬉しくて、嬉しいのにあまりにもその気持ちが強すぎて、溺れているようだった。

 息苦しくて、また涙が溢れてきて、言葉がでなくて、今は関係ないはずの、彼と過ごした日々のことが思い出された。

 褪せない。まだ、褪せるはずもない。思い出と言うには鮮やかで残酷で、なのにとっても優しい記憶。

 寄る辺のない海の中に頼りなく浮かび、その力にもみくちゃにされている私をすくい上げたのは、私をその海へ放り投げた張本人だった。

「好きだ、サツキ」

 優しく抱きしめられる。そうして落ちてきた囁くような声はしっかりとしているのに、ピッタリくっついた彼の胸からは、私と同じくらい早い鼓動が答えを聞かせろと私を叩いてくる。

 落ち着いた声色は今まで聞いたことのないもの。揺るがない人だと思っていたのに、それは本当にごくごく僅か、震えて、掠れていて。

「……、すき。私も……あなたの、こと、ずっと」

 ぽろ、と零れたのは涙と、言葉。彼の腕と匂いに包まれて、頭がクラクラした。そんな余裕のない私を笑うように、彼は私の耳に口付けて、また、囁く。

「あなたって誰?」

「……キリトさん」

「サツキ」

 彼の服を握ると、彼は押し殺し、けれど確かに高ぶったような声で私の名を呼んだ。

「やっと触れる」

 触れ合う唇は暖かくて、いつも一定の距離以上近づいてこなかった彼が、こうして踏み込んできてくれたのが嬉しくて。

 両手で耳を覆うように頭を固定されて、そこからも暖かさが染み込んできて。胸の中の、堅く積み上げたものが溶けそうだと。

「キリト、さん」

「なに。今ちょっと忙しい」

 リップノイズの合間に彼の名を呼べば、喜色に顔を染めた彼の指が私の頬を滑って唇をなぞった。恥ずかしい。視線をそらすにも限界がある。

「時間、ないんじゃ」

「そうなんだけどさ。……帰ったら、きっとからかわれるから。そしたら、浸る余裕なんてなさそうだし」

 手続きとか書かなきゃいけない書類とか諸々あるからなーと言う彼は、面倒だと口にした割には見てる方が蕩けてしまいそうなほど柔らかく笑んでいた。

「こっちに来たら、俺の家に連れてくから。そこがサツキの家だ」

「え?」

「せっかく両思いになったんだから、二人っきりの時間が欲しいんだ」

 言って、また彼の唇が降ってくる。瞼に、頬に、額に、鼻に。順繰りに触れられるそれは何度も繰り返されて、どうも終わる気配がない。

「き、キリトさん……」

「うん?」

「なんか、雰囲気、違う」

 それでも彼の唇が触れる度に彼の体温を直接感じられるのが嬉しくて、止めてとは、言いにくくて。触れられる際に彼を感じたくて意識がそれるのを恥ずかしく思いながらも、私はなんとかそれだけを。すると彼はきょとんとして、それから……なんていうか、にんまりと、ワルイカオを、した。

「だってもう、遠慮しなくてもいいでしょ? 俺、怒ってるんだよ? 俺が好きなのはサツキなのに、サツキは頑なに違うと思い込んでるから」

「それは!  だって、」

「いいよいいよ。これからいっぱい、俺がサツキのこと好きだって知ってもらうから」

「なっ……」

 絶句する。それがどういう意味なのかさっぱり分からないほど私は、私たちは子どもじゃない。

 私の顔はきっと面白いことになっていただろう。彼の表情がワルイそれから楽しそうなものへ変わっているから、私の反応で多少は溜飲が下がったのかもしれない。

「放すつもりなら好きだなんて言わない。放せそうにないから、告白したんだ」

「……さっきは、同じ気持ちだったらって」

「いやあ、サツキも俺のこと好きっていうのは分かってたからさ。もし拒まれたらほんと誘拐するしかなかったね。俺を惚れさせた責任を取ってもらおうかと」

 にこにこと笑う姿はいっそ清々しい。

「それで、俺が好きなのはサツキなんだって心の底から理解してもらうつもりだった」

「もういい! 分かった、分かったから! ……キリトさん的には結果が変わらないことは分かったから」

 折角の幸せな気持ちに水、差さないで。

 続けようと思った言葉は、彼の唇に吸い取られた。

「大好きだよ」

 そのまま言うはずの言葉は奪われて、でも彼の蕩けそうな微笑みを間近にすると改めて口にするほどのことでもない気がして。

「……私も、すき」

 代わりに、彼の甘い謝罪を受け入れた。

 何度も触れる熱の感触は柔らかくて優しくて、なのに私の身体をいやに熱くする。

 それが突然途切れる。

「……ごめん」

「……キリトさん?」

 彼は抱き留めていた私の二の腕を掴むと、握り拳二つ分ほど遠ざけた。名残惜しさを感じながら見つめた先には、罰の悪そうな顔。

「ちょっと調子に乗りすぎた。我慢できなくなりそうだから、一旦休憩」

 取り繕うように肩をすくめて、彼は掴んでいた手を放して少し身悶える。それを見て、思わず噴き出した。

「ふふ……っ なんですか、それ」

 所在なく彷徨う彼の両手や表情を見ているとついおかしくて、それと、幸せで。堪えきれずにくつくつと笑っていると、彼はぎゅっと私を抱きしめ直した。その力はさっきまでよりも余程強くて、身動きも出来ない。

「っキリトさん?」

「だめだ、やっぱり笑ってるところも『サツキ』まんまだ」

 私の肩口に頭をぐりぐりと押し付けて、まるで動物みたいだ。

 しばらくそのままでいたけれど、時間もいよいよ無くなったのか、そっと力が緩んだ。手を取られ、引かれるまま足を踏み出す。彼に導かれるまま、黒い穴の前に立った。

「サツキ、今回のことは君のこれまでを踏みにじったかもしれないとボタンから聞いた。それに……これからの人生すべてももらうことになるけど、いい?」

 振り返ったキリトさんが、真面目な顔で私を見つめる。私はそっと頷いて、微笑んだ。

「……責任取らなきゃいけないんでしょう?」

 私の言葉に彼は息を飲んで、それから

「うん。俺も、サツキを惚れさせた責任、取るから」

 言って、私の肩を引き寄せた。




 全てを放り投げて彼についていった罪悪感がないわけではなかったけれど、それでも『私』として彼の側に居られる喜びには勝てなかった。まあ後にボタンさんから謝罪とともに聞いたところによると、中身が変わってしまった所為で生活に支障が出たらしく、仕事は退社したことになっていたらしい。両親も随分心配していたということは申し訳ない思いで一杯になったけれど、世界を渡る魔法と言うのはやはり大変なことらしく、手紙を飛ばすことは何とかできるそうで彼女に託すこととなった。


 さて、ボタンさんと言えば、穴を抜けた先には中身も全て本人の彼女が居た。はきはきとしていた自信に満ちた、やっぱり美しい女性だった。

 飛んで直ぐはキリトさんが言ったように茶化されて、それにキリトさんはむすっとしながら言い返して。そんな彼を見るのは初めてで、二人の砕けた空気の相俟ってとても仲がいいのが分かった。幼馴染なんだって。キリトさんは腐れ縁だと即座に言い直していたけど、付き合いは物凄く長いようだ。

 羨ましいなと思ったけれど、彼が私の身体をしっかりと放さなかったためか、思ったより強い嫉妬が出てくることが無かったのは幸いだった。あれだけ頑なに一定の距離を保っていたキリトさんだけれど、意外とスキンシップが好きらしい。


 ちなみにボタンさんに言いくるめられて同棲するという話は保留になり、居候と言う形で彼女の家に住まわせてもらうことになった。キリトさんは悔しそうに歯噛みしてたけれど、「女じゃないと話しにくい相談事」を盾にされてしぶしぶ引き下がっていた。ちょっと残念だけど、確かに女性が近くに居てくれるのは心強くもある。ボタンさんの身体の時はキリトさんに言わなければならなかったし、あれは恥ずかしかったから。

 それに恋人らしく待ち合わせをしたり、家に迎えに来てもらったり送ってもらったりする喜びもある。それは同棲しなくてよかったかも、と思った点で、彼には内緒だ。


「サツキ」

 変わらない、私の名を呼ぶ声と、私に触れる温もりと。全部を素直に受け止められる日々は幸福で放し難い。

 合わせた視線は絡みついて、手繰るように近づけばそっと、唇が重なった。

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