揺らぐ夕焼け
放課後、室井は堂々と彼女と帰れるようになったので、僕はまた一人で下校することとなった。
校門をくぐろうとすると、門柱のところにマモンが居た。
「なんだお前、まさかずっと待ってたのか」
「いや、軽くこの町を探訪しておったよ。ようやっとここの空気に慣れて、魔力も隠せるようになったしのう」
そう言ってマモンは背中を見せた。よく見れば、悪魔の羽が消えているではないか。頭を見ると角も無い。
「お前、羽を隠せたんだな」
「羽を隠したというよりかは、この世界の空気に合わせて魔力の膜を作ったのじゃ。こうすると世界に馴染むことができ、人間たちからも違和感を持たれない格好になるのじゃよ」
「へー、なら今はもう、人目から隠れる必要もないのか」
そういう事ならと、二人で一緒に帰り道についた。どうせ帰る所は同じだしね。
学校から僕の家までは割と近く、徒歩で十分もかからない。いつもは商店街の方へ寄り道していくため時間がかかるのだが、今日は真っすぐ帰ろう。
「しかしお前、よく迷わずに学校に来れたな」
「ママ殿が簡単な地図を作ってくれたし、お前の生気を探って来たからの」
「あ、そういう事も出来るんだな……じゃ、僕の居場所は常時ばればれって事か」
「とはいえ、少し苦労したけどのう……なぜかあの学校内では、お前の気が探り難かったのじゃ。妙な感覚が邪魔をしてのう」
「なんだよ、そりゃ」
「わからん。じゃが案外、他に悪魔でも潜伏しているのやもしれんな」
「……まさかだろ。そんなホイホイと悪魔が居てたまるかよ」
「グリモワールは一つではないのじゃぞ? わしみたいに『色つき』から出てくる悪魔と違って、『白のグリモワール』程度の量産された魔導書なら、世界にいくつも散らばっているじゃろうしな。人型でない下級悪魔であれば、それからでも呼び出せる」
「おいおい……冗談だろ?」
「冗談なものか。わしはお前に召喚されて、改めて実感したよ。人間の欲望は底が無いかのようじゃ。悪魔に魅入られる者など、いくらでも居るじゃろう」
そんな事……無い、とは言い切れない。なにせ、僕自身が悪魔を召喚してしまった身なのだ。他のグリモワールも本とカギで起動するのなら、召喚の手順は簡単なのだから、他に悪魔使いとなっている者が居てもおかしくない。
「ま、あくまで推論じゃ。地脈だとか霊的環境の影響で、魔力の探知が働かなくなることはあるからの」
縦巻きポニーテールを揺らしながら歩くマモンの後ろで、僕はどうにも不安な気持ちに包まれる。マモンの表情は見えないが、この話題のうちはあまり顔を見たくない。悪魔という物に対して不安になっている表情は、こいつに見せたくない気がするのだ。
「それよりさ、お前、なんで芹香を煽る様な真似をしたんだ?」
「ん? あー、ちょっとな。ピンと来たものでの」
「ピンと来たって……おちょくりやすそうって事か?」
「むしろ、お前は何も気づかなかったのかの? 初対面のわしが気づくくらいじゃぞ?」
「ま、まさか……あいつが悪魔を使役してるとかか?」
「…………彼女が出来んわけじゃのう」
マモンは肩をすくめ、やれやれと首を振った。なんだろう、理不尽に呆れられた気がするんだけど、こいつは何が不満なんだろうか。
「世の中には、自分の抱いている欲望に……自分が何を欲しがっているのかに気づいていない者もいるんじゃよ。時にはそれを失いそうになって、初めて気づくこともある」
「なんだよ、藪から棒に」
「今日のわしは、それを危機感と言う形で、少しつついてやっただけじゃ。あの分じゃと、近いうちに自覚するんじゃないかのう」
「芹香が気づいてなかった欲望……?」
顎に手を当てて、少し考えてみる。今日の芹香とのやり取りを思い出し、そこから考えつく物と言えばなんだろう。
「……あいつは人に料理を食わせるのが好きなのか?」
「ああダメじゃ、お前もうしばらく彼女出来んわ。無理無理」
「な、なんだよその言いぐさは……」
ひらひらと手を振るマモンを睨んでみるが、なぜか睨まれた本人は少し嬉しそうだった。
人を貶している割に、なんで機嫌が良さそうなのだろう。
「やれやれ……お前の強欲さは折り紙つきじゃがの、欲しいもんが近くにあるのに気付かないというのは致命的じゃぞ」
「弁当を忘れたことでそこまで言うか」
「あー……あかん、真正かー……」
なんだか知らんが諦めたらしいマモンと、事態が呑みこめずイラつく僕。後姿を眺めていたはずが、気づけば並んで歩いていた。
なので、十字路を曲がった時、二人同時にそれを目にした。
「あっ、室井の野郎……」
遠くの方に、先に帰ったはずの室井とその彼女が居る。小賢しい事に、二人仲良く手をつないで歩いている。指と指を絡めて握る、いわゆる恋人つなぎだ、畜生。
時折お互いに顔を合わせ、楽しげに談笑している。あんな調子だから歩くペースが遅くなっていたのだろう。遅れて出た僕らが追いつくわけだ。
「ちぇー、あの野郎、開き直りやがってよ。今日なんて悪びれもせず彼女と帰ったもんな」
「ふむ、誠二は恋人同士の二人が妬ましいのかの?」
「妬ましいつーかなんつーか、気づいたら置いて行かれてたような感じがしてさ。前までは大抵、放課後はつるんで帰って、ゲーセン行ったりしてたのに……彼女が出来るとああも一辺倒になるもんかね」
「ふーむ……」
それを聞いて、今度はマモンが顎に指をあてて考え込む。いつの間にやらマモンが背後に居る形になっているから、声は僕の背中を突き刺すように飛んで来た。
「じゃあ、潰してしまえばええんじゃないかの?」
「…………え?」
振り向くと、マモンは立ち止まっていた。
傾いてきた陽光に照らされて、黒い影が長く道に伸びている。その陰には魔力の補正が効かないのか、翼も、角もシルエットに現れている。
「あやつらの仲を引き裂くくらいは、わしでも訳ないぞ? なあに、ちょいときっかけを作るだけじゃよ。そうすればあの室井とかいう奴も帰って来るし、前みたいにお前と気兼ねなくつるむ事も出来るじゃろ」
そう言うマモンの瞳は、ガラス玉のような質感でまっすぐに僕を見つめている。
ほんの少しの間だけ沈黙してから、僕は返事をした。
「バーカ。やるわけないだろ」
「……割と淡白な反応じゃのう」
「だって本気で言ってないだろ、お前。いきなり悪魔の真似事でもしたくなったのか?」
「いや、わしは悪魔じゃけど……」
「爺さんは言ってた。言葉よりも眼を見て真意を探せって。お前の眼は毒気が無さすぎっていうか……むしろ、断られる方を期待してたよ。試しただろ、お前」
くしゃくしゃと髪の毛を撫でてやると、真ん丸だった瞳がまたジト目になった。
「そこまで鋭いなら、少しはそういう洞察力を芹香とかいう子に向けてもええと思うんじゃがのー……」
「でもさ、なんでお前がそんな事言い出したのかまでは解らないよ。どうしたんだ、急に」
「……正直言うとの、わしはお前に興味が出てきたのじゃよ」
マモンは指で前髪を弄りながら、目線を揺らした。その動作がどうにも女の子らしく、僕はなんとなく気恥ずかしくなって来る。
「お前は欲深く、悪戯者でどうしようもないアホじゃ」
「いきなり辛辣すぎるだろ」
「じゃが、わしを力づくで従えようとはせん。わしの力を使った時も、なんじゃか子供のような悪戯ばかり思いついておったし……先ほどはわしらの喧嘩を止めようともしておった。人を陥れるような事も興味なしじゃ」
「……まあ、室井の件に関しては当然だよ。あいつを貶めたところで僕が幸せになるわけじゃないし、落ち込んだあいつを見るのは嫌だしさ」
「お前は不思議な奴じゃ。強欲ではあると思うのじゃが、悪人ではないと見える」
「そりゃそうだろ。だって、欲深いのは悪い事じゃないじゃん?」
そう答えると、マモンは目をぱちくりとさせた。よくよく表情の変わる奴だ。
「欲しがることと、悪事を働くこととは必ず一致するわけじゃない。僕はそりゃ、多少裏ワザ的な手法で欲望を満たすのはアリだと思うけど……踏み越える事はともかく、踏みにじる事はしたくないぞ」
「……やはり変な奴じゃのう」
くすりと笑って、マモンはまた僕の隣に来た。
「実はな、悪魔には人間の悪意を増大させる効力もあるのじゃ」
「え、マジで? 初耳なんだけど」
「うむ。言ったじゃろ? あの芹香とか言う子の欲望をくすぐってやった、と。あの子にやったのは軽いもんじゃがの」
それじゃあ、あれは別にただ煽っただけじゃなかったのか。確かに、あの芹香があんなに気性を荒げるのは、普段の様子からはちょっと想像できない事だ。
「うむ。じゃが、どうにもお前にはそういう効果が薄いように感じていたのじゃ。世界征服とか言いだしたのも悪意が膨らんでいたせいと思ったが、どうもそうではないようじゃし……だから試してみたのじゃよ。嫉妬の感情に付け込んでみれば、もっと深い悪意が見えるかもしれんと」
「まあ、別にそんな事は無かった訳だけど」
「そうじゃ。お前は驚くほどにブレなかった……不思議な奴じゃよ、全く」
しかしながら、そう言うマモンの表情はどこか嬉しそうにも見える。
僕としても、マモンは悪魔のくせに、妙にコミカルで憎めない奴だと思っていた。だからこいつも、今となっては僕の悪意を望んでいたわけじゃないのだろう。
そういう風に考えると、なんだかマモンをさらに近く感じられる気がする。
「……まったく、勝手に人を試すなよな。一応、僕に使役されている身だろ」
「む、思い出したように上下関係を持ち出しおって……」
マモンは、ぷくりと頬を膨らませて見せる。あんまり本気で怒っている様には見えないから、僕はそれに対して笑顔を向ける。
ころころと表情の変わるマモンを見ていると、ふと、発作的にある欲望が湧いてきた。
「なあマモン。室井達、いつまでたっても曲がらないな」
「そうじゃな。同じ方向を歩いていると、後を着けているように感じてしまうの」
「なんか気まずいしさ、和菓子屋でどら焼きでも買っていくか」
「なんと! ど、どうしたのじゃお前、いきなり太っ腹になっても怖いだけじゃぞ!」
「ニヤけてるニヤけてる」
喜びの感情を隠せないマモンは、口端をぴくぴくと引きつらせる。少しだけ粘ったが、やがて観念したように力を抜いて、嬉しそうに笑った。
「……なんじゃ誠二、お前も随分嬉しそうじゃの」
「いや、あそこのどら焼き、美味しかったよなって思ってさ」
マモンの笑顔を見ると、何かが胸に満たされるような気がした。
意味のない出費なんて僕はしない。それでもどら焼きに無駄遣いしようとしているのは、この笑顔をもう一度見たかったからだ。
それがどういう名前の欲望なのは解らない。
けれど、爺さんは言っていた。「己の選択が正解か否かは、後悔の有無で解る物」と。
だとすれば、マモンの笑顔を見た僕は後悔など無いのだから、少なくともこれで良いのだと思えた。
「良くありませんよ」
「うおわあああああああっ!」
「にょおおおおおおおおっ!」
突然声をかけられて、マモンとハモりながら飛び上がる。
気づけば、いつの間にやら背後にエル先生が立っていた。学校以外でもシスター服で、しかし腕からは買い物かごを提げているのでやけにミスマッチに見える。
「せ、先生、こんなところで何やってんですか」
「買い出しです。ちょっと商店街に」
この人この格好で商店街歩いてたのかよ。冷静に考えたら学校でも浮いてる格好なのに、商店街とか浮いてるってレベルじゃないだろ。第一宇宙速度を突破しちゃうだろ。
「しかし商店街って、勤務中にどうしたんですか。林檎書店に良いBL本が入荷した知らせでも届いたんですか?」
「コピー紙の補給です。というか先生は別にその、び、びーえるとか言うのに興味が有るわけではありません」
はて、そうなのか。前にクラスの腐女子が持ち込んだ薄い本を没収した際、中身を確かめるときに目がマジになってた気がするが。
「それより光橋くん、話し声が聞こえていたのですが……」
「えっ」
先生の目つきが鋭くなる。と同時に、僕はごくりと唾を呑みこんだ。
話を聞いたってことは……マモンが悪魔だとかそういうのを知られたわけか? 不味いじゃないか。シスターの先生がそんな事知ったら、どんな事になるか……。
「学校帰りの買い食いは感心しません。食事は規則正しく、主に与えられた糧に感謝して頂くべきです」
「あ、はぁ……分かりました、気を付けます」
その言葉を聞いて、思わず胸を撫で下ろした。
先生が実際に悪魔とかの存在を知っているかは解らないが、マモンの事は知られないに越したことは無い。安心してマモンの方を振り向くと――。
「およよよよよよよ……」
何やら奇怪な角度で体を捻っていた。
「光橋君、その子はどうかしたのですか?」
「あー……」
マモンと先生を交互に見て、先生が首に提げているロザリオに気づく。マモンの角度から見るに、多分、あれを避けているんじゃなかろうか。っていうか悪魔って十字架もダメなのね。ヴァンパイアみたいだな。
「先生、なんかこいつ具合悪いみたいなんでとっとと連れて帰ります」
「あら、そうですか……気を付けてあげてくださいね。途中で倒れたりしたら大変ですから」
「はい、分かりました。それじゃこの辺で失礼します」
別れの挨拶もそこそこに、マモンを引っ張って先生から離れていく。マモンが苦しみ続けて擬態が解けたら大ごとだ。早々に人目の無いところまで行かないと。
「大丈夫かマモン。だいぶ苦しそうだけど」
「う、うむ……しんどいのじゃ……直視してしまったぞよ」
「なんかグロ画像見たような反応だなあ……」
「悪魔からしたら十字架なんぞ最大級のグロ画像じゃよっ! しかもあの修道女、強力な洗礼を受けたと見える……ロザリオの輝きが尋常では無かったぞ」
「輝き? 光ってたのか、あの十字架」
「お前には見えんかもしれんが、わしらからすれば身を焼かれるような苦しみじゃったぞ……うう、頭がくらくらする……」
「ど、どら焼き食ったら治るか?」
「そこまでどら焼きに依存しとらんぞわしは……!」
怪しいもんだと思う。
とはいえ、割と深刻に苦しそうなマモンを見て、僕は少し焦っていた。十字架をちょっと見ただけでこんなに辛そうになるとは……。
見れば、マモンの背中にチカチカと羽のシルエットが点滅している。案の定、擬態が解けかかっているのだろう。この格好ならコスプレで通せそうな気もするが……それよりなにより、早くマモンを休ませてやりたい。
僕はわき目もふらず、家への道をまっすぐと歩いて行った。