据え膳食うなら毒見から
ルキさんをひん剥いた、その日の晩。
「ふふふ、まさか誠二が悪魔使いになってしまうなんてね……」
と、頬に手を当てて笑うのが僕の母。
マモンを家族へ紹介した際の事なのだが、これが驚くほどすんなり行った。
なにせ父さんも母さんも、爺さんの悪魔召喚について知っていたというのだから恐ろしい。僕と茉莉には真っ当に生きてほしいと隠してきたらしいが、呼び出してしまった物は仕方ないとかなんとか……相変わらずノリの軽い両親だった。
「誠二もお義父さんのように『深紅の魔統王』と書いて『デモニックグラスパー・オブ・スカーレット』なんて名乗るようになるのかしら」
「その情報は知りたくなかったよ、母さん……」
大正生まれのセンスじゃねーぞ。完全にこじらせてるじゃねーか、爺さん。
「まあ、俺達は悪魔とかよく解らないけど、お爺ちゃんは割とのほほんとやってたみたいだから大丈夫な感じだと思うよ」
「話がスムーズで有りがたいけどこれが自分の親かと思うと憂鬱だよ、父さん」
この両親は実子である僕でも信じられない位に仲が良く、新婚時代から変わらずにアツアツな関係らしい。あまりにラブラブでお互いの事ばかり考えているため、他の物事に対して少々、頓着が無いところがあるが……よもや此処までとは思わなかった。
ちなみに、茉莉だけは完全に混乱しきってしまい、今は自室で頭を冷やしている最中だ。
自分が中学生では無いと証明できたマモンは嬉しそうだったが、そこにこだわり続けていたと言うのもなんだか、器がちっちゃい気がした。
そんな流れで、マモンに関しての世話は呼び出した僕に一任されることとなった。食費なんかはともかくとして、おやつや嗜好品に使う小遣いは共用という事にされてしまった。つまり、マモンがまたどら焼きを欲しがったら、僕が買ってやるしかないという事だ。
家賃や水道代を要求されていないだけマシだが――ちなみにマモンは遠慮なく風呂に入ってさっぱりしていた――自分の部屋へ続く階段をのぼりながら、その事実を改めて見つめなおすと、頭がずきずきと痛むようだ。
「なんか、呼び出したことでむしろマイナスが増えた気がするなあ……」
と、聞こえるように言ってはならない。マモンのメンタルの弱さときたら折り紙つきで、思春期の少女のように繊細なので、扱いには注意が必要だった。
今まで僕の周りに居た女子というと、芹香やルキさんを始めとして図太いタイプが多かった。僕を避けるクラスの女子も、まるでバイ菌でも避けるようにアクティブに拒絶反応を示すため、マモンのようにしくしく泣かれてしまうとちょっと戸惑うのだ。
そんなマモンも、こちらが強く責めなければマイペースな調子だったりする。
この家を建てた時は子供部屋が一つしかなく、茉莉が生まれて客間をあいつの部屋に改良したような状態なので、マモンに個室が与えられる事は無く……呼び出した張本人である僕の部屋に滞在している状態なのだが……。
「お、おい誠二。この敵めっちゃ強いんじゃけど、なんかおかしくないかの?」
「僕としては、悪魔なのに『女神新生』なんてゲームで悪魔退治してるお前のほうがおかしいと思うんだよ」
「誠二よ、ゲームと現実の区別はつけた方が良いぞ」
「タイミングを選ばない正論ほどイラっと来る物もねーな……」
とまあ、この通り。自室へ戻るとマモンはすっかりくつろいでいた。
どら焼きを与えたのを皮切りに、「人間界での生活って悪くなくね?」と言う気持ちが芽生えてしまった様で、今ではこんなにリラックスしている。人のゲームを人のセーブデータで勝手にプレイするくらいには馴れ馴れしい。
しかも無防備な事に、一張羅のゴスロリ服のままベッドに転がって、足をばたばたさせてスカートを翻している。スカート丈が長いので危ういところは見えていないが、どうにも危機感が無さ過ぎる。悪魔と言うより妹が増えたような感覚だ。品行方正でキツい実妹に加え、自堕落でユルい義妹が出来てしまったような……茉莉はここまで無防備にしてはくれないけどね。
だが、僕としてはそれでは困る。せっかく悪魔使いになったのだ。人生のターニングポイントなのだ。宝の持ち腐れにするのは忍びない。
「いかんよなあ……これじゃあ、悪魔を呼び出したって見返りが無いままじゃないか。世界征服への道は遠いぞ……」
「割と深刻な疑問なんじゃけど、あの毛虫とかブラジャーとかの悪戯が世界征服に繋がるのか?」
「馬鹿野郎、あれは純粋にその場の欲望を満たしに走っただけだ。手近な所から責めたくなるのが人情だろ。爺さんも『遠くの宝石も欲しいけど近くの焼き鳥も食べたい』って言ってたぞ」
「まあ、わしゃどら焼きがもらえれば何でも良いがのー」
「お前はそればっかりか……」
マモンは強欲を司る、とか言っていたが、どう見てもどら焼きだけで満たされ過ぎだろ。
どら焼き悪魔だよ。もうこいつ、強欲じゃなくてどら焼きを司る悪魔だよ。
「いやー、最初はとっとと帰りたかったものじゃが、過ごして見ると案外ええのー、人間界。お菓子は旨いし空気は綺麗じゃ」
「やっぱ、魔界は空気が淀んでるのか?」
「じめじめしとるし、基本的に薄暗いんじゃよ。スナック菓子もイモリチップスとかカエルの肝クッキーとかじゃし」
「そりゃどら焼きの全面勝利だわ……」
「以前、人間に召喚された悪魔が人間の文化を輸入してきての。こういうゲームやマンガなんかも魔界に出回って居るんじゃが……所詮は人間の真似事。どうにも海賊版という雰囲気が拭えなくてのう」
「悪魔も人間の文化を楽しむんだな」
「そらそうじゃ。ちゅーか、娯楽を創造することに置いては人間に叶う存在は無いじゃろうな。天界でもアキバ文化ブームなどあるそうじゃぞ。最近になって堕天してきた元天使が、せめて天界コミケットにだけは出たかったと嘆いておったわ」
「随分俗っぽいな天界。死ぬのが怖くなくなって来るわ。結構馴染めそうだもん」
「まあそいつ、天界コミケットにいやらしい漫画を出品しようとして堕とされたのじゃがな。規制が東京都より厳しいらしいぞ」
「あ、じゃあ駄目だわ。馴染めねーわ」
いやらしい漫画は同人業界の華だろうに。そういう欲望を非公式でぶちまけるから良いんじゃないか。形だけ輸入して肝心なところをスポイルするのは宜しく無い。
「っていうか、やっぱ悪魔のほかに天使もいるんだな」
「そりゃそうじゃよ。悪魔は元々、堕天使じゃからの。元となった天使がおるのは当然じゃ」
そうなると、こいつも本来なら天使だったって事だろうか。想像してみたが、さっぱり似合わないな……。
「とはいえ、悪魔と天使の力関係は絶対的に天使が上じゃがな。天使の光は堕ちた悪魔を浄化し、消滅させてしまう。よほど強い悪魔でもない限り、天使とは争わんよ」
「へぇー……」
それにしても、こうしてマモンから天使や悪魔の話を聞くのは興味深い。自分が使役するとはいえ、未知の存在なのだし、今までオカルトでしかないと思っていた物の実在は結構、ショッキングな事だ。昼間のような失敗を防ぐためには、まず徹底的にこいつに質問をしていくべきなのだろう。何せ完全に未知の存在だからな、まだまだ疑問は沢山ある。
ただ、マモンの使役とは関係なく、聞いておきたい事も有った。
「あのさ、マモン。お前って人間界に来るのは初めてじゃないんだよな?」
「おう、契約に呼び出された事は有るぞ」
「僕の爺さんも、お前を呼び出したのか?」
そもそもこいつを召喚したグリモワールとカギは、爺さんの形見となった物だ。爺さんが悪魔を使役していたとすれば、やはりマモンを呼び出したと考えるのが自然だ。
僕は押し入れからアルバムを出してくると、マモンに爺さんの写真を見せた。
だが、マモンは意外な事に、首を横に振った。
「いや、知らんのう。この男に呼び出された事は無い」
「で、でも、お前のグリモワールはこの爺さんから受け継いだんだよ。あのグリモワールはお前を呼び出すための物だろ?」
「そういう訳ではないぞ。グリモワールはあくまで扉じゃ。特定の悪魔を呼び出す物ではなく、召喚主の波長に合った悪魔が呼ばれるものなのじゃよ」
「…………そっか」
「なんじゃ、やけに残念そうじゃの。爺さんと同じ悪魔が良かったのかえ?」
「いや……ただ、気になったんだ」
爺さんは僕にカギを渡す直前も、いつも通りに元気そうだった。健康そのもの、老いなど感じられないくらいに活力溢れる老人だった。
その爺さんが、僕にカギをくれてすぐ老衰で逝ったというのが、どうも気がかりだった。
だから、こうしてマモンを目の当たりにすると、思ってしまうのだ。
「……爺さんは、悪魔との契約に魂を売って、死んじまったんじゃないかなって」
「あり得るのう。魂を売れば寿命は縮む。じゃからと言って、悪魔を召喚し願いを叶えるのは、人間の意思じゃ。悪魔を恨むのはお門違いじゃぞ?」
「解ってるよ。ただ……爺さんは最後に何を願ったのかなー、と思ってさ」
爺さんは欲深い人だったけど、望む事は自分の力で叶えて行く人だった。僕と違って努力も惜しまなかったし、それで大体の目的は叶えてしまっていた。
そんな爺さんに、悪魔に頼る程の欲望があったとすれば……それは何だったんだろう。
「わしにはそれは解らんが、老齢じゃったのじゃろ? 大した事が無い願いでも、寿命が尽きてしまうことはあるじゃろうな。そもそも、お主のように大悪魔を使役できているタイプが稀なのじゃ」
「だからこそ、爺さんは覚悟して願ったと思うんだよな。まあ、マモンが知らないならそれで良いんだけどさ。爺さんが召喚した悪魔って、誰だったんだろ……っておい、待て」
真面目なテンションで話していたが、聞き捨てならない言葉があったのでマモンを睨む。
「誰が大悪魔だって?」
「わしじゃよ」
「お前が? マジで?」
「マジじゃよ。七つの大罪のうち、一つを司るのじゃぞ」
「その割には、なんか能力がショボ……控えめなような気がするんだけど」
「大悪魔じゃが、その、位は低いのじゃ。ぶっちゃけ、ソロモン七十二柱にランクインしてる連中はわしより強いし……」
「それでなんで大悪魔なんだよ」
「ほら、じゃからこう、家柄は良いのじゃよわしは。じゃけどソロモン七十二柱は実力主義じゃから」
「じゃあお前、家柄だけで実力は大したことないボンボンってことか?」
「じゃ、じゃが、うちの家柄が見かけだけって話ではないぞ? アモンお兄ちゃんは七十二柱の序列七位じゃし」
「でもお前は大したことないボンボンなんだろ?」
「…………まあ、はい、そうです」
いつの間にか、マモンは正座してしまっていた。これ以上責めると泣いてしまいそうなのだが、それでもまだ聞かなきゃならない事が有る。
「お前さっき、召喚主の波長に合った悪魔が召喚されるって言ってたよな……」
「言ってたのう」
「じゃあ、僕にはお前が丁度良かったから、召喚されたって事だよな」
「そうじゃろうなあ」
「…………おーう、ちょっと傷ついたわ」
「なぜじゃ⁉ そう言われたらわしも傷つくじゃろ!」
でも確かに、マモンとの会話はやけしっくり来ると言うか、まるで十年来の幼馴染のように自然体で話せる。こういうのは波長が合うって事なのだろうか。
よくよく考えてみれば、マモンは悪魔だけど女の子だ。芹香やルキさんを除く他人の女の子と親しく話すのは、割と久しぶりな気がする。
「……あれ、なんか意識したらちょっと恥ずかしくなってきた」
「恥ずかしいのか! わしを使役してるのがそんなに恥ずかしいのか!」
「あ、いや、そう言うんじゃなくて……」
「ええい、酷い奴じゃ! 俄然、早く魔界に帰りたくなってきたわ!」
「あれ、そう言えばお前って、魔界に帰れるの?」
「……まあ、手順を踏めばの。手段の一つしては、お前がわしを使役して心から満足すれば、役目の満了とみなされて解放される」
「うん、当分は帰るチャンスは無さそうだな」
「……お、お前の使役の仕方が悪いんじゃもん!」
あ、ふて腐れた。膝を抱えてベッドに横になってしまった。気をつけるつもりだったのに、結局機嫌を損ねてしまった。
マモンの羽は犬の尻尾のようで、こうしてテンションが下がると小さくなっている。なんとなく、茉莉と喧嘩した時の光景が重なって来る。
まあ放っておけば機嫌も直るだろう。最初に契約失敗で落ち込んだ時も、一晩経てば立ち直って居たのだし。
「…………一晩?」
僕は時計を確認する。夕食後、両親とマモンについて話し、入浴と歯磨きを済ませ、それからマモンと話しこんで、今となっては日付が変わりそうだ。明日は学校があり、夜更かし癖のある僕でもそろそろ寝なければならない。
が、マモンはベッドの上でふて腐れたままだ。
「おい、マモン。いじけるならベッドから降りてやってくれ。下に布団敷いてやるから」
「……ふんっ」
それを聞いて、マモンは掛け布団を深々と被った。
「いや、そこは僕のベッドだからね。僕もそろそろ寝たいからね」
「知らん、床で寝ればいーじゃん」
僕はその言葉にこめかみを疼かせた。僕はここで素直に譲ってやるほど殊勝な人間でも、フェミニストでもない。
かといって指輪の力でマモンを無理やり引きずり降ろすのも、それはそれで憚られる物が有る。これで外見が女の子でなければ、もうちょっと非情になれるのだが。
そこで、僕はプレッシャーを与える方向で抗議に出ることにした。
「よいせっと」
「……うおおっ⁉ おま、なんで隣に入って来るのじゃ!」
「これは僕のベッドだからな、僕がここで寝るのは当然だろ」
「ぐぬっ……か、勝手にせい。わしゃ動かんからな!」
あれ。なんか余計に意固地になったぞ。僕の予想では、さすがに居た堪れなくなって出て行くと思ったのだけど……。
「……おい、このままじゃ添い寝になっちゃうんじゃないか」
「お前が隣に入って来るからじゃろうが」
「お前が僕のベッドで寝るからじゃないか。素直に出て、床に布団を敷け」
「煩い。わしを使役する主人ならば、寝心地の良いベッドを与えて当然じゃろ」
「なんだと……使役される身なら、床でも布団を与えてもらえるだけ有りがたいと思えよ」
「嫌じゃ。床は寒いし固いから嫌じゃ。ぶっちゃけこのベッドも満足とは言えん」
「このボンボン娘めっ……」
「それとも何か。お前は女の子を平気で床で寝させるような男なのか。そんだけデリカシー無かったら彼女も出来んじゃろうな」
「んなっ、ぐ、ぐぬっ……」
そう言われると、僕としても反論できなくなってしまう。なにせ、実際に今まで彼女が居ないのだから。
それに爺さんも言っていた。「女の子に優しくしなくても、冷たくするのはいけない」と。
「……仕方ないな。じゃあ、半分からこっちは僕の領地な」
「お前、本気で此処で寝る気なんじゃな……ええい、こうなったら意地の勝負じゃ。じゃが、絶対に半分のラインからはみ出すでないぞ!」
「こっちのセリフだっつーの!」
そんな風にして、僕はリモコンでライトを消灯した。
一応、マモンも僕も背中合わせになり、なるべく相手を意識しないようにしておいた。
◇
――――二時間後。
「……すぅ……ん……ぅ……ぐごごごご」
マモンは爆睡していた。
しかも寝像が悪い。領地宣言などどこ吹く風で、思いっきり僕側へと転がって来た。おかげで僕は、これ以上マモンから遠ざかるとベッドから落ちる位置に居る。おまけに、ご丁寧にマモンは顔をこちらへ向けて居た。
「……マジかよ」
そんなマモンの気配に気づいて目を開けた時には僕も寝がえりを打っていたらしく、マモン側を向いていた。しかも間近にマモンの顔が有ったので、そのまま動けなくなっている状態だった。
そんな調子で、かれこれ一時間ほどこのまま固まって居る。目はすっかり冴えてしまい、寝直せず、身動きもできず、がんじがらめだった。
「……だって、寝られるわけないだろ……!」
すぅ、すぅ、と小さな寝息が近くで響き、時折艶っぽい声をあげられる。やたらと顔の位置が近いので、吐息がダイレクトに感じられてしまう。
この位置だと当然、マモンの顔がすぐ傍にあるわけだ。目線を動かそうにも、顔をあげれば吐息が首筋にかけられるし、下を向けば息遣いに合わせて上下する薄い胸が目に入る。
にっちもさっちも行かない状況なので、取りあえず目をきつく閉じていた。
「いや、落ちつけ僕。むしろ美味しい状況の筈だ……」
冷静に考えれば、女の子と添い寝なら喜ばしいシチュエーションではないか。この状況を楽しまずにどうする。頑張れ僕。男を見せろ。倫理的にセーフな範囲で。
決心を固めて瞼を開けると、やっぱりマモンの顔は目の前に有る。良く考えれば、僕らのやりとりは漫才じみたものばかりで、こいつの顔をマジマジと眺める機会は無かった。
じっくりと眺めてみれば、やはり可愛い。目を閉じた表情だから、まつ毛が長いのが良く解る。鼻筋も通って居て、薄い唇、小さな顎と、正直言って整った顔立ちだ。
その北欧系の顔立ちに銀色の前髪がかかって、現実感が無いくらいに綺麗に見える。寝る時も着用しているゴスロリ服――皺にはならないらしい――と相まって、フィクションのお姫様が抜け出してきたかのようにすら思える。
うちのクラスでこのくらい可愛い女の子となると、殆ど思い当たらない。芹香でようやく勝負になるレベルだと思う。
今まではあくまでも「悪魔」と認識していたので気にしなかったが、うん、物凄い美少女だ、こいつ。振る舞いがコミカルだから余計に気付かなかった。
冷静に考えると、僕ってこいつの胸を触ったんだよな。
「…………」
思いだしたら、余計に居た堪れなくなってきた。と同時に、呼吸に合わせて膨らむ小さな胸元が目に入る。
「……いや、でも今触るのは、ほんとアウトだろ、アウト」
据え膳食わぬは男の恥、と爺さんが言っていたが、ちょっとこの状況で手を出す度胸は無いし。いろいろステップ飛ばしてるし。僕はハーレム指向だけど純愛派だし。
それにほら、もし指輪の力が発動してこいつが逆らえなかったら、フェアじゃないしね。
うん、何だろうとフェアじゃないのは良くない。あと、初体験はドラマチックなのが好みだから僕。
「んっ……誠二……」
「っ!」
不意に名前を呼ばれ、思わずびくりとしてしまう。ただでさえドキドキとさせられていたのだ。眠気混じりの妙に色っぽい声で呼ばれたら、そりゃ、ねえ?
っていうか、女の子にまともに名前呼ばれるのも久しいぞ。芹香でさえ「みっくん」だし、あの仇名は名字由来のものだし、ルキさんの君付けともまた趣が違うし。マモンには名前で呼ばれていた事実をふと考え直すと、また恥ずかしくなってくる。
僕が軽い混乱に襲われたまま、マモンから視線を離せずに要ると、再びその唇が動いた。
「……どら焼きが足りんぞ、愚か者め……」
「………………」
その一言でなんとか冷静に慣れた僕は、ベッドから静かに降りて押し入れに入った。
押し入れの居心地は割と悪くなかったけど、心臓が煩くてしばらく寝られなかった。